箱の中（前編）

箱の中

　最近では雨の日の方が好きだと眞人は思う。「こんな状態」で空だけ晴天でも却って気持ちが塞ぐし、現実問題、天気が悪ければ木村家の手伝いへ赴けないことも不自然ではない。
　この期に及んで、そんな取り繕うような理由を考えるなど馬鹿げていると分かっているけれど。
「眞人さん？」
　背後からその声が聞こえて、眞人はゆるりと顔だけ振り返った。ぐっすり眠っていると思っていたのに、隣の気配が消えて目覚めたのか。相変わらず鋭いなと内心で呆れながら、眞人は努めて平静に「おはよう」と挨拶した。
「おはようございます。早いですね」
「何でか目が覚めたから」
「今日は休みでしょう？　もう少し寝ませんか」
　後ろから抱きしめられ、項にキスされる。男の名は富良野明幸。眞人の元は仕事上の知り合いであり、その頃は親しい友人だと信じていた者。この人物から執拗で歪んだ愛情を向けられ、半ば無理やりの関係を結ばされてから、もうすぐひと月になる。明幸には東京の仕事があり、会うのはもっぱら今日のような週末だけだが、最近では在宅の仕事を増やしたと言ってしょっちゅう眞人の傍にいる。
　そのことに、眞人は言いようのないストレスを感じている。極力表に出さないよう努力はしているが。
「もう眠れないから何か作るよ」
　ベッドに戻って朝からまた抱かれるのは嫌だった。無理に笑って眞人がそう言うと、明幸は一瞬不満そうな顔を見せたものの、するりと拘束を解き、自らも柔らかい笑みを見せて「じゃあコーヒーは俺が淹れます」と返してきた。
「ありがとう」
　素直に礼を言い、眞人はキッチンへ向かった。これだけのやり取りなら、一見何ほどの事もない、平和な日常。けれど当事者である眞人にしてみれば、こんな些細な会話も薄氷を踏む想いだった。いつどんなタイミングで明幸が「豹変」するか分からない。その恐怖にいつも怯えていた。
　眞人が明幸とこの「赤レンガの家」で半同棲の生活を始めたことを知る者はいない。小さな町だ、基本、ここの住民ではない眞人は目立つし、それはいつ知られてもおかしくはなかったが、明幸はそういった「約束」は今のところ守ってくれている。
　約束。つまり、眞人と明幸が「そういう関係」であることを匂わせるような言動は一切取らない、ということ。眞人をここへ連れてくる時も、明幸は極力人目がつかないようなタイミングを選んでくれる。あくまでも明幸は眞人を慕う昔の後輩であり、一ノ瀬らの理解では、「にも関わらず、眞人の恋人を奪った過去があり、今はそのことを悔いて眞人との関係を修復したいと考えている、愚かしくも憎めない後輩」という立ち位置にある。この町に来てから特に親しくしてくれた一ノ瀬に嘘をつき続けることは眞人とて本意ではなかったが、明幸との関係を知られる苦痛を思えば、躊躇する余地などない。眞人はここでの穏やかな生活を守りたかったし、やはりこの土地にいたいのだ。折角見つけた親切な人たちとの暮らし。それを明幸一人の為に犠牲にしたくはない。
　けれどこの生活を続ければ続けるほど、眞人には何が本当の望みだったのか分からなくなる時もある。
　気づけばまともに眠れなくなっていた。
「眞人さん、また痩せたでしょう」
　朝食の準備を終えてテーブルの席に着いた眞人に、明幸が何気ない口調で切り出した。
「今何㎏です？　ここ体重計ないからなぁ、アパートにはあります？」
「いや…必要ないし」
「まぁ普通はね。けど、眞人さんには必要な物ですね、今日にでも買ってきます。それで毎週末測ってみて、これ以上痩せるようなら強制的に俺が食事管理しますよ。いいですね？」
「いいわけないだろ…」
　会話を長く続けたくなくて無理やりかじったトーストは何の味もしなかった。ふと見ると、傍にあったマーガリンもジャムも何も塗っていない。しまったと思い、傍にあるブルーベリーの瓶を無造作に掴む。
「じゃあ太って下さい。来週末までに２㎏。約束です」
「無茶言うなよ」
「どこが、簡単ですよ。好きな物、好きなだけ食べればいいんです。あぁ…でも眞人さんって、あんまり太るような物、好きじゃないからなぁ」
　まぁ今日の夕飯は俺が作りますよ、と。明幸は傍にあったタブレットの電源をつけながら、「何か美味しそうなレシピ探して、それ見て作りますから」と楽し気に言った。それからちらりと眞人を見やり、悪戯っ子のような笑みを閃かせた。
「それに眞人さんが太ってくれないと俺が困ります。あんまりガリガリだと抱き心地も良くないですし」
「……なら抱かなければいい」
「はっ」
　明幸は眞人のぼそりと呟いた毒を軽くあしらって鼻で笑うと、不意に席を立って真向いの位置に立ち、顔を寄せた。そして眞人が自分のその所作にびくつき身体を跳ねさせるのも構わず、すぐさま顎先を摘まんで唇を奪う。
「…っ」
　無理に顔を上向かせられて眞人は眉間の皺を深くした。それでも逃れられない。明幸が眞人の口を吸う時はとても粘着質だ。押し潰すように深く重ねてくるし、舌も差し込んでくる。口を開かないと不機嫌になることが分かっているので眞人も徹底的に逆らえない。
　それで途方もなく長く感じる口づけを暫くの間強制される。
　嫌だと思う。
　この男が大嫌いだと眞人は思う。
「眞人さん」
　その男―富良野明幸―は唇を放した後も恐ろしいほどの至近距離から囁いた。
「冗談でもそういうことは言わないで下さい。悲しくなるから」
「……大袈裟だよ」
「俺は本気ですよ、いつでも。眞人さんに関することはね。だから、抱かなければいいなんて、冗談でも言われると悲しくなるし、腹が立ちます。――気をつけて下さい」
「……分かった」
「…ふっ。そんな怯えた目で見ないでよ」
　さらりと眞人の頬を撫でて明幸はまた微笑んだ。悪魔の微笑だ。この美しい造形の男が何故何の取り柄もなく平凡を絵に描いたような自分にこうも執着するのか、と。眞人は不思議で仕方がない。逃げたからだろうか。この男を拒絶する人間など今までにいなかったから。だから、一度は好意を寄せておいて一方的に姿を消そうとした自分を許せなくて？―…そんな埒もないことを、眞人はもう何度思案したか分からない。そうして勝手に袋小路へ迷いこむ。明幸が分からない。こうして一緒にいればいるほど。
　以前の恋人たちと似ていると言えば似ているし、違うと言えば全く違う。
「今、何考えてます？」
「………」
　こうして鋭く探って来るのは、似ている。
「大方、俺の悪口でも唱えていたんでしょう。あー煩い奴、早く東京帰らねえかなぁ…って？」
「お前…」
　でも、勝手に答えを見つけて勝手に終わらせてくるところは違う。前の彼らだったら、必ず眞人からの直の言葉を欲しがった。嘘でも何でも、眞人が「違う」、「そんなことない」、「お前のことが好きだよ」と。半ば暴力を伴う無理やりな言質でも、自分たちが納得する台詞を眞人が紡ぐまで容赦しない。そういうところがあった。
　その点で明幸は、脅迫紛いなことを言ってこのような半同棲を強いてきた割には、眞人からの言葉はあまり欲していないようだ。それに執着を見せる割には、比較的自由もくれる。何せ少なくとも週の半分、明幸は東京だ。適度な距離感は未だに守ってくれている。
　それでも眞人はこれまでの２人よりも誰よりも、明幸のことが怖い。
「何です？」
　言いかけて黙りこんだ眞人に明幸が問い返してきた。眞人がハッとなって慌てると、しかし明幸は助け舟のようにまた自分から答えを出した。
「別にいいですよ、眞人さんからどう思われていようと。これ強がって言っているんじゃないですよ、本当にそう思うんです。眞人さんが俺の傍にいてくれるなら何でもいいって」
「……嘘だろ。そんなのイヤだろ」
「そんなのって？」
「心の中でお前の悪口言っているような奴とずっと一緒にいたいのか？　普通はそんなことは思わない――」
「大丈夫ですよ、俺はもう普通じゃないですから」
「……っ」
　戸惑う眞人に明幸は嗤った。
「だってそんなもの、とっくに捨てたじゃないですか？」
　朝食を片付けた後、明幸は「買い物してきます」と一人で出掛けて行った。車のエンジン音が完全に遠のくまで俄には信じられなかったが、ずっと拘束され続けるのかと観念していた雨の休日に思いがけず一人きりの時間を得られたことで、眞人は率直に戸惑った。
「何しよう…」
　いやに広く感じる部屋を見渡して眞人は独りごちた。一瞬だけ自分の部屋があるアパートへ帰る選択肢が浮かんだが、さすがにそれはすぐに振り払う。明幸は眞人の為の体重計やら、眞人に食べさせるための食材やらを買いに出かけたのだし、それで勝手に帰ったりしたらさすがに怒るだろう。とにかく明幸を怒らせたくはない。今は大人しく温和な面しか見せていないが、それは眞人が明幸に対して従順だからだ。先刻のように、つい口をついて出てしまった「失言」も偶にあるが、基本的には、明幸に来いと言われれば仕事後まっすぐこの家に向かうし、抱きたいと言われれば、言われるままに足を開いた。
　とにかく明幸が怖かったから。この家に初めて連れ込まれた時の恐怖が今も心に深く刻み込まれているから。
「……掃除でもするか」
　じっとしていると余計なことしか考えない。ぶんと軽く頭を振ってから、眞人は清掃用具が収納されている棚からモップを取り出し、まだどこも埃っぽくない、むしろ光沢すらあるリビングの床を磨き始めた。思えば明幸は実にマメな男である。この家の掃除も、そして今日のように食事の支度も。大体のことは明幸が引き受けると言って、むしろ眞人には一切家事をさせない。きっと以前の明幸であったなら、早々と結婚して子どもができたとしても、家事にも育児にも積極的に参加する理想的な夫、そして父親になったことだろう。
「何で…俺なんだ…」
　仕事上の付きあいだけに留めず、自分が明幸と親しくなり過ぎたから？　気のあるそぶりを見せたから？　カミングアウトしてしまったから？
「ちくしょう…」
　同じところばかり磨きながら、眞人はまた呟いた。こんな生活。いつまでも続くわけがない。そう思う。明幸はどう思っているのだろう、「あの時」はカモフラージュに眞人の同僚である滝田と結婚しても良いなどと言っていたが、眞人が「それだけはやめてくれ」と懇願してからは何も言わなくなった。
　だからそんなバカなことだけはしないと思うが――。
　しかしちょうどそんなことを想起していた時、携帯が着信を知らせる音を出した。驚いてモップを手から離してしまったが、慌ててキッチンテーブルに放置していたそれの元へ駆け寄ると、相手はその滝田の幼馴染であり、眞人もこの街へ来てから親しくしている一ノ瀬からのものだった。
　少しほっとしてから、眞人は「もしもし」と電話を取った。
『おー、眞人か？　休みの日にわりーな。何してた？』
「あ……いや。今、掃除……」
　別に明幸が買い取ったこの別荘に入り浸っていることは秘密にしていない。一時は眞人の不穏な態度を察した一ノ瀬が明幸との仲を心配してきたこともあり、それは違う、もう大丈夫だからと告げたついでに「偶に２人で飲んだりもする」と話したのが最初だった。一ノ瀬はそれを完全には鵜呑みにしないようだったが、以降は明幸との関係を心配する声はかけてきていない。
　それでもその時の眞人が咄嗟に言えたのはそれだけだった。
　一ノ瀬はそんな眞人に軽く『あー、そうか』と言っただけだったが、その後の要件はどこか言いづらそうだった。
『さっき、かすみから電話あったんだけどよー、……あー、何か、お前、夜とか暇？』
「え？　何で？」
『また明幸がこっち来ているから、夜、４人でメシ食わねぇかってさ。俺はどっちでもいいんだけど、お前はどうなん？と思って。しかもかすみも入れて４人とか…』
「……滝田さんの所へ富良野が連絡したの？」
　一瞬どきりとして声がくぐもると、一ノ瀬は違う方へ勘違いしたのか、途端慌てたような早口となった。
『何つーか、あいつがしつこいから、明幸もお前よりかすみに電話しないといけないみたいな気になってんのかね？　俺はかすみに、もうお前らの仲は大丈夫だって言ったのに、あいつはホントいちいちお節介なんだよな！　あれじゃー、あいつが明幸に気があるみてーじゃんか？　あ、いや、なに？　だ、だから俺はあいつに、明幸が勘違いしたらどうすんだって言ったこともあんだけどな！』
「……滝田さん、富良野に気があるの？」
　眞人は気が気でない。
　しかし一ノ瀬は一ノ瀬で、眞人の問いにますます焦ったようになり、電話向こうで咳き込んだ。
『いやっ！　だから、それはち、違うと思うぞ？　俺は。多分な！？　多分……あー、しかし…女は分かんねえもんだ。俺はてっきり、あいつは絶対お前だと思っていたのに、最近のあいつは明幸の話しかしねえから…いやっ！　あいつを悪く言うつもりはねー！　長い付き合いだし！　けどありゃあ…、まぁ、何だ。突如として都会のアイドルと親しくなれて浮かれまくったバカ女ってトコか！』
「それ十分悪口だよ」
『しまった、そうだなっ！　わはは、悪い！　しかしよー、実際どうするべ？　なんか明幸は俺らの予定さえ空いているなら、自分ちで宴会する分には全然ＯＫみたいなこと返事したらしいけど』
「富良野が？」
『まー、あいつはさ。そりゃ、お前に会いに来ているわけじゃんか。だからそりゃ、逆に俺らみたいなのがいた方が紛れるだろうし、４人はむしろ歓迎なんじゃねえの。だから俺はそれをかすみが勘違いしてねえかってのを心配してんだけどな。まぁ、そもそも俺が心配する義理もねえんだけど！』
　その後も一ノ瀬はいろいろと同じ年の幼馴染を心配したり文句を言ったりしながら電話を切ったのだが、眞人にしてみればどうしても胸がざわつくのを止められなかった。
　無論、明幸はいつもこちらの街へ来る時に、ここで知り合った人たちに挨拶するし、東京の土産を持ってきたりもするので、ここへ来ることを隠したりしていない。しかしそれを眞人の同僚である滝田へ積極的に連絡するなどとは聞いたことがなかった。今回が初めてだろうか。しかし、そうだとしても一体何を考えているのだろう。週末はなるべく２人きりになりたいなどと言っているあの男が、今日は買い物へ行くと言って眞人を独りにし、その間に滝田へ連絡してここで彼女らと夕食をとる計画に賛同したりもする。
　それは確かに眞人が望むような、「明幸にそうであって欲しい」理想の後輩像ではあるけれど…。
　その後は余計に掃除に手がつかなくなり、眞人はただ所在なくモップを持ってうろうろするだけだったが、そうこうするうちに明幸はたくさんの買い物袋を引っ提げて帰宅してきた。
「ただいま。あれ？　何、眞人さん。部屋、掃除してくれていたんですか？」
「いや…そういうわけじゃ。ただちょっと磨こうと思って…」
「それを掃除って言うんですよ。ありがとうございます、嬉しいな…眞人さんがそんな風にこの家のことを気遣ってくれるなんて」
　笑いながら明幸は荷物をキッチンテーブルに置くと、ゆったりとした動作で眞人に近づき、すかさずといった風のキスをした。眞人がそれを逆らわずに受け取ると、明幸は再び満足そうな笑みを浮かべて眞人の髪を指に絡ませ、もう一度という風に今度は額にキスをした。
　そして言った。
「でも、いいんですよ、眞人さんはそんなことしなくて。俺、眞人さんには、ここでゆっくりしてもらいたいんです。いつも仕事と俺の相手で疲れているでしょうし」
「え」
「むしろ“仕事”は余計か。全ては俺の相手でか」
　ははと独りで笑って明幸は再度顔を寄せ、眞人の唇に口づけた。そうしてモップを掴む眞人の手もまとめて握りしめ、そこにぎゅっと力を込めてから囁く。
「好きです、眞人さん。貴方を見る度に好きになる」
「……っ」
　耳元で言われたそれに、眞人は内心でゾクリと震えた。思わず退いて明幸を見ると、その顔はやはり美しい。そしてどこか緊迫したものが含まれていた声とはギャップがあると感じた。だから思わず眞人は明幸を呼ぼうと口を開きかけたのだが、それを当の明幸が止めた。
　そして唐突に言った。
「俺、明日から向こうで結構大きい仕事入っているので、来週の週末は帰れないと思います」
「え？」
「俺がいなくて嬉しい？」
「…別に」
　覗きこむように顔を近づけられ、眞人は咄嗟に顔を俯けた。
　嬉しいか嬉しくないかと訊かれれば、それは嬉しいに決まっていた。何せ少なくともこれから先２週間は、明幸からの束縛から解放されるし、この恐ろしい瞳を見なくて済む。
　しかしそれを明幸に悟られるわけにはいかない。誤魔化すように、眞人は平然とした振りを装いながら、未だ自分の手を掴んだままの明幸から逃げるように身体を揺らした。その手は決して離れはしなかったけれど。
「それより、今日ここへ滝田さん達が来るって聞いたけど…」
「ああ…。何だ、もう連絡あったんですか。早いな」
　さっきそういう話になったんです、と。明幸は何でもないことのように話した後、「イヤでした？」と再び探るように身体を屈めて眞人と視線をあわせてきた。
「俺…は、そんなことはないけど、お前は…」
「俺も構いません。それに、そうなったら眞人さんが安心するかなと思って。偶にはそういうこともしないとね」
「え？」
「普通の、仲の良い後輩としてここにいるわけですから、俺は。だから、いつも貴方と二人だけっていうのも不自然でしょう。俺が、こっちに眞人先輩以外の大切な人間関係が構築できたから頻繁に来ているんだって思わせておくことは重要じゃないですか。その方が眞人さんも安心でしょ？　違います？」
「ち…違わない…けど…」
「けど？」
　顔を寄せてきた明幸が今度は瞼にキスしてきて、眞人は思わず首を竦めながら目を瞑った。それでも明幸の唇は何度も眞人に触れてきて、それからさらりと頭も撫でられる。まるで小さな子をあやすような手つきで。
　堪らなくなり、眞人は少しだけ責めるような声を上げた。
「滝田さんとはよく連絡とっているのか？」
「何？　もしかして妬いてくれているとか？」
「ふざけてないでちゃんと答えろ！」
「何ですか、そんなに怒らないで。よくは取っていません。向こうは結構頻繁に連絡してくる感じですけど」
「そうなのか…？」
　全然知らなかった。いつも役所で顔を合わすが、滝田は以前よりも明幸のことを訊ねなくなったと思っていたくらいなのに。
　もしかして本当に、一ノ瀬が思うように、滝田の方が明幸に好意を抱いたのだろうか。
「眞人さんの同僚さんですから、結構気遣って優しくしているつもりですけど。駄目でした？」
「……そんなことない」
「なら良かった。ただ３人って言うのも何となく微妙なので、一ノ瀬さんも誘うように言っておきました。これも眞人さんが喜ぶかと思って」
「何で俺が」
「だって眞人さん、あの人のこと好きじゃないですか」
　それは特に毒もない言いようだったが、眞人は勝手にびくりとして弾かれたように顔を上げ、明幸を見やった。やはり明幸は特段怒っているようでも、悲しんでいる風でもなかった。ただ静かにたゆたう湖の水面のように静かな瞳の色をしている。それが眞人にはいつも怖いと思うような色だったのだが。
「さぁもういいでしょう、あの２人の話は。来るのは夕方だそうですし。昼食は２人で楽しみましょう。…勿論、それ以外も。ね？」
　だって俺はここまで妥協しているのだから。貴方を想って動いているのだから。
　そう暗に言っているような所作で、明幸は眞人をいよいよ強く抱きしめると、自分より頭ひとつ分くらい小さい眞人の頭にキスの雨を降らせた。明幸にキスされることにはいい加減慣れた。しかしそれはいつもしつこくて長かった。結局今日もそうなるのだろう…半ば諦めに近い気持ちを抱きながら、しかし一方で眞人は心のどこかで、「でも今日は夕方前には解放されるんだ」と安堵もしていた。

後編へ…

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