あいつは頭がおかしい。


  そう、いつも言われているような気がしていた。実際、自分でもどこかが壊れているのかもしれないと思う時がある。それは例えば、人と話すのが怖いと思ってしまうところとか。できる事なら、誰の視線にもぶつからずにすむ所でずっと眠っていたいとか。
  そう感じてしまった時に。
  それでも、ただ思うだけで現状をどうともしようとしない自分がいる事も知っている。

  友之はそんな自分が嫌いだと思った。





  『 やさしい時間 』 (1)
ー夕暮れの丘で・超番外編ー



「友之」

 帰りのHRと同時に教室を出た友之に声をかけ捕まえたのは、同級の沢海拡だった。
「帰るのか」
「…………」 
 頷くと、沢海はいつもの柔らかい微笑を浮かべてから、「俺は部活があるから帰るの19時過ぎだから」と、言わなくても分かっている事をわざわざ告げてきた。
「友之、今度の数学の試験範囲で分からないところがあるって言ってただろ? 帰ったらさ、一緒にやろうな」
 優しく言われて、友之はそれに流されるようにただ頭を縦に振った。沢海とは中学時代からの付き合いだと言うのに、やはりまだ慣れるという事がなかった。無論、他のクラスメイトたちよりは幾分話せる間柄なのだが。
 北川友之は高校2年生。
 都内でも比較的自由な校風の私立高校に籍を置いていた。まだ誕生日が来ていない為、年齢は16歳なのだが、それにしても他の高校生たちと比べてみても、友之は背が低く、痩せた身体をしていた。顔つきもどことなく幼さの残る風貌で、クラスの人間たちは別段悪気もなく、友之の事を女の子のようだとからかう事があった。
 友之は他人と接触をする事が異様に嫌いだった。人が嫌いなのではない。ただ、時々ひどく何もかもに耳を塞ぎたくなる事がある。そうなるともう何をどうされても駄目だった。一度塞ぎ込むと何をも受け入れず、自分の殻に閉じこもってしまう。そんなところがあった。だから中学校も途中から行かなくなり、内申書を重視する都立高校には進学できなかった。
 母親は既に病気で他界しておらず、元々素っ気無かった父親は再婚してから友之に対して一層冷たくなり、全くといって良いほど相手をしてくれなくなった。幼い頃は過ぎるほどにしょっちゅう友之の側にいた姉も突然家を出てから音信がなくなったし、唯一自分の面倒を見てくれ、今のこの私立高校への進学を勧めてくれた少し年の離れた兄も、大学の恩師の要望で数年間アメリカへ留学する事になってしまった。
 友之には誰もいなかった。
 ただ、そのことを寂しいと思っても、その思いが表に出ることはなかった。正直、どういう風に表に出して良いのか分からないというのもあった。だから友之はいつも黙として、ただ淡々と毎日の生活を送るだけだった。


「あら、北川君。お帰り」
 ぼんやりと歩いていた友之に、その時明るい声がかけられた。
「今日は学校どうだった?」
「…………」
 いつもと同じ質問なのに、いつもうまく答える事ができない。友之は困ったようにやや俯いた。
 友之に声をかけてきたのは柴田という壮年の女性で、友之が現在根城にしている高校生寮の管理人だった。
 学校を出て5分もしない所に、その寮はある。その割と新しい住居の道路前で掃き掃除をしていた柴田は、真っ先にそこへと戻ってきた友之に豪快な笑みを見せた。多少太り過ぎの観もあるその女性が笑うと、彼女の豊満な胸はゆったりと揺れる。友之などは押し潰されてしまいそうだった。
「相変わらず早いお帰りだねえ。ちっとは寄り道でもしてくればいいのに。どうせ部活もやってないんだから」
「……………」
 やはり何と応えて良いか分からずに友之が沈黙していると、柴田は勝手知ったるように片手を振ってから、手にしていたホウキを肩にかけて言った。
「おやつ。内緒で買っておいてあげたから。食堂でお食べよ。北川君にだけだからね。ーああ、同室の沢海君の分くらいもあるかな?」
「あ……」
「ん?」
「ありがとうございます……」
 友之がやっとの思いでぼそりと礼を言うと、柴田は嬉しそうに目を細めた。そうして、中へ入って行こうとする友之に思い出したように言った。
「そういえば、またお兄さんから手紙来ていたよ。部屋の机の上に置いておいたから」
「!」
 友之が驚いたように振り返るのを見て、管理人は再び笑顔を見せた。
「優しいお兄さんだねえ。よっぽど北川君の事が心配なんだよ」
「……………」
 友之はそれにはただ沈黙していたが、すぐに一礼をしてから、再び急いだようになってまだ誰も帰ってきていない住居へと足を向けた。多感な年頃の高校生たちを預かる管理人・柴田は、そんな友之の小さい背中を見て、そっとため息をついた。


 再婚した父親の所にいるのが窮屈で、友之は在籍している高校が提携している高校生専用の学生寮に入った。友之が通っている高校は元々自由な校風が売りなのだが、そんな学び舎に集ってくる学生は都内だけにとどまらなかった。だからこそ、学園の近くにそういった寮が建てられたわけだが、もっともそこはやはり高校生寮なだけあって、一室二名の狭い住居には違いなかった。
 友之は、同級の沢海と同じ部屋をあてがわれていた。偶然ではない。中学時代、不登校が続いていた訳有りの無口な少年と一緒に組ませるのに、沢海ほど適任な生徒はいないという学校側の配慮だった。友之もまるで知らない人間と同室になるよりは沢海と一緒の方がありがたかったから、その点についての不満は何もなかった。
 窓が一つの縦長の狭い部屋には、二段ベッドと個人別にそれぞれの机、それに小さい棚が一つだけある。トイレと風呂はユニットバスが慰み程度についていたが、部屋を出れば共同のものでもっと広いものがあり、風呂に関しては殆どの者がそちらの大浴場を使っていた。もっとも入浴時間は限られていたし、食事の時間も勿論決まっている。部活動で遅くなる者のみ、申請していれば後で部屋で食べる事が許されるが、門限も決まっており、今日日の高校生にとっては割と厳しい生活ではあると言えた。
 もっとも友之にとっては、そのどれもが別段どうということもないものだったのだが。


 友之が急いで部屋に入ると、机の上には言われた通り、一通の手紙が置いてあった。
 兄からの手紙。
 兄は恩師の方から留学の話を出された時も、自分は絶対に行かないと友之に言っていたが、ある日突然、「やはり行く事にした」と素っ気無く告げてきた。いつも冷たく、厳しい兄ではあったが、それでも友之はこの人は何となくずっと自分の事を見てくれると思っていたので、実際離れられた事はショックだったし、キツかった。
 ただ、後から兄の親友に、「お前の自立のためだろ」と言われ、友之は何だかうまく表現はできなかったが、とてつもなく恥ずかしい気持ちになり、心の中で赤面した。
 一人できちんとしていくこと。
 一人できちんと生きていくこと。
 それが求められていると思った。
「……………」
 それでも定期的にくる兄からの手紙は、やはり嬉しかった。
 友之は何度も何度も便箋に並べられた丁寧なその字を追い、それから何だかどっと疲れを感じ、そのままベッドへと潜りこんだ。

               *

 一体いつから眠りに落ちてしまったのか。
「友之」
 ふと呼ばれる声に反応して目を覚ますと、沢海がすぐ近くに立ち尽くしてベッドにいる友之を覗きこんでいた。
「腹減ってないか? 夕食どうする? もうじき食堂閉められるぞ」
「…………いい」
 ぼんやりと未だ覚めない夢の中で友之がやっと言うと、沢海は慣れたような目をしてから「そう言うと思ったけど」と言って、後は何も言わずに部屋を出て行ってしまった。しばらく目が覚めるまで横になっていた友之は、何となく首を横にずらして、壁にかけてある時計に目をやった。
 20時を少し回ったところだった。
「……………」
 むくりと上体を起こし、妙に明るく感じる部屋の電気を恨めしそうに見上げた。ただ、このまま朝まで眠ってしまわなくて良かったとは思う。目覚めた時にもう学校へ行く時間だったら、きっと行きたくないと思ってしまった事だろう。
「友之」
 その時、再び不意に部屋のドアが開いて沢海が戻ってきた。手には夕食の乗ったトレイがある。デスクの上にそれを置いてから、沢海は「やっぱさ。夕飯は食べた方がいいよ」といつものようにお節介な事を言った。
「……………」
「それとも、気分でも悪いのか?」
「……ううん」
 過剰に心配されるのが嫌で、友之はすぐに首を横に振った。それからゆっくりとベッドから抜け出して、机に向かう。まだ温かい味噌汁が美味しそうな湯気をくゆらせていた。
「おばさんがさ。あと、これも持っていけって」
 そうして沢海はその夕食の横に、パーカーのポケットに入れて持ってきたのだろう、何やら高価そうな包み紙にくるまれた洋菓子を二つ置いた。
「おやつ用意しておいたのに取りに来なかったって。何か寂しそうだったぜ?」
 おかしそうに沢海は言ってから、未だ机の前に立ち尽くす友之のために椅子まで引いてやった。
「ほら、早く食べないと冷めるから」
「………これ」
「ん?」
「1個は、きっと拡のだから…」
 友之はようやくそれだけを言って、二つ並べられたうちの一つの菓子を持って沢海の方へと突き出した。沢海は始め、きょとんとした顔をしていたが、「あ、そうなのか?」などと言ってから、嬉しそうに笑った。
「じゃ、貰うな。あ、あと俺、お茶持ってきてやるな!」
「あ……」
 自分で行くから、と言おうとする前に、沢海に先に部屋を出ていかれてしまい、友之は開きかけた口を再び閉ざした。いつもいつもこの人は何故自分にここまでしてくれるのだろうかと友之は覚めない思考の中でぼんやりと考えた。

 それから、机の上に置きっぱなしになっていた兄からの手紙をちらと眺めた。



To be continued… 


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