昔から何でも器用にこなし、近所でも評判の「できる子」だった。 学校の成績も常にトップクラスで、スポーツも何でもこなした。幼い頃からピアノを習わされていたので音楽の授業でもいつも注目の的だった。絵に関しては今ひとつ才能に欠けていたが、粘土細工や彫刻刀を扱うのは割と得意だった。容姿も良く、要領の良い性格で周りにはいつも誰かがいたし、異性や時には同性からも告白を受けた。 けれど志井は両親より心からの賛辞を贈られた事は一度としてなかった。 「克己は結局、器用貧乏なのよね」 「お前も、何かひとつの事に集中して取り組めたらいいんだが」 赤の他人から見れば「できる子」でも、彼らにとって志井は決して満足のいく息子ではなかった。彼ら自身、別段取り立てて何かに優れていた人物というわけではなかったのだが、2人共自らの財産を増やす事には異様に熱心で、またその為には努力を惜しまない人間だったから、何につけても冷めた態度の息子が掴み所のないつまらない人間に映ったのかもしれない。 しかし志井の方では自分に対しそんな苦言を呈してくる両親を憎んだ事はなかった。むしろこんなつまらない自分に何不自由ない生活を与えてくれる事をそれなりに感謝していたし、だからある程度は尊重したいとも考えていた。一時期、どうしようもなく鬱屈とした気持ちになってひどく暴力的になった事があったが、それもそんな両親が黙ってコンピューターを買って寄越してくると「大人しくしていろ」という合図なのだと察し、従順にそれに従った。そうする事ができる子どもだったのだ。 何でも出来る。けれど何にも打ち込めない。 誰もが近づく。けれど誰にも心を開かない。 激しく荒い感情がある。けれどもそれを押し隠せる。 「俺、志井さんに絵を誉められた時、すごく嬉しかったんだ」 だから半ば強引に実行した共同生活でツキトからある日突然そう言われた時、志井は表情にこそ出さなかったが、何か得体の知れない強い衝撃を受けて暫し声を失った。 ツキトはそんな志井の様子になど気づく風もなく笑顔で言った。 「家族にはいつも否定されてばっかりだった。『絵だけ上手くても仕方ない』とか、『そんなものより勉強を頑張らないと食べていけない』とか。だから志井さんが才能あるって、凄いって言ってくれた時、本当救われた気がしたんだ。……ありがとう」 それが最初の嫉妬だった。 ツキトにはある。自分が欲しくて堪らなかった飛び切りの才能。一番になれるもの。打ち込めるもの。 そんな素晴らしいものを持つツキトを今まで誰も認めてこなかったという事こそ信じられないと志井は思ったが、当初はそれを自分が見つけた事が誇らしかった。多少の羨みはあったが、同じ両親に認められず育った、それでも自分のようにどこか暗い部分を生み出さずに真っ直ぐ純粋に育ったツキトを、志井はひどく眩しい想いで見つめ、そして慈しんだのだ。 それが、どうしてあんな風に離してしまったのだろう。 どうして気づかなかった? 「俺、志井さんが好きだ」 恥ずかしがり屋のツキトが、それでも精一杯の勇気を出して発してくれていた、その数少ない台詞。 「志井さんがいてくれるから、俺、描けるみたい…。最近、凄く描く事が楽しい」 そう言って笑ってくれたのに、それを疎ましく思うなんて。 一体どうしたら自分のこの罪を贖うことが出来るのだろう。 ―――今また、彼の右手を奪って。 零れ落ちた感情―10― キラキラと輝く新緑が本当に眩しく綺麗で、ツキトはつい志井の言いつけを破って先に病院を出てきてしまった。受付の所にいた看護士には言付けを頼んできたし、裏庭に行ってみるくらいは許されるだろうと思った。 「気持ち…いい…!」 延々と続くかのような緑の芝生と若葉芽吹く木々を見渡し、ツキトはぐんと両腕を伸ばした。ここ最近の中で、いや、もしかすると今まで来た病院の中でここがピカイチかもしれない。世話の行き届いたその庭をゆっくりと歩きながら、ツキトはすうと大きく息を吸い込み、そして吐いた。診察時間は大して長くないけれど、やはり大学病院は待ち時間が長過ぎる。こんなに良い天気に午前中がそれだけで潰れてしまうのはやはり勿体無いとツキトは思った。 「あ」 その時、ツキトはふとベンチに座って絵を描いている長い黒髪の少女と顔を合わせ、足を止めた。ピンクのパジャマに白い薄手のカーディガンを羽織ったその子は見たところ7.8歳というところで、ここの入院患者らしかった。目の前の花壇に咲き乱れている花を熱心に描いていたが、ツキトを認めると人懐こそうな笑顔を向け、くるくるとした大きな目を輝かせた。 「こんにちは!」 「あ…こ、こんにちは」 先に挨拶されてツキトは照れたような笑みを浮かべた。ゆっくりと近づいてペンチを指し、「ここ、いい?」と訊くと、少女は嬉しそうに頷いた。 「絵を描いてたの?」 「うん! 絵がね、好きなの!」 少女は屈託なく笑うとそう言い、恥ずかしそうにモジモジとしつつも、手のひらで隠していたスケッチブックをぱっとツキトに寄越してきた。 「へえーすごく上手だね!」 ツキトが心底感心したように言うと、少女はたちまち嬉しそうな顔で大きく頷いた。それから不思議そうに小首をかしげ、ツキトを見つめる。 「お兄ちゃんも病気?」 「え…うーん。どうだろ」 「どこが悪いの?」 ズバリ訊いてくる少女にツキトは苦笑しつつ、ゆっくりと右の甲を見せながら言った。 「手がね、動かないんだ」 「? 動いてるよ?」 膝の上で空に浮かしたツキトの手を少女は不思議そうに見つめた。ツキトはそんな少女には視線を向けず、ただ柔らかく微笑したまま掲げた右手を左手で包み込むようにして触った。 「うん。普段はちゃんと動くんだ。箸も持てるしね。物だって運べるし……」 「それじゃ病気じゃないね!」 「うん…。でも…」 けれどツキトが言い淀みながら先を続けようとした時だった。 「ツキト!」 「あ……」 病院の建物からだっと駆け寄るようにして自分の方にやってくる志井をツキトは驚いたように見つめた。ここにいると言ってきたのに、あの慌てっぷりはやはりまずかったのだろうかと心の中で多少慌てる。 案の定、目の前にまで来た志井は荒く息を継ぎながら怒ったように声を上げた。 「勝手に外へ行くなと言っただろう! お前はたかだか10分もじっとしてらんないのか!?」 「ご、ごめん志井さん…。あんまりここが綺麗だったから…」 しゅんとなって謝るツキトと横で怖いものでも見るような目で固まっている少女に、志井はすぐさま我に返ったものの、ぼそぼそと不満気な声で尚も言った。 「散歩なら…この後幾らでもできるだろう……」 「うん…」 「1人で勝手にどこかへ行くな…」 「うん……。あっ?」 もう一度謝ろうかと逡巡しているツキトに、志井は有無を言わさず腕を掴むと自分の傍に引き寄せた。そしてそんな自分の所作に焦るツキトには一切構わず、そのまま引っ張るようにしてその場から連れ出す。 「志井さん…?」 「行くぞ」 焦ったような声を投げかけるツキトに志井は応えなかった。相変わらず強引なのだが、こうなってはもうツキトには止められない。 「さ、さよなら…!」 ぽかんとしている少女を振り返り見ながらツキトは笑って空いている片方の手を振った。殆ど反射的にだろう、手のひらをひらひらとさせて同じく「さよなら」をしている少女から声は返ってこなかった。ツキトはその光景に「はは」と小さく苦笑を漏らしたが、それも志井には届いていないようだった。 志井が再び口を開いたのは、駐車場に停めていた車にツキトを押し込んで完全に2人きりになってからだ。 「俺がさっき何て言ったか覚えてるか」 それはツキトが言いつけを守らなかった時いつも言う、志井の言い含めるような決まりきった台詞だった。 「お、覚えてるよ…」 ゆったりとした広いスペースのある志井の車の助手席はツキトのお気に入りの場所のひとつだ。…が、こんな時はひどく窮屈に感じる。ツキトは小さくなりながらもう一度謝った。 「ごめん…。志井さんがお医者さんの話聞いてくるまで、前の待合室で大人しく待ってろって…言われた」 「もうひとつ」 「もうひとつ?」 こちらをじろりと睨んでくる志井にツキトは驚いて目を丸くした。何だろう。まだ何かしただろうか。困惑していると志井はすっと顔を寄せ、ツキトの頬を引っ張り軽く捻るようにしながら言った。 「知らない人間とは、は・な・す・な」 「いっ…! いたたた! 志井さ…ちょ、知らない…って?」 「聞こえなかったのか? 知らない人間とは話すなと言っただろう。お前は俺の言いつけをまた2つも破った」 「だ、だって、小さな女の子だよ…?」 「それが何だ。ガキは人間じゃないとでも言うのか?」 「いや…そういう事じゃなくて…。もう…っ。でも、思いっきりつねる事ないじゃん!」 「つねってない。引っ張っただけだ」 「同じ事だよ! 痛かっ……んっ!?」 けれどツキトは文句の言葉を言う前に身体を寄せてきていた志井によってその唇を塞がれてしまった。 「ん……」 はじめこそ驚いてその腕を掴み、引き剥がそうとするツキトだが、やがていつもの如く従順になってその口づけを受け入れる。どきんどきんと高鳴る心臓は何だか身体に悪いような気がしたけれど、それでもぎゅっと締め付けるような胸の疼きはこれでいいんだと脳に命令を下していた。 「……ツキト」 やがて唇を離すと、志井はツキトの唇についた自らの唾液を指で拭くようにしてから甘い声で言った。 「……さっきは怒鳴って悪かった」 「あ…ううん…っ」 その言葉にツキトが慌ててかぶりを振ると、志井も優しく目を細める。それでツキトがますます焦ってしまう事を知っているくせに。 「お、俺も、言うこと守らなかったし」 「………」 「志井さん、お医者さん何だって…?」 「………」 「ちょ…何で黙って…もう、そんな見ないでくれよ!」 「ふ…」 「あ!」 からかうような目を向けられて、また唇を塞がれた。最近になってようやくキスできるようになった事が志井は嬉しくてたまらないらしい。それは自分もだけれど、何だかこんな風に急に今までの分を取り戻すような回数されると、ツキトはまた動悸が激しくなってしまう己を抑えられない。 「志井さ…」 「ここの医者も駄目だな」 すると唐突に志井は言った。 「詳しい診断は今日の精密検査の結果を見ないと何とも言えないそうだが、あの言いっぷりじゃ、どうせ大した事は言わないな。評判がいいと言っても、結局どこも同じだ」 「………」 「でも心配するな、ツキト」 何も言わないツキトの前髪をそっと指で絡めながら志井は言った。 「また来週、腕のいい医者のいる病院へ連れて行ってやる。お前の右手、ちゃんと治してくれる奴の所に連れて行ってやるから」 「うん……」 「そしたらまた描けるようになる」 「……うん。そうだね」 ツキトは暫し黙り込んだものの、すぐに明るい声を出すと頷いて見せた。不安な顔をして志井に心配をかけるのは嫌だった。 あの事件をきっかけに、志井の元へ戻ったツキト。戻れたツキト。 ムラジが警察に連行されて完全にその姿を消した後、殆ど無理やりに病院に入れられ入院を余儀なくされたツキトは、10日程病院生活を送った後、当然のように志井の家へと連れて来られた。ツキトが入院していた時もほぼ毎日病院に来ていた志井だったが、その退院の日も当たり前のようにやってきて「帰ろう」とただ一言言ったのだ。 ツキトは流されるままにその誘いに乗った。 ただしその「帰る家」は元の共に暮らしていたあの家ではなく、都心からやや離れた場所にある17階建ての新築分譲マンションだった。4LDKのその広過ぎるリビングの一室からはその最上階から海が見渡せる最高のロケーションで、ツキトはその光景にただ唖然とするばかりだった。 そして驚いた後はひどい罪悪感に駆られた。 志井は「前の家に飽きたから」などと言っていたが、それが恐らくは自分の為なのだろう事はさすがのツキトにも分かったから。忌まわしい過去を思い出す全ての風景から、志井はツキトを離したかったに違いない。 志井はツキトにムラジとの関係を何も訊かなかったし、刈谷の事も何も言わなかった。 ただ志井がムラジを倒した後にやってきた警察を呼んだのは刈谷の友人アキラ―ツキトをホテルにまで避難させてくれた人物―だったようで、彼の話だけは志井はちらとだけツキトに話して聞かせた。彼もまたムラジによってひどい怪我を負ったが命に別状はないという事、その時クスリに手を出して常軌を逸していたムラジは他にも多くの人間を傷つけていたという事。それ以外にもあの狂人には多々余罪があったという事。それだけを言い、志井はそれきりツキトにその話をするのをやめた。実際志井自身、今回の一件でツキトが病院にいる間何回か警察に呼ばれたらしいのに、その事についても志井は「何も心配する事はない」と言うだけだった。 「お前は何も心配する事ない。これからは俺が一緒にいる」 そしてその後、志井はあの夜電話口から発した時と同じようなひどく心細い声で言ったのだ。 傍にいてもいいか、と。 ツキトが暫し何も言わずにいると、志井は歪めていた顔を逸らすようにしてからぐっと唇を噛み、そして言った。 「愛してるんだ……」 その日を境にツキトは絵を描く事が、筆を握る事ができなくなった。 「まだ震えるか…?」 「え……」 キスを終えた後、志井がツキトの右手の甲をさするようにしてそう言った。 「あ…大丈夫だよ」 いつの間に。ツキトは慌てて右手を引っ込めようとしたが、志井に押さえられてそれは叶わなかった。 誰かに触れられると身体のどこかがぶるりと震える。それは相手が志井でさえ、そうだった。 「痛くないか?」 「うん」 「………」 それでもしきりに自分の手を撫でる志井をツキトは胸の痛む想いでただ見つめた。 手が震えるんだ、と。 共に住む事に頷き、そしてようやく心も落ち着いてきたある日。 久方ぶりにスケッチブックを開いたツキトはがくがくと揺れてどうしようもなくなっている右手を掲げながら志井にそう言ったのだ。 あの時の茫然として立ち尽くしていた志井の顔をツキトは忘れられない。 「ツキト」 「志井さ…ん…っ」 また。 顎を掬われて唇を吸われると、ツキトはもう志井に流されるままに身体を預け、目を瞑った。志井の唇の感触がこちらにすっと伝わってくる。その感覚が堪らない。何故か泣き出しそうになってツキトは困ってしまった。 「……ツキト」 「あ…」 しまったと思った時にはもう涙が零れていて、ツキトは慌てて顔を逸らした。 「ごめ、俺…!」 「いい」 けれど志井はすぐにそう言ってツキトの涙を指で拭い、じっと優しく見つめると寂しそうに笑った。 「ごめんな。しつこくし過ぎたな」 「ちが…。俺、いいんだ!」 「ああ…」 「本当に! 俺、嬉しい、から…!」 「分かってる」 志井は慌てるツキトの頭を子どもに対するようにゆっくりと撫でてやり、それからようやく身体を離すと車のエンジンをかけた。 一緒に住むと決めたくせに、ツキトは何故か志井からの求めに応える事ができなかった。あの、ムラジに無理やり犯されてから後、ツキトの身体は石のように硬くなり、そして何の反応も示せなくなってしまったのだ。志井に優しく肩を抱かれても震える。手に触れられても思わず飛び退る。ゆっくりと目を合わせられても、泣きたくなるほど苦しくなった。こんな事ではいけない、志井に申し訳ない、いやむしろ自分こそが志井を求めているのに何故と。そう思っているのに、ツキトは志井を受け入れる事ができなくなってしまったのだ。 志井は別にいいと言ってくれたけれど。 そして最近になってようやく、少しずつ唇を合わせる事には慣れてきたのだけれど。 「ツキト」 「あっ」 思わずぼうっとしてしまったツキトは、志井の声にはっとなって顔を上げた。 「ほら」 志井はそんなツキトを優しく見つめた後、取り出した薄っぺらの情報誌を投げて寄越した。 「俺たちの休日はこれからが本番だろ。この辺りの1番は蕎麦屋とカツ丼屋と鰻屋だそうだ」 「1番って…3つも」 「ああ。雑誌によって言ってる事が違う」 「まさか…全部行くの?」 「どれが本当の1番か確かめないとな?」 ややひきつるツキトに志井はあっさりと笑って返す。そういえば昨夜もこれと似たような雑誌を部屋に数冊は抱えて読んでいたっけ。そんな事を思い返しながら、ツキトは毎週末必ず自分を何処かへ連れ出してくれる志井の横顔をじっと見つめた。 好きだと思った。 「折角週末の度に遠出してるんだ。うまいもん食わないと損だよな」 志井がアクセルを踏み車を発進させる。ツキトはそんな志井にわざと少し抗議めいた口調で話しかけた。明るい話がしたかった。 「それでいっつも食べ過ぎちゃうんだよ、俺」 「いいじゃないか。少しは太れ」 「太ったよ」 「まーだ」 「まだ?」 「そう」 「もう…」 呆れたようにため息をつくツキトに、志井は前方を見つめながら静かに笑っている。 「お前を食べさせるのが俺の生きがいなんだ」 志井は言った。 「だからお前はおとなしく俺について来ればいいんだ。シートベルト、ちゃんとしてろよ?」 「……うん」 素直に頷いてからツキトは志井の言う通りにベルトをつけ、視線を前へやった。 来週も再来週も。そしてまたその次の休日も。 志井はきっとまたこうして自分を知らない土地へと連れて行ってくれるのだろう。自分の動かない右手の為に、臆病故に前へ進めない自分の為に、こうして奔走してくれるのだ。 「志井さん、俺、最初は鰻がいいな」 「ん…よし。そこにしよう」 こんな風に。 その休日をまるで何か楽しい祭り事のように心待ちにしている自分には、きっとそのうち罰が当たる。それでも暫くはこの幸せを噛み締めていたい。そう思った。 そしてツキトは心の中だけで呟く。 「もしこのまま右手が動かなくても…本当はきっとそれでいいんだ。俺、今なら左手でも足でも口ででも…描いてみたいって思っているから」 |
エピローグ… |
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