(2)



 中学の時から誰よりも目立っていた優等生は、学校を忌み嫌い、なかなか登校しようとしない友之の事を何故か執拗に構いたがった。
 元は不登校になる前、図書室でぼんやりしていた友之に沢海が声をかけてきたのが最初だった。沢海は同じクラスになる前から友之の事を知っていたと言い、戸惑う相手には構わず、ただ何事かを一生懸命話しかけてくるのだった。
 基本的に友之は同年代の、特に同性から嫌われる事が多かった。そのはっきりしない鬱的な態度は、相手を無性に苛立たせるようだったし、それに加えてたまに親切にしてくれる人間が現れても、友之がそんな人間にさえ何の反応も示さないところから、余計に「嫌な奴」、「つまらない奴」と思われてしまうのだった。
 けれど沢海は違った。
 どんなに友之からの反応が鈍くても自分から話しかける事をやめなかったし、いつも笑顔で接してきた。友之はそういう相手に対してどういう風な態度を取ったらいいのか分からなかったので、いつも無機的な表情のまま口をつぐんでしまうのであるが、沢海は他の人間と異なり、そんな友之の態度に不快な顔をする事はなかった。
 唯一、友之に要求してきたことと言ったら、自分の事は名前で呼んでくれということくらいで。


「あ、そうそう。友之、できるじゃないか」
 それぞれの机に向かったのでは一緒に勉強できないからと、沢海は壁に立てかけてあった折り畳み式のテーブルを取り出して、友之のすぐ側に座った。先日授業で習ったばかりの公式を使った例題を、友之は沢海に言われるままに黙々と解いていった。
 友之たちが通っている学校は取り立てて進学率の高いところではなかったから、勉強に関しては三年生以外生徒たちも割とのんびりしているのだが、沢海は偏差値の高い大学でも狙っているのか、今の時期から随分色いろな問題集を買って、時間があればこなしているようだった。そんな沢海が教えてくれる内容は、テストにも非常によく出た。
「じゃあ今度はこの応用問題な。できるか?」
「…………」
 友之に好きな教科はない。嫌いな教科もないが。ただ、全てに共通して言える事は、教科書の公式にない問題を出されると途端に手が止まるという事だった。こうしてこうしてこうやれば良い、という筋道が示されていれば、ある程度の事はできるし理解もできる。けれども、突然今まで考えていなかった事をほんのちょっとでも捻って指し示されると、頭の中が混乱した。
「難しい?」
 動きの止まっている友之に、沢海が察したような顔をして覗きこんできた。友之が困ったような顔をしてからこくんと頷くと、沢海はにっこり笑ってから代わりにノートを取ると、実に滑らかな口調で説明を始めた。友之はその面白いようにスラスラと動く沢海の手を黙って眺めた。
 兄もよくこうして勉強を見てくれたと思った。
「……な。こうすればできるだろ? 分かった?」
「あ……」
 はっとして我に返ると、そこにはまたこちらをじっと優しい目で見つめてくる沢海の顔があった。友之が慌てて理解もしていないまま頷くと、沢海は握っていたペンを机に置いてから「休憩するか」と言った。友之の集中力が切れたのが分かっているようだった。
「何飲む? 冷たいのとあったかいの」
「…………」
 自分でやるからと言いたいのに、やはり声が出なかった。沢海はてきぱきと何でも自分で動いてしまう。こちらの意図を先読みして何でもやってくれてしまう。これではいけないと思っているのに、気づくともう流されていた。
「友之? ……紅茶でいいか?」
「………うん」
 やっと声を出した友之に沢海は再び微笑してから、棚に入っているカップを二つ取り出して、側に置いてあるポットから湯を注いだ。割と日常で必要だと思うものを、沢海は実家からその都度調達してくるようだった。テレビのない部屋にMDプレーヤーを置いたのも沢海だったし、衣類を入れる納戸に2人の物を分けるボックスを持ってきたのも沢海だった。
 友之は何でもしてもらえた。この優しい同級生に何でも。
「友之」
 そんな気の利いた沢海は紅茶の入ったカップをテーブルに運んできながら、友之にやや遠慮がちに口を開いた。
「試験終わったらさ。日曜日、どっか遊びに行かないか?」
「………?」
 不思議そうな顔をして黙る友之に、沢海は何故か焦ったように口をついだ。
「俺さ、丁度試験が終わった次の週、部活の練習ないんだよ。だから、折角だからさ…っ」
「何処行くの…?」
「別に…友之の行きたい所でいいんだけど」
「…………」
 行きたい所などなかった。できる事なら、休みの日は、ずっとそれこそ何もせずに家にいたいと思う方だから。
「嫌か?」
 すかさずそんな友之の思いを汲み取ったように沢海が言ってきた。
「面倒なら別にいいんだ」
「…………」
「どう…かな?」
「うん……」
「ホントか?」
 沢海の頼みを断るのは何だかひどい気がした。友之が頷くと、沢海は案の定とても嬉しそうな顔をした。
「良かった! じゃ、じゃあ…さ。何処か行きたい所あったらそこ行こう? 考えておいてくれよな」
「拡も……」
「え?」
「行きたい所…」
「あ…ああ、そうだな! うん、考えておくよ」
 友之の言葉に沢海は心から安堵したようになり、それから「熱いから気をつけて」と言ってカップを差し出した。
 沢海がくれる紅茶はいつもとても香りが良い。友之は両手でそっとカップを持つと、その香りを楽しむようにゆっくりとした動作からそれを口に運んだ。
「甘さ、丁度良かったか」
 自分はカップに手をつけずに友之の所作をじっと見つめていた沢海は、やや心配そうにそう聞いた。
「砂糖、もっと足そうか?」
「………ううん」
「美味いか?」
「うん」
「そっか。良かった」
 友之の反応でいちいち目を細める沢海。友之はそんな相手をちらとだけ見てから、再び紅茶の入ったカップに視線を落とした。
 2人が黙ると、部屋の中が一気にしんとなる。自分たちの部屋と隣を隔てている壁は案外厚かったから、テレビを持ち込んで遅くまでそれを見ているはずの隣から音が聞こえる事もあまりない。だから沢海と友之の部屋は、余計静かな空間になっている事が多かった。時には同じ寮生が沢海を気遣って自分たちの部屋に遊びに来ないかと誘う事もあったが、友之が知る限り沢海がその誘いを受けた事は一度もなかった。
 こんな自分と2人で、本当に窮屈ではないだろうかと友之は時々だが思う事があった。
「……なあ友之」
 その時、不意に部屋の沈黙を沢海が破った。
「あの…さ。またお兄さんから手紙来てただろ」
「…………」
 驚いて顔を上げると、沢海はそんな友之から視線を逸らしてぽつりと言った。
「ごめん、見るつもりはなかったんだけど…。机の上に封筒があるのが見えたから」
「別に……」
 それくらいいいよ、と言おうとしたのに最初の単語しか出てこない。
「お兄さん、何だって」
「………元気かって」
「あとは…?」
「………あと?」
「その…よく来るから、手紙。いつもそんな事くらいしか書いてないのかなって」
「うん」
「…………」
 沢海は他にも友之に何かを聞きたそうにしているのだが、なかなか言葉が出て来ないらしかった。友之が不思議そうにそんな沢海を見つめていると、どれくらいの間があったのだろうか、ようやく新しい質問が返ってきた。
「返事って書いてるのか」
「……うん」
「……友之って手紙なんか書くんだ」
「普段は…そんな書かないけど」
「友之ってさ、お兄さんの事好きなのか?」
「え………」
 友之が途端に表情を翳らせるのを見て、沢海は慌てたようになって口を継いだ。
「あ、当たり前だよな! あんな優しいお兄さんだもんな。兄弟なんだし…。好きなのは、当たり前だよな」
「……………」
「ごめん、変な事聞いて……」
「………ううん」
「きょ、今日はもうここまでにしとこうか」
 沢海はやたらと焦ったようになり、ばたばたと不器用な手つきでノートと問題集を片付け始めた。
「…………」
 それで友之もそれに倣い、のろのろとした動作ではあったが自分のノートをしまおうと手を出した。その際、忙しなく動いていた沢海の手が友之のそれと触れた。
「あ……っ」
 先に意表をつかれたような声を出したのは沢海だった。互いの手は一瞬触れ合っただけだというのに、沢海は過剰にそれに反応して素早く自分のそれを引っ込めると「ごめん!」と大袈裟に謝った。
「友之…俺、風呂行ってくるから…。じゃあー」
 そうして沢海はまるで逃げるようにして、慌てたように部屋から出て行ってしまった。友之はそんな同級生の後ろ姿をぼんやりと眺めた後、自分も自室のバスルームに入ろうと立ち上がった。

 女の子みたい。

 そう言われるのが、本当に嫌だった。
 幼い顔も、小さな身体も、何もかも嫌いだった。周囲の人間に悪気がないのが分かっていても、友之は可愛いと言われるのが嫌だったし、その度に自分がうまく息ができなくなるのを知っていた。
 大体にして、そういう誉め言葉の裏には嘘がある。
 うっすらとそんな風にも考え始めるようになっていた。散々自分の事を可愛いと言っていた姉だって、好きな人間ができたらあっさりと自分にも家族にも何も言わずに家を出て行ってしまったのだから。
 友之は、だから他人に自分を見られるのが嫌いだった。
 キュッと蛇口をひねって浴槽にお湯をため始めると、途端にそこは白い湯気でいっぱいになっていった。狭いユニットバスを好んで使う生徒は少なかったが、友之は絶対に大浴場には行かなかった。本当に時々、管理人の柴田がお湯を抜く時にこっそり友之にだけ誰もいない時間を教えてくれる事もあったが、それでもそこを利用する事は殆どなかった。広い浴室は何だか怖いとも思ったし。
 それなりに湯がたまってきたところで友之は服を脱いで浴槽に足を入れた。シャワーに切り替えて、程よく熱いお湯に身体を当てる。
 今日も1日が終わったと思う。
 そうして、多分明日も今日と同じような1日に違いないと思った。
 その時、不意に。
「友之」
 部屋を出て行ったはずの沢海の声がドア越しに聞こえた。ぎくりとして振り返る。シャワーの音でよくは聞こえなかったが、確かに沢海の声だったと思う。お湯の出を少なくして音を小さくすると、その声は今度ははっきり聞こえた。
「ごめん、友之」
「……何?」
「石鹸ないだろ? 新しいの棚にあるって言うの忘れてたから」
「…………」
 言われていつもの石鹸入れに目をやると、そこには大分小さくなってしまった欠片のようなものだけがあった。そういえば昨日、もうなくなるなと思っていたっけと今更に思い出す。
「本当ごめん。うっかりしてた」
 沢海はドア越しから友之に心底申し訳なさそうに言ってきた。
 こんな事は沢海が謝る義理はない。ここを使っているのは殆どいつも友之だけなのだし、石鹸の替えくらい自分で用意して当たり前だ。しかし沢海は自分が浴場に行ってその事を思い出し、慌てて引き返してきたらしかった。
「……ごめん」
 さすがに悪いと思って、友之はシャワーを出しっぱなしにしながらも浴槽から出てドアを少しだけ開けた。隙間から顔を半分出すとそこから沢海ともろに視線があった。
「あ…これ、石鹸な……」
 沢海はドア半分から覗く友之の姿に戸惑ったような声を出してから、すぐに袋を破った新しい石鹸を差し出してきた。友之がそれを受け取った時、再び2人の手は触れ合った。
「……ありがと」
 友之がそっと礼を言うと、沢海は急に赤面してから「そんな事」ともごもごと口許で何かを言った。それは友之には聞こえなかったのだが、とにかく素肌を晒したまま面と向かっていたくなくて、友之はすぐにドアを閉めた。多分、見られはしなかっただろうが、それでも何だか息が苦しくなった。

 だから友之はシャワーから流れる湯の音を再び大きくするべく、蛇口を思い切り捻った。



To be continued…


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