フリスビー



  その日はこれでもかというくらいの底抜けに明るい晴天で、友之はそのあまりの眩しさと熱気に思わずくらりと身体を揺らした。
「弱いなぁ、もう」
「あ……」
  そんな友之を背後からがっしりと支えてきたのは数馬だ。
  同じ年齢だというのに頭ひとつ分背の高い数馬は、こういう形でなくとも常に友之を見下ろす格好になる。それでもその眼光に威圧的なものを感じさせないのは、偏に数馬の人格に拠るものだと言えるだろう。
  もっとも、相手に投げかける言葉はいつでも辛辣である事が多いのだが。
「トモ君、キミちょっと大丈夫? そんなんで一日めいっぱい遊べるの?」
「うん…」
  しかしそうは返答したものの、実際半袖シャツから覗く肌にじりじりと射すこの暑さは、とても夏前の気候とは思えなかった。家を出る時、光一郎が心配したように帽子を被っていけと言ったけれど、そうしてきて本当に良かったと、友之は改めて自らのキャップ帽を深く被り直した。そう言えば裕子などはいらないと言うのに、きっと喉が乾くからと過剰なまでの「ジュース代」を持たせてくれた。そうして今日という休日を共にする「お友達」数馬には、友之の具合が悪くならないようしっかりと付き添うのよと何重もの念を押していた。
  勿論、そんな言葉を素直に聞く数馬ではないけれど。
「あのさあトモ君。もしキミが途中で倒れたとしてもボクは知らないよ? そんな面倒臭いの。他人のフリして帰っちゃうからね」
「うん、分かった」
「………あのな」
  自分の意地の悪い台詞にすぐに頷いて見せた友之に、数馬はすっと目を細めると実に嫌なものでも見るような顔で低い声を漏らした。
「お仕置き」
「いたっ」
  そうして数馬は友之の日に焼かれ、じりりと熱くなっている二の腕をぐにっと思い切りつねって言った。
「置いてくわけないだろっての! ちょっとは『そんなの嫌だ』とか『駄目だ』とか言い返せよな〜!」
「……だって」
「だって何。すぐ後続ける!」
「だって、迷惑だと思うから…」
  尻すぼみ小さくなっていく友之の声を嘲笑うようにして数馬は言った。
「ああ迷惑だね。でも何も言わないで黙ってのたれ死にされる方がもっと迷惑でしょ…って、あ〜もうっ! 何でこんな話になってんのさッ。行くよ、トモ君!」
「あっ、数…ッ」
  半ばイラついたようにそう声を投げ捨てた数馬は、途惑う友之を本当に無視して置いて行くような勢いでズンズンと駅に向かって歩き出してしまった。
  友之は慌てたようになってただ必死にその後を追った。


×××


  「デートしようか」と言ったのは数馬だった。
  それは先週の日曜日、野球の練習が終わった後のグラウンド横での出来事で、目敏くその現場を見つけた中原正人などはガーガーとそう言った数馬を責め立てた。数馬としては「練習日以外特にする事もない、いつも陰気でカワイソウな引きこもりトモ君」を外へ連れ出してあげるのだから、誉められこそすれ何故自分が責められるのか分からないと、一見至極尤もな意見を述べたのであるが、そんな言い分は長い事彼らの兄貴分をしている中原には全く通用しなかった。
「お前は存在している事それ自体が怪しい。だからそんなお前がトモと出掛けるなんざ認めねえ」
  仮にも可愛い後輩に酷い言いようだと、数馬は正人のその主張に冷めた目を向けてため息などもついてみせたが、2人の言い争いは周りのチームメイトたちが見守る中、不毛にも数十分は続いていたと思う。
  その言い争いを止めたのは、当たり前だが当事者の友之だった。それも中原との言い合いに疲れた数馬がさっと友之に話を振ったからこそであるが。
「トモ君はさ、ボクと出かけたい? 出かけたくない?」
「………」
  その訊き方には「君が僕の誘いを断るわけがない」という、どこか絶対の自信が含まれていた。
「ううん……」
  数馬の視線に押されるようにして友之は答えた。ちらと中原を伺い見ながら、けれど今度ははっきりとした声で。
「数馬と遊びに行きたい…」
「でしょ?」
「……ちっ!」
  数馬の得意気な声、それと中原の舌打ちはほぼ同時だった。
  数馬は自分の傍に立つ友之の頭を「イイコイイコ」などと言って撫でていたが、その様子を忌々しげに見やる中原は、先刻から手の中の煙草を箱から出したり仕舞ったり忙しなく動かしながら、その後フーッと深く嘆息して言った。
「トモ…。お前はこんなどーしようもないのの、一体どこを気に入ってんだ?」
  とはいえ、本当は中原も分かっているのだ。
  友之が香坂数馬という同じ年の少年をどこか「特別」に想っているということ。友之は兄の光一郎や修司、それに自分に対しては、その種類こそ各人異なるとしても、共通してどこか「絶対服従」のような気持ちを抱いているところがあった。だからこそ、光一郎がこうだと言えばそれはそうだと信じるし、修司がああした方がいいといえばその通りそうする。中原に至ってはただ恐ろしいから、常に怒られないよう細心の注意を払って行動する。それはそれで友之なりの好きな相手に対する接近の仕方なのだろうが、それでは対等な人間関係を築く事はできない。その点、年の離れた兄たちと違い、同じ年の数馬は友之にとってはある意味とても近く、そして親しみやすい存在であるに違いなかった。
  ……そんな事を数馬に言えば、この破天荒な後輩は「冗談でしょ」などと嫌な顔をするに決まっているのであるが。
「ったく、勝手にしろ」
  ベンチに座る自分の前で、背丈の違う数馬と友之が並んでいる。
  その様子をじっと見やった後、中原は投げ遣りのようにそう言い捨て、煙草の箱を握り締めた。数馬は堪えた様子もなく「はーい」などとふざけて答え、友之はただ困ったように言い淀むだけだった。
  けれど、次の日曜日に数馬と一緒に遊びに行ける事を許されて、友之はやはりとても嬉しかった。
  友之は数馬の事をもっとよく知りたいと思っていたから。


×××


  電車で何度か乗り継いで着いた所は、友之が今まで一度も来た事がない所謂レジャーランドだった。駅を降りるとすぐのそこは、周囲が割と豊かな緑で覆われていて、都内にあるとは思えない静観とした様相を呈していた。
  券売機で入園チケットを買う数馬の背中に友之は声を掛けた。
「遊園地?」
「ん」
  笑える事に中原正人大先輩は自分にお金をくれたのだと、数馬は出掛ける時に言っていた。だから「今日は全部自分の奢りだ」との事だったが、その数馬は中原がくれたお金でだろうか、買ったチケットと小さなちらしのようなパンフレットを友之に押し付けながら答えた。
「遊園地って程でもない。派手なジェットコースターもお化け屋敷もないしね。あ、でも何だろ、空中ブランコっぽいのとかはあるのかな。でも本当にちっさい子とか家族連れがのんびりお弁当食べにくる程度のピクニックランド、ってところかな」
「ふうん…」
  象やライオンが描かれている古ぼけたアーケードをくぐりながら、友之は結構な人で賑わっているそこを何とも不思議な面持ちで見上げた。
  何処へ行くのかと訊いた時、数馬は「キミが選ぶ?」とすぐに言った。友之が何処へ行っていいか分からない事など先刻承知の上でわざと訊くのだ。そうして案の定「何処へ行っていいか分からない」という友之に、数馬はいつものバカにした顔で言ったものだった。
「トモ君。行く場所なんかね、どこだっていいんだよ。デートって2人が一緒にいて楽しいって思う場所に行く事なの。だったら、キミとボクとのデートだったら、どこだっていいって事になるでしょ?」
  その言い分は友之には分かったような分からないような、そんな感じだった。
  それでもこの時を、こんなに大勢の人間がいる中を歩いても苦しいと思わないのも事実なわけで。
「さーっ。トモ君、キミまず何したい?」
「ん…。何でもいいよ」
「………」
「あっ」
  自分の返答にすかさず冷めた目をした数馬に友之は思い切り慌てた。すぐに飛んでこない鉄拳を不思議に思いながらも、必死に辺りを見回し、殆ど反射的に遠目にちらと見えたレース場を指し示した。
「あれ…っ」
「んー…。あー、ゴーカート? 何、キミ、あんなのがやりたいの?」
「………」
  別段物凄くやりたいわけではなく、否、むしろどちらかといえばやりたいと言える代物ではなかった。如何にも手狭なコース場を走る青や赤の「ミニカー」は遠くからじっと見つめれば見つめる程自分とは異世界の物に思えた。大体、運転を誤った子どもが時々別の車にぶつかったりしてコースから逸れている姿は、まるでこれから自分の身に起きる事のようで気が気ではなかった。
  そもそも、友之はゴーカートに乗った事など一度もないのだ。
「何してんのトモ君。早くおいでって」
「あっ…」
  しかしそんな友之には構わず、数馬はもうさっさと先を歩いて行ってしまっていた。「あんな物に乗りたいのか」と友之に言った割には、数馬は既にその気のようで、「ボクは青い車がいいなあ」などと、まさしく子どもそのものの発言をしてはしゃいでいる。
「あー。そういえばさ」
  けれどなかなかその場を動こうとしない友之に数馬は不意に思い出したようになりながら自らも立ち止まり、ぴんと人差し指を立てて言った。
「トモ君ってさ、ああいうの乗った事あるの?」
「……ない」
  ズバリ訊かれた事に安堵した反面、どことなく恥ずかしい気持ちがして友之は渋面を作った。何故恥ずかしいと思ったのかは分からなかったが、ともかくその時の友之は「ゴーカートを経験したことがない」自分を恥だと感じた。
  しかし数馬は嬉しそうにただ笑っただけだった。
「あーそうなの。それじゃあきっと楽しいね。じゃ、早く行こう行こう」
「あの、数馬…」
「大丈夫大丈夫。どんな運動オンチでも乗れるから。それに僕が後ろからついてってあげるから安心だよ? さ、行こう」
「………」
  また自分の不安全部を言い当てられてしまった。友之は沈黙したまま、仕方なく堅くなった足を無理やり前へ動かした。



「はい、それじゃどうぞ」
  灰色の作業着に腕章をつけた老齢の男性はまるで何かの機械作業のように次々とくる客を無機的にさばいていた。ゴーサイン以外の言葉といえば「こっちがブレーキ。こっちがアクセルね」という二言だけだ。
「はい、どうぞ」
  だから友之の時も係員はそれしか言わなかった。
  真っ赤な小さな車体にぎこちなく身体を押し込んで、友之は一瞬うろたえた様子を見せたが、背後の数馬は知らんフリしてこちらを見ていなかったし、レースの外では既に他の小学生や中学生らしき少年たちが今か今かと順番待ちをしていた。
  早く進まねば迷惑になる。
「……ッ」
  その一心で、友之はめいっぱいアクセルを踏み込んだ。
「わ…っ」
  車体はグオンという派手なエンジン音を立てて一気に加速し走り始めた。
「わ、わ……!」
  その猛スピードにハンドルが取られて、友之は20メートルも走らないうちに右端の路肩に激突した。グルンと車が鈍い音を立てて、未だ焦りの中アクセルを踏み続けている友之に不満の声をあげる。
「え、ちょっ…」
  友之は慌てて右足を上げ、意味もなくハンドルを何度か右に回したり左に回したりした。
  するとその瞬間、背後から。
「げっきとつ〜ッ!!」
「わあっ!?」
  その激しい衝撃に友之は思わず大声を上げた。
  後からスタートしてきた数馬が友之が乗っている車に思いきり追突してきたのだ。物凄い振動が腰から全身に行き渡り、友之は驚いて背後に迫ってきた数馬をさっと見やった。
  数馬はニッと軽く口の端を上げた。
「トモ君、何ノロノロしてんのさ。こんな真っ直ぐな道で止まってないでよ?」
「な、何でぶつかるの…っ」
「意地悪」
  数馬はあっさりとそう言ってから一旦離れ、「さっさと前行ってよ」と促した。
  友之が何とか方向を前に戻して走り始めると、また数馬はそれを煽ってやると言わんばかりに、更に自分の車のスピードを上げてきた。
「か、数馬…ッ!」
「さっさと走らないとまたガッチンしちゃうよー?」
「だ、駄目だってばッ!」
  見る見る過ぎ去る景色を感じる間もなく、ただ自らが押し潰すアクセルと数馬が与えてくるプレッシャーに翻弄されながら、友之は右へ左へと曲がるコースを無我夢中で走り続けた。
「はぁっ…」
  そうなってくるともう周りの声やら視線やらは全く見えなくなってくる。
  ただ、前へ行く事。ただ、数馬に追い抜かれない事。それに集中してただ走ればいいのだと、スピードについていけばいいのだと、それにばかり集中するようになってくる。
「うまいねー、トモ君! なかなかやるじゃない!」
  最終コーナーに差し掛かった時、背後で数馬が嬉々とした声でそう言ってくるのが微かに耳元に届いた。
「……!」
  友之はぱっちりと開いた視界の先と、その目指すゴールを前に耳に入ってきた数馬の声とを捉えながら、両脇から襲ってくる風にこの時初めて心地良さを感じた。
「す、すごい…!」

  だから結局友之はその後、3回も。

「ね〜、もういい加減にしてよ〜」
  数馬が泣き言を言うまで、友之は何回もその短いコース場でゴーカートを堪能してしまったのだった。




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