あの窓を開けたら
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―1― ここのところずっと灰色の空ばかり眺めていたから、今日のような久しぶりの晴天には自然と浮かれた気持ちになってしまう。 「洗濯物も…すぐに乾きそうだ」 ぽつりと呟き、ツキトは開け放たれた窓からやって来る涼風に目を細めた。 今は春。 風に流され悠々としているこの白雲が似合うのはきっと夏だとツキトは思う。ただ、お気に入りのその季節がやって来るのはもう少し先で、桜は散ったものの辺りはまだ仄かな春の色合いで埋め尽くされていた。今の時季に咲き乱れるチューリップや菜の花も嫌いではないが、そこかしこから感じられる新しい息吹の匂いには時に妙な寂寥も感じてしまうから不思議だ。 やはり夏の方が良い。 「ん…」 リビングの床で仰向けにしていた身体をごろりと横向きにし、ツキトはゆっくりと目を瞑った。暗くなった視界にも先刻見た真っ青な空、それに浮かぶ綿飴のような雲を簡単に思い描く事ができる。あとちょっとだけこうしていよう。それが済んだら立ち上がって、もうとうに止まっているだろう洗濯機を覗きに行こう。そう決めた。 「ツキト」 「ん…?」 けれどその計画もあっという間に崩れ去ってしまった。 「あ!」 自分がしようとしていた事を率先して行おうとする同居人の背中を認め、ツキトは慌てて上体を起こした。けれど向こうが「寝るならソファへでも行けよ」と言うだけで振り返りもしないから、余計に焦って後に出す言葉が遅れる。 「し、志井さん!」 それでもごくりと唾を飲み込み、ツキトは立ち上がりざまテラスへ向かった同居人で恋人でもある―志井克己―の名を呼んだ。 「志井さん、俺がやるって言ったのに…!」 「いいよ、これくらい。寝てろ」 「よくないよ!」 「声掛けて悪い。お前がつい踏んじまいそうな所で寝てるから」 ようやくちらとだけ視線を寄越した志井が面白そうな顔をしてそう言うのを、ツキトはカッと赤面して返す言葉を失った。あんまり天気が良くてあんまり気持ちが良いから、ついつい部屋の真ん中で大の字になってゴロ寝していたのだ。車で数十分程行けば海が臨めるこの高層マンションからは、今日のような日だと窓を少し開けておくだけで清々しい潮の香りを感じる事ができる。実際にそれが潮風なのかは内陸育ちのツキトには分かりかねたが、少なくともその風が心地良いものだという事だけは知っていた。 だから、つい。 それに一緒にいる志井という男が。 (綺麗だな……) 何やら楽しそうに自分たちの服を干している志井の姿をツキトは立ち尽くしたままの格好でぼんやりと見つめた。長身で均整の取れた体格のこの男が一家の主夫のように洗濯物を干している姿というのは、「男は外で仕事、女は中で家事」という古めかしい家風の家で育ったツキトにとっては殊更異様に映る。それでもその姿を綺麗で格好良くて様になると思ってしまっているところが「末期」だ。末期だが、それもツキトが「分かっている」事のひとつだった。 ここから吹く風は気持ちが良いという事と、志井という恋人が自分には勿体ない程素敵な人だという事。 「どうした?」 「え」 はっとして我に返ると、観賞していたはずの対象がこちらを不思議そうに見やってきていて、ツキトはぱちぱちと瞬きした。 「どうしたって…?」 「人の顔見てボーッとしてるからさ」 「あ…な、何でもないっ」 また顔が熱くなるのを感じながらツキトは誤魔化すように俯き唾を飛ばした。何の衒いもなく「貴方の綺麗な顔に見惚れていました」と言うには、ツキトの性格はまだオープンではなかった。 「何でもない。志井さん…髪、少し伸びたなって思って…」 「え?」 「ちょ、ちょっとだけ!」 ツキトはどもりながらそうつけ足したが、そういえば「鬱陶しいから」と言って志井が髪を切ったのはつい3日前の事だった。外に出て強い風になびいているのはせいぜい下ろしている前髪だけで、首筋にかかる黒髪はどう見ても「伸びている」長さではなかった。 「……で、でも、気のせいだった」 「何だ? 変な奴」 おろおろとして視線を床のあちこちへと逸らす明らかに挙動不審の恋人を志井はまた可笑しそうに見やった。それでも後は黙々とカゴに詰めていた洗濯物を取り出しては干す作業に没頭する。 ああ、結局手伝いもせずこんな所で立ちんぼうだ。 「ふう…」 ツキトはそんな自分を心の中で叱咤しつつ、もうすっかり諦めて傍のソファにぼすんと腰をおろした。 志井と一緒にいる1日は長いのか短いのか。 ツキトは時間に対する感覚が時々曖昧になり、何もかもが分からなくなる。 この新しい「家」に2人で住むようになってもうどれくらい経つだろう。一ヶ月は過ぎた。否、ニヶ月くらいだろうか?……そんな簡単な事すら、ツキトは何の印もついていないカレンダーを眺めながら「自分は一体どうしてしまったんだろう」と呆然とする事が多々あった。志井は「そんな事どうでもいい」と言うけれど、季節の移り変わりを感じているのに、新聞やテレビ、こうしてカレンダーを眺めて今日の日付を確認しているのに、自分たちが再び共に在るようになった月日を数えられないというのはやはりどう考えてもおかしいと思った。 「あの日」の出来事から逆算して考えれば、答えはすぐに見つかるだろうに。 「お前の方が伸びてるな」 「……っ」 突然上から降ってきた声に驚きツキトがぎくりと身体を揺らすと、いつの間にか室内に戻ってきていた志井がすぐ傍で笑っていた。 「え?」 「髪。切ってやろうか」 「志井さんが?」 「何だよその言い方。俺はうまいぞ?」 自らもソファに腰をおろし、志井はツキトの前髪を悪戯するようにいじりながら相変わらず楽しそうな目をしてそう言った。以前はこんなに明るい志井の顔を見る事はなかった。だからツキトはそれが珍しくて飽きなくて、つい自分も大きな目をじいっと凝らしてそんな相手の顔を窺ってしまうのだが……そうすると志井は決まって唇を寄せてきて、避ける間もないキスをした。 勿論ツキトにそれを拒む理由などない。 「ん……」 優しく頭を撫でられた後、その手が引き寄せるように背中におろされていく事で、ツキトも促されるように身体を志井に近づける。するともう片方の志井の手がそんなツキトの頬に触れてきて、2人の口付けはより一層深いものになった。志井は最初ツキトが怖がらないようにいつもそっとあわせるだけのキスをするが、相手がほっとしたように力を抜くと、あとはもう2回、3回と、まるでキスの練習をするみたいに触れては離れる口付けを繰り返し、やがては舌をも入れてくる。 「ふっ…ん、んっ…」 その激しさに翻弄されながらも、ツキトはいつもそんな志井に応えたくてひたすら従順に唇を差し出し続けた。実際、志井とのキスは好きだ。胸が張り裂ける程に痛くて苦しくて、どうしてか最後にはいつも涙が零れてしまうのだが、好きなものは好きなのだ。ずっとこうしていられればいいと、ツキトはいつもそう思っている。 「………」 けれど頭がじんじんとして志井の事でいっぱいになった頃、ふと唇にその温もりがなくなって目を開けると、ツキトは志井にいつも言われた。 「ごめんな」 「……っ」 無意識に滲み出てしまう涙を指先で拭われ、ツキトは「違う」という言葉をつい飲み込んでしまった。こんな風に泣いてしまうのだ、相手が申し訳ないという顔をする気持ちも分かる。もっと嬉しそうにすればいい、それが分かっているのにツキトは自分自身でも「それ」を止められなかった。 自分はいつも悲しそうな顔をして志井からのキスを貰っている。 「そんなの…俺こそごめん…」 だからツキトは項垂れて、後から自分もそう言って謝った。 そんな事を繰り返して、2人はどれくらいこうしているのだろう。 一ヶ月は過ぎた。否、2ヶ月くらいだろうか? その日の夕食時、何気なくつけていたテレビの話題からツキトはふと志井に質問した。 「志井さんは学校で泣いた事ってある?」 食の細いツキトに志井は口癖のように「もっと太れ」と言い、それこそ毎日のように出先やネット通販などから購入した、どこやらいう有名店のお茶菓子を出した。その為満腹ツキトの夕飯は必然的に遅い時間となり、2人は21時台に放送される連続ドラマをしょっちゅう見ていた。 「この生徒役の人たち演技凄いね。みんな号泣」 ブラウン管に映っていたのは、「果たしてこれはイマドキの若者に受け入れられるのだろうか?」というようなとてつもなく濃い熱血学園ものだった。教師がとうとうと人生の何たるかを説く真摯な姿に生徒たちはうんうんと頷きながら涙を流し、一昔前の懐メロが場面を大袈裟に盛り上げている。ツキトはこういった脚色が割に嫌いではなく、毎週熱心に…とまではいかないまでも、気がつけばこのドラマは見るようにしていた。 「これはないだろう」 反して志井はこの手のドラマがあまり好きではないらしい。段々熱が入ってきたのか、絶叫に近い声を出して尚も生徒たちに演説を続ける若い男性教師を見やりながら、志井は皮肉っぽい顔をして唇の端を上げた。 「高校時代にこんな担任がいたら、学校行くの辞めてたな」 「ええ…そう?」 「だってお前、これ見て泣けるか?」 「うーん。でも実際このクラスにいたら、この生徒たちみたいに泣いてるかも」 ツキトが素直にそう答えると、志井は動かしていた箸を止めて珍しいものでも見るような目を閃かせた。 「純粋」 「あ、何その言い方。棘がある」 「えっ」 わざとむくれたように返したツキトに、志井も冗談と分かりつつ「おいおい」と笑いながら首を振った。 「本心から言ってるんだよ。それより学校で泣いた事あるかどうかって話だろ。ないな、そんなもん。というか、あんまり学校って所には行ってなかったからな」 夕飯のテーブルに並んでいる出来合いの惣菜を箸でつつきながら志井は何でもない事のようにそう答えた。食事は大抵外で買ってきた物を食べる。一時期ツキトがどうしてもやりたいと言って台所を占領していた事もあったが、双方の話し合いの結果、「そういう身体に悪い事はやめよう」という結論に至ったのだ。元々最初の同棲でツキトが食事を作っていた時も、志井は「料理の才能はないんだな」と思っていたらしい。ツキトにしてみれば「まあまあの出来」と思っていただけに多少不満の残る話ではあったが、すぐに諦めはついた。自分のその「まあまあ」よりも外で買った物の方が美味しいと感じてしまったから。 「何で行ってなかったの。勉強簡単過ぎてつまんなかったとか」 そう訊きながら、ツキトも志井に倣ってそれらのおかずに箸を伸ばした。本当はもうあまり食べたくはなかったが、それなりに手をつけていないといつまでも食卓から解放してもらえない。会話を織り交ぜながらなら、何とかサラダくらいは口に運べた。 「サボって何してたの」 「別に…忘れた。ただ、前はそれこそこのガキみたいに意味もなく暴れてたからな…」 「えっ。志井さんって不良だったの?」 ドラマの場面はいつの間にか暗い路地裏で喧嘩をし、額から拳から血を流している学生たちが大映しになっていた。それに何となく目をやりながら、ツキトは多少引き気味になりつつも、学生服を着た志井が柄の悪い連中を次々とのしていく光景を想像した。 「あ、あのなツキト」 すると志井はツキトのそんな様子にらしくもなく途惑い、咳き込むように言い訳にもならない言葉を付け足した。 「俺は別に、聞き分けの良い<普段は>大人しいガキだったぜ。まあ……よく分からないんだけどな、つまらなかったっていうのはあってるな。何もかもつまらなかった。……退屈だったんだよ」 「………」 志井のその台詞にツキトは後から「ふうん」と生返事をしたものの、実際何と返して良いのかは分からず沈黙した。 退屈……よくは理解できないが、「分かる」と思うころもある。志井はツキトにしてみれば何でも出来るとても器用な人だが、だからこそ全てにおいて飽いているようなところがあった。何にも熱くなれないと以前本人も言っていたが、そんな鬱屈とした想いが少年期の志井を意味のない破壊に駆り立てていたのかもしれない。 「………」 そしてそこまで思った直後、ツキトは何故だか少しだけ気分が悪くなった。思い出してはいけない、何も考えない方が良い……そんな無意識の命令が働いた。 志井のその「暴力的な姿」というのはそれ以上考えない方が良いと感じた。 「ツキト」 それは志井にしてもそうだったのだろう。ツキトの異変にさっと眉をひそめると、志井は間を流れた不穏な空気を誤魔化すようにして声をあげた。 「それでツキトは?」 「え…?」 「学校。どんなだった? そういえば彼女もいたんだもんな。結構青春してたんだ」 「な、何言ってんの…っ。彼女って程の事もなかったし…! って、この話、前にだって言ったじゃない」 「そうだっけ」 「そうだよっ」 からかわれているとはすぐに気づいたが、ツキトも多少ほっとした思いがしてそれに乗った。 一気に気持ちが落ち着いた。 「うん、でも…。勉強は嫌いだったけど、学校は好きだったかもしれない。部活とか楽しかったし」 「美術部?」 「うん。兄さんはそんな意味のないものに入るなっていつも怒ってたけどね」 くだらない。絵なんかやめろ。 「……俺、兄さんには顔をあわせる度に何か怒られてた。姉さんにも『ツキトはホントバカね』って事ある毎に哂われてたし。実際そうなんだから仕方ないけど」 「何だそれ」 自分が言われたわけでもないのにあからさまにむっとする志井にツキトは笑った。 「これも前に話した事あるかもしれないけど、俺、本当あの家族の中では1人で駄目な奴だったから。父さんも母さんも才能ある人だし、姉さんは凄く美人で勉強も学校ではいつも1番だった。…でも太樹兄さんはもっと凄いよ。大学出てすぐ会社ひとつ任せられたし、その後もどんどん出世してさ。はは…そのくせ家の事も兄さんが一番しっかりしてて、何かとうちの中とりまとめてたな。母さんたちがあんまり家いなかったし、ちょっと年離れてたせいもあるかもしれないけど…、兄さんが俺の保護者みたいだった。いっつも勉強してるかって目を光らせてさ。俺も通知表、兄さんに一番に見せてたし…」 「………」 「高校卒業したら絶対地元の国立行けって。くだらない美大なんか絶対駄目だって。お前に才能なんかないって。しょっちゅう言ってたなぁ……」 「………」 「あ! ごめん、何か。俺ばっかり喋って」 ふと黙りこむ志井にツキトが慌てて謝ると、志井の方は何を考えているのか分からない顔でただ首を横に振った。 そして唐突に訊ねてきた。 「ツキト。お前兄貴の事尊敬してるのか?」 「え? それは勿論…してるけど」 「そんな酷い言い方されて?」 志井の憮然とした物言いにツキトは驚いて目を丸くした。 「酷いって…。うん、確かに兄さんは厳しくて凄く怖い人だけど、別に酷いって事はないよ。だって俺が家族で一番駄目なのは本当の事だし…才能だって…」 「それ」 「え?」 ツキトのきょとんとした顔に志井は深くため息をついた。 「お前をそういう風に自信ない奴にしたのはお前の兄貴だろう。ツキトは駄目な奴なんかじゃない。凄い奴だ。それなのに、そうやって勉強だの学歴だのしか見てない兄貴なんかロクでもないじゃないか」 「そ、そんな事は……」 「……これ、気を悪くしたのなら謝るけどな」 「べ、別に……」 「………」 途端気まずくなり、2人の間にはしんとした沈黙が走った。テレビではまだ熱血ドラマが続いていたが、ちょうど落ち着いたシーンのようで気を紛らわせるような音が出ていない。今更になって、多少煩いと感じられていた教師の声が懐かしかった。 「ツキト」 その時、志井がふと声を出した。 「お前、家に帰りたいか」 「えっ…?」 「勝手に家を出てもう1年以上経つだろ。家族も心配してるよな」 「そ、そんな事…」 ツキトは志井の「帰りたいか」という前半の台詞にはぎくりとし、その後の台詞には途端自嘲の笑みを浮かべた。 「そんなのありえないよ」 「何が」 「うちの家族が心配しているって事」 「どうして」 「どうしてって…」 矢継ぎ早に訊いてくる志井をおかしいと思いながら、ツキトは途惑いつつ答えた。 「言ったでしょ。俺は家族の厄介者だったし…。兄さんたちは一族の手前、俺にも家の仕事手伝わせる為に色々言ってたけど、実際俺は何の手伝いも出来ないし。黙っていなくなった事は凄く怒ってると思うけど、別に心配はしてないと思う。兄さんなんか特に『勝手にしろ』って見切りつけてるよ、きっと」 「………」 「姉さんだって俺だけじゃなくて、家族自体どうでもいいって感じの人だし。個人主義だから」 「お前の家族の事……」 志井は再度ふうと嘆息し、一旦言い淀んでから続けた。 「俺はお前の家族の事、ずっと訊こうとしなかっただろう。興味はあった。以前ちらっと聞いただけでも、お前んちってちょっと変わってると思ったしな。でもな……正直訊くのが怖かった」 「え?」 ツキトが驚いて聞き返すと、志井は一瞬躊躇うような表情を見せた。 「怖かったんだよ。もしも…もしもお前が家に帰りたいと言ったら、俺は――」 「し、志井さん…?」 「………」 再び黙りこむ志井にツキトは猛烈な不安に襲われ、表情を崩した。再び一緒に暮らすようになってからの志井は本当によく笑ってくれるようになったが、同時に時々、こんな風に苦しそうな瞳をちらつかせる事もあった。 それがツキトにはひどく堪らなかった。 「俺……帰りたくないよ」 だから精一杯、心からの言葉を告げた。 何とか志井に分かってもらおうと。 「………ああ」 すると志井にもそんなツキトの想いが通じたのだろう、「悪い」と謝りながらも、さっといつもの笑みを見せて顔をあげた。 「もうやめような、この話。お前の家族がどう思っていようと、お前自身が帰ろうと思っていないなら俺はそれでいいんだ。俺は嬉しいよ。むしろバカみたな…わざわざ自分からこんな話して」 「………」 「帰るなよ、ツキト」 「だ…から、帰らないって…」 「……でもな、家族は絶対探してるぞ」 「え」 志井の言葉にツキトはほっとしかけた顔を再び強張らせた。志井自身、「もうこんな話はしたくない」と身体全身で訴えているくせに、どうしても言わずにはおれないらしい。 途惑うツキトをじっと見やりながら志井は言った。 「お前みたいな可愛い弟がいたら……俺なら絶対探す。急にいなくなられたら頭おかしくなっちまうよ」 「そっ…それは志井さんが、でしょ……」 「お前の兄貴の気持ちを汲み取って言ってやってんだよ」 「ありえないよ…」 「……まあ何でもいいさ」 今度こそやめようと言う顔を見せて志井は立ち上がった。空いた皿をカチャカチャと重ねながら、それをそのままシンクに運んでいく。ツキトはその志井の行動に自分も慌てて立ち上がった。いつも皿洗いは二人で一緒にやっているのだ。 恐る恐る、ツキトは自らの皿を流しの前に立つ志井に渡した。 「ツキト」 すると志井はすぐに声を出した。 「これ洗ったら夜のデザートな。銀座に出来た新しい洋菓子店のチェリーパイ買ってあるから」 「へ……」 「チェリーパイ。美味いぞ、きっと」 「し、志井さん…」 「ん?」 「ま、またあ…?」 突拍子もない声を張りあげたツキトに驚いたのか、志井は途端眉間に皺を寄せて不服そうな顔を見せた。 「またって何だよ。新しいのだぞ」 「違うよデザート! おやつの時だって食べたのに!」 「もっと太れ」 「もう…。脂肪だらけのデブデブ人間になったらどうしてくれるんだよ」 「おう、なれなれ。そうすれば俺もほんの少しは安心できるってもんだ」 「志井さん…」 冗談か本気か分からないような台詞を吐く志井に、ツキトは呆れたり困ったりしながらも自然笑顔になった。気持ちが鎮まっていくのを感じる。今度こそ本当にいつもの志井に戻ってくれた。こうして一緒に並んでいると温かくて安心で、それだけで幸せだと感じる事ができる。 いつもの志井。 「………」 横で丁寧に手早く皿を洗っていく志井の整った横顔を眺めながら、ツキトは「良かった」と思った。 「家に帰りたいか」と訊かれた時、瞬時に嫌な事を考えてしまったのだ。 志井は自分と暮らす事を重荷に感じているのではないか。 一緒にいたくないのかと。 (大バカだ俺……) 志井が渡してくる皿を清潔な布巾で拭きながら、ツキトは心の中で己を激しく罵倒した。 そんな勘繰りはもうしてはいけないと十分分かっているくせに。 大したコネもないのに仕事が舞い込むというのは本当にありがたい事だ。 志井は会社を辞めてから主に経済学関係の専門書を翻訳する仕事をしていたが、その作業は大抵ツキトが寝入る夜中に行っていた。夜更けの方が昼間より静かで集中できるし、実際ツキトにはそう言って先に休ませていた。 新しい新居で同棲を始めてからも2人の寝室は変わらず別々で、セックスもなし。キスをしたり抱き合って眠ったりという事くらいはあるが、それもツキトが少しでも嫌がる素振りを見せれば志井はすぐにやめた。 怖かったのだ。 ツキトは事ある毎に抱いて欲しいと訴えたが、いつも途中で泣いて謝る。 ごめんなさい、やっぱり出来ない。怖い、助けて。 そんな事を毎回繰り返されればさすがに躊躇いが生じる。志井自身ツキトに触れるのが恐ろしくなる。考えないようにしているのに、心の奥底に無理に眠らせた憎悪が蘇って罪のないツキトに当たってしまうのではないか……そんな風に考えてしまうのだ。 志井は自らの強引な行為によってツキトに怯えられ嫌われるのが何より怖かった。 だから夜はツキトには近づかない。なるべく静かに、ツキトも安心して眠れるように。一緒に眠れないのは仕方ないのだと、自分は仕事があるのだからツキトは眠るしかないのだと。 そう思って欲しくて。 「………!」 けれど、それも毎晩うまくいくかというと、そんな事もなかった。 「ツキト」 志井は隣室で聞こえた微かな物音にはっと顔をあげ、すかさず立ち上がった。電源のついたパソコンはそのままに、急いで隣の部屋へと駆け込む。 「う、う、うぅ……!」 「ツキト…。ツキト、起きろ…!」 「う、うう、ううーっ」 ベッドの上で苦悶し布団をぎゅっと握り締めるツキトに志井は静かに、しかし強い口調で呼びかけた。もう何度もやっている。もう慣れた。 けれども、辛い。 「助け…助けて、もう…っ。志井さん…っ」 「ツキト、俺はいる。ここにいるから。起きろ」 「嫌だ…嫌、だ…、…う、うう…!」 「ツキト!」 呼んでも起きない場合は多少なりとも乱暴に肩を揺り動かす。閉じた目じりに涙を滲ませているツキトに早く気づかせたかった。 悪夢なんか見るな、ここは安心なんだと。 「ツキト!」 「………あ」 ようやくはっとして目を開いたツキトに、志井はほっとして両肩を強く掴んでいた自らの手を放した。ただ依然じっとあやすような目で見つめ、「大丈夫か」と訊ねる。 「はあ…。志井、さん…?」 「ああ。ここにいる」 「ゆ…め…?」 「ああ」 「………また」 ハアと大きく息を吐くツキトの前髪を優しく撫でてやると、志井のそれにより一層安心したのだろう、ツキトは一旦目を閉じてからもう一度大きく深呼吸をし、ゆったりとした声を出した。 「ごめんね、志井さん……いつも」 「謝るな。何か持ってくるか? 水でも飲むか?」 「ううん…一緒にいて欲しい」 言ってからそっと遠慮がちに触れてきたツキトの指先に目を落とし、志井はすぐに頷いた。差し出された弱々しい細い手を包むように握り返してやり、「ずっといる」と囁く。 「安心して寝ろ」 「うん……」 志井のその声にツキトはもう眠りに入ろうとしているのか、それでも口元には安堵の笑みを浮かべて微かに返事を寄越してきた。 「………」 志井はそんなツキトをただ見つめるよりなかった。いつもそうだ。こんな夜はいつも、それだけ。 それしか出来る事を見出せなかった。 |
To be continued… |
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