あの窓を開けたら


  ―2―




  ツキトは元々朝に強く、東京へ来る迄は家族の誰よりも先に起きて近くの公園へスケッチに行ったりしていたし、まだ閑散としている学校の教室で独り授業の予習をする事もあった。勉強の成績はそれほど良くなかったが、ツキトは好きな事を一生懸命頑張り、やらねばならない事も手を抜かずにやる、所謂「良い子」だった。
「志井さん…」
「おはよう」
「うん…」
  けれど今の生活習慣はお世辞にも「良い」とは言えない。
「随分寝てたな。腹減ったか? 何か作るか」
「ああ…もうお昼近いんだね」
  未だ寝ぼけた眼を片手でこすりながら、ツキトは時計の針が差し示している時間にがっかりして肩を落とした。もっとも、ソファで本を読んでいたらしい志井はそんなツキトの様子には気づかず、急いで立ち上がるとすぐに台所へ行ってしまった。曇った顔を見られない事はありがたかったが、それも自分の食事の用意をする為だと思うとツキトはより一層落ち込む想いがした。
  こういう「お姫様待遇」にはいつまで経っても慣れる事がない。
  申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「志井さん…いいよ、ご飯。顔洗ったら俺が自分でやるから」
「何言ってんだ。お前が顔洗ってくる間に俺が準備しとけばすぐ食えるじゃないか。大体、お前に任せておくと牛乳飲んで終わりだからな」
「そんな事…」
  そんな事は大いにあるので二の句が継げず、ツキトは困った顔をした。
「ここ最近あまり熟睡できてないだろ。疲れてるんだからイイもん食わないとな」
「………」
  嗜めるようにそんな事を言う志井の背中を見やりながら、ツキトは「俺が眠れない夜は貴方も一緒に眠らないじゃないか」と心内だけで呟いた。
(いや…「眠れない」の間違い、だ。俺が煩く唸って志井さんを放さないから…)
「ツキト」
「えっ…」
  そこまで思って更に表情を翳らせていたツキトに、志井がくるりと振り返った。慌てて顔をあげて「何?」と訊くと、志井は「何じゃないだろ」と呆れたような顔をした。
「いつまでそこにいるつもりだ? さっさと顔洗って来いよ。お前が何と言おうと俺はお前の飯の支度をする。お前は顔洗って着替えてくる。分かったか?」
「うん…」
「何だよその不満そうな顔は」
  志井は苦笑しながらツキトを改めて見やっていたが、それでもツキトが落ち込んだ本当の理由には気づかなかったらしい。てきぱきと冷蔵庫から野菜や卵を取り出し、「こんな簡単な事、お前の出る幕なんかない」とからかうように言う。ツキトがいつまでもその場を動かないのは、単に食事の支度をさせているという罪悪感からだと思っているらしい。
  勿論それはそれで間違いではないのだが。
「志井さんはまだお昼食べないの?」
「ああ、悪いな。俺はさっき食ったばかりだから。お前の<3時のおやつ>ン時に何か食うよ」
「おやつ……。今日もあるんだ?」
「当然。今日はな、浅草の老舗和菓子店から取り寄せた牡丹餅だ。楽しみにしてろ」
「う……」
  聞いているだけで胃にズドンと重いものを乗せられたような気がしたが、それでもツキトは毎日のお菓子を自分に伝える時の志井の顔は大好きだった。だから先刻まで抱いていた暗い気持ちも無理に胸の奥底へ鎮め、いつものわざとらしい不満顔をして見せた。
「また晩御飯食べるの大変になるよ」
「美味いもんなら食えるだろ」
「え? 何なの、今日のおかず」
「内緒。それより、ほら早く行け。牛乳もあっためておいてやるからな」
「うん」
  志井は本当に優しい。
  その優しさにいつまでも甘えて、ツキトはここから一歩も先へ進めない。進めていない。毎日砂糖菓子の中に住んでいるようにベタベタ甘やかされて、好きな時に眠り、好きな時に起きる。
  毎日「好きだ」と言ってもらう。
  それでも頻繁に見る悪夢はどうしても消えない。その時々に見る内容こそ目覚めた時には忘れているが、何故いつまでも去ってくれないのだろうかと……ツキトはじんじんと微かに感じる頭痛にこっそり眉をひそめた。





「今日の夕飯な。外で食わないか」
  志井がツキトにそう告げたのは、朝食と昼食を兼ねた食事が終わって2人で食器を片付けている時だった。
「え……あ!」
「大丈夫か!? いい、触るな。俺が片付ける」
「でも!」
  志井に言われた事で手にしていた皿をつるりと床に落としてしまったツキトは、さっと青褪めてその場に屈み込んだ。
「いいから、俺が片付けるからツキトは下がってろ」
  けれど志井はそんなツキトを無理やりリビングへ下がらせてしまい、その見事バラバラになった陶器の破片はツキトの視線から遠ざけられた。
「ご、ごめん……」
「怪我してないか?」
「うん…」
  項垂れるツキトに志井はほっとしたようになってから優しく笑った。
「気にするなよ。手が滑った?」
「うん…」
「………」
  頷きつつも何か言い淀んだようなツキトに志井は一瞬だけ探るような目を向けた…が、すぐにまた床の陶器に目を落とし、ふと思い出したような口調で言った。
「あっちの棚にガムテープあっただろ。取ってきて」
「あ…、う、うん!」
  皿を割ったのは自分だというのに何もせず棒立ちなのは嫌だった。だから志井から仕事を貰えた事が嬉しくて、ツキトは俯けていた顔をすぐに上げると慌てて駆けて行って目的の物を言われた棚から取り出した。
「俺やる」
  そうして志井が既に掃き取った破片以外の小さな欠片を取り去る為に、ツキトはしゃがみこんで短く切ったテープを床にぺたりと押し付けた。
「………」
  ガラスの欠片がそれについているのかいないのかはよく分からない。それでもツキトは黙ってぺたぺたとテープを貼り付けては剥がし、まるでそれしか見えていないような顔でその作業を繰り返した。
「なあ」
  するとそれを暫く見やっていた志井がふと声を発した。
「ツキト。外行くの嫌か」
「……ううん。そんな事ないよ」
  実際そんな事はないはずだった。自分自身にももう一度問いかけながら、ツキトは無理に笑うと明るい口調で志井に言った。
「何でそんな事訊くの。別に…いつもだって外くらい行ってるじゃない」
「ああ……そうだよな」
「そうだよ」
「………」
  傍に立ち尽くす志井の顔がどんな風になっているのかが気になったが、ツキトはひたすら床とガムテープだけを見据え、沈黙を作るまいと声を出し続けた。
「志井さんこそ…夕飯を外でって言うの珍しいね。ほら、病院の帰りとかにはさ…お昼とかはよく外でも食べてたけど。夜は大抵うちだったから」
「そうだよな。ちょっとな…。いや、いいんだ。決めたのも気紛れだ」
「気紛れ?」
「ああ。でも別にいい、ツキトが嫌なら……」
「嫌じゃないって」
  志井が気を遣おうとしている事がありありと分かったので、ツキトは先刻よりも少し強い調子で首を振った。
「それにさ、俺…。ずっと前から言おうと思ってたんだけど、そろそろバイト口も探そうと思ってたんだ」
「バイト?」
  途端志井の声色がガラリと変わったが、これを言えばそんな態度を取られる事はとうに予想していたので、これにはツキトも驚かなかった。
  ただ、どうしても顔は上げられなかった。
「そうだよ? それで、求人広告とかネットとかでもこの辺に丁度良いのがないかなってずっと見てたんだ。俺、ここに来てから本当ずっとだらだらしてたし…。こんな、昼時に起きてさ。家の中の事も志井さんが殆ど全部やっちゃうし。そうやって自分ばっかり甘えて志井さんに全部してもらってるのなんて…ちょっと、やっぱり嫌だから」
「嫌?」
「うん」
  唇だけで笑って見せて、ツキトは更に付け加えた。
「だって悪いよ」
  それは本当にそう思っていた。
  「あの事」があって再び同棲を始めてからの志井は明らかに変わった。勿論、最初に好きになった頃の志井と根本的なところでは何も変わってはいないし、所詮志井は志井だ。ぶっきらぼうなところも、少し冷めた目で世間を見ているようなところも、ちらりと皮肉の篭った笑みを浮かべる事だって、それは何もなくなったりはしていない。
  ただ、ツキトへの態度は間違いなく以前のものとは違った。それは恐らくツキトだけでなく誰の目から見ても「異常」と取れる類のもので、最も怖いのはそれを志井本人が自覚しているのかどうかという点だった。
  再び共に住むようになってからの志井は、ツキトが外に出る事をひどく嫌がるようになった。自分が一緒についていれば明るい昼間にドライブをしたり近場の公園を散歩したりもするが、買い物は絶対にツキト一人でさせないし、夜も極力外へ出さないようにする。
  だから突然「夕食を外で」と言い出した志井にツキトは驚いたのだ。
  また、志井はツキトの「動かない右手」にもある意味凄まじい執着を見せた。
  絵を描く時だけどうしても右手の自由が利かなくなるツキトを志井は毎週のように名のある大きな病院へ連れて行ったし、それが駄目だと見切りをつけると鍼治療や気功術にも手を伸ばした。更にそれでも改善の兆しが見えないと知ると、今度は占い師や超能力者と名乗る人物の所にまで一人で話を聞きに行った。何故一人で行ったのかといえば何の事はない、当のツキトがこれには激しく拒絶の意を示したからだ。ちなみに志井の好き嫌いの問題で宗教はそれら選択肢からは除外された。
  ツキトは怖かった。自分の為にそこまでしてくれる志井の事が。
  けれど言えなかった。
  理由は簡単。
「俺、志井さんに寄りかかってるだけじゃ不安だよ」
「不安? ……どうして」
「何でもやってもらって…。何でも買ってもらって…そんな役立たずな奴…」
  志井が気分を害するだろう事は分かっていたが、偶々訪れたタイミングにツキトは乗る事にした。
  これはここ数日の間、ずっと密かに思っていた事。
  志井といられる事は嬉しいし幸せだ。でも不安。
  志井は優しい。何でもしてくれる。お前は何もしなくて良いとばかりに家事も、必要な物を買いに行く事も全部自分でやってしまおうとする。否、彼は「必要でない」と思う物までツキトに買ってきている。毎日の豪華過ぎるお菓子や、パソコン・DVDといった電気機器を過剰に与えられる事は、言ってみればストレスだった。何もせずただ一方的にしてもらうだけの関係にツキトは確実に疲れていたのだ。
  ただ、最初は疲れている事に気づかなかった。志井の事が好きだから。
「俺…志井さんに嫌われたくないんだ…」
  ぐっと唾を飲み込んで、ツキトはようやっとその想いを口にした。
「それが一番怖い」
  たとえ志井の一連の行動が「間違った愛情」だったとしても、ツキトはそれを失いたくはなかった。志井が自分に向けてくれる優しさを手放したくなかった。志井のいる場所だけが唯一自分の安らげる場所だと信じていたから、志井に嫌われるような事はしたくなかったし、言いたくもなかった。第一、一緒に住み始めた当初は自分自身が何もしたくないと思っていたし、外に出るのも怖かったのだ。大人しく息を潜めてただ眠っていたい。ただ志井に寄り添っていたい……。そう願っていたのは紛れもなくツキト自身だった。
  だから今まで、2人の生活はどこか不自然で不安定ながらも幸せに穏やかに成立してこられた。
「でも…やっぱり、いつまでもこういうのは駄目だから」
  ゆっくりと顔を上げてツキトは志井を見つめながらそう言った。志井は感情の読めない表情をしていたが、怒ったり不機嫌になったりという風には見えなかった。
  勿論、歓迎しているようにも見えないのだが。
「俺、もう十分休ませてもらったし…。バイトは、しなくちゃ。したいよ。それで、稼いだお金で今度は俺が志井さんに何かしたい」
「………」
「最近…やっと、そういう風に思えるようになったんだ」

  右手が動かない。

  安寧な所に身を置き、何もかも志井にしてもらい真綿に包まれたような幸せな生活を送っているはずの自分が、それでもキャンパスを前にすると死んだように思考が止まる。鉛筆を握った右手には痛みすら走り、指先を動かす事すらできなくなる。
「こんな俺じゃ、いつか志井さんに愛想尽かされると思うんだ」
  いつまでも進歩のない自分。
  甘えるだけの自分では駄目だ。
「だから……」
「どうして」
  ツキトの一通りの決意を黙って聞いていた志井は、やがて一言そう言った。
「え?」
  それにツキトが怪訝な顔をすると、志井は相変わらず無機的な眼を向けたまま抑揚の取れた声で答えた。
「お前、何回も言うよな。役立たずだとか、してもらうばかりだとか。……俺がお前を嫌うとか」
「そ、そんなに…」
  それほど言っていただろうかと思い、ツキトは困惑したようになって口を噤んだ。そういう台詞は志井を今のように不快にさせるからと、努めて言わないようにしていたはずだ。
  けれど志井は首を振り、きっぱりと言った。
「言うだろう。ああ…お前自身が気づいていないところでも言ってるから、あまり自覚がないのか」
「え……」
「うなされてる夜なんかにも言うんだよ、お前は」
「……っ」
  一瞬志井がひどく冷たい眼を向けたような気がして、ツキトはびくりと肩を揺らした。けれど居た堪れずに立ち上がって後退しようとした刹那、既に近づいていた志井によって片方の手首をがつりと取られた。
「あっ…」
「どうした……。別に何もしない……」
「いっ…」
「これくらい何でもないだろ」
  どこか呆然としたような声が耳に入ったが、それでもツキトは捕まれた手首が悲鳴をあげたので、ただそちらを見つめ表情を歪めた。こんな風に乱暴に扱われた事は久しくなかったから、ただただ驚いて言葉が出なかった。
  そんなツキトに志井は構わず続けた。
「お前に何回も謝られたり…。嫌だ、どうしようと言われる度に参るんだ。俺がお前を嫌うわけないだろう? 何でそんな事が分からない…」
「わ、分からないよ、だって…っ!」
  1度こっぴどくフラれているし、自分は役立たずだから。
「それに…志井さんだって、いつまでもこれじゃ駄目だと思うから、だから今日外行こうって…言ったんじゃないの…?」
「何…」
  ぴたりと動きを止めて志井はそう言ったツキトをまじまじと凝視した。夕食に外へ行こうと言った事など、指摘されるまで既にすっかり忘れていたらしい。何を言っているのかと暫し考えている風だった。
  だからツキトも必死になって繰り返した。
「夕飯を外でなんて…今までそんな事、言わなかった…。偶々病院が遅くなった時とか、それくらいだろ…。夕飯を外で取るの」
「………」
「だから、俺…!」
「………そんな事でツキトを不安にさせたのなら悪かった」
「違うよ、俺はっ。そうじゃなくて!」
「すぐ断る。本当に俺にはどうでも良かったんだ、こんな約束」
「え?」
  しかし問い返したツキトに志井は答えず、掴んでいたツキトの手を離すとつかつかとリビングの電話の所へ向かって行った。それから唖然としてその場に留まっているツキトを尻目に何処かへ掛けると、受話器向こうにいる誰かに向かって「今日は行けなくなった」と開口一番素っ気無く告げた。
「志井さん…?」
「……ああ。ああ、行けない。いいだろう別に…お前だって勝手に連絡してきただけじゃねえかよ。とにかく、今日は駄目になった。…あ? ……来るなよ。煩い、誰が言うか!」
「志井さん、誰…?」
  恐る恐る近寄って背中越しにそう訊くと、志井はくるりと振り返って眉をひそめた。言いたくないという態度がありありと見えたが、それでもツキトは我慢できないというように志井が着ていたシャツの裾を引っ張った。
「誰? 約束って何?」
「……仕事でずっとこっちにいなかったただの知り合いだ。久々に出てきて飯を食わないかというから……」
「えっ…?」
  ツキトはその思いもよらぬ返事に目を丸くした。志井はいつも大抵ツキトと一緒にいて、会社を辞めてからは尚の事、友人知人の類とも誰とも、とにかくツキト以外の人間との接触が全くと良いほど見られなかったのだ。正直ツキトは志井に特別親しい友人など一人もいないのではないかと思っていた。いつも誰に対しても距離を置いて接しているような人であったから。
「俺、会いたい」
「え?」
「志井さんの友達」
「友……こんな奴、別に友達じゃない」
  志井が憮然として発した台詞は受話器向こうの人間に聞こえたようだ。怒っているような苦笑しているような、どちらとも取れるような声が微かにツキトのところにまで届いてきた。
  けれどその声にツキトはより強く背中を押された思いがした。
「会いたいよ。友達じゃなくても、志井さんがわざわざ約束してもいいかなって思った人でしょ? なら俺も会いたい」
「………けどこいつのせいで」
  俺たちの仲が一瞬気まずくなったじゃないかと、志井はそう言いた気であったが、ツキトの嬉しそうな目に押し切られたらしい。志井は渋々と電話の相手に「約束の撤回」を「撤回」して、ため息交じりに手にしていたコードレスを置いた。
  けれどもう一度、仕切り直しのような厳しい目はすぐさま向けて。
「ツキト。とりあえずバイトの件は保留にしておけ。……俺は許す気はない」
「志井さん…」
「いいだろ。夕飯キャンセルの件は俺が折れたんだから、こっちはお前が折れろ」
「そんっ…、そんなの、ずるい……」
「ツキト」
「あっ」
  瞬間、ぎゅうっと力任せに抱きしめられて、ツキトは出しかけた抗議の声を喉の奥にしまった。志井の抱擁はもう慣れているはずなのにやはりぞくりと一瞬背筋が凍り、ドキドキと胸の鼓動は激しくなった。
  それでも何とか自分も志井の背中に細い手を回す。はっはと荒く息継ぎをしながら、ツキトはその後ぎゅっと強く目を閉じた。
「……ツキト」
 すると志井はもう一度ツキトを呼び、押し殺したような低い声で呟いた。
「頼むから俺を……怒らせるな」
「………」
「頼むから」
「志井さ……っ」
  直後より強くなった志井の腕の力に、ツキトはそのまま己の胸が潰されるのではないかと思った。志井の束縛はとても安心でとても嬉しいもののはずなのに、今はただ何かが徐々に徐々に―……。
  ツキトの中で恐怖に似た何か暗い感覚が全身を覆い始めていた。





  志井がツキトを自分の目の行き届かない所へやりたくないのは、勿論過去に「あんな事」があり、これ以上見知らぬ誰かの目にツキトを触れさせたくないという気持ちがあったからだ。
  しかし、最近では志井自身、それがどうも違うような気がして仕方なかった。完全なる間違いではないだろう、けれど完全なる正解でもない。そんな気がした。
  ツキトは志井が「それ」を自覚しているのかと訝っているが、志井は既に己の行き過ぎた行動を自覚している。それに自分自身に対し、「ツキトが危険な目に遭ってはいけないからなどという体のいい理由をつけて、要はツキトを閉じ込めて独占したいだけなのではないか」という……実に性質の悪い疑いも抱いていた。つい最近まではそんな事は考えもしなかったが、そうでなければ説明できない感情が自分の中にはあまりに多く存在していた。出先でツキトがレストランのウエイトレスと喋った、犬の散歩で通りがかった中年女性と談笑した…そんな些細な事柄でもいちいち腸が煮え立つのだ。始末に終えない。
  ツキトに近づく人間には皆むかっ腹が立った。
  それに仕事を辞めてからも執拗にやって来る刈谷という青年からの手紙には本当に辟易していた。ツキトには言っていないが、以前まで会社宛てに送られてきた手紙が現在はこのマンションの管理人宛てに届く。志井の元同僚であった女子社員が刈谷がやっているバンドのファンだとかで、うまく言いくるめられるままに引越し先の住所を教えてしまったらしい。最初刈谷の手紙でその事を知った時は、一瞬その元同僚を訴えようかと思った程だ。
  しかし自宅にではなく、マンションの管理人に宛てて送ってくる所からして、刈谷が志井の許可なくツキトに会おうとしている節は今のところ見られない。むかつく事に変わりはないが、それだけが救いだった。
  それでも、ツキトに惹かれる人間というのは自分も含めてどうにも癖のある困った奴が多いと思う。だからこそ気が気ではないし、本当に何処へもやりたくはない。心配なのだ。心配で心配で、そして「許せない」のだ。

  志井さんに嫌われたくない。

  ツキトはそう言って悲しそうな顔をしたが、それなら、それこそアルバイトがしたいなどとバカな事は言わないで欲しいと志井は真剣に思った。そしてこの事は近いうちにしっかりと話し合わなければ、と。
  指定された約束の場所へ車を走らせながら、志井はツキトが機嫌を窺うようにちらちらとした視線を向けてくるのにも気づかず、ただそんな事を考えていた。





「遅いぞ、克己」
「お前が早いんだよ。もう飲んでたのか」
「悪いな」
  比較的照明の暗い店内、テンポの良いジャズ音楽が流れる洋風レストランに足を踏み入れた時、志井はツキトに「奴が俺に無理やり飲ませようとしたら絶対止めてくれよ」と珍しく切羽詰った様子で言い聞かせた。志井は車中でツキトにその知人をさんざん酒乱だの奇人だのと罵っていたが、付き合い自体はやはり相当古いらしい。ツキトはうんうんと頷きながら、志井に連れられて入ったその店で、あれこれ想像していたその人物を前に「あれ?」と思い、首をかしげた。
  想像していたよりずっと細い。それにとても酒乱には見えなかった。
「予約していたから個室が取れたぞ。騒がしいのは嫌いだろ、お前」
「まあな」
  比較的広いスペースにはオープンテーブルと仕切りのある小さな個室とがあって、カウンターで直接料理を注文したい客や大勢で盛り上がりたい若者らは前者を、会社帰りのOLや恋人同士は後者の席をそれぞれ好んで陣取っているようだった。
  その一番隅、赤レンガ仕立ての壁で区切られた一席に腰を下ろしていたその男は名を相馬善太郎(そうまぜんたろう)と言った。ぐりっとした大きな目に黒縁の眼鏡を掛けた彼は、髪の毛をバサバサとぞんざいに伸ばしているところがどことなく学者風で、実際彼は自分を「郷土研究家」だと名乗った。志井に言わせれば「そんないいもんじゃない」との事だったが。
  ガリガリに痩せた腕から先、骨の浮き出た手には先ほどからもう何杯空けたのかワイングラスが握られていて、傍のチーズには少しだけ手がつけられていた。彼は「酒も食い物も好きだが、金が出て行くのは辛い」と、普段よりあまり食事をしないのだと嘯いた。
「こいつみたいな金持ちと飲む時だけ、贅沢するのさ」
  相馬は悪びれもせずそう言って笑った後、自分の目の前に座り店員からおしぼりを渡されているツキトを改めてまじまじと見つめた。そして相手がこちらを見てぺこりと頭を下げるのを認め、自分もぺこりと礼をした。
「君が小林ツキト君か。前々から克己に話だけは聞いてたんだけどね、まさかこいつが誰かと暮らすなんて事があるとはなぁ。当時は天変地異の前触れか、はたまた俺が長らく追い求めていた金塊を遂に発掘できる予兆かと思ったもんさ」
「は、はあ…?」
「いちいち反応しなくていいぞ、ツキト」
「おいおい」
  志井の冷たい言いようには慣れているのか、相馬は別段参った風もなく再び人の良い顔をして笑った。その笑顔は全く不思議だが初対面のツキトの警戒もあっという間に解いてしまったし、志井は志井でやはり相馬は気を許した友人なのか、冷たい口調ながらも珍しく口数多く、ツキトにとっては意味不明な彼の「冒険譚」に言葉を返してやっていた。
  だからどれくらい経ってからか、ふと相馬が「そういえば」と何気ない様子で言った事には、ツキトは驚きのあまり暫し声を失ってしまった。

「ツキト君はあの小林グループの次男坊なんだろ? お兄さんやり手だよなぁ。金増やすのうまくて…羨ましいぜ。……けど、あれはかなり参ってるようだよ。連絡とかしてるのかい?」



To be continued…




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