刈谷から頻繁に手紙が来ている事を知った夜、ツキトは志井の寝室をノックした。
「志井さん…」
「どうした?」
  その日は一日中ザーザーと激しい雨が降っていて、ツキトは志井が仕事から帰ってくるまで家の中の事も何もする気が起きず、殆ど死んだように横になっていた。そのせいで余計に眠れないというのもあったのだが、散々迷った挙句に訪れたその部屋で志井が仕事をしていたらしい姿を認めた時はどっと後悔の念に襲われた。デスクの上で煌々と光るパソコンの光がひどく眩しかった。
  ツキトは寝巻きの上着をぎゅっと掴むと済まなさそうに項垂れた。
「ごめん…。仕事中だったんだ」
「別にいい。それよりどうした?」
「うん……」
「………」
  何か言いた気にしつつも何も発しないツキトを志井は黙って見つめていた。けれどそれも実際はそれほど長い時間ではなく、志井は顎でしゃくるようにして自分のベッドを指し示すと柔らかく笑んだ。
「いいんだぞ、使っても」
「え…」
「その為に来たんだろ?」
「……うん」
  志井の許可に一瞬は戸惑いを見せたツキトだが、そう言ってもらえた事はやはり素直に嬉しくて、ツキトはそのままそそくさとその場所―志井のベッド―に直行した。
  寝室は別々だが、時々気持ちが不安定になりどうしても抑える事ができない日があると、ツキトはこうしてよく志井のベッドに潜り込んだ。それでも、ならいっそのことダブルベッドを買おうと言う志井の言葉には、ツキトは頷く事ができずにいた。一緒には眠りたいが、志井と「寝る」事はできない自分。志井に抱きしめてもらう事だけは、最近では以前よりもずっと望んでできるようになったが、それでも直接肌を合わせる事はまだ怖かった。そんな状態で寝室を完全に一緒にする事にはやはり抵抗があった。
  いつだって甘えているくせに。
  頭から被ったタオルケットの中からツキトはただじっとしてパソコンに向かっている志井の背中を眺めた。窓から見える水滴と雨の音と。時折資料をめくる志井の指と紙の擦れる音と。それらをただ感じ、徐々に意識は遠のいていく。それが大体のパターンだった。

  志井克己 様

  それでもあの封筒を見つけた時の自分を思い出し、ツキトはゾクリと無意識に身体を震わせ、ぎゅっと唇を噛んだ。
  志井の部屋でそれを見つけたのは偶然だった。たまたま机の整理をしていて考えなしに表に出ていた物を引き出しに仕舞おうとしてそれを見てしまった。志井宛だったし、そのままにしておけばいいものを、あまりに何通もかさ張って入っていたものだから、ツキトはつい差出人の名前を覗いてみたくなってしまったのだ。そして目にしてしまった。住所は志井の職場宛てになっていたから、ここの事は分かっていないのかもしれない。思えば志井は刈谷の友人の話はしたくせに刈谷のその後の事は何も言わなかった。刈谷は病院にも来なかったし、ツキトも彼のその後が気にならないと言えば嘘になるが、志井にその話をする事はできなかった。
  だから衝撃を受けたのだ。刈谷が志井に何らかのコンタクトを取っていたということ。
「ツキト」
  その時、不意に志井がベッドのすぐ傍にまで来ている事に気づいて、ツキトは驚いて目を見張った。いつの間にかパソコンの電源も落ちている。志井は部屋の電気を消すとそっとツキトの前髪を撫でながら囁くように言った。
「俺もここで寝ていいか?」
「うん」
  一緒に眠って欲しいからここに来たのだとはさすがに言えなくて、ツキトはただ小さく返事した。志井がベッドに入ってくるのをドキドキとした気持ちで待ちながら、ツキトはすぐ傍にやってきた相手の胸元だけをじっと見詰め、はっと息を吐いた。
「ツキト…」
「うん…」
  いつものようにそっと遠慮がちに腕を回される。ツキトはくっと近づいて鼻先を志井の胸に押し付けた。最初の頃はこんな事すらできなかった。どうしてだろう、誰よりも志井の熱を欲しているはずの自分が自ら遠ざかるような真似をするなんて。
  矛盾していると思う。
  好きで離れて欲しくないから、右手が動かない。
  好きで離れて欲しくないくせに、志井を受け入れられない。
「克己、さん…」
「ん……」
  時々試すように名前で呼ぶと、志井は途惑ったようになりながらも嬉しそうに抱きしめる腕に力を込めてくれた。ツキトはそんな志井に頭を預けた格好で身体を丸めながら、恐る恐る片手を志井の胸に持っていった。
  とくとくと聞こえる心臓の鼓動。一体どちらのものなのだろう。
「克己さん…」
  もう一度呼ぶと志井は今度は何も応えなかった。けれどその代わりというように自分の胸に身体を預けるツキトの額にそっと触れるだけのキスをしてきた。ツキトはそんな志井にまたズキリと痛む胸を感じながら、唇を戦慄かせた。
「俺……いいよ?」
「ん?」
「いいよ…」
「何が……」
  本当に意味が分かっていないように志井は怪訝な声で聞いてきた。
  ツキトはごくりと唾を飲み込んだ後、今度はもう少し強めの口調ではっきりと言った。
「好きだから」
「……うん?」
「しても、いい」
「………」
  別に今夜が初めてというわけではなかった。何度か、こうやって志井のベッドに入り込んだ時のツキトは自分自身を試すようにそう言っては志井とセックスがしたいと訴えた。
  大抵は途中でツキトが泣き叫んでベッドから転がり落ち、うずくまってしまって終わりなのだけれど。
「お前…怒ってる?」
  すると志井が突然そんな事を言ってきた。え、とツキトが意表をつかれたようになって初めて顔を上げると、そこには自分こそが意外だと言わんばかりの戸惑いの色を放っている志井がいた。
「どうして俺が…?」
「俺が隠し事してたから」
  刈谷の事を言っているのだろうとすぐに分かってツキトは嘆息した。
  仕事から帰ってきた志井に手紙のことを聞こうかどうしようか悩んでいるうちに、その事はあっさりとバレてしまった。志井はツキトに「机開けたか?」と別段怒った風もなく言い、それから「隠してて悪かったな」と大して悪いとも思っていないような口調で言った。そして志井は、刈谷はツキトに会いたがっているが、自分がどうしても会わせたくないから相手にしないのだ、でも向こうは呆れるくらいにしつこいのだと語った。それから、最近の刈谷は真面目に働いているらしいという事も、志井は憮然としながらもツキトに伝えてくれた。
「怒ってないのか?」
  再度そんな風に訊いてくる志井にツキトは困ったように苦笑した。
「………そんなの。それに、もし俺が怒ってるんだとして、そしたらこんなこと言うわけないじゃないか」
「そうか? お前が俺とやろうって言う時、お前大抵自棄になってるんだよな」
「そっ…」
  志井のその言い様にツキトが慌てて反論しようとすると、唇を手で抑えられ先を制せられた。
「んっ」
「なってるんだよ。自分に対しても俺に対しても何かイライラしてて…ああ、そういうんじゃないのかもしれないけど…。けど、どうでもいいって時とかにお前って俺に迫るだろ」
「……不安なだけだよ」
  ツキトがいじけたように言うと、志井は鼻だけで笑い、ふっと息を吹きかけてきた。ツキトがそれでくすぐったそうにすると、その鼻先に唇を近づけ挑むような言葉を吐く。
「それはこっちの台詞だ」
  そうして志井は言いながら片手でひょいひょいとツキトの寝巻きのボタンを外していった。ツキトはそれで「あ」と思ったが、それでも黙って目を瞑りそんな志井の言うなりになる。開かれた先からすっと夜の冷気が肌に差し込むような気がして、もう夏も近いというのにツキトはぶるりと身体を震わせた。
「嫌か?」
「違う…」
「けどツキトの顔。とてもこれからセックスしようって顔じゃないな」
「志井さんこそ…」
「俺が何だよ」
  ツキトは確かに自棄になったように口を尖らせると、今度は自分がと志井のシャツのボタンを外していった。露になった志井の逞しい身体を見つめ、カッと顔が熱くなりながらも精一杯の虚勢と共に言う。
「そのうち…俺と一緒にいるの嫌になる…。こんな…ただの役立たず…」
「何言ってんだ」
「そうなんだよ…っ。だって俺、志井さんのこと好きなくせにいつまで経っても不能の役立たずだ…。俺…だって俺、怖いんだ…。思い出すだけで、つ、辛く…!」
  ズキンと胸が痛んでツキトはその先の言葉を出す事ができなくなった。
  刈谷の名前が書かれた封筒が瞬間脳裏に浮かび上がる。するともう自動的にあの忌まわしい過去の出来事がフラッシュバックしてきてツキトの全身はめちゃくちゃになった。
  刈谷の事を心底恨んでいるわけではないくせに、まだこんなに自分は弱ったままなのだ。
  志井と一緒にいられるのに、まだこんなに。
「なあ…ツキト」
「ん……」
  瞼にちゅっとキスをされてツキトは出しかけた言葉を引っ込めた。赤面して顔を上げると志井の視線ともろにぶつかり、余計に口がきけなくなった。
  志井はそんな事は始めからする必要ないとばかりに、今度はツキトの唇に自分のそれをそっと重ねた。
「………」
「なあ。ツキト」
  志井がもう一度呼んだ。
「お前を抱けないことを平気だと言ったら嘘になるが、俺はこういうのも嫌いじゃない。……お前が俺の傍にいてくれるなら」
「………」
「こうやって一緒に、お前が俺の胸に縋ってくれるなら。お前が俺を必要としてくれるまでずっとこうしていたい」
「俺…志井さん、ずっと必要だよ…」
「………」
  黙りこむ志井に急激な焦燥感を抱いてツキトは志井の胸に唇を当てると何度もそこに自分からのキスをした。志井のものがどんどんと熱を帯びていくのが分かる。自分は何て酷い事をしているのだろうと自覚しているのに、自分のそれは一向に高まっていこうとはしなかった。ズキズキとただ胸の奥が、身体の芯が痛むだけで。
「俺、最低だ…。でも、志井さんに傍にいて欲しいんだ…」
「ずっといる」
「絶対…」
「絶対にもう離れない」
  志井は強く言い、そうしてツキトのまだその年齢には細すぎる身体をぎゅっと抱きしめた。
「震え、が」
  がくがくとする身体が徐々に収まっていく。
  ツキトは志井にしがみ付いたまま、その震えがなくなっていくのをじっと待った。息を殺してただ耳をすませると、志井の息遣いや「愛している」という甘い声だけでなく、外の雨音や空気の揺れる音すら聞こえるような気がした。


  何て安心で何て素晴らしい愛しい時。


「志井さん…」
「愛してる、ツキト」
  催促するように呼ぶと耳に甘いキスの感触と共に望む言葉を囁かれる。
  ツキトは今度こそ目を瞑り、そして眠りに落ちた。



  明日になったらまた今よりももっと、自分はこの人を愛しているだろう。



【完】




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