両片想い



 ―1―


  その日、ツキトは朝からそわそわと落ち着かなかった。何故って、夕方遅くにではあるが、とても久しぶりに志井と会う約束をしていたから。
  2人は恋人同士と言っても、毎日会っているわけではない。ツキトは大学、志井は仕事。互いに生活フィールドが異なり、とすれば必然的にすれ違いも増えてくる。
  そうした障害を少しでも克服しようと、志井が「意を決した」として東京の自宅からツキトの住む町へと越してきたのは三か月ほど前の話だが、そうやって物理的距離を縮めても、何故かなかなか、2人がゆっくり会える日は得られないのだった。
  それでも、紆余曲折を経て再び結ばれた2人である。どうにかして会える日、会える時間さえ見つけられれば、その時は改めて気持ちを確かめ合い、穏やかな時間を過ごすことができる。だからツキトは今日のことも、約束できたその日から、今か今かと待ち詫びていた。
「はぁ…。早く来過ぎちゃったよ…」
  もう何度目か、腕に巻いた時計にちらりと目を落としてから、ツキトは照れ隠しに呟いた。
  今日は志井の住むマンションで過ごす予定だった。朝から会える場合は、2人で美術館巡りをしたり、志井の趣味である陶芸を一緒にするなど、割と活動的にいろいろなところへ繰り出すのだが、今日のような時は時間も限られているから、志井の部屋で、志井の作った食事を共にして過ごすのが定番だ。…とは言え、もともと会える回数自体が少ないから、志井の自宅を訪れるのは、これでやっと片手の数にのぼる程度という少なさである。
  だから…というのも変な話だが、ツキトはそのめったに得られない機会に遭遇すると、どうしても志井に会える嬉しさと共に、「違う意味」での待ち遠しさを感じてしまう。
  そう、それは何あろう、周りの目を憚らず「志井とイチャイチャできる」ことへの期待である。
(そんなことばっかり考えてるって思われたらどうしよう…。けど実際……)
  一人悶々と思考を巡らすツキトは、自然と頬を赤らめてからぶんぶんとかぶりを振った。
  志井と再び共に触れ合えるようになってからのツキトは、どうしたことか、「そういったこと」に対して却って貪欲になった……と、ツキト自身は感じている。けれど恐らく、志井の方はそんなツキトの想いを想像もしていない。その証拠に、志井は自分からツキトの住む町へ越してきたくせに、偶のデートでも大抵が外で「健全に」過ごすだけで終わる。別れ際にキスするくらいはあるが、それとて人通りが多かったり、ツキトの兄から課されている「早すぎる門限」が近づいている時などは、そちらの方ばかり気にして意識散漫となる始末だ。
  ツキトにしてみれば、やっと志井と会えた日くらい、もっとくっついていたいし、触りたい。触ってもらいたいと思っているのに。
  そして、志井と会えない日は、独りの部屋で悶々と「そういったこと」を想像して、そんな自分に恥じらってのたうち回ることとてあるのに。それなのに、どうにも志井の方は、住居距離を縮めて以降、ツキトに対するスキンシップは、むしろより遠慮がちになったのだった。
  だからツキトはデートの度に思ってしまう。
  今回は志井の部屋へ呼んでもらえるのか、それともやっぱり「ない」のかと。
  それが今日は、最初から志井が「家へ来ないか」と言ってくれたから。
(でもあんまり前から待っていたら……志井さん、焦っちゃうかな。前も俺が早く来ただけなのに『凄く待たせた』って何回も謝ったし)
  やはり一度、どこかで時間を潰してから戻ってくるべきか。
  志井の新しい住処―東京の時と同じようなマンション―前で、ツキトはもうかれこれ30分以上もの間、そんなことを逡巡していた。
  部屋の鍵は当然のように渡されている。志井は相変わらずフリーで翻訳の仕事を請け負ったり、派遣社員としてのらりくらりと太樹の下で仕事をしたりしていたが、この日もそれで「もしかしたら遅くなるかもしれない」から、部屋で待っていて欲しいと言われていた。
  しかし「17時頃帰る」と言われて、すでに16時前から、ツキトはマンションの門前にいる。入口付近の植込みを囲むブロックはちょうど腰をおろすのに適した高さで、そこに落ち着くと、もう何処へ行く気もなくなる。ただ、そんな目につく所でいつまでもぐだぐだと時間を持て余すくらいなら、それこそ部屋へ行って、空調を整え、自身が食事の支度なり何なりすれば良いのだ。志井が一度、本気か冗談か「それだけはやめてくれ」と言うから、なかなか実行には移せないが…。実際、ツキトの家事能力の低さは、以前の同棲で明らかになっていることではあるし。
(でも、どうしようかな。ああけど、どうせもう30分もしたら17時になるし。やっぱりここにいていいかな。ただ、こんな所に座っているのを見られたら、何で部屋に入ってないんだって怒られる…というか驚かれるし。としたら、ここに座っているのは良くないか。うーでも、どうせなら志井さんが帰ってきたところを出迎えたいし…)
  それに、すれ違いが数分あるだけで、2人の会える時間を損してしまう。
  ツキトは万事がそんな調子で、拉致もないことをつらつらと考え、ただ徒に時間を消費していた。
  そして、その間、やっぱりちらちらと妄想してしまった。
  部屋で志井と2人きりになったらできることを。
(でも…この間も特に何もなかったし…)
  ツキトは前回の志井宅来訪時のことを思い出して表情を陰らせた。
  一人で散々期待して、今か今かと待っていたその時は、結局、訪れなかった。志井はただ自分が考えた新作メニューの話に夢中で、それをツキトに食べてもらうことに執心していた。また、ツキトが大学で制作している絵の話や、今度見に行く美術館の話、巷で話題のアーティストの話題に終始して、それはそれでとても楽しかったのだけれど、ツキトが待ち望む「もう一つの期待」は果たされずに終わった。「以前のこと」があるから、志井は自分を抱くことに躊躇いがあるのかもしれない…ならばこちらから言うべきでは…。そうも思って、ツキトも一度思い切って自ら持ち掛けようとしたことはあるが…結局、前回は恥ずかしさが先に立って言い出すことができなかった。
  つまりその時以来の、今日は志井宅訪問なのである。
「はあ…」
「ツキト?」
「わっ!」
  しかしそれを思って緊張と嘆きの混じったため息をあからさま漏らした時、頭上からその声は降り落ちた。
「何でこんな所に座ってるんだ?」
「志井さん!」
  居眠りしているところを教師に叩き起こされた生徒よろしく、ツキトは反射的にシャンと立ち上がると背筋を伸ばした。それでも数段自分より背の高い恋人の志井は、そんなツキトの態度に余計驚いたようになって目を見開き、戸惑ったような顔をした。
「どうした。鍵は? いつからそこにいるんだ、何で中に入っていなかったんだ?」
「あ、えっと、その……」
「鍵、忘れてきちまったのか?」
「え!? あ、そ、そう。うん! そう、なんだ! 何か、うっかりしていて!」
  志井から貰った鍵を忘れるなどありえない。何せ、肌身離さずいつだって持っている物だ、いわばツキトの宝物だ。
  それでも今はそう言うより他なく、ツキトは未だにアセアセと挙動不審にあちこち視線を動かしながら、ごまかすようにへらりと笑った。
「そうか、それならもっと早く帰ってこられたら良かった。悪かったな。待ち疲れたか?」
「そんなことないよ! お、俺、今さっき来たばかりだし!」
  実際、まだ約束の時間までは30分もある。むしろ志井は早く帰ってきた方だ。ふとそんな志井を見ると、片方の手に、仕事用の鞄と一緒にスーパーの袋もぶら下がっていた。透けて見えるその中には、恐らく今夜の食事の材料だろう、野菜やら何やらあるのが分かった。
「志井さん、買い物してきたの」
  どうせなら一緒に行きたかった。別に何か欲しいものや食べたいものがあるわけではないが、何だかんだと話しながら志井とスーパーを巡るのも楽しいだろうと思ったのだ。
「そうなんだ、思った以上に仕事が早く上がったから。けど、こんなことならすぐに帰ってくれば良かった、ごめんな」
「えっ」
  そんなつもりで言ったのではないのに。
  志井が謝ったことでツキトは慌てて先を続けようとしたが、志井の方が早かった。すぐにツキトを誘導するよう建物内へ入ると、志井は率先してエレベーターのボタンを押した。ツキトはそれに転びそうになりながら、もつれた足を動かした。
「忙しくて部屋の掃除する暇がなくて。散らかっていて悪いな」
  そうして志井は部屋を開けてツキトを通すと、真っ先にまた謝った。ツキトは「気にしない、そんなの!」と力強く返したが、実際、室内に散らかっている印象はなかった。
  もともと志井はこういうことにもきちんとしている。それに基本、物欲がないのだろう、生活に必要な最低限の家具以外、物がほとんど置かれていない。最近こそ美術関連の書籍や陶芸にまつわる道具、小物が増えてはきたが、それでも雑然とするレベルではない。むしろいつ訪れても、志井の部屋は本人の色そのものが良く出ていてセンスを感じさせる。
  ツキトは玄関から真っ直ぐ歩いた先にあるリビングへ向かい、そこへ荷物を置かせてもらってから、ちらりと隣の寝室に目をやった。ドアが閉まっていて中を見られないが、どんな部屋かは知っている。志井のベッドとクローゼット、それに、せいぜいが置き時計や本を置ける程度の小さなサイドボード。ビジネスホテルのように整っていて、シンプルな空間だ。
  今夜はあそこで眠れるだろうか。ツキトはまたそんなことを考えてぼっと顔に熱を集めた。兄から課されている理不尽な門限は今日とて例外ではない。しかしその兄は先週から海外へ出張中で、帰りは早くとも月末だと聞かされていた。
  つまり今日、ツキトの門限を管理できる人間は皆無なのだ。
  一応は家政婦の典子がその役割を担うことになっているが、彼女は住みこみの手伝い人ではないし、何よりツキトの心強い味方である。そんな典子に、ツキトも今日のことは伝えてある。だから帰宅が遅かったとして、よしんばツキトが帰ってこなかったとして、それを彼女が咎めてくるわけもない。
  だから、大丈夫。今日はずっと一緒にいられるのだ。
  そのことをいつ告げようか。ツキトはそっと、すでにワイシャツをたくしあげた格好で忙しそうに台所に立つ志井を振り返り見た。
「志井さん、俺も何か手伝おうか」
「いや、いい。今日は前から考えていたんだ、ツキトに食わせたい新作があって。だから楽しみに待ってろ、すぐ作るから!」
  予想通りの返答。それでもツキトは遠慮がちに付け加えた。
「でも帰ってきたばかりだし、仕事で疲れているでしょ? もう準備に取り掛からなくても…」
「平気だ。ツキトにメシ作るのが生きがいになりつつあるからな、俺は。料理って案外、楽しいもんだぞ」
「そ、そうなの…?」
  でも、せっかく久しぶりに会ったのに。
  部屋に入ったら、真っ先に抱き合ってキスしたかった。というか、そういうことがあるものだと思っていた。
  それなのに、志井はさっさと台所へ入ってしまって。それで、「手伝いはいいから好きに寛いでいろ」となどと言う。そうは言われても、ずっと志井に会いたくて、志井と触れ合えることを望んでいたツキトにしてみたら、部屋に一人置かれても、どうして良いか困ってしまう。
  キスして欲しいと、言ってみようか。
「……っ」
  咄嗟に浮かんだその考えにツキトはまた一人赤面し、くるりと志井のいる所から背を向けた。
(言えるわけ……ない)
  志井が見ているわけもないのに、背中にちくちくしたものを感じつつ、ツキトはぎゅっと目を瞑って己の煩悩をかき消そうと躍起になった。
  志井は単純に2人でいられるこの時間を楽しみにしていて、互いが楽しめるように、また自分に喜んでもらえるようにと、精一杯もてなそうとしてくれている。きっと披露したいと張り切っている今日の夕食メニューとて、恐らくはずっと前から考えていたものに違いない。
  そんな志井に対して、何と浅ましく邪なことばかり考えているのだろう。
(何か…気を紛らわせる何か、ないかな…)
  ツキトはソファの周辺をうろうろした後、それでも特に何も見つけられずに、その場にすとんと腰をおろして硬直した。テレビでもつけるか。いやしかし、リモコンまでが遠い。何故か身体が硬直して動けないから、それに手を伸ばすことは無理だ。が、何もせず、こうしてここで固まっているだけなのも不自然だろう。志井が見たら何と言うか。
「ツキト?」
  案の定、それはあっという間に見つかってしまった。
  しかし志井はツキトの強張りにはあまり意識が行っていないのか、グラスに麦茶を入れて持ってくると、それをテーブルの上に置き、「待っているだけだと退屈だろ」と気遣ってきた。
「これ、ツキトが喜ぶかと思って買っておいたんだ。前にこの作家の描く挿絵が好きだと言っていただろ」
「……わ」
  それは欧州の有名なイラストレーターの画集だったが、ツキトも名前だけ知っていて、当人のまとまった作品を目にするのはこれが初めてだった。また、これまでに見てきたのは別の作家が書いた絵本の挿絵ばかりだったから、いざ画集を見るとまた印象が変わって見えて新鮮だった。
「この人、画集出してたんだ」
「つい最近のことらしいぞ。日本にはファンが多いから、注文したらすぐ取り寄せてもらえた。完全オリジナルだと雰囲気違うよな?」
「うん、凄く暗い…けど、綺麗。何でこんな透明な…」
  思わず1ページ1ページ息をのむような気持ちでめくっていると、志井が傍で嬉しそうに息を吐いた。
「それ見ていろよ。その間に夕飯の支度するから」
「あっ…。でも、本当に手伝わなくていいの?」
  すでに画集から手を放せなくなっているのに口だけそう言うと、志井はそんなツキトに笑って目を細めた。
「いい、いい。こういうのは一人でやった方が早いから。ツキトは遅いからなー」
「えー? ひどいよ、そんなのっ」
「はは、冗談。けど今日のは、俺も手順確認しながらだから、手伝ってもらえることないんだ。それに今日も時間あまりないだろ? 早く作らなくちゃな」
「えっ…」
「門限、早いよなぁ。ま、今さらそれに文句を言っても仕方ないか」
  志井がツキトを門限までに帰すつもりだと分かって、ツキトは思わず絶句した。
「俺っ」
  だから思わず、といった体で、ツキトは志井のシャツの裾を引っ張り、台所へ行こうとするその足を引き留めた。
「ん?」
  当然、志井は驚いて振り返ったが、ツキトは舌がもつれてなかなか言葉が出なかった。頭の中では言葉も揃っているのに。今日は門限なんて気にしなくてもいいんだ、むしろ帰らなくてもいいんだ、と。
「あの、今日、太…」
  何故って、兄の太樹は仕事で海外へ行っている。家にはツキトしかいない、だから帰りを咎める者もいないから、と。
  それだけ言えればいいのに。
「ん?」
「あ、だから、兄さ…」
「ああ、知ってる。兄貴、今回は東欧だってな。ていうか、今日話したぞ。話したくなかったけどな、仕事で仕方なく…」
「えっ…?」
「まぁ嫌なら引き受けなければいい…って話なんだが。結構、兄貴の持ってくる仕事面白いし、それで奴の機嫌を稼げたらいいという俺のこすい考えも…」
「え、あ、志井さ、兄さんと何を…」
「あぁっ、悪いツキト! 俺、今、確実に変なこと言ったな!? 気にしないでくれ、こっちの話だ!」
「えっ、いや!」
  互いがそれぞればらばらな方向で混乱している。
  そのことはツキトにも分かったが、急にあたふたする志井にツキトの方も焦ってしまって追求できない。ただ、志井が逃げるように台所へ向かいながら、「とにかく、兄貴からは聞いているから大丈夫だ、課題の邪魔はしないからな!」と言う発言があり、どうやら太樹が、現在ツキトが打ち込んでいる制作の話を持ち出して、「いつもの門限を守る」よう、志井に釘を刺したのだろうことだけは分かった。
  ツキトはその場にぽつんと立たされ、結局、「今日は泊まれる」と言いそびれた。




後編へ…


戻る