(11)



  下の食堂へ行って柴田と昼食を摂るなど、考えられなかった。
  しかしそうかと言ってこのままこの部屋に居続ければ、再び心配した柴田がドアの前に立つだろう。
  友之はぼんやりとした数時間を過ごした後、そっと起き上がり、着替えてから部屋を出た。
「 …………」
  表玄関のすぐ横に管理人室と称した柴田の部屋があった。忍び足で階段を下り、その横を通り過ぎる。微かにテレビの音が漏れ聞こえた。奇妙に響く人の笑い声。効果音。
  その音を聞きながら、友之は寮の外へと出た。


  普段は学校と寮の往復くらいしかしないから何処へ行って良いかなど分からなかった。
  友之には戻る家がない。
  兄は友之と共に住んでいたアパートを、自分が日本に帰るまでの間だけと人に貸していた。兄の大学の友人との事だが、それは友之の知らない人だった。だから当然、そんな所へ行くわけにはいかなかった。実家には父親がいたが、再婚相手の女性はこれまた友之は一言も言葉を交わした事のない他人だった。…どのみち父親だけの家だとしても、今更あそこへ帰ろうという気持ちにはなれない。あと1人の家族、姉に至っては、今は何処で何をしているのか皆目見当もつかなかった。
  ひどい孤独を感じた。
  兄の友人たちの中で、友之のことを心配してくれる人間は他にも何人かいたが、彼らを頼ることはできないと友之は頑なに思っていた。何故兄が自分の前からいなくなってしまったのか、他の「兄」や「姉」たちもどうして自分から離れていったのか、その理由が今の友之には分かっているから。それを知っていて彼らに頼る事は絶対に出来なかった。
  友之はただ闇雲に歩いた。行く所などないのに。行きたい所もないのに。
「 行きたい…ところ……」
  ぼうと視点の定まらない眼をしながら、友之は無意識につぶやいていた。それは自分自身に問い掛けるような、けれどとても儚い声だった。

              

*


「 ねえ、沢海君。今日、北川君どうしたの?」
  放課後まで彼女がそれを訊いてこなかった事を奇跡的に思いながら、沢海は「ああ、風邪で…」と朝から考えていた言い訳を口にした。
  沢海に友之の事を訊ねてきたのは橋本真貴という少女だ。今は違うが、1年次は沢海たちと同じクラスで、友之の事となると人一倍首を突っ込みたがる「お節介少女」として有名だった。2年になってクラスが離れ、頻繁に姿を見る事はなくなったが、それでも橋本はいつでも友之の事が気になっているようだった。
「 風邪なの? 本当に? それならいいけど……」
「 何だよ」
  喉に何かが詰まったような気になる言い方をする橋本に、沢海は嫌な顔をして低い声で問い質した。すると橋本の方は辺りを憚るようにきょろきょろと視線をやってから、身体を屈めてこっそりと沢海に耳打ちした。
「 昨日ね、北川君3年生たちに脅されていたって」
「 え?」
「 あいつ…坂本もいたみたいなんだけど。ほら、あいつ。最近3年の大河内先輩とかとも繋がってるでしょ。その何人かで北川君を取り囲んで表門近くの茂みの方に連れて行くのを見た人がいて」
「 …………何だと」
「 わっ! ちょ、ちょっと、私じゃないんだから! 北川君を連れ出したのはさっ。そんな恐ろしい顔しないでよ!!」
  橋本は途端に殺気立った沢海に畏れをなして思わず身体を仰け反らしたものの、それでも話はまだ終わっていないとばかりに再び顔を近づけて言った。
「 でもね、何か他校の誰かが来てボッコボコにしたらしいのよ。大河内先輩とかを。今日あいつらの仲間の何人かも休んでいるでしょ? あれって来られないのよ、きっと。学校来た奴らの何人かもあちこち殴られたみたいな喧嘩の跡があったし」
「 …………」
「 その他校の生徒ってのは誰だか分からないけど、その人に北川君は助けられたみたいなのよ。でも、やっぱりショックだったのかなって思って。それで今日休んでいるのかなって」
「 …………」
  黙りこむ沢海に、橋本は伺い見るような顔をしてから、やはり恐る恐ると言った声を出して訊いてきた。
「 沢海君は…北川君から昨日のこと、聞いてない?」
「 …………」
「 きっ…聞いてなくても仕方ないよ。そんな事さ…やっぱり、男のコだったら恥ずかしくて言えないじゃない? いくら親友でも。恐喝されそうになったとかそういうの。それに北川君だもん。そういう事…ほら、わざわざ口に出さないでしょ」
  後半の言葉は明らかに沢海に対する慰めのものだったが、当の沢海の耳には入る事がなかった。

  他校の生徒。

「 あいつだ……」
「 え? 誰?」
「 …………」 
  何も言わない沢海に橋本は怪訝な顔をしたが、こういう時のこの人はこれ以上は何を言っても駄目なのだという事は去年1年間の付き合いで既に熟知していた。橋本はハッと軽くため息をついた後、「北川君によろしくね」と言って、廊下からしきりに声をかけていた友人たちと共に帰って行った。
  沢海は誰もいなくなった教室にしばらく茫然として残っていたが、やがて思い立ったようになって席を立った。
  帰って一体どのような顔で友之の事を見れば良いのか。
  頭にあるのはただそれだけだった。明るい日差しの下で昨夜の自分の行為を思い返すと、重く痛い気持ちが胸を占めた。嫌がって泣いていた友之。怯えていた友之。しかもそんな相手に自分は強引に押し倒し、拘束して、下手になだめようとしながら無理に身体を繋げようとした。
  けれど、きちんと出来なかった。満足にセックスの一つもできない。情けない。みっともない。
「 最低だ……」
  それでも沢海は、もう寮に向かって歩いていた。いつも真面目に出席する委員会の事も部活の事も、頭にはなかった。そんなものはどうでもいいと思った。
  友之以外の事はどうでも。

  北川君、その他校の人に助けられて―。

  橋本の言葉が脳裏をよぎり、沢海はそれを振り払うように自らの頭を乱暴に振った。
  他人との接触を恐れ、満足に人とコミュニケートできない友之。そんな友之を助けるのはいつだって自分だと信じていた。友之には今は自分しかいない。今まで友之を支えていた兄はもうここにはいない。自分だけが。
  友之と外界とを繋ぐ橋だったのに。
「 氷野……」
  正直、眼中になかった。あの手の人間が友之に興味を持つとは考えなかったし、友之自身、ああいう人間は苦手だろうと勝手に思っているところがあった。むしろ橋本や坊野など、人当たりの良い人間が友之に近づこうとする方が自分には脅威だったし、鬱陶しかった。誰にも彼にも嫉妬し、不快な感情を覚え、腹黒い嫌な自分がどんどん大きくなるのを自覚しているのに、沢海はそれを止める事ができなかった。
  友之を自分だけのものにしたかったから。
「 友之……」
  知らぬ間に沢海はその名前を呼んでいた。
  早く友之の顔が見たいと思った。


  寮に帰り着くと、すぐに管理人の柴田が駆け寄って来た。
「 ああっ、お帰りなさい、沢海君!」
「 ど…うしたんですか。友之が何か?」
  咄嗟に嫌な予感がして、沢海は焦ったようになってこちらを見ている柴田に不審の声をあげた。すると柴田もすぐにうんうんと頷いてから、オロオロしたようになって言った。
「 北川君がいないのよ。多分、お昼あたりの時間にいなくなったんだと思うけど。気づいたら部屋にいなくて」
「 え……」
「 みんなはその辺に買い物にでも行ったんでしょうって相手にしてくれないんだけど。北川君、具合悪かったんでしょう? 普段だってあまり外出なんてしないじゃない? だから妙に気になっちゃって…」
「 友之が……」
「 沢海君、何か聞いてない? あとは北川君が行きそうな所とか」
「 ………とにかく俺、その辺見てきます」
「 そ、そう? 悪いわね、お願いね」
  心底心配そうにそう言う柴田にはもう応えず、沢海は鞄をその場に放り投げると、もう駆け出していた。
  友之がいなくなった。
  それは明らかに自分のせいだ。きっと自分の顔を見たくないのだ。だから…。
  しかしそうは思っても沢海は友之を求めて全力で走る自分を止める事ができなかった。学校の通りを抜け、街路樹が並ぶ道路脇の歩道をひたすら急ぐ。友之の行きそうな場所を明確に知っているわけではない。とりあえず駅に向かおうとだけ思った。
  その時、不意に柴田の言葉が耳に木霊した。

「 何か聞いてないか、だって…?」
  ひとしきり走ってとうとう息が切れて立ち止まった沢海は、公道の傍にあるガードレールに寄りかかってからそう独りごちた。
  橋本も、柴田も。友之は何か言っていなかったか、聞いていなかったかと訊く。それは沢海拡という人間が北川友之と1番親しいと思っているから、1番の理解者で友之も慕っていると思っているから。だから聞くのだろうと思う。
「 冗談じゃない…!」
  沢海は誰に言うでもなく、怒りのこもった声を出した。

  友之は一度だって自分に心を開いた事なんかない。いつだってだ。友之はいつだって何も分かっていなかった。自分はそこらにある物と一緒だった。友之にとっては何でもない、感じるところの何もないただのモノ。
「 ずっと…そうだったんだから…ッ…」
  沢海はなかなかおさまらない荒い息をそのままに、唇の端を微かに上げて、自嘲するような笑みを浮かべた。



To be continued…



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