ただそれだけで2―前編―



「おい、類。今日はもう上がっていいぞ。黒沢さんが来るんだ」
「あ、はい」
「ご苦労さん。これ、余ったやつだから持っていきな。あっためて食えよ」
「わあ、丸さんの肉じゃが! めっちゃ美味いんだもんな、得したぁ!」
  握っていたモップを思わず放り投げて、類はオーナーから渡された紙袋の中味に歓声を上げた。
  類のアルバイト先は場末のスナックで、客は大抵駅前の大きなバーや飲み屋に持って行かれてしまう。けれどこの店で食事を出している丸なる強面の料理人は、いつも身に沁みる家庭料理をこさえる為、一部の常連客にはとても評判が良かった。
「あいつはお前に甘いからなぁ。お前にやりたくて、わざと沢山作ってんだよ。材料費は全部店出しだぜ? だからお前、俺にもちゃんと感謝しろよ?」
「はーい。へへ!」
「黒沢さん、もう来ると思うから、裏から帰れな。妙に気に入られちまったが…お前は、ああいう人とは親しくなっちゃいけねえよ」
「うん。ありがとう、オーナー」
  類の雇い主は大変なヘビースモーカーで、見た感じ、丸に負けず劣らずの迫力ある面相をしている。しかしこの壮年の男店主は、未成年で働き口を探すのに四苦八苦していた類に救いの手を差し伸べてくれた恩人だ。皿洗いや買い出し、掃除といった雑用係として一見類をこき使いながらも、実は何だかんだとよく気を回し、親切にしてくれる。
  類は鏡の前で入念に自慢の髭をチェックをし出したそんな店主に笑顔で礼を言い、勢いよく店を出た。
  類がこの町へ来たのは約2年前だ。父親は酒が過ぎたせいで肝臓を壊し、入院中。随分前に生き別れた母親は、その居所こそ知っているが、すでに別の家庭を持ち、類たちのことを顧みることはない。父方の叔母は僅かながらの経済的援助はしてくれるが、類たち父子を厄介払いして殆ど関係を持ちたがらない。
  つまり、類は家庭環境的には決して恵まれた生まれではない。子どもの頃から貧乏だし、そのせいで学校も中学を出ただけだ。定職に就かない父のせいであちこち転々と引っ越したりもしたから、同年代の友だちも「1人」しかいない。
  それでも類が今日まで曲がらず、まっとうに生きてこられたのは、ひとえに、行く先々で巡り合える良心的なバイト先の人々に尽きると言って良い。
「良かった。これで晩飯一食分浮いた」
  裏口から出た後、類はもう一度紙袋の中身を開いてみてから、にっこり笑った。
  今月はアパートの家賃と光熱費に併せて、叔母からの仕送りで足りなかった父の病院代がかさんでいるから、言葉では表せぬほどの大ピンチなのだ。類はスナックの雑用だけでなく、朝は近所の農家、昼は駅前ビルの清掃の仕事と、3つものバイトを掛け持ちしているのに、一向経済的苦しさから脱せられない。元々の時給が低いこともあるし、そもそも叔母からの仕送りが少ないせいもある。叔母は類の父の姉に当たるが、「本当は一円だって援助したくない」と折に触れ類に愚痴る。お前のお父さんには子どもの頃から迷惑を被ってきた、結婚してくれてようやく解放されたと思ったら、あんたのお母さんはあんただけ作ってさっさと逃げたでしょ。結局私だけが貧乏くじを引かされるんだから――と。
  類にはどうすることも出来なかったが、この手の話を聞かされる度に叔母には申し訳ない気持ちになるし、だからこそ、なるべくなら自分だけで自分のことも父のこともしなくてはという想いが強くなる。だから、「今月ちょっと困っているんですけど」といった話も切り出しにくい。
  お金が貯まったら「高校に行く」という夢は諦めていない。けれど類は、今日で19歳になってしまった。
  そう、今日は類の誕生日だ。そのことを知っている者などいないけれど。
「類さん」
「えっ」
  その時、ついぼんやりしてしまっていた類に背後から声が掛かった。思わず返答して振り返ってしまった時にはもう遅い、「まずい」と思ったものの、今さら知らんフリして通り過ぎるわけにもいかなかった。
  類は困ったように立ち尽くして、自分の傍へやって来たサングラス姿の若者を見上げた。
「若が類さんを呼んで来いって。もう仕事は終わったんでしょ?」
「はい…。でも俺、店内に入るのはオーナーに禁止されているから…」
「若の酌の相手じゃなくて、お客として一緒に飲めばいいんです。どうせ夕飯もまだでしょ? どうぞ。あの店じゃあ、丸のまずい飯しかないですけどね」
  この若者は類と大して年も違わないはずだが、笑った時に見える歯は全て差し歯だとかで、それが異様に白いのがいつも目についた。だから、というのもおかしな話なのだが、類はこの若者が怖くて、いつもぼそぼそとした返答しか出来なかった。黒沢もそれが分かっていてこの若者を使っているのかもしれないが。
「俺……明日も早いし。申し訳ないですけど……」
「類さん。若の誘いは断らない方がいいです。それに若はあんたの境遇を聞いてから、あんたのこと凄く同情して思い入れるようになった。若はあんたみたいなガキに弱いんです。だから自分の弟みたいに可愛がってやりたいって。こんなにありがたい話はないですよ」
「はぁ……」
  類にしてみれば、それは押し付けられた親切以外の何物でもない。そもそも、「同情」だなんて失礼な話だ。
  オーナーが警戒し、早くに帰れと言ったのも、全てはその「若」に会わせない為だ。黒沢はこの地域一帯を根城にしている、いわゆるヤクザの若頭で、はっきり言って「極力関わりたくない」人物の筆頭である。父親がアル中で、昔とんでもない借金を抱えた過去があるせいだろうか、類の中で「関わってはいけない人物ベスト3」の堂々2位は、このヤクザという人種だった。因みに3位は、実の母親だ。
「さあ」
  もたもたしている類に、黒沢の舎弟は痺れを切らしたようにその腕を掴んだ。類はそれを思い切り振り払いたいのを必死に堪え、仕方なく出てきたばかりの店の中へと戻って行った。

「困りますよ、黒沢さん。類は未成年なんですから」

  オーナーはそう言って庇ってくれようとしたが、周りをぐるりと強面の男たちに囲ませた黒沢は、その苦言を一顧だにせず、自らの隣に類を呼んで空のグラスを差し出した。
「未成年を働かせている店に説教されたくねえな。類。とりあえず飲め」
「じゃあ…一杯だけ」
「お前、俺が来る日に限って早く上がるじゃねえか。避けてんのか、俺を」
「黒沢さん、俺が上がれと言っているんです。類は翌朝の仕事が早いから」
「イトよ、お前は煩いから下がってろ」
  尚も食い下がろうとするオーナーを、黒沢は蠅でも追い払うかのように片手で一振りした。その意を受けて、周りの男たちもオーナーを無理やりカウンターの中へ引きずるように連れて行ってしまう。
  店の奥まった席で2人だけにされて、類は何とかため息が出ないようにと膝で拳を作って俯いた。黒沢から露骨に目を逸らすのは良くないとは分かっていたが、さすがと言おうか、まだ若いはずのこの男の眼光はいつでもとても迫力があって、1分と見つめ合うだけで萎縮し顔が青くなってしまう。それが悔しいから、精一杯の意地で、類は黒沢から視線を逸らし続けた。
「なぁ類」
  しかしその黒沢は、いつもならそんな類の態度にすぐへそを曲げるのに、この時はいやに穏やかな声で呼びかけ、顔を近づけてきた。
「誕生日だろう、今日」
「えっ…何で」
「お前のことなら何でも知ってる。もう19か。この街に来たのは17の時だったよな。あれから2年とは、時の経つのは早いもんだ」
「黒沢さんが組の若頭になったのも、ちょうど2年前でしたね」
「そうだな」
  類がそんなことを言うとは思わなかったのか、黒沢は鋭い目をやや緩めて嬉しそうに笑った。迫力があると言っても、「ヤクザ」という前情報にバイアスがかかっているからこそそう感じられるのかもしれない。黒沢の笑った顔は、一見涼やかな好青年に見えなくもない。そうでなくとも、どこぞの企業戦士と謳ってしまえば、闇の世界の住人だと疑う者はいないだろう。
  それでも類にとって危険な男には変わりない。自己責任と言ってしまえばそれまでだが、類の父親をさらに地獄へ落としこんだのは、黒沢のような類の人間なのだから。
「類。俺はこんな田舎町だけで終わらねえぞ。地盤を関東にまで広げて勢力を拡大する。その準備は、この2年で大分進めてきたつもりだ」
  その黒沢はグラスを一気に傾けてからそれをテーブルにカツンと置き、いやに据わった眼でそう言った。
  類はそれに併せるようにして、自分が持っていたグラスもテーブルに置いた。
「そんな話、俺にしても意味ないですよ」
「意味ないか?」
「ないです。そう思います。それに、もし俺が黒沢さんの所と敵対している組の人間に何か喋っちゃったとしたらどうします? 余計な話はしない方がいいです」
「はっ…。お前に話されて困る話なんざハナからしねえよ。それに、そんなことわざわざ言うお前が俺を裏切るとも思えねえ」
「裏切るも何も…」
  俺はあんたの組の人間でも何でもない。そう口から出かかって、けれどそれを何とか止めて。類はもう一度膝の上で拳を作ると、一刻も早くこの時間が過ぎ去ってくれることを祈った。
  そして否応なく思った。ああ、何て違いだ、と。

  永のいる場所と俺のいる場所……それはやっぱり、天と地ほどの差がある。

「類」
「えっ…」
「ぼーっとしてんな。眠いのか? うちに泊まるか?」
「何でそうなるんです、そんなの…」
「ああ、そうだな。そんなことをしたら、俺の2年の計画は水泡に帰すらしい」
「……は?」
  類が分からず眉をひそめると、黒沢はここで初めて自分の方から視線を逸らした。
  それから天を仰ぎ独り言のように呟く。
「お前は分かっちゃいねェようだが、金持ちなんざロクでもねえ奴ばっかりだ。世間は俺らのことを悪く言うが、そういう悪を掌で転がして、もっと甘い汁を吸っているのが権力者って奴なんだ。俺はそういうのにむかっ腹が立って堪らねえが……今の俺じゃまだ敵わねェのも確かな話だ」
「…何の話ですか?」
  類が本当に分からずに聞き返すと、黒沢はまたふっと視線を戻し、まじまじとその顔を見つめやった。黒沢は口も悪いし、怖いヤクザだ。けれど知り合った2年前から、時々こういう子どものような瞳を見せる。純粋な、キラキラした瞳だ。年は類より10も上だけれど、生まれた時からヤクザの頭領の子として大切に育てられてきたせいか、何の躊躇いもなく人を殺せる目をするくせに、一方で「こういう目」も出来る。そう、どんな人間にだろうと、彼は大切に育てられてきた、だからだ、と。類は何となく思っている。
  そういえば同じように何不自由なく育てられてきたはずの、「大金持ち」の永は、どういう目をしていただろうか。
「誕生祝いだ」
「……えっ」
  永のことが頭を過ぎったせいで、また黒沢の前で意識を飛ばしてしまっていた。
  類が慌てて顔を上げると、黒沢はもう立ち上がってスーツの上着に袖を通していた。
「これくらいは許されるだろう。暫く東京に行くから顔を見られないと思うが、元気でやれよ。困ったことがあれば事務所に電話しろ。お前からの連絡なら、向こうさんも煩くは言うまい」
「あの…黒沢さん」
「もう帰っていいぞ」
「え」
  一体何だったのだろう。
  テーブルの上に置かれた小さな包み紙と一枚の名刺。類はぞろぞろと舎弟を引きつれて店を出て行く黒沢の後ろ姿を、オーナーや奥の厨房から出てきた丸と不思議な想いで見送った。いつも類に絡む時は、朝まで一緒に飲ませたり、うちへ来いとしつこく無駄に絡んできたり。誰も口にはしなかったが、明らかに「そういう意味」で類に興味を向けてきていた黒沢が、今日、類の誕生日に限ってあっさりと身を引き、帰っていった。それは勿論ありがたいことには違いなかったが、類は残されたプレゼントと共に、何か引っかかるものを感じて、胸の奥をモヤモヤとさせた。
  黒沢が寄越したプレゼントの中身が、以前、永にあげたオルゴールと似ていたから、それは尚更だった。





  予定より遅い帰宅となったものの、丸からの差し入れを手に住まいへと戻った類は、アパートの敷地内に設置されている住民用ポストから自分の郵便物を取り出し、入口傍の自室へ滑りこんだ。
「はぁ〜。今日は特別疲れたな」
  思わず声を出してから電気をつける。しんとした、人の気配のまるでないその部屋は、類と父の家とは言っても、実質的には類一人の家である。かび臭い六畳一間のそのボロアパートには、かろうじて風呂・トイレの設備はあるが、あちこちガタがきていて、お世辞にも良い住まいとは言えない。薄い壁の向こうでは、男遊びの激しい女性住民がしょっちゅういろいろな男性を連れ込んで事に及んでいるし、その逆もある。住まいの周囲は未だ開発の手が伸びていないお陰でみかん畑など穏やかな景色も多く見えるが、過疎が進んで駅前以外の商店街は次々と潰れている。黒沢でなくとも、都会で商売を広げていきたいと思うのは必然だろう。
  ただ、寂しくないと言えば嘘になるが、類はこの地で2年。ここでの暮らしにも慣れてきていて、思ったほど悲観的にはなっていない。
「あ」
  それはやはり親切なバイト先の人々に起因するところが大きいが、加えて、「たった一人の友だち」のお陰でもある。
  本当はその友だちこそが、類にとって「関わってはいけない」人物の1位なのだが。
「永だ!」
  期待しないようにしようと思いつつ、今日は誕生日だったからついつい期待していた。待ってしまっていた。もしかしたら、今日永は手紙をくれるかもしれないと。
  たくさんの請求書やちらしと紛れてポストに投函されていた一通の手紙。
  観音寺永は東京で知り合い、東京で別れた、類の大切な友人だった。
  永は「友だちじゃない」と言っていたけれど。
「相変わらず綺麗な字、書くなぁ」
  急いで開いた封筒の中には、便箋で2枚。神経質そうな、けれど綺麗な文字が並んでいた。類、元気かといういつもの下りから始まって、「誕生日おめでとう」という言葉。困っていることはないか、そちらでの生活はどうか。俺の方はこういうことをして過ごしている……そんな、いわゆるお決まりの近況報告など。
  永はこの1年、定期的に類に手紙を寄越してきていた。一体どうやって類の居場所を割り当てたのかは分からないが、永は類の考えも及ばないほど裕福な家の人間だから、興信所でも何でも利用して探しあてたのかもしれない。
  いずれにしろ、永は類が黙って東京を、永の元から離れたにも関わらず、それを責めることは一切ないまま、こうして優しい便りをくれるのだった。
  類はそれに返信したことはないけれど。
「へえ。今度はドイツに行ったんだ」
  永は父親や親戚が経営している会社の関係で、世界各国を飛び回り「勉強」させられることが非常に多い。いずれは一族が持つ会社を一手にまとめるトップに立つと、永は折に触れ手紙で類に宣言していた。だから学生の今のうちにいろいろな所を見て回り、世界のことも政治経済のことも知っておく必要があるのだと。だから俺は忙しい、お前も忙しいかもしれないが、俺だって大変なんだぞ、と。一体何を競っているのか分からないような物言いで、永は手紙の中でも常に偉そうにのたまっていた。
  けれど類にはそれがどんな内容の手紙でも全部嬉しかった。永の「自慢」も「愚痴」も、類には全く厭味に感じられない、むしろそれが自分へのいつでも力強い励ましに思えて。
「俺は、今回は何を書こうかなぁ…」
  手紙を読み終わった後、類はすぐに折りたたみ式のローテーブルを持ち出して、食器入れとして使っている戸棚の引き出しから便箋と封筒を取り出した。帰ったら丸からの差し入れをすぐに食べようと思っていた気持ちはどこかへ行ってしまっていた。類は永に返事を出したことはない……が、貰った手紙への返事は毎回欠かさず書いている。永に直接読んでもらえなくとも良い、けれど自分も永に伝えたいことは沢山あるから、それを便箋に認めるだけでも十分気持ちは満足した。
「今日は丸さんが作ってくれた差し入れと、黒沢さんのこと…。あ、やめた。やっぱり黒沢さんのことは書くのやめよう。ヤクザな人と知り合いだなんて、無駄に心配させるだけだし」
  別に直接読まれるわけでもないのだから、地元ヤクザの若頭に目をかけられて、しつこく色々してもらうのが困るなどと書いたとしても、特に何の支障もないだろう。けれど類は一人でそれを「出す気持ち」になりながら真剣に書き、そして何度も「こんな汚い字では恥ずかしい」と思いながら綺麗に消しゴムをかけ、何度も何度も書き直した。
  そうこうしているうちに数時間は経っただろうか。
「うわ…今何時だ? もう寝ないと」
  はっとして顔を上げた類は、時を忘れて机に向かっていた自分に焦り、鉛筆を離した。携帯もパソコンも持たない類にとって手紙は格好の娯楽でもある。時を忘れて夢中になっていたことに苦笑し立ち上がって伸びをすると、類は風呂に入る為に押し入れを開けて着替えを探った。
  そんな風にして玄関から背を向けていた時に、そのノックの音は聞こえた。
「えっ」
  こんな時間にやって来る者など、黒沢関係の人間以外考えられない。嫌な予感がして、類はすぐに立ち上がったものの、暫し警戒して扉の方を見つめた。
  するともう一度、催促するようにドンドンと。多少苛立ったようなノックの音が再度響き渡った。電気がついているのは外からでも見えるから、居留守を使えるわけもない。
「はい」
  仕方なく返事をすると、ドアの向こうの人物は確かにそこにいる気配がするのに、一瞬息を呑んだように黙りこくった…ように、感じられた。
「どなたですか…?」
  尋ねる。いつもの迷惑な来客とは違う感じがする。けれど、当たり前ながらそう簡単にドアを開けるわけにはいかない。
「あの――」
「類」
  けれどその毅然とした、短い単語を発した声を聞いて。
「……え」
  類はあっという間に頭が真っ白になった。
「え?」
  だからもう一度訊いた。何せ2年ぶりだ、恋しいが故の幻聴ということも十二分に考えられる。
  いやしかし、自分が彼の声を聞き間違えることなどあるだろうか。
「永…?」
  だから恐る恐るながらも、類はすぐにその名を呼んだ。
「開けてくれ、類。早く」
  するとその声もいよいよ急いたようになってそう言った。間違いない、肯定しないけれど否定もしない、それは間違いなく友人・永のものだった。
「永!?」
  微かに震える手を必死にコントロールしながら、類は錆でザラザラになっているドアの取っ手をぐいと掴んだ。捻って回し、その扉を開ける。ギイギイと立てつけの悪い嫌な音が響いた。けれど今はそんなこと気にもならなかった。

「類」

  何故って、自分の名を今度もはっきり呼んでくれた永が目の前に立っていたから。
「類」
  しかも二度呼んで、永はそのまま類の身体をぐいと引き寄せ抱きしめた。何が起こったのか分からなかった。ただボー然として、流されるように永に掻き抱かれて。
  類は目を見開き、しかし両手はぶらりと下に垂らしたまま、何とか掠れた声を出した。
「何で…?」
「会いに来た」
  永の方はすぐさまそう答えて、さらに類を抱きしめる腕に力を込めた。痛い、と思ったけれど、類はそれに抵抗することが出来なかった。もしかすると誕生日だから都合の良い夢を見ているのかもしれない。その割には痛いけれど。
  ただ、そんなことをぐるぐると考える類の耳元で、永はとても悔しそうに言った。
「悪い。誕生日、間に合わなかった」
  その時、時計の針は、確かに0時を過ぎていた。



 

後編へ…