さざ波のように |
前期の試験も終わって、あとは長い夏休みを迎えるだけとなった七月の半ば頃。 いつものように何の連絡もなく僕の部屋へ来たスイは、開口一番「どこへ行くんだよ」と怒ったように訊いた。 「何?」 その時、僕はスイの為に野菜うどんを作ろうと台所へ立ったところだった。夏までうどんかとスイは文句を言ったけど、僕が作れるものは限られていて、しかもそのうちの幾つかは既にスイからこっぴどいダメ出しを喰らっていた。そもそも、スイの来訪は本当に突然だったから、これだって自分用の昼食だった。 「だから。どこへ行く気なのかって訊いてんだ」 すぐ答えない僕にスイは苛立たしそうに繰り返した。 スイはよく「面倒は嫌いだ」と言う。一度で答えない僕を愚図だとでも思ったのだろう、明らかに気分を害したようで、自分の傍にあった僕の鞄に軽い蹴りまで入れてきた。 それは僕がつい昨日、押し入れから引っ張り出したばかりの旅行用の鞄だ。 「何なんだよ、これ」 スイが言った。 「旅行にでも行くのか。幾ら夏休みだって、お前と好き好んでつるむ奴がいるとは思えないけど。けど、康久とか……」 「え?」 「……何でもない。とにかく、早く答えろよ」 何か言いかけたくせに、スイはむっとして一旦口を噤むと、子どもみたいに唇を尖らせ僕を睨みつけた。僕はそういうスイに慣れてはいるけど、無駄に怒られるのは趣味じゃないので、従順にその質問に答えた。 「旅行じゃないよ。里帰りだよ」 「里帰り?」 僕の回答にスイは軽く眉を上げた。まるで予想していなかったという顔だ。 「実家? ……帰るのか?」 「うん」 野菜と一緒に煮詰めたうどんを菜箸で掻き混ぜながら、僕は「一応ね」と付け足した。 「バイト、お盆の一週間前だけ休みが貰えたから。墓掃除もしなくちゃならないしさ」 「お前んとこ、参る墓なんてあるのかよ」 依然としてスイは不機嫌そうだった。僕が夏の予定を事前に話さなかったから怒っているのかもしれない。 でも僕を無視していたのはスイなんだけど。 「先祖代々かは知らないけど、普通に祖父母の墓があるよ。勿論、母方の。それに僕はあまり記憶がないんだけど、小さい頃はよく面倒見てもらっていたんだって。だから母さんが、『墓守はお前の義務だから』って」 「テメエは何もしないくせに?」 スイの憎々しげな言い方に僕は思わず笑った。お互い家族の話なんてめったにしないけど、以前、僕の「キミ」って名前の由来を教えた事があったせいか、彼は僕の母にあまり良い印象を抱いていないようだった。 「でもまぁここまで育ててくれた人だからね。それなりに言うことは聞くつもりだよ」 「……ふん」 「それに折角の夏休みだし」 僕自身、バイトがない間は東京を出たいと思っていた。 試験に入る少し前くらいから、スイは目に見えて僕と会う回数を減らしていた。と同時に、キャンパス内では相変わらずスイの「お遊び」遍歴が次々と耳に入りこんできて、本来ならすっかり達観しているはずの僕を無駄に苦しめた。噂の中には特にお気に入りの子が出来たなんて話もあったから。そんな話、好き好んで知りたくないのに、派手なスイはどこへ行っても学部間での話題の的なのだ。 噂の通りスイに「特別」が出来たのかは分からない。でもそれと比例して、スイは確実に僕の所へ顔を出さなくなった。大学でなんて完全無視だ。 以前、僕がスイの友人にしつこく絡まれて、あまつさえトイレにまで連れ込まれてしまった事があったけど、思うにあれからスイは僕に対して一定の距離を置くようになった。試験に入る前はふっと思い出した時なんかに部屋に立ち寄ってくれたりもしたけど、何だかいつも素っ気ないし、嫌な話、「ヤるだけヤッたら帰る」みたいな感じだった。 そうして試験期間に突入したら、僕たちの間にはそういう接触すらなくなった。スイが露骨に僕を避け始めたからだ。だから最近ではまともな会話なんて全然なかった。 もう面倒になったのかな。 そう思うと、いつかはそんな日が来るだろうと覚悟していたはずなのに、やっぱり寂しいと感じた。スイに煩く付きまとう真似だけはしたくないから平気なフリはしている。でも、終わりなら終わりって一応の区切りくらい見せて欲しい――、そんな恨めしい気持ちも抱いてしまう。スイにとっては僕なんて元々「始まって」もいなかったのだから、そんな区切り、つけてくれるわけがないんだけど。 現に僕が余計な事さえ言わなきゃ、スイはこうしてふとした時に気紛れでやって来てくれる。本当に「特別」が出来たのならそれってまずいんじゃないかとも思うけど、僕にしてみれば何だっていい、スイが偶にでも傍に来てくれるなら、なんて思ってしまう。 散々、愛人生活に疲れ果てたあの母親を見てきたっていうのに、笑ってしまう。 「うどん、出来たよ」 自嘲した想いを抱きながら、それでも僕はそれを無理やり思考の外へと押し出して、器に盛ったうどんをスイの元へ運んだ。夏休みまでの辛抱だ。夏休みになったら、物理的にスイとの距離を取って、暫しこのもやもやとした気持ちを落ち着かせたい。僕はそう思っていた。 「実家帰るっても、お前、家とか帰れんの」 どんぶりを見つめながらスイがまた訊いた。 僕は曖昧な相槌を打ちながら、冷蔵庫から持ってきた冷茶をコップに注ぎ、それをスイの前に出しながら傍に座った。 「お前の分は?」 うどんもお茶も一人分しかない事にスイが不審な顔をした。僕は「さっき食べたから」と嘘をついて、誤魔化すように彼の質問に答えた。 「家に帰れるかは微妙で、その時次第。母さんに電話してそれとなく家の様子訊いたら、今家に誰かいるみたいでさ。帰るって言っても迷惑そうな感じだったから、ちょっと様子を見て、気まずかったら近場のビジネスホテルにでも泊まろうかなって」 「何だそれ、お前ん家だろ。誰かって誰がいるんだよ」 「分からないけど、仕事の同僚とか、恋人…とか? 昔からうちって、男の人でも女の人でも、とにかく知らない人がよく泊まりに来るんだよ。それでタバコ臭いし、酒瓶もそこかしこに転がっているし。まあ見ていてそんなに楽しいもんじゃないよね。しかも運が悪い時は、そういうお客さんたちに色々絡まれるしさ」 「……最悪だな」 スイは苦い顔でそう返した後、ずるずるとうどんを啜って、僕が注いだお茶に口をつけた。 それからふと、僕がインターネットからリストアップしていたホテルのメモを取り上げる。僕は変に几帳面な所があって、行き当たりばったりっていうのが苦手だ。だから家に帰れない時の事を考えて、幾つか泊まれそうな所を調べてみたのだ。全部五千円以下の所だけど。 けれどスイはそのリストに対し露骨に嫌そうな様子を見せた。 「安いとこばっか」 「そりゃそうだよ」 「何で? 幾ら田舎っても、もっと良い所もあるだろ」 「そりゃそうだけど、予算ってものがあるよ。それに駅近で探すとボロイそういう所か、後は逆に凄く高い老舗旅館しかないから。中間がないんだよね。別にいいんだけど、寝るだけの宿なら、何でも」 「折角の夏休みなのに、遊ぶ予定とかねえの。墓参りとバイト三昧って惨め過ぎるだろ」 スイはバカにしたようにそう言った後、半分ほど食べたうどんの器を僕の方に寄せた。 僕がきょとんとしていると、スイは「もういい」と言って、おもむろにテレビのリモコンを取ってそれをつけた。 見た事のないバラエティ番組の音で一気に部屋が騒々しくなる。 「うどん、まずかった?」 僕が器に視線を落としながら訊くと、スイは「別に」と即答した。 「野菜いっぱい入っていたから腹結構膨れたし。お前も食べろよ」 「うん…」 もしかして嘘がばれているのかな? ふとそう思いながら、僕はお言葉に甘えて、残りのうどんを食べる事にした。実は少しお腹が空いていた。 テレビの賑やかな音と、僕のうどんを啜る音。二人でいるのに会話の音はない。それが何だか妙な感じで、僕は急いで食べ終えると、お茶を飲むのもそこそこにスイに話しかけた。 「あのさ、部屋の鍵渡しておこうか?」 「は? 何で」 スイはテレビを観ていたけど、僕の言葉で急にむっとした顔を見せた。 僕はそれに何だか焦りながら、それでも久しぶりのスイとの会話を続けたくて必死だった。 「だって一週間位いないから。家あがりたい時に入れないの、困るでしょ? 合鍵あるからさ」 「そんなもん要らねェよ。合鍵なんて、お前と同棲しているみたいじゃん。そういうの嫌いだって言っているだろ?」 「あ……うん」 確かに、以前にもスイに合鍵を渡そうとして断られた事があった。いつも突然来るし、夜中なんて寝ているから鍵を持っていてもらう方が僕は楽なんだけど、いつかも同じような事を言ってスイは鍵を受け取らなかった。 お前がいなければいないで、別に行かないだけだから、と。 僕は心秘かに、僕が遅いバイト上がりで帰宅した時なんかにスイが部屋にいてくれたら……なんて嬉しいサプライズを夢見たりしているんだけど。それは永久に叶えられそうにない。 「お前がいない時はここには来ないから」 「うん」 いつだかの再現でスイは同じ風に答え、僕も同じ風に頷いた。そしてスイはそれきり何を話すでもなく、僕に背中を向けてひたすらテレビを見続けていた。 それから夏休みに入ってバイトも忙しくなって、スイとは完全に会えなくなった。スイからの連絡はメールも含めて一切なかった。 僕はこの長期休暇を機に、スイは僕を捨てる気なんじゃないか、もう僕らはおしまいなんじゃないか――いよいよ本当にそう思った。 思って、本当に自分でも信じられないくらい落ち込んでいたのに。 「キミ」 それは里帰りの為、東京駅から新幹線に乗り込もうと電光掲示板を見上げていた時だった。 「キミ。おい、キミって呼んでんだろ、シカトしてんじゃねーよ」 「スッ………ええぇ?」 不機嫌そうな声の主が背後からぐっと肩を掴んできて、僕はぎくりとしながら振り返り、驚きでそのまま固まった。 目の前にはスイが立っていた。 「どっ……」 「もう切符買ったの?」 「どうしたの? 一体―…」 「切符買ったのかって訊いてんの」 唖然とする僕には答えずに眉をひそめたスイは、目前の、僕が先刻まで見上げていた電光掲示板を見上げながら「まだ空席あるから」と言った。 「座席替えてもらおうぜ。つかお前自由席だろ、どうせ。指定席にしようぜ」 「え?」 「切符出せよ」 「え? あの、でも……えぇ?」 訳が分からない僕に、けれどスイはとにかくマイペースで、早く新幹線の切符を出せと手を振って催促する。僕が前々から買ってあったそれを機械的に渡すと、スイはそれを掴むようにしてさっさと窓口の方へ歩いて行ってしまった。僕はそんなスイの後ろ姿をただボー然と眺めやった。 「何でスイがいるの?」 ようやくその質問が出来たのも、横並びで取ってもらった窓際の禁煙席に落ち着いて十分程経過してからだ。それもスイが「弁当買う?」と話しかけてくれたから、それに乗じて口を開けただけで。 足元にはスイの荷物だろう、割と大きなボストンバッグがある。僕の荷物は問答無用で頭上の籠に上げたくせに、自分の分だけは何故かそのままだ。 それを何ともなしに眺めながら、僕は努めて「期待しないようにしよう」と心で言い聞かせつつ尋ねた。 「スイもどこか旅行? 偶々一緒になったとか」 「バカ、そんなわけあるかよ」 何を言っているんだと言わんばかりにスイは鼻で笑い、ホームの売店で買っていた缶コーヒーをついと僕に差し出した。 僕はそれを反射的に受け取りながらもスイから目が離せずにいた。 するとスイは平然として答えた。 「暇だからついて行ってやろうかと思って」 「え?」 「お前の実家って田舎なんだろ?」 「そう…だけど」 「偶には都会を離れて、そういう所でのんびりするのもいいじゃん」 「じゃあ……」 本当に一緒に来たのかと思うと、僕は次第に胸がドキドキする思いがして、でも戸惑いも消えなくて、つい後者の方を口にしてしまった。 「でも僕んとこ……その、泊めてあげられるような家じゃないんだけど」 「はっ…そんなの。最初から当てにしてねーよ。お前ですら行ってからでないと入れるか分かんないような家だろ? 俺だってそんな所で寝るのやだし。宿はちゃんと取ってあるから心配すんな」 平然と言うスイに僕は言葉がなかった。 スイは笑って続けた。 「お前の実家よりちょっと離れている所だけどな。下手に近場にして、万が一お前の地元のダチとかに会うのも面倒だし。まぁどうせ行っても墓参りくらいしかする事ないんだから、却ってそっちの方が具合いいだろ? 何だかんだやっても、夕飯の時間までには十分チェックイン出来るような移動距離だし」 「………何か」 「何だよ?」 呆気にとられた僕にスイが珍しくふっと害のない笑みを見せた。そう、本当に久しぶりに見た。最近のスイはいつでもどこか苛立っていて、ぴりぴりしていて、触るのも何だか遠慮してしまうような感じだったから。 でもそうだ。出会った頃のスイってこんな感じだった。親切だったし、こんな風によく綺麗に笑っていた。だから僕はスイとはとても良い友人になれそうな気がして、不安だった東京生活にも、大袈裟でなく明るい光を見出したんだ。 「何だよ、キミ。言いかけて黙んなよ」 「あっ…」 思わずそんな感慨に耽っていた僕にスイが急かした。僕は慌てて首を振った。 「いや、大した事じゃないけど。その、用意いいなって思って。いつの間に宿の予約なんか?」 「別に、ネットで調べればすぐだし。この時期でも割と空いているもんだな。まぁ盆と若干ずれているところが良かったのかも。それか、ホントに山奥の宿で需要がないのか」 「僕んとこ、そこまでド田舎じゃないよ」 「そうか? お前、こっち来た時、どこからどう見てもおのぼりさんでさ、こいつ絶対カモられるなって一目見て分かったよ。実際すぐ俺みたいなのに捕まっただろ」 「スイに捕まるのはいいよ」 「はっ…。出た。キミの俺よいしょ」 「だってそう思うんだからさ」 「分かった、分かった」 いつもだったら僕がスイの事を凄く好きだと言うようなアピールをすると迷惑そうに眉間に皺を寄せるのに、今日はそれが全然なかった。軽くいなされた風ではあったけれど僕はそれが嬉しくて、俄然気持ちが高揚した。 だって凄い。まるでスイと旅行しているみたいだ。 いや、実際これってそう思ってもいいんじゃないかな? 「あ……ところで、その宿には僕も行っていいのかな?」 「はぁ?」 突拍子もなくそう尋ねた僕にスイは途端訳が分からないという顔をした。 でもはっきり言われたわけじゃない。この1年と半年で大分用心深く、無駄な期待を捨てた僕は、こういうところにもそれが深く根付いていた。 「スイがいいならそうしたいんだけど…。あ、勿論宿代は払うしさ」 「お前、何言ってんの」 「だって、折角スイが一緒にいるのに」 「だから、何でいちいち許可求めんの? お前、俺をド田舎の宿で独りにする気? 当然お前の分も予約してあるっての」 「本当?」 「ホントだよ。それに、別に金も要らない」 「えっ、でもそんなの。悪いよ、折角一緒に来てくれているのに」 「俺が勝手に来てんだろ。……ったく、お前って」 言いかけて、けれどスイは止めた。それから片手を軽く振ると、「ちょっと疲れたから寝るな」と席に深く座り直し、腕を組むとそのまま目を瞑ってしまった。そういえば最近スイと会う事はなかったけど、大学で遠目から伺う限りではどこか疲れているようにも見えた。僕のアパートにも全然寄ってくれていなかったけれど、あまり寝ていなかったのかな。試験期間中だったし、さすがにそんなに遊びまくってはいないと思うけど。 「おやすみ」 そっと声を掛けたけれどスイはもう寝てしまったのか反応はなかった。僕はスイの綺麗な寝顔を見つめてすっかり満足した後、彼を起こさないように自分は持ってきていた文庫本を開いた。 |
後編へ… |