好きなのに。
  惹かれているのに避けている。



  ―2―



「いいな…」
  駅前通りの掲示板に貼られたポスターを見つめ、ツキトは思わず呟いた。
  好きな画家が個展をやる。
  場所はここから2駅程離れた国立公園内にある美術館。期間は3週間と少々短いが、バイトをやりくりすればそのうちの何日かは観に行く事ができるだろう。
「行きたいな…」
  無意識に零れ落ちた言葉に、しかしツキトは瞬時眉をひそめた。
  観には行きたい。
  けれど、観たくない。
「いっ…」
  不意に痛んだ胸を抑え、ツキトはますます困惑した。
  一体どうした事だろう。
  異国の地に住むその絵描きの画風は、いつでもツキトに強い衝撃と感動を与えてくれた。それは今もって変わらない。現に恐らくは新作だろう、ポスターにある少女の絵も、その横顔から微かに伺える淡い微笑みに惹かれこそすれ、暗く感じ入る部分など何もない。
  それなのにと、ツキトは思う。
  今この絵を見る事がこんなにも苦しい。好きなのに。どうしてかまともに見る事ができない。
「何ぼうっとしてんの」
「あ…」
  その時、掲示板の前に突っ立っているツキトに刈谷が声を掛けてきた。
「おはよ。今日も一晩よろしくな?」
「ああ…うん」
  刈谷は丁度改札を抜けて来たところのようで、眠そうな目をしつつもいつもの軽い調子で挨拶をしてきた。
  そして悪戯っぽい顔になって笑う。
「それにしてもどしたの、ツキト。いつもなら時間早くてもすぐ入るくせに。あ、分かった、俺が来るのを待ってたんだ?」
「違うよ」
「ソッコーで言うなよ。何、何見てたの?」
  この駅のすぐ前にあるコンビニエンスストアがツキトと刈谷の夜のアルバイト先だ。2人が入る時間は確かにまだ少し早かった。
  刈谷の指摘にツキトは苦々しい思いをしながらも知らぬフリで素っ気無く返す。
「何となくだよ。これ、ちょっとキレイな絵だなあと思って」
  ツキトの台詞に刈谷も横に並び、掲示板のポスターに目をやった。
「ふうん、油彩画? ツキト、こーゆーの好み?」
「別に…」
  自分から言ったものの、刈谷に絵の話をするのは何となく嫌だとツキトは思った。そこで言葉を濁すようにして視線も逸らす。
「ちょっと目を引く感じだったから何かと思って見てただけ」
  しかしそう言ったツキトに対し、刈谷は軽く小首をかしげると異を唱えるようにきっぱりと言った。
「それだけか? 俺は好きだけど、こういうの」
「え……」
「今度一緒に観に行こっか」
「は?」
  突然の事にツキトが怪訝な顔をすると、刈谷は依然としてポスターを見つめたまま、何でもない事のように続けた。
「ついでにスケッチブックも持って来いよ。ツキトが描くところ見たいし」
  刈谷のその言葉にツキトは目を見開いた。
  刈谷はツキトを見ない。ただポスターに描かれた絵に視線をやり続けている。
  暫くの間、ツキトはそんな刈谷のことをただじっと見やる事しかできなかった。





  押入れの奥に仕舞われていた使い途中のスケッチブックを見つけたのは単なる偶然だと刈谷は言った。
「『人ン家の押入れを勝手に開けておいて偶然だと言い張るか?』 って顔をしてるな。でもさ、しょーがねーじゃん。だって暇だったんだもん。ツキトの部屋って何もないし。風呂覗かれるよりはいーでしょ?」
  刈谷は悪びれもせずにそう白状し、客のいないコンビニのレジ前で大きく伸びをしてから両手を頭の後ろで組んだ。
「でも知らなかった。押入れ漁ったのバレて怒られるのが怖かったから訊けなかったけどさ。ツキトってかなりの芸術家なのな」
「………」
「あのスケッチブックに描いてあった場所、俺知ってる。あの公園って中に美術館なんかあったんだ? デートでよく行ってたけど、そっち方面には関心なかったから全然気づかなかった」
「………」
「だからさ、今度2人でそこ行こうぜ? 最初はツキトの見たがってるあの美術館でいいからさ。俺、付き合う! そんで、その後はあの公園でのんびりまったりコースっての、いいだろ?」
「………」
「……おいおい、ツキト君」
  1人で話す事に飽きたのか、ずっと無視を決め込んでいるツキトの様子に刈谷は深くため息をついた。
「なあー、まだ怒ってんの? 俺が勝手に押入れ開けたこと」
「別に…」
  はっきりと否定するつもりだったのに自然くぐもった声が出て、ツキトは1人途惑った。
  正直、ツキトは刈谷にそれほど腹は立っていない。この友人の性格・普段の行動から察するに、彼がいつかそうするだろう事くらいは想像して然るべきだった。その点については考えの甘かった自分こそを責めるべきだとツキトは思っている。
  それよりもと、ツキトは思う。
  未練がましくいつまでも「あれ」を押入れに入れていた自分自身が恨めしかった。他の物は大半火曜日の燃えるゴミの日に小分けして捨てていたのに、あのスケッチブックだけは捨てる事ができなかった。モノに関して言えばツキトの中では大した事のない作品だったし、あれ以上に気に入った作品など幾らでもあったのに。
  それでも捨てようとした直前、ツキトの手は止まった。

『凄いな。君、絵描き? プロ?』

  何という事もない、投げてやったパンくずをつつくカラスをただのお遊びで描いていただけ。それでも志井は驚いた風にそう言ってひどく感心した風にツキトが持つスケッチブックに顔を寄せ、「凄いな」と繰り返した。
  その日はなけなしの金で美術館に寄った帰りだったから、カラスにやった菓子パンが最後の食事で、ツキトはひどく空腹だった。絵を描いていたのもそんな苦しい状態を忘れる為に無心で手を動かしていたようなもので。

『何だ、腹減ってるのか? 俺も丁度昼飯の時間で外に出て来たところなんだ。時間潰しに話相手になってくれるんなら、奢ってやるよ』

  腹の虫を鳴かせたツキトに志井は優しく笑い、そう言った。
  最初は気のいい兄貴みたいな人だと思った。家族を振り切り、威勢良く東京に出てきたはいいけれど、どこかで心細かったのかもしれない。後に志井には「あんな風に見知らぬ人間について行くのはよくない」と勝手な説教を喰らったものだが、それでもあの時の志井はツキトにとって救いの神みたいにありがたい存在だった。それだけは間違いのない事実だった。
  どうしてあの時のことを忘れていたのだろう。
  いや、忘れなければと思っていたのか。
  スケッチブックを押入れにしまい込みながら、あの時のツキトはそんな事をぼんやりと考えていた。
  そして、ずっと記憶の奥底に埋もれさせていた志井との出会いを思い出してしまったせいか…はたまた初めて誉めてもらった時の事を思い出してしまったせいなのか。
  あの時の志井の台詞が脳裏に鮮やかに蘇った事で、ツキトはそのスケッチブックを押入れの奥へしまい、そうした自分に気づかないフリをしてしまった。捨てなければいけないという事は分かっていたのに、そうする事ができなかった。

「またぼうっとしてる」
  責めるように刈谷が言った。
「あ……」
  はっとして顔を上げると、真面目な顔をしてこちらを見ている刈谷の視線ともろにぶつかった。
「ご…めん」
  反射的に謝ると、刈谷は一瞬意表をつかれた顔をしたものの、すぐにふき出し、寄りかかっていた椅子から背中を浮かせた。
「何でツキトが謝んの? あれ、怒られてたのって俺の方じゃなかったっけ?」
「俺は、別に…」
「何だ、怒ってたんじゃないの? 俺が勝手に押入れ開けてツキトの絵見たから」
「違うよ」
  今度はしっかりと首を振ると、刈谷は少しだけ安堵したようになりふわっと笑った。柔らかい、人好きのする笑顔。人気者になるはずだとツキトは素直に思った。
「でもさあ、ツキトが絵が上手いってのは認めるけど。どうせならヌードとか描けばいいのに〜。公園の花とか鳩とかカラスとか。そんなんばっかじゃちょっとつまんないんじゃない? 大衆受けしないっつーか」
「大きなお世話だよ。それに…」
  もう絵はやめたんだ。
「………」
「何? どうしたの?」
「いや……」
  絵はやめたんだと言おうとしたツキトは、しかしその言葉を喉の奥で詰まらせた。
  ちくりと、また胸が痛んだ。
「それで、怒ってないなら明るい話に戻りましょう。いつ行く?」
「え…何が?」
  刈谷との会話を終わらせたと思っていたツキトはきょとんとした顔を向けた。すると刈谷は呆れたように眉をひそめた。
「何がじゃないよ。デートの話。美術館! 公園で・い・と!」
「あ、ああ…そんな事か…」
「そんな事って。なぁ行こうぜ。暇な時くらいあるだろ? ツキト、何だかんだ言って俺のこと避けてるからさぁ。いい加減、バイト以外でも会う機会増やしたい!」
「また…そんなこと言って…」
  ああまた始まるのか。
  刈谷定番の「ナンパ」が始まり、ツキトはげんなりした。真面目な顔をしたりふざけてみたり。刈谷は本当に色々な顔を自分に見せる。基本的に、軽い刈谷も優しい刈谷もツキトは嫌いではない。むしろ、好きかもしれないと思う。
  それでも、こと話がこういった話題に突入すると、ツキトはどうしても全身にどっとした疲れと困惑を感じてしまうのだ。
  そんなツキトにはお構いなしで刈谷は続けた。
「な、ツキト。お前の予定にあわせてるといつまで経っても出掛けられそうにないからさ。俺が決めていいだろ? 日曜は? 俺ちょうどその日練習とか入ってないし…」
「な、刈谷。いい加減静かに…」
  深夜のコンビニとはいえ、客がいないわけではない。ツキトはもうかれこれ1時間前から雑誌を立ち読みしている青年や、先刻入ってきてカップラーメンの品定めをしている工事作業員たちがいる方をちらちらと見やった。
  それでも刈谷は止まらずツキトに話しかけている。
  しかし、ツキトがいよいよそれに堪らず強めの声を発しようとした、その時だった。
「よう刈谷」
  不意に外の扉が開き、入口近くのレジ前に座っていた刈谷に声を掛けてきた男がいた。
「あれ? ムラジ、どしたの?」
「この近くに知り合いの女がいてな」
「また新しい人? お盛んな事で」
  突然やって来た知り合いにやや驚きつつも可笑しそうな目を閃かせた刈谷をツキトは黙って見つめた。それからその知り合い―ムラジ―なる男のことも。
  ムラジは長身の刈谷よりも更に頭半分ほど背が高く、がっしりとした体躯に黒のダウンジャケットを羽織り、同じく黒のキャップを目深に被った目つきの悪い男だった。薄い唇からやや漏れているような笑みの形もどことなく皮肉っぽい雰囲気を呈していて、一言で言えば「嫌な感じ」がした。またムラジは耳だけでなく眉や鼻、顎先にも金のピアスをつけていた為、意図せずそれらに目がいってしまった。
  するとそんなツキトに、刈谷の方を向いていたムラジが突然ぐるんと方向転換してきて、突き刺すような鋭い眼光と共にドスの利いた声を出してきた。
「なに見てんだおまえ。いっぺん死んでくるか」
「えっ…」
  突然言われたその言葉にツキトはたちまち固まった。
  しかも声が出せずにいたところを更にずずいと歩み寄られた事で、ツキトはレジを挟んで距離があるというのに、恐怖のあまり自然身体を震わせてしまった。
「こら」
  するとそんなツキトを庇うように刈谷が立ち上がってけらけらとした明るい声を出した。
「やーめろってお前は。ったく、見境ねえなあ。ツキト怖がってんじゃん。悪い顔近づけて睨むなって」
「ツキト?」
  刈谷のその言葉にムラジは暫し考えた風になってからにやりと笑った。
「……こいつか。最近あいつらが噂してた奴」
「あいつらって?」
「お前ンとこのサキとかケンジとかそこらへんだ。……はっ、こんな顔か。確かに、女に見えない事もないか」
  心底馬鹿にした風なムラジのその発言にツキトは思い切り傷ついた。自然顔を歪ませると、刈谷がちらと振り返ってそんなツキトを見つめ、焦った風に言った。
「あ、あのさ、お前何しに来たの? いいから帰ってくれる? 俺、真面目に働いてんだから、お前みたいのがいるの迷惑」
「ア…? あんま調子にのるなよ刈谷。テメエ、誰に向かって口きいてんだ」
  相手の言葉にぴくりと額に怒筋を浮き立たせ、ムラジは据わった眼をして刈谷の事を睨みつけた。そうして苛立った時の癖なのだろうか、ちっちっと粘着質な音を立てた後、ムラジは舌でぺろりと自らの上唇を舐めた。
  それからじろりとツキトを見やる。
「他の連中も見たいってよ。紹介してやれよ…独り占めはなしだぜ?」
「あーあ、嫌だねえ暇な奴らは…」
  ムラジの何かを挑発するような言い方にも刈谷は動じた風がなかったが、心底うんざりしたような表情はこの時隠しもしなかった。
  そして何も買わずに出て言ったムラジを見送った後、刈谷はツキトにいつもの笑顔を見せた。
「あんなの気にしなくていいよ。それよりデートデート。今度の日曜とかは? ツキト、絶対行こうな!」
「………」 
  今の緊迫した空気をなかった事のようにして振舞う刈谷に、しかしツキトはまともな返事をする事ができなかった。





  今日も泊まりたいという刈谷をやんわりと拒絶して、ツキトは1人寂れたアパートの部屋に帰り着いた。
「疲れた…」
  あのムラジなる男の恐ろしい視線にツキトは心底疲弊していた。それがたとえ数分のものだったとしても、あんな悪意の視線に晒されたのは本当に久しぶりだった。
  元々が人と争う事もなく平凡に暮らしてきたツキトである。東京に出てきてすぐに志井と知り合い、確かにその恋人からも冷たい視線や言葉を浴びせられた事はあった。しかしそれでも、あそこまで理由なく訳の分からない嘲笑や毒を与えられた事はなかったとツキトは思う。
「刈谷…何であんなのと付き合ってるんだろう」
  思えば刈谷の話に出てくる友人たちはいつでもいい加減で、ロクでもない連中ばかりだった。女を孕ませて嵌められたと嘆く男、初対面の人間に平気で「死ぬか」などと喧嘩を売る男。女友達とて似たようなものだ。乱暴で粗雑で、それでも刈谷はいつでも楽しそうに彼ら彼女らの事を話す。
  だからツキトは刈谷についていけないと思ってしまうのだ。
  自分と接している時の刈谷はとても楽しいし良い奴だとも思うのだが。
「とにかく今日はもう寝よう…」
  ぶつぶつと呟きながらツキトはため息をつき、それからドア下の郵便受けから大量のちらしを取り出した後、部屋に入って電気をつけた。1日部屋を留守にしただけで、郵便受けには大量のそういった「紙くず」が入れられる。マンション購入だの美容室の割引券だのの紙きれを一枚一枚確認しながら、ツキトはそれらをゴミ箱へ捨てていった。
「あれ…?」
  けれどツキトはある一枚の封筒に突き当たって動きを止めた。
「何だろう?」
  時に、ただの押し売り広告だと一蹴されて捨てられない為に、こんな綺麗な袋にちらしを入れてくる業者をツキトは知っていた。けれど、その薄いブルーの封筒はそれがたとえちらしでも開けて見たくなるような衝動に駆られるほど洒落た美しい物だった。
  ツキトはその封筒を開き、中に入っていたものを何気なく取り出した。
「あっ…!」
  そして思わず声をあげた。
「こ、これ…?」
  そこに入っていたのは、夕方駅前の掲示板で見た絵画展のプレリザーブ・チケットだった。しかもざっと見て10枚はある。ツキトはそのチケットを手にしたまま暫し部屋の中央に立ち尽くした。
「何で…」
  どきどきと早鐘を打つ心臓をどんなに戒めても鎮める事ができない。
  間違いでこんな物が届くわけはない。東京に知り合いなど殆どいないし、ツキトがあの画家を好きだと知っている人間に限定してしまえば、そんな者はゼロと言ってしまっても良い。
  ただ1人、志井克己という男を除いてしまえば。
「何で…こんな事、するんだよ…」
  封筒を何度もひっくり返しては表も見る。何も書かれていない。住所も名前も、切手すら貼っていない。

  ここまで、来た?

「嘘だろ…」
  会わなくなってどれくらい経つと思っているのか。
  何故今更こんな事をしてくるのか。
  志井の心意が分からないし、その神経が信じられない。あんな風に自分を切っておいて、見捨てておいて、今更こんな風に親切めいた事をされても頭にくるだけで感謝などするわけもない。酷いとしか思えない。ふざけるなとしか思えない。
  思えない、のに。
「……うっ」
  カッと感情を昂ぶらせたせいだろうか。突然襲った胸の痛みに、ツキトは力なく膝を折った。
「くぅ…っ」
  情けなくその場に座りこみ、胸を抑える。それでも痛みは治まらない。じんじんと身体中が熱くなり、怒っているのか悲しんでいるのか、自分自身ですら今の気持ちが分からなくなってしまう。
  ツキトは混乱した。
「…い…った、い」
  ツキトは痛みに情けなく小さな悲鳴を漏らした。
  薄暗い明りの下で背中を押されたようになる。頭が鉛のようにズンと重くなる。ツキトは見えない力に逆らえないかのように身体を丸め、額を畳に擦り付けた。
  泣かない。恨め。馬鹿じゃないかと罵ればいい。
  それでもツキトはその思いとは全く別の言葉を外に零した。

「会い…たいよ、志井さん……」

  思い出してしまう。いや、いつだって忘れた事などないのだ。
  それでももう会わないと決めたのだ。
「ひどいよ…」
  それなのにこんな事をする志井をツキトは許せないと思った。


  けれど、好きだと思った。



To be continued…




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