白黒



「参るよ、お前には」
  一つの間を置くこともなくそう切り出した上司・佐藤の顔を見ただけで、園田(そのだ)は言われることの全てを理解した。この厭味でカチコチな保守派の男を上司として尊敬できたことなど一度もない。与えられたことは全てそつなくこなしてきたし、仕事自体は好きだったから自分なりに勉強したし、努力もした……その自負はある。
  けれどいざ「その時」が来て、この人物に守ってもらえるだけの人間関係を園田は築いてこなかったし、その努力もしてこなかった。 
  だからこそ、出勤していの一番にこんな人気のない会議室に呼び出されて、こんな顔をされてしまうのだ。
  それにしても心のどこかでこんな日が来ることを想像はしていても、暴露した相手が誰かまでは予測出来なかった。だから今は最低の気分だ。
「富良野(ふらの)君、随分と困っていたぞ」
  佐藤はそう言って園田に剣呑な眼を向けた。
「まさかお前がホモだったとはな。本当にあれか、男しかダメなのか? ええっと、何て言うんだ、そういうの。ほら、ホモとかオカマとかの他に。ゲイ、だったか?」
「どちらでもいいです」
「……何だぁ、その態度は?」
  無機的に応じた園田に明らか気分を害したようだ。嘲るような薄笑いをすっと消し去ると、佐藤はいつもの居丈高な表情で眉を吊り上げ、丸々と肥えた身体を椅子の背に寄りかからせながら大きく舌を打った。
  そうして先月から≪社内一斉禁煙≫になったこともどこ吹く風で、彼は懐から仰々しくタバコを取り出すとそれを口に咥えた。
「話が内輪だけの噂に留まるんなら、まだしもだ。苦情の出所がうちじゃなく、Sコーポレーションのプランナーさんからだろう。そうしたらこっちとしても、何だ、色々と対応を講じなくちゃならんと思うわけだ。そうだろ? 向こうさんとは今度のプロジェクトでも大分長い付き合いになるんだし」
「はい」
「つまり何だ、お前は富良野君みたいな男がタイプで、口説こうとでも思ってしつこくしたってわけか? まぁ確かに彼は結構な男前で、うちの女共もあの美丈夫が来ると途端目の色が変わるもんなぁ」
「彼にそんな感情を抱いたことはありません」
  園田は佐藤にすぐそう言ったが、それは嘘だった。
  確かに知り合った当初はそんな気持ちなど抱いていなかったし、タイプかと訊かれても別段そんなことはない、というのが正直なところだ。園田は富良野のように如何にも自分に自信があるような積極的な男は苦手だったし、自分より年下という点も、そういう目で見る範囲外の相手だった。どうせ誰かといることを許されるなら、これまでの孤独を埋めてくれるような包容力ある落ち着いた年上の男がいい。園田の好みと富良野はまるで合致していなかったのだ。
  それに、同性愛者であるというそれ自体はもう随分と昔に諦めたというか受け入れて、それなりに心の整理もついていたが、だからと言ってパートナーを探す時に、提携先の会社にいる男なんて「冗談じゃない」とは、当たり前に思っていた。何故ってそんなこと、同じ社の人間と付き合う以上に厄介極まりない。中でも富良野の会社との付き合いは、以前のものから今回のプロジェクトも全て含めて、立場も出資の関係からも、園田の社の方が上なのだ。己の立場を利用して「駆け出しの有能プランナーに将来をちらつかせながら迫った」などという酷い言いがかりをつけられては堪らない。
  だから園田も富良野に限らず誰かとの交際には非常に慎重だったし――、そもそも、きっと自分にはもうまともな恋愛などできないだろうと思ってもいたから、仕事関係の人間には特に極端な予防線を張っていた。
  つまり、本当に最初は何とも思っていなかったのだ、あの男のことなんて。
「お前が初めて富良野君の担当をしたのは、確か1年くらい前か」
  佐藤の独り言のような台詞を園田はぼんやりと聞いていた。
  そう、あれからもう1年。この会社に入社して4年、だ。園田の会社は文理の出に関わらず、新卒には最初に必ず営業の仕事を経験させてから他部署への希望を募るから、本当にやりたいと思っていたこの環境事業部の企画課に配属されてからは、まだ1年しか経っていなかった。
  園田は大手石油会社の、主に園芸用品の開発や企画、販売を行う部署にいた。企業・団体を対象にした液体肥料から、一般家庭向け観葉植物まで商品の幅は広く、全国数十ある店舗と通信販売で近年には珍しい、黒字続きの部署である。石油会社で園芸って何の繋がりがあるのかと首をかしげられることも多いが、環境事業に力を入れる園田のような会社は近年決して珍しくない。要は、うちは石油だけ売っているわけではありませんよ、地球規模の環境保全を心掛けているエコな会社なんですよ……という、園田の仕事はそうした広報活動を担う部門と言えた。
  だからただ環境に良いものを開発して売るだけではない、園田の企画課では個人・団体から幅広く有能な人材を募って、その都度砂漠の緑地プロジェクトだの、里山の環境教育事業だの、時には自然体験のツアーだのを計画したりもする。
  富良野明幸(あきゆき)はその企画課に自らのプロモーションプランを持ち込んできたイベント会社に勤める男で、まだ24歳だった。
  けれど駆け出しの新人という雰囲気はなく、常に堂々としている上、気のいい笑顔を惜しげもなく振りまく明るい人柄でもあったから、周囲に溶け込むのは非常にうまかった。園田はプレゼンを行う前段階から富良野の担当として彼の持ち込む計画の相談役を担っていたが、新しい部署に来たばかりで分からないことも多く、むしろ富良野に教えられることも多かった。
  そんな中で一つ目の企画がうまい具合に成功して……暫く一緒に仕事をした後、また次の企画でも一緒になって……気づけば富良野との「友人付き合い」も1年が経っていたというわけである。
「プライベートでも飲みに行ったりしていたそうだな」
  佐藤の言葉に園田はここでようやっと視線を向けた。
「週末は必ずと言っていいほど一緒だったと聞いたぞ。富良野君もお前の機嫌を損ねちゃ仕事がうまく回らないから断るに断れなかったんだろう、気の毒に」
  違う。
  そう言いたかったが、何故か喉が詰まってうまく言葉が出なかった。
  けれどそれは、絶対的に違う。向こうがやたらと人懐こく近づいてくるから。週末も、仲間と飲んでいて終電を逃したから泊めてくれだの、今たまたま近くにいるから遊びに行ってもいいかだの、富良野の方こそが園田の家に頻繁にあがりこんではちょっかいを掛けてきていたのだ。
  ほんのちょっと。そう、だからほんのちょっとだけ、気を許してしまったに過ぎない。急に来られても迷惑だろうなんてぼやいて見せながらも、本当は一緒にいてあんまり楽しかったから。
  でも、それだけのはずだった。園田にしてみれば「良い友人を得られた」と、それだけで満足していたはずなのだ。心の片隅で少し気になりかけていたのも事実だけれど、告白しようなどとは、そこまではやっぱり思えなかったし、今のままの関係でいられれば十分だと思っていた。
  けれどもしかすると、自分の秘密を打ち明けたあの時から、知らぬ間に「そういう目」を富良野に向けていたのだろうか。
  それで富良野は佐藤に「困っている」と打ち明けた?
「向こうさんの家に泊まったりもしたんだろう? どうなんだ?」
  佐藤は容疑者を詰問する刑事のような声色で侮蔑に満ちた顔を向けた。園田はそのせいでまたしても息が詰まったが、しかし今度は何とか言葉を返すことが出来た。
「彼の家に泊まったことなどありません。プライベートで会っていたと言っても、それも彼の方から――」
「言い訳はいい。大体、普段の言動から言ってもお前の考えなんぞ丸分かりだ。富良野君が来ると、やたら目ェ輝かせてあちこち触ったりしていたじゃないか」
「……そういうことも富良野さんが言ったんですか」
  仮にそうした接触があったとしても、全ては向こうの方が犬のようにふざけてまとわりつくように触れていた程度だ。ましてや、この下種な上司が勘ぐるような何かを自分は何もしていない。
  大体、社内でそんな真似するわけがない。
  自分がゲイだということは誰にも知られたくなかったのだから。
「とにかくなぁ、お前みたいな存在はまずいんだよ」
  悔しさのあまり釈明する為の口も開けなくなってしまった園田に佐藤は尚も容赦なく言った。
「園田、お前、社会人になってもう何年だ? 俺だって個人の性癖についてどうこう言うつもりはないがなぁ、それでも世間一般から見たら、こういうのは不謹慎だし、そもそも不潔だ」
「不潔?」
  思わず聞き返した園田に佐藤は全く悪びれず頷いた。
「ああ、そうだ。はっきり言うが、気色が悪い。一緒に働く者たちのことも考えろ、気分悪いだろうが! お前な、今回のことで周りのお前を見る目は決まったぞ。若い奴らなんざ、いつ自分らがお前に喰われるかってさぞ怯えるだろうな。そんなんじゃ仕事も手につかんわ。はっ!」
  とても齢50に届こうかという人物の台詞とは思えなかったが、しかし現実とは実際そんなものらしい。
  この日のことを幾度も想像していた。けれどあまりに予想以上の露骨な嫌悪と嘲笑の色を見せる佐藤に園田は自分の方こそが気分を悪くし、その場で立っているのもやっとだった。
  努めて深く息を吸い、それでも園田は何とか口を開いた。
「それで、私はどうしたら良いんですか。クビですか」
「はっ! そらあ、まずいよなぁ! そんな、ホモだから〜なんつう理由でクビ切ったのが外に知れたらお前、そりゃあ社のイメージダウンだ。お前に味方する奴がいるとは思えんが、うちの醜聞を広めようって輩はどこにでもいるからな。無論、お前が外に言うだけでうちは終いだ」
「そんなこと言いませんよ」
「そうだよなあ? お前もこれ以上そんな恥の上塗りはしたくないわな。まぁ、それでもしかし、ともかくクビにはしないから安心しろ。ただ勿論、今回のプロジェクトからは外れてもらう。幸い、お前の今回の担当は富良野君の所ではないにしろ、どうしたって顔は合わせることになるからな。こっちで話は通しておくから、今やっている所の担当その他諸々の仕事は矢部と鈴木に引き継がせろ。お前は奥で電話番だ。窓口にも近づくなよ。あとはまあ、女共の手伝いでもして、コピー取りだのお茶汲みだのしてろや」
「……はい」
  頭の中で目まぐるしく今後のことを考えていたものだから返事が遅れた。佐藤はそんな態度の園田にあからさま鬱陶しそうな目を向けたが、早く出て行けとばかりに手を振ると最後に荒っぽく付け足した。
「今後は絶対に富良野君の前に姿を見せるなよ。彼は今回の企画の中心なんだから、お前がそこらへんをうろちょろしてへそを曲げられでもしたら困るんだ。彼のことは、うちの常務も気に入っているしな。今回の競合なんて形だけだ。どうせSさん所に決まるんだから」
  話の内容にはとんでもなく聞き捨てならない事柄も含まれていたが、園田はもうそれにまともな反応を返すことができなかった。ただじんと耳に響くその声を無理やり奥に掻き消そうとしながら、園田は気のいい笑顔を持つ、後輩のように可愛がってきたはずの男を想ってぎゅっと目を瞑った。
  裏切られたとは思わない。
  そういう奴だったのか、というだけだ。





  幾ら多少なり親しくなったとは言っても、元から園田は富良野に自分の性癖を話すつもりなどなかった。
  それが何故、その一線を越えてしまったのか。まる一日、全く仕事に身が入らないまでも、何とか無理な引き継ぎを同僚と取り交わした園田は、心底ぐったりした想いで自宅アパートの一室に戻り、食べたくもないカップラーメンを手に暫し茫然と座り込んでいた。
  何度考えても分からない。自分が話してしまったことも。富良野が佐藤にその秘密の話を暴露したことも。
「食べなきゃな」
  無理にそう言ってはみたものの、やはり身体は動かなかった。昼食も抜いているから空腹のはずなのに、どうしても食事を取る気になれない。今後どうなるのだろう、それを考えると猛烈に不安だった。仕事を辞める――ちらりとそんな考えも脳裏を過ぎり、実際自分がゲイだと会社にバレた場面を想像していた時は、そうなったらすぐに辞めるしかないなと考えていたことを思い出した。
  だが、今はやっぱり辞めたくないと、かじりついてでもあそこに残りたいと思っている自分がいる。折角やりたい仕事を始められたばかりなのに。
  それに、自分はまた逃げるのか。それを永遠に繰り返すのか。
  それを思うと辞職という選択肢にも迷いが出た。
「そうだ……いつかほとぼりも冷めるかも」
  無理な楽観思考を口に出してみて、園田はきゅっと唇を噛んだ。
  何にしろ、富良野はもうここには来ないだろう。あいつと距離を取って、みんなが面白おかしく噂するのを飽きるまで待ってはどうか。佐藤は今後富良野とは絶対顔を合わせるなと言っていたけれど、元々今回のプロジェクトから外されてしまえば互いの接点などないに等しい。園田から連絡を取る気などさらさらないし、向こうだって「迷惑」だと佐藤に訴えたくらいだ、自ら接近してくることはないだろう。
  あれほど親しくしてきた富良野が何故こんな真似をしたのか。その真相を問い質したい気もしたが、まずは彼から離れることを第一優先にすべきだと、そう思った。
  大丈夫だ。こんなこと、慣れてる。
  けれど、ようやくそこまでの結論を出して動き出そうかと思った、その矢先。
「ただいまー!」
  ありえない程の能天気な声と共に開かないはずの扉が開いた。
  園田の住むアパートは確かにオンボロだし、防犯の面から言ってもそれは酷いという他ないが、普段の習慣により内鍵は掛けていた。30近くの男が住むこんな古びた部屋に泥棒が入るとは思えず、ついついチェーンは外したままにしていたけれど、本来、独り暮らしの園田の家に「ただいま」などと言って入ってくる人間などいようはずもないのだ。
  ましてや、あるはずのない合鍵を使って。
「お前……」
「はぁ、疲れたぁ!」
  けれど招かざる人物は殆ど絶句する家主にも構わず、当たり前のように中へ入りこむと、コンビニで買ってきたのだろう弁当をどんとテーブルの上に置きながら、「園田さん、またカップラーメン?」と苦笑した。
  そうして「惣菜も買ってきたから食べていいですよ」などと言いながら着ていた背広を脱ぎ、さっさと台所へ手を洗いに行ってしまう。
「富良野……」
  そのあまりに平静とした男の背中を未だ茫然と見送りながら、園田はやっと相手のその名を口にした。
  次いで、当然の疑問を口にする。
「何しに来たんだ?」
「えー?」
  ばしゃばしゃと水道の水で顔を洗っていた富良野は園田の声がよく聞こえないようだ。
「何って〜?」
  本当に訳が分かっていないという風な富良野に園田は眉をひそめた。自然と心臓の鼓動もどんどんと早鐘を打つ。
「だから。何か用か? 部屋に置き忘れた物でもあったとか?」
「何か怒ってます?」 
  ぽたぽたと前髪を濡らしたままここでようやく富良野は振り返った。後ろへ撫でつけていたはずの髪がすっかり乱されたのをあらかじめ椅子に掛けていたタオルを手に取ってごしごしとぞんざいに拭く。その所作にもやはり動揺したり困惑したりといった色は見受けられなかった。
  そして富良野は園田が何も言えずただ立ち尽くしていると、その間に流れる奇妙な沈黙が嫌だったのか、仕方がないという風に自ら口を開く。
「何しに来た、ってことはないでしょう。連絡しないで来たのがまずかったですか。でも、この頃じゃあこんなの、いつものことだったし、これまでは別段怒ったりしなかったじゃないですか。だからつい。電話1本必要だったんなら謝ります」
「そんなことを言っているんじゃない」
「大体見て、俺のこの顔。嬉しモード全開ですよ。だってやっと長い残業終わらせて眞人(まこと)さんとこ来られたし」
  プライベートで会う時間が増えてから、そして園田が自分の性癖を富良野に打ち明けてから。
  富良野がこうして時に園田を名前で呼んでくることは随分と増えた。本人もまだ慣れないのかその回数は決して多くはなかったけれど、親しみを持ってくれているのだと思えば園田も嬉しかったし、富良野のそういう人懐こさをこそ、最近では愛しくも感じていた。
  それがどうだろう、今この時、まるで媚びるように眞人さんと言われて、園田の気持ちは重石を載せられかのように苦しくなった。
  しかも。
「だから、ね? もう機嫌直して下さいよー。明日仕事とか関係ないッ! きっちり飲みましょ、俺いっぱいビール買ってきたし! 昨日の分もまだしこたま残っているはずだし! 眞人さんが飲んじゃってなければ」
  一体この態度は何なのだろう。すっと身体を寄せてきて、甘えるように窺い見るような顔を向ける富良野に園田はぎくりとした。
「おい……」
  しかも富良野はそんな園田の両腕をおもむろにぎゅっと掴んでもきた。
「ちょっ……」
「はー、ホント疲れたぁ今日! エネルギー充電しなきゃ、眞人さんで」
  そしてこれまでと全くいつも通り。
「おい、やめろ」
「えー?」
  富良野はにこにこしながら全く照れることなく園田を包み込むようにして抱き着いてきた。別に珍しいことではない、以前から富良野は園田によくこういうことを仕掛けてきては屈託ない笑顔を見せた。帰国子女だか何だか知らないが、富良野は知り合った当初から感情表現もオーバーで、何かというと無駄に両手を広げてから大袈裟な抱擁をしてくるのだ。飲みの席で園田以外の相手にやっているのも見たことがあるから、多分特別なことではない。しかもそれは分を弁えたような、一瞬だったり、軽くそうする素振りを見せるだけのものが大半だったから、何となくあいつにとってこういうことは当たり前なんだと園田も過剰に反応しないよう、勘違いだけはしないよう常に肝に銘じていた。
  それでも富良野は園田に絡む時、今日のように親しみたっぷりに強く抱き着いて離れないことがままあった。
  それを犬みたいだ、可愛いなと思っていた自分を園田は自分で愚かだと、今は思う。
「やめろって言っているだろ!」
  堪らない焦燥の念に、遂に園田は声を荒げた。
  冷静にしていようと思っていたのに。もし万が一富良野と顔を合わせた時は、何も起きなかった、何てことはないのだという風を装う。きっとできると思っていた。
  だってこんなこと、別に初めてじゃない。
「……本当にどうしたんですか、眞人さん」
  けれどそんな園田の揺れる心とは対照的に、富良野はあくまでも静かだった。園田が何に怒っているのか、本当に分かっていないようだ。そして今は折角感じられた肌の接触を拒まれていささかいじけたようになっている。
  そう、本来なら怒るのは園田のはずなのに、富良野が唇を尖らせている。こんなのは絶対的におかしいじゃないか、そう思うのに。
  富良野のペースから逃れられない。
「何か嫌なことでもあったんですか」
  富良野が訊ねた。
「眞人さんがこんな風になるのあんまり……、というか、見たことないし。でもまあ、いいか。眞人さんだって普通の人間ですもんね。たまに八つ当たりしたくなる時くらい――」
「八つ当たり?」
  園田がぎっとして睨みつけると、富良野は軽く肩を竦めた。
「違うの? だって今来たばかりの俺にいきなり当たるし。俺は理不尽に突っかかられている被害者でしょ? ハッ……別にいいけど。たまにそういう我がままな眞人さん見るのも新鮮――」
「お前もう、黙れ! 分かってないなら、いいよもう!」
  結局我慢できずに怒声を上げた園田は、椅子に掛けてあった富良野の背広を思い切り投げつけると「とにかくさっさと出て行け!」とまくしたてた。
「そんな風に知らばっくれていても意味ないだろう? もう上司も、社のみんなも…っ! 周りはもう知っているんだよ、俺のこと! 俺のその性癖をばらしたのがお前だってこともな!」
「え?」
  眉をひそめた富良野を園田はもう直視することが出来なかった。
  それでも荒い息のまま何故か自分の方が悪者のような気持ちで呟くように告げる。
「今日、上司の佐藤から言われた……。俺がゲイだってこと、富良野から聞いたって。お前がそれで迷惑しているって。お前が佐藤にどういう言い方したのかは知らないけど、俺は大切な提携先の人間に迷惑かけるとんでもない奴だとさ……はは、不潔野郎だって。はっ、まぁ……、あの人がああいう性格だっていうのは何となく分かっていたけどな、だからそれはどうでもいいけど。けど、お陰で俺は今度の担当を外されたし、当分あの事業部じゃ――」
「あはっ!」
  自嘲気味に頬を引きつらせながらとつとつと喋る園田を遮るように、突然富良野が噴き出した。
  園田がそれにぎょっとして思わず口を閉じると、目の前の男は全く悪びれることなく、ふざけたように吐き出した。
「早っ!」
「……は?」
  その口調があまりに軽く、そして妙な酷薄さを感じさせるものだったから、園田は本当に言葉を失った。実際富良野の顔は、園田を見つめる目は笑っていた。その残酷な瞳から何故か目を逸らせなくて園田がただ金縛りにあったようにそのまま凝視していると、富良野は不意にいつもの柔らかい笑みに戻って言った。
「もう伝わったんだぁ? 昨日の今日で仕事早いですね、あのオッサン」
  そして「だからそんなに怒ってたんですねー」と一人で納得して頷き、また笑った。
  それは園田がこれまでに見たことがない、富良野の無邪気な笑みだった。




後編へ…