ツキトの朝は遅い。
  ここ一ヶ月ほど昼は清掃業、夜から明け方にかけては近所のコンビニエンスストアでアルバイトをしている為、生活形態は完全な昼夜逆転型だ。もっとも目覚めの悪い方ではないから、たとえ朝方くたくたになって帰宅したとしても、午前11時にセットした目覚ましが鳴ればすぐに目を覚ます事ができている。
「んっ…」
  目が覚めると傍に放置してある携帯用のラジオに手を伸ばし、スイッチを押す。
  1日の始まりだ。
  曲名も知らないアメリカンロックが耳に小気味良く流れてくる。何ともなしにそれを聴きながら起き上がり、洗濯をしてもたたまれる事のなかった上着や傍に投げ捨ててあるジーンズに手を伸ばす。着替えたら顔を洗ってすぐまたバイト先へ向かう。
  薄っぺらい壁で仕切られたオンボロアパートの2階に住むようになってから、ツキトはそんな生活をもう一月以上も続けていた。
「うわ。もう最悪」
  少しだけついてしまった寝癖を水で馴らして落ち着かせた後、壁に掛かった鏡の前でツキトは少しだけ伸びた前髪をつんと指で弾いた。前髪が目にかかりそうで、暗い表情が一層暗く見えないかと少しだけ不安になる。
「ま、いいか」
  別に誰に見られるでもなし。
  食パンを牛乳で流し込んだだけの簡素な食事を摂った後、ツキトはそう呟いてから部屋を飛び出した。バイトの時間まではまだ早いが構わない。余計な事を考えてしまうような余分な時間は疎ましいだけだ。自分にはバイトと寝る時間以外のものは必要ないとすら思っている。
「眩し…」
  明るい日差しに目を細め、ツキトは鬱々とした気分を振り払うように空を見上げると勢いよく駆け出した。




零れ落ちた感情 ―1―



  ツキトは高校卒業後、絵の勉強をする為に単身この東京へやって来た。
  そしてそこで生まれて初めての恋人をつくった。
  その恋人とはすぐにキスもしたし、セックスもした。また相手の家で暫くの間同棲もした。相手はツキトと同じ男で、それなりに社会的地位もある大人であったが、向こうがうまくあわせてくれていたのか、それとも元々の波長があったのか、当初はとてもうまくいっていた。
  つまり、幸せだった。
  それがある日一方的に別れを告げられ、間もなく完全に「捨てられて」しまった。ツキトはその相手―志井克己―のことが好きで好きで仕方なかったが、それでもその想いは相手には伝わらなかった。
  ツキトの初めての恋は、ほんの数ヶ月で終わりを告げてしまった。


  そしてツキトは自分が何の為に東京に来たのか、いつの間にかその目的を忘れてしまった。





「だからー。今日はツキトの家に行ってもいいだろ?」
「今日は、じゃなくて今日も、だろ?」
「んな事ないって! 昨日も一昨日も行ってないじゃん。なぁ頼むって。これから家帰ンの、めちゃくちゃたりーんだもん」
「知るかよ」
「冷たい〜。ツキトちゃ〜ん」
「だからその呼び方やめろ!」
  いつ店長が出てきて「真面目に仕事しろ!」と怒鳴ってくるか、それを内心で気にしながら、ツキトはレジに立つ自分の横でごろごろと猫なで声を上げる青年に鬱陶しそうな視線を送った。
  青年の名は刈谷(かりや)と言い、21歳。
  ツキトよりも3歳年上の同じくフリーターで、ツキトが深夜のコンビニでアルバイトを始めた丁度同じ時期に入ってきた。性格は明るく人懐こい。またその人柄同様、明るい茶褐色の髪を肩先まで延ばし、いつでも笑顔のその容姿も甘いマスクで常連客に人気がある。やや肌の黒い健康的な体躯、それでいてスラリと背の高い長身も女性にモテる所以で、またそのあたりの事を重々承知している当人は「俺は将来この顔を生かして音楽界のカリスマになる」と公言して憚らなかった。
「サイアクだよ。人が熟睡してる時に突然ギターなんか弾き出して」
  しつこく泊まらせろと迫る刈谷に、ツキトは渋面を作ってそっぽを向いた。
  知り合ったばかりの頃から図々しい友人であったが、最近は富にそれがひどい。先日も泣いて頼むから狭い部屋に泊めてやったら、朝っぱらから持っていたギターをかき鳴らして曲を作りだすものだからとことん閉口してしまった。
  マイペースな刈谷は基本的には楽しく憎めない男だが、一方で時にどうしようもなく疲れてしまう相手でもあった。
  もう他人に振り回されるのは真っ平だ。
「ごめんごめん。あんまりツキトが可愛い顔して寝てるからさ〜。俺的には子守唄のつもりで弾いてたんだけどね」
「子守唄? あれが?」
「また。そんな冷たい顔して。ま、そんなツキトも好きだけどな」
「………」
  慣れたように軽くウインクしてみせる刈谷に、ツキトは思わず黙りこんだ。
  最近ツキトが刈谷を避けたくなる理由がこれだった。
「なあツキト。いい加減、心開いてくれてもいいんじゃない? 前の恋人なんか忘れてさ」
「煩いな……」
  自覚がないままに志井の事を話してしまったのが不味かった。
  知り合ってそれなりに仲良くなったある日、奢るからと半ば無理やり連れて行かれた居酒屋で、ツキトは酔った勢いでつい志井との同棲生活をこの刈谷に喋ってしまったのだ。
  どこまで話したのか明瞭な記憶はないが、ともかくはガンガンと鳴る頭を抱えた翌日、いつものアルバイト先でツキトは刈谷に言われてしまったのだった。

「なら、俺と付き合ってみれば?」

  女に不自由することのない刈谷が何をもってツキトにそんな事を言い出したのかは分からない。それでも、ツキトは刈谷にマズイ事を言ってしまったとひどく後悔する羽目になった。
  それからの刈谷はやたらとツキトを「可愛い子」扱いし、しつこくまとわりつき、そして必要以上に関わってこようとした。
「俺、当分誰とも付き合う気ないから」
  そしてツキトが突き当たるいつもの答えにも、刈谷はまるで動じないのだ。
「じゃ、お試しでいいからさ。な、その結果良くなかったら捨ててくれてもいいし?」
「………そういうの嫌だ」
  付き合う前、志井も同じ事を言ったっけ。
  思い出すだに未だ胸の奥がちくちくとする。刈谷に当たりたい気持ちがしてきてしまい、ツキトは唇をへの字に曲げた。
  深夜のコンビニは閑散としている。
  それなりにある一定の時間に突入するとどっと客の入りが激しくなる事もあるが、殆どが搬入と掃除に費やされる。刈谷と組むとその仕事をほぼ全部ツキト1人でこなす事になるのだが、それ以上にこの「口説き文句」に晒されるのがツキトには堪らなかった。
「あーあ。ツキトは本当、お堅いなあ。分かった、じゃあオトモダチとして泊めて下さい。お願いします」
  そうして最後は刈谷の「降参」という合図で、ひとしきりこの会話は終わりを告げ、刈谷はいつもの「安心できる友達」に戻ってくれる。ツキトはその後、決まってふっとため息をついて刈谷に笑いかけた。
  ただの友人としてなら、刈谷は付き合いやすいイイ奴だった。





  帰りの道すがら、刈谷はいつものようにぺらぺらと勝手気ままなお喋りに興じていた。
「それでそのバカ、テキトーに遊んだオンナ妊娠させちゃって。女は女で金払えって請求した額が通常の倍。完全やられちゃっただろ?」
「やられたって?」
「騙されたって事。だって今日は安全だって言うからヤッたって言ってたし。そいつ」
「……そんなこと騙すかな。女の人だって好きで中絶なんかしたくないと思うし」
「ツキト知らねーの。最近じゃ、中絶なんか闇で幾らでもできんだぜ。相場の金貰って小金稼いでる女なんて結構いるって」
「嘘だよ」
「嘘じゃないからびっくりな話なんだよ」
「………」
  それが事実だとしたら何とも不快な事だと思いながら、それでもツキトは黙って刈谷の言葉を聞いていた。正直、刈谷の仲間が知り合いのツテで行った合コンの話など興味ない。ましてや、一晩限りの火遊びが災いして女を孕ませ金を請求された他人の事など自分に何の関係があるだろう。東京は怖いところだとは前々から思っていた事だが、刈谷に会ってからはその思いがどんどんと強くなった。どうにも、刈谷はその性格故か周りに適当に遊ぶ人間が多過ぎるような気がする。
「まあ、そいつバカだけど。唯一の取り柄で服のセンスだけはいいんだよな」
「ふうん」
  ツキトは所謂流行りものに疎く、ファッションに関してもまた然りだ。時計やピアス、指輪といった服以外に身に着ける小物にも興味がない。
  しかし刈谷は違う。
「素晴らしい音楽はみすぼらしい格好からは生まれない」
  どこまで本気なのかさっぱり分からないが、仲間数人とバンド活動をしている刈谷は、肝心の曲作り以上に毎日のオシャレに余念がない。食べる事には頓着のない男がどんなに貧しい暮らしをしていても良いと思った服には金を惜しまないと言う。それだけならまだしも、彼は相手の着ている物にすらいちいち口煩い。ツキトは他人の格好などどうでもいいと思っているから、刈谷のそういうところには辟易していた。
  一言で言えば刈谷のような男とは根本的に「住む世界」が違うのだ。刈谷とて、音楽にも服装にも無知な自分とつるんでいても楽しくないだろうにと思う。それなのに彼が何故ここまで自分に構ってくるのか、ツキトは不思議で仕方がなかった。
「ツキト。今日は一緒に寝ようぜ」
  アパートのドアを開けたところで刈谷がにやにやと笑いながら言った。ツキトは途端ぎっとした視線を向け、呆れたように声をあげた。
「そういう話しないって言うから連れてきてやったのに!」
「無理だよ。可愛いツキトを前にして我慢できる男がいたら教えてもらいたいね」
「だからその言い方……」
  ほとほとうんざりして抗議の声も弱めてしまうと、不意に刈谷の尻ポケットに突っ込まれていた携帯が鳴った。遊び仲間かららしい、大声で話し始める相手に翻弄して、ツキトは慌てて刈谷の背中を押した。
「煩い…っ。近所迷惑だから入れって!」
「んー? やった、ラッキー! え? ああ、何でもない何でも! お前が電話してきてくれたお陰で中入れてもらえたよ。え? うん、だからあのコ。え? そうそう、あのコ!」
「煩いっての!」
  依然として携帯を耳に当てたままの刈谷を叱咤しながら、ツキトはドアを閉めて鍵をかけた後ハアと深くため息をついた。
  刈谷は部屋の中に上がりこんだ後も、まだ通話を続けている。
  騒がしい友人。
  古ぼけた畳の部屋。
  暗い夜。
「まったくもう…」
  どっと疲れを感じてツキトは再度息を吐いた。自分は一体いつまでこんな生活を続けるつもりなのだろう。分からない。何をしているのか分からない。

  志井さん。

  ふと考えを巡らせる時、必ず行き当たってしまう名前、声。
  あの人の姿。
  女々しいとか未練がましいとか、誰に何と思われてもこればかりはどうしようもない。ツキトは未だ元恋人である志井の事が忘れられなかった。別れる直前、毎日のように向けられていた志井の冷たく突き刺さるようなあの鋭い視線すら懐かしい。あの頃の事を考えるといつだってひどい痛みが胸を襲うくせに、どこかで自分をこんな風にしてしまった志井を憎む気持ちとてあるくせに、それでもツキトは「余分な時間」があるとつい思い出してしまっていた。
  志井の、自分とは対照的な均整の取れた逞しい身体も、セックスの度にまさぐってはその感触に溺れていたさらりとした黒髪のことも。
  「愛している」と言ってくれた時のことも。

  もう二度と会わない。

  会えないのではなく、会わない。それはツキトの中ではっきりと心に決めている事だった。それだけはもう揺るがない。現にあの家の近くにも絶対に行かない。もし偶然何処かで出会ってしまう事があったとしても、声など絶対に掛けない。ツキトは何度も何度も自分の心にそう言い聞かせている。
  けれども一方でツキトは思う。
  こうやって時々思い出すくらいならば勝手だろうと。それくらいは許して欲しいと。それは未だ自分の気持ちをコントロールしきれないツキトの、誰に向けたものでもない、自分自身への言い訳みたいなものだった。
  そんな思いに耽っていた時、突然黒い影が頭にかかり、ツキトは顔を上げた。
「あ……」
「ま〜た、昔の男を思い出してる」
  傍に立っていたのは刈谷だった。
  何だかいつもと違う真面目なその顔にツキトは思い切り面食らった。
「刈――」
「そういうのって。今の恋人が一番嫌がることなんだよ、ツキトちゃん。知ってた?」
「な……」
「折角2人っきりのロマンチックな夜にさぁ? ボク、前のカレシの方が良かったなー、エッチもうまくてお金も持ってたのにぃ、今のカレはしがないフリーターだもんなぁ、とかってさ」
「う、煩いな…! 何だよそれ!」
「だから。今の恋人の前で前の男を思い出すなんてサイテー」
「今、恋人なんていない!」
  刈谷がふざけている事くらいツキトとて分かっている。
  それでも互いに立っている位置関係に居心地の悪さを感じて、ツキトはわざと声を荒げた。背の高い刈谷がすぐ傍にいると、自分の身体全部がすっぽりと包まれてしまいそうで焦るのだ。以前に不意を突かれて抱きしめられた過去があるせいかもしれないが、こんな風に刈谷の腕が触れる位置にいるのは何となくだが、やはり落ち着かない。
  そんなツキトの心意を知ってか知らずか、刈谷は涼しい顔をしてから大袈裟に両肩を上下させてからため息をついた。
「あーあ傷つくなあ、もう。ツキトは本当素っ気無い。……でもまあ、沈んでるより、怒ってる顔の方がマシだけど」
「え……?」
  刈谷のその台詞にツキトが驚いた顔を向けると、相手はにっこりと笑って言った。
「気分が乗らない時は怒鳴るに限るって。な?」
「そん…」
「俺になら幾らでも当たっていいからさ。な、ツキト?」
「………」
  悪戯っぽく笑う刈谷にツキトは途惑い口篭った。
  いつもいつもふざけている割には、ここぞという時にこんな風に優しくなったりする。よく分からない奴だと思いながらも、ツキトにはそれがとても甘い心遣いに感じられて、それは素直に嬉しいと思った。



To be continued…




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