白黒2
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眞人は両親を冷たい人たちだと感じていたが、初孫だと可愛がってくれた父方の祖父母は好きだった。だからもしまだ彼らが生きていたら、眞人も己の「同性しか愛せない」という秘密を打ち明けたかもしれない。独りで悩みを抱え続けるのは辛いから。眞人はその寂しさのせいで三度も失敗した。次こそはと決意しても、何年か経って新しい出会いがあると、「彼こそは」、「この人なら大丈夫なんじゃないか」と信じてしまう。それで高校も大学もめちゃくちゃ。好きで打ちこんでいた仕事も失った。 ただそのお陰で、ようやく悟った。 今度こそ、誰にも言わない。 「こんなに貰っちゃっていいんですか?」 「勿論だよ。園田君はよう手伝ってくれっから」 「そうだよ、うちの跡継ぎにしちゃいたいくらいだもの。もう役場なんて辞めちゃいな! どうせササキのジジイにこき使われるだけだろう?」 「あはは…そんなことないですよ。いつもよくしてもらっています」 袋に入れてもらったたくさんのリンゴを抱えながら、眞人は柔和に微笑んだ。 共に作業していた夫人の方は、それだけですっかりご機嫌だ。 「いやはあぁ、やっぱし好青年だあねえ、まこっちゃんは。食べちゃいたいくらいだ!」 「ババア! テメエは、またロクでもねぇこと言うんじゃねえよ! 折角の若いのに逃げられっじゃねぇか!」 しゃがれた怒鳴り声をあげたのは主人の方だ。しかし夫人はいともたやすく旦那のそれを「がはは」と豪快に揉み消した。 自らも農家を営みつつ、この町一帯のりんご園農家をまとめる木村夫妻は、いつもとんでもなく明るい。齢六十を超え、子どもたちも皆東京へ出てしまって「跡継ぎがいない」と嘆く割には、「仕方ないから百くらいまで俺らがやって、孫かひ孫が継いでくれるのを待つか」と軽口を叩く。 眞人はこの見知らぬ土地に移り住んでからひと月と経たずに、町も、町に住む人々のことも好きになった。元々都会より性に合っていたのは間違いない。前職とも関わりの深い、農村復興に携われる町役場の臨時職員の空きに滑り込めたのも運が良かった。縁もゆかりもない土地にいきなり飛び込んできた眞人を、「大失恋の末、東京から逃げてきた流浪の若者」と無条件で受け入れてくれた人々はあまりに優しく、大らかだ。それは眞人自身の素直で従順な性格が功を奏したこともあるが、余所者に対して閉鎖的なイメージのあった田舎で何とか人生の仕切り直しが許されたことに、眞人は心から安堵した。 「おう眞人。あぁお前、まーた、沢山貰ったなぁ」 夕刻の公道を歩いている眞人に、後ろから軽トラックを運転してきた一之瀬(いちのせ)が声を掛けてきた。一之瀬は、この辺りでは珍しく眞人と同じ二十代で、実家の果樹園を手伝っている青年だ。農家で働く一方、人一倍地元の町興しに熱心で、役場へもしょっちゅう奇抜なアイディアを持ってあれをやれ、これをしろと注文をつけてくる。それもあって、役場で働き始めてから割と早い段階で、眞人はこの一之瀬と顔見知りになった。 「俺にはなんもくれねぇのに、あのクソババアめ。この間の台風で誰がネット被せる手伝いしてやったと思ってんだ、なぁ?」 「はは…じゃあいる? 半分」 「当然。乗ってけよ、俺も役場に用があるから」 「うん」 くいと助手席を指さす一之瀬に、眞人も遠慮なく同乗させてもらった。 一之瀬に限らず、眞人ははじめ誰とも親しくなりたくないと思っていたので、必要以上に頑ななところがあった…が、今ではすっかり彼らのペースに馴らされている。「決意」は決意として、変わらず胸に深く刻まれているが、いつまでも仏頂面を貫くことが許されるほどこの町は広くなかったし、そもそも眞人の性格的にそうすることが無理だった。 「今日はもう上がりだろ? 駅前の“サキ”に新しい子が入ったんだってよ。今夜行かねえ?」 「行かないよ」 苦笑する眞人に対し、一之瀬はその答えを予測しつつも、「ちっ」とあからさまな舌打ちをして見せた。 「今度は本当に可愛いんだって! 見たことねえけど! ママの知り合いの娘で、地元のミス何とかの準グランプリ獲ったこともあるんだってよ!」 「へえ。幾つ?」 「知らん。けど最近離婚して、ちっこい娘が1人いるっつってたから、いってて三十手前か、それ以下だべ」 「あれ。子持ちでもいいんだ?」 「顔と性格による」 しれっと答えて、一之瀬はおもむろに作業着の胸ポケットから、小さな棒つきキャンディを取り出した。車の通りもほとんどないここで、果たして意味があるのかと思われる農道前の信号機。それが赤になったタイミングで、一之瀬はそのキャンディの包みを取り去り、「禁煙三日目だぜ」と胸を張りながらそれを口に咥えた。 それから再び走り始めて、一之瀬は夕暮れ時の田畑へ目をやる眞人をちらとだけ見やり、何気なく言った。 「お前もね。いつまでも前の女を引きずってちゃ駄目よ?」 「ええ?」 「最初は遊びでもええ。とにかく別の女のとこ行け。そしたら段々記憶も薄れるべ。前の奴の顔なんて、欠片も思い出せなくならあな」 「……一之瀬もそうだった?」 「俺はフラれた次の日には、もう忘れたね」 「それは嘘だろ」 ぷっとふき出す眞人に、しかし一之瀬は大真面目な顔で返した。 「無理でもそうすんだよ。考えても見ろや、俺みたいなイイ男を足蹴にするクソ女だぜ? 覚えててやるだけ損ってなもんだろ?」 「そうだね」 「……そうすぐ返されっと、適当さが漂うわけだが」 「そんなことないよ。……ありがとう」 「は? 何でそこで礼だ……ワケ分かんねえ!」 「うん」 素直に頷きつつ、眞人は流れる車窓へ再び目を移した。いかつい顔をしているが、一之瀬の性根は純朴で思い遣りに溢れている。眞人に自分の親切心を見抜かれてあからさま照れる様子などは、心から「いい奴だな」と思えるし、温かい気持ちにさせてもらえる。 膝上のりんごの重みも、これはありがたい重み。ここで眞人と温かく接してくれている人たちは、皆が眞人のことを気遣っている。眞人がここへ来た理由を彼らは知る由もないし、普段はわざと「失恋」ネタでからかうことすらあるのに、その根っこでは、東京で立ち直れないほどの「大失恋」をしたらしい眞人を心底心配している。こんな過疎地へ独りでフラリと迷いこんできたほどだ、きっとよほどの傷を負ってきたのだろうと。 それはあながち外れてもいないのだが。 本当のことは決して言わない。 役場に戻ると、すぐに上司の佐々木や事務の滝田(たきた)が眞人に「お帰り」、「お帰りなさい」とそれぞれ出迎えの言葉をくれた。――が、一緒に入ってきた一之瀬にはわざと知らぬフリだ。もう皆が皆、彼の「お騒がせな」存在には慣れきっているらしい。 当然一之瀬はそれに不満たらたらで「お前らな…」と言いかけたのだが、それを掻き消したのもまた佐々木だった。 「園田君、どうだった? 木村さんから了承取れた?」 「はい、大丈夫です。ただ値段のことだけ、もう一度課長と直接話したいと仰ってました」 「おぉ、それ言ったならもう大丈夫だ、良かった! 御苦労さん、やっぱり園田君に行ってもらって良かったよー」 「またあんた、眞人に無理難題吹っかけたのか」 一之瀬が横から口を挟むと、佐々木は露骨に嫌そうな顔を浮かべてフンと鼻を鳴らし、腕を組んだ。 「ばかこけ、木村さんは園田君がお気に入りなんだ、最初から無碍はしないと分かっていたさ。適材適所ってやつだな。つーかお前は、もう来るな! 話なら聞かんからな、俺はもう上がりなんだ!」 「何だと、今度こそすげえ良い話なんだぞ、新しいユルキャラを考えた! こいつは絶対売れるね! うちの町を有名にするチャンスだぞ!」 「園田さん」 横でぎゃあぎゃあと子どものような言い合いを始めた男2人をよそに、滝田が園田に内緒話のような小声で言った。 「この間の貸家の件なんだけど」 「あ、はい」 「家主さんから連絡あって、今度の日曜日にこっち来るから、家の中を見せたいって。平気?」 眞人はそれに驚いて目を見張った。 「勿論です、ありがとうございます。でも、大丈夫だったんですか? 最初は地元の人が良いと仰ってるって聞いていたから…」 「まぁそうなんだけどね。今さらこの辺りの人があんな大きな家、借りるわけないし。園田さんなら大丈夫だからって、課長も電話で凄く推したのよ」 「そうですか…何だか申し訳ないです」 眞人が恐縮すると、滝田はひらひらと片手を振って笑った。 「何でー。元々課長が持ってきた話だし! 値段のこともちゃんと交渉したら安くしてくれると思うし、言い値でOKしたりしちゃ駄目だよ? 何ならあたし、今度の日曜なら暇だし、一緒に行ってあげてもいいけど」 「何だよ、眞人! お前、家買うのか!?」 いつから滝田との話を聞いていたのか、不意に一之瀬が驚いたような顔で話に参入してきた。いまだ勤務時間中なのを気にしながら、眞人は慌てて首を振った。 「まさか、貸家だよ。ただ、そんなに大きな家じゃなくても良かったんだけど」 「まぁここらは、空き家と土地だきゃ、やたらとあるかんな。いいんじゃねえの?」 「ちょっとアキラ、あんたは入ってこないでよ! あたしが園田君と話しているんだから!」 「ヘッ、うっせえよ、ブス」 「はああ!?」 「2人とも仲良いね」 いわゆる幼馴染の関係らしい2人のやりとりは、いつもどこでも大騒ぎになるが、眞人はそういうやりとりができる彼らを常に羨ましく思っていた。 だから自然と出た台詞だったのだが、そんな眞人に2人は珍しく意見が一致したようで、くるりと顔を向けると一斉に「どこが!?」とツッコミを入れてきた。 「えっ…どこがって…見たままというか…」 「ひどい、園田君!」 「お前はホントに天然ボケだなぁ!」 「何が…?」 しかし戸惑う眞人をちょいちょいと引っ張った佐々木が、「そういえばその貸家の件だけどね」と言いながら、2人から引き離してくれた。 「実は他にも、あの家を買いたいと言ってきた人がいるそうなんだ。その人も、この辺りの人間じゃないらしいけど」 「え、そうなんですか」 まさか競合相手が現れるなど考えてもいなかった眞人は思わず目を瞬かせた。誰かと争うことは本意ではない。元々佐々木から提案されたこの話は、「自分には大き過ぎる」とも考え、迷っていた。貸家とは言え、一軒家に住むことには抵抗もある。 何故なら、「もしものこと」を考えたら、断然、家になど棲みつかぬ方が良い。 下手に愛着を持ってしまうと後が辛い。 しかし、それならこちらが辞退しても…と言う台詞を、眞人はすぐ口にすることが出来なかった。 この町へやって来て、すでに半年以上の時が経つ。その間に、眞人は心底からこの町を好きになってしまっていた。今の立ち位置ではずっとこの仕事が出来る保証はないが、佐々木は来年度の正職員採用試験を受ければいいと勧めてくれたし、それが駄目でも「うちで働けば」と言ってくれる木村夫妻がいる。一之瀬という楽しい友人も出来た。そして極め付けは、今回の「家」の話だ。佐々木は、「遊ばせている空き家に住むのも町興しの一環」と言ったが、それは仕事上の義務というより、明らか眞人がこの土地に定住しやすいよう、わざわざ持ってきてくれた話のように思えた。だからつい眞人も、この地に根を下ろした生活というものを密かに想像してしまっていた。 「相手は東京の人らしいし、家を買ってもずっと住むとかじゃないだろうね。たぶん、別荘として利用する気なんじゃないかな」 佐々木は顎に手を当てながら、まだ見ぬ相手を想起するように言った。 「しかしあの家主は、あくまでも家を貸すって前提で人を探していたんだから、そもそもあの土地ごと欲しいなんて話には頷かないと思うよ」 「そうですか。でも別荘に、なんて考えているんだとしたら、きっとお金持ちの人ですよね。条件良かったら、家主さんも揺らぐんじゃ?」 「うーん、まぁそれは大いに考えられるが。でも今でこそあいつも仕事の拠点を東京に移しちゃったけど、あの家を建てた当時は結構思い入れも強かったし、どうせならずっと住んでくれて、中の手入れをしてくれる人に託したいはずさぁ。売るってとこまでは考えてないと思うなぁ」 ともかく私は園田君を推しておくから!と無駄に握り拳を作る佐々木に感謝しながら、眞人はもし日曜の顔合わせにその競合相手が来たら、「あっさり折れてしまう自分」と「多少食い下がる自分」……果たしてどちらが勝るだろうかなどと、どこか他人事に考えてしまった。 そして翌日曜日。 「一緒に交渉してやる」と言い募った一之瀬と滝田を丁重に断った眞人は、1人で直接その物件へと徒歩で向かった。移動が面倒なのだからいい加減車なりバイクなり買えば良いと一之瀬は事あるごとに言うのだが、眞人はこの田畑の続く農道をのんびり歩くのが好きだった。幸い今日は天気も良い。昨日木村夫妻から貰ったりんごの幾つかを家主への土産として手提げ袋に入れ、眞人は軽装の身なりと同様、何となく軽やかな気持ちで辺りをゆるりと見渡した。 この辺りではりんごをはじめとした果物や野菜、米作りを手掛ける農家などもあるが、その担い手は殆どが高齢者で、遊休地も増えている。スキー場建設などを目当てに土地の買い占めが起きたら嫌だなと思いつつ、しかし眞人の財力では自分の棲み処を手に入れることすら一苦労だ。 あの家を買いたいという東京の人物とはどういった人間なのだろう。経済的に恵まれていて、道楽としてあの家を別荘にと考える資産家のイメージが一番しっくりくる。ただ、それにしては、この辺りはいわゆるリゾート地からは若干離れており、交通の便もない。とすると、引退間際で老後は田舎に引っ込みたいと考える老夫婦とか? 後者なら素直に譲れそうだなどと考えながら、眞人は「東京」という文字に秘かな痛みがあることに努めて気づかぬフリをした。 「まだ来ていないのかな…」 人の気配のしない目的物件の前にまで来て、眞人は1人呟いた。 以前にも佐々木に連れられ見てはいたが、改めて眺めると、そこは独り暮らしをするには、やはり大きすぎる平屋だった。おまけに、隣家まで大分距離のあるその木造家屋は、元の持ち主の趣味なのか、古さを感じさせない赤レンガ仕様の外装に白い鉄柵、銀のポスト。玄関までの石畳は雑草でところどころ酷い有様だが、きちんと掃除しさえすればかなり洒落た小道である。日当たりも良く、庭にそびえ立つ無花果の木も良いなと気に入っていた。 ただ、あまりにも贅沢過ぎる気がして、初めてここを「定住の地」として勧められた時は一も二もなく断った。今住んでいるアパートが役場から少し遠いと感じていた為、近場でどこかとは相談したが、まさかこんなに立派な家を紹介されるとは想像も出来なかった。 それでも家主と会おうと決意したのは、やはりこの土地だけでなく、本当はこの家を一目見た時から気に入ってしまったからだ。 家、というものに憧れている。 全寮制の高校に入るまでずっと暮らしていた「家」はあるが、そこは眞人がいつでも帰りたい場所には成り得なかった。別に誰が待っておらずとも良い、ただ心から安らげる自分の居場所が欲しい――。 眞人はもう一度、表門から家の全体を眺めてふっとため息をついた。 やっぱり、なるべくならこの家に住みたい……そう思った。 「眞人さん」 家主が来る前に家の周りを巡ってみようか。ふと、眞人がそう思って玄関から外門へと視線を向けた時だった。 「………ッ」 眞人と同じことを考えていたのか。 恐らくは同じようにこの家をぐるりと一周してきたかのような様子で、男がはたと気づいた顔をして眞人を呼んだ。 「眞人さん」 二度呼ばれても、何が起きたのかよく理解できなかった。 それでもあまりの驚きに、思わずドサリと、手提げ袋を落としてしまった。木村夫妻がくれたリンゴが足下をころころと転がって行く。それが何となく分かったが、それでも眞人は視線を逸らせなかった。 逸らしてはいけない。それをしたら恐ろしいことが起きるような――そんな恐怖を感じた。 「久しぶり」 顔面蒼白になる眞人に、男は穏やかな声でそう言った。それからゆっくりと歩み寄り、身体を屈めて眞人が落としたリンゴを拾う。 その時、通りの向こうから軽いクラクション音と共に高級外車が滑り込むようにやってきた。 眞人はそこで初めて首を動かし、その車を何ともなしに見やった。 「すみませんね、遅くなってしまって! お2人…ええと、園田さんと、富良野さんですか?」 「はい」 車から降りてきた小太りの壮年男性に男――富良野明幸はにこやかに応えた。そう、いつだってこの男はこんな風に人好きのする笑顔で、初対面の相手にも気持ち良く接することが出来る、そういう奴だった。 眞人は富良野のにこにこした横顔を凝視した。いまだに事態が掴めない。 「いやあ、お電話では何度かお話させてもらいましたが、お2人ともやっぱりお若いですな。好青年だ、こりゃ。わはは。ええと、園田さんは、佐々木さんの紹介でしたな。役場の方に勤められているとか。どちらが園田さんで?」 「……私です」 何とか返事が出来たものの、不自然なのは明らかだった。それでも家主は「とにかく渋滞がひどくて!」と遅刻したことを気にしていろいろまくしたて、無駄に掻いている大量の汗を拭うのに必死だった。労わる富良野に恐縮したり喜んだりした後、家主は「とにかく、中を見てもらいましょうかね」とようやっと鍵を取り出して、「ああ、そうだ!」とはたと思い立って慌てた。 「すみません、私はどうにもこういう場が不得手でして! しかしまずはお2人のことを紹介いたしませんとね! お2人、初対面ですものね!? いやはや、本当は業者の仲間さんも同行してくれるはずだったんですが、違う仕事で遅れるとかで! なら今日は家の中をお見せするだけだし、私1人でも良いって言ったんですが、これなら佐々木さんにも来てもらえば良かったなあ! ああイカン、とにかく私だけが話しているのも変ということで、園田さん、こちらが富良野さんです。元々私、この家を貸せる方を探していたんですけど、富良野さんはこの土地ごと買っちゃいたいとのお申し出で。それを仰っているのは、富良野さんのお父様なんですけども」 「ええ、そうです」 にこにこしながら富良野は頷いた。園田の驚く様など眼中にないという風だ。 それは汗かき家主にしてもそうだったが。 「で、富良野さん、こちらが園田さん。先ほども申しましたけど、ここの町役場に勤めておいでです」 「はじめまして」 富良野は全く平然としてそう言った。眞人はそれに思い切り動揺し、微かに頭を下げるので精一杯だったが、富良野は構わず、先刻拾ったりんごを差し出した。 「これ」 「あ……」 礼を言わねばと思うのに、言えない。 ただ幸いなことに、せっかちな家主がどんどん話を進めてきたので、その不自然さが目立つことはなかった。 「園田さんは私のこっちの知り合いの佐々木さんって人の紹介でしてね。いやあ私、あの人があんなに人を誉めるの、初めて聞きました。結構頑固でしょ、あの人? 仕事とか大変でしょう、こき使われて」 「い、いえ…。とても良くして頂いています…」 「わあ、それでしたら、うちの方が不利ですねえ」 おどけた風に返す富良野に、家主は「わははは」と豪快に笑った。 「いやいやぁ、まぁ確かに、最初はここを売るまでは考えてなかったんでアレですけど。この家を気に入ってそう仰ってくれていることですし、ちゃんと残して手入れしてくれるならねえ。条件は同じだから。いろいろ考えさせてもらいますよ。それにここを見て、お2人の方がやっぱりやめた、なんて仰る場合だってありますしね? とにかく中を見てもらわないと、と」 その後のことを、眞人はあまり覚えていない。 家主に誘導されるまま、家の中を見て回ったことだけは確かだ。目にした映像も記憶には残っている。日当たりの良いフローリングのリビングは天井がやたらと高く、ダイニングとも連結していてやはりとても広かった。もう何年も人が住んでいないとのことだったが、時々人を入れて風通しをしていたとかで清潔感もあったし、外と同様、洒落たデザインの屋内は、平素の精神状態であったなら即決して欲しいと名乗りを上げるに十分な物件だっただろう。 「凄く良いですね」 しかし富良野が眞人と同じような感想を持ってこの家を誉め、嘘か真か、ここを買いたいと言っている父親とやらに「強く勧めておきます」と言ったのを聞いた時は、すっかり気持ちも冷え切っていた。 というよりも、この町にいて良いものか。当面、重要なのはそこだった。 富良野から離れる為に逃げたのだ。もう二度と会わないで済むように、連絡先も全て絶ち、誰にも知らせずこの町へ来た。 半年経ってようやく新しい生活にも慣れてきたところだったのに。 何故またここに、自分の目の前に富良野が現れたのか。 「それじゃあ、また連絡下さい」 一通り家を見せ終わると、家主は「東京にトンボ返りしなきゃならない」と、茶の一杯を飲むこともなく、車を飛ばし、去って行った。思えばまともな会話を一言も交わさなかった。家主の中で眞人の印象は最悪だろう。最早この家のことは諦めている身でどうでも良いことではあったし、今はここで富良野と2人きりにされたことこそが重大な問題だったのだが。 何でも良いからいろいろ思考を巡らせていないとおかしくなる。ある意味「現実逃避」で、眞人は次から次へと足早に様々な考えを浮かべては消していた。 「偶然だから」 そうやって意味もなく門前に立ったままでいた眞人に、富良野がふっと口を開いた。 油の差されていないブリキの玩具のようにギギと硬い首を動かす。すると、眞人のことを見つめていた富良野ともろに目が合った。 合ってしまった。 「眞人さんがこの町にいることは、俺の父親がこの家を買うことを考えているって話が出た時に偶然知ったんですよ。競合相手の名前を聞いて、えっ!?て。まさかまた会えるとは思わなかった」 「…………」 俄かには信じられないその話に眞人は戸惑った。 以前の「2人」も、眞人が強引に離れようとした際、追いかけてこようとした。高校の時の同級生は、眞人と同じ全寮制の学校へ行くと言って親と大喧嘩になったし、大学時代の先輩も海外まで追いかけると言い張って、決まりかけた就職先を蹴ろうとしたと、後に知人を通じて知らされた。いずれも結局は周囲の人間の説得により断念し、物理的に離れた距離と時間をもって眞人への「毒」は消化され、「正常」に戻ったのだが――。 富良野とはまだ離れて半年だ。それが長いのか短いのか、眞人には測りかねた。 「眞人さん」 疑心暗鬼な眞人を見て取ったのだろう、富良野は不意に悲しげな顔をした後、深々と頭を下げた。 「すみませんでした」 それはぴんと通った、それでいて微かに震えた声だった。眞人が驚いて後ずさると、富良野はゆっくりと頭を上げて悲痛な顔で続けた。 「俺の勝手で、あなたの人生をめちゃくちゃにしてしまった。謝って済む問題じゃないことは分かっています、けど…。会えて、嬉しいです。どうしても謝りたかったから」 「……っ」 眞人は何も言えなかった。 富良野は続けた。 「離れてみて、自分が貴方にとんでもないことをしてしまったんだって分かりました。いきなり消えられた時は……あの駅で、新幹線に乗る眞人さんを見た時は……気が、狂うかと、思ったけど」 急にたどたどしい口調でそう言った富良野に、眞人は今度こそ怯えて身体を後退させた。 しかし富良野がそれを責めることはなく、ただ悲しげな瞳で静かに言った。 「貴方に逃げられて冷静になれました。本当に、とんでもないことをしてしまったんだって。眞人さんの信頼を俺は踏みにじった。ああされて当然だったんです」 「………もう」 いいから、と。そう言おうとして、けれど眞人は喉の奥がカラカラでそれが叶わなかった。ふと、手提げ袋に入っていたリンゴが目に入った。ああ家主に渡すのを忘れていた。これを食べたらこの喉の渇きは癒やされるだろうか。…そんなどうでも良い考えを巡らせながら、それでも眞人は何となくそれをゆらりと掲げて、富良野の前へ差し出した。 「眞人さん?」 富良野がそれに驚いた顔を見せた。何をされているのか分からないと言う風だ。眞人自身、何をしているのかよく分からなかった。ただもう富良野の顔は見られなかった。 見たら何を思うか分からないし、何を言い出すか分からなかったから。 「良いんですか?」 代わりに富良野がそう言って、眞人が差し出したリンゴ入りの手提げを受け取り、嬉しそうに微笑んだ。 「ありがとうございます。リンゴ、好きだから」 知っている。そう思いながら、眞人はただ首を振って、すうと大きく息を吸った。 それから思い切って訊く。 「ここに住むのか…?」 「いえ」 すると一大決心をして訊ねた眞人に、富良野はそれを思いやるように即答してきた。 「家主さんも言っていたと思いますけど、ここを買いたいと言ったのは俺の父親です。多分、避暑地として使いたいんだと思います。俺は東京の仕事があるし、ここに住むのは無理ですから。そのつもりも、ないですから」 「本当に?」 思わず縋るように訊いてしまった。富良野は気分を害するだろうか。しかし当面眞人にとって重要なのはそこだった。もう好きになってしまっているのだ、この土地を。 出て行きたくなかった。 富良野にバレた時点で、本当はすぐさま逃げ出さねばならない、本能はそう訴えていたはずなのに。 「眞人さん、心配しないで」 すると富良野がそんな眞人の想い全てを悟ったようにそう言った。 「俺はもう貴方の生活の邪魔はしません。ここで働いて、一軒家を借りたいなんて思うほどに、ここを気に入っているんですよね? ならここにいて下さい。俺もう、眞人さんのことは諦めましたから。あんな豪快にフラれたらね…さすがに、バカでも気づきますよ」 「……富良野」 「良かった。やっと名前、呼んでくれた」 忘れられていたら、やっぱりそれは寂しいから、と。富良野は心底ほっとしたようになって小さく笑った。それは以前、眞人が「可愛いな」と思った富良野の少年を思わせるあどけない笑顔だった。 「あんなに酷いことをしたんだから、フラれて当然ですよね。眞人さん。本当にごめんなさい。取り返しのつかないことをしてしまって……許して下さいと言うのは虫が良いと分かっています。でも会えたから……今日こうやって会えたから、やっぱり俺は嬉しいです。あのままじゃ、やっぱり……ちょっと、立ち直れなかったから」 「ごめん…」 眞人は思わず謝った。富良野はそれに心底慌てたように「眞人さんは悪くないです」とかぶりを振ったが、やはりあの駅で感じたのと同じように、眞人は富良野に対して申し訳ない気持ちを抱いた。 そして愚かだと思うのに、ほんの僅かだけ。 またちらりと、眞人は富良野を見やってしまった。 「眞人さん」 そんな眞人に、富良野はまた聖人を思わせる「綺麗」な顔で微笑んだ。 「本当に会えて嬉しい。眞人さんは迷惑かもしれないけど……謝れて、良かったです」 こういうこと言うのも勝手ですよね。 そう言って困ったように俯く富良野に、眞人は思案した末――緩く、首を振った。 |
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