(13)



「 友之…」
  走って来たのだろう。沢海は軽く肩を上下させながら、吐き出すように声を出した。友之はそんな沢海を見つめ、何か自分がひどく悪い事をしてしまったような気持ちに捕らわれ、咄嗟に下を向いた。
  そんな事をしてもここから逃れられるわけではないのに。
「 友之」
  沢海はもう一度半ば茫然としたように呼び、それからゆっくりと近づいて行った。そして友之の目の前にまで来て止まると、まずはそのまま視線を下に降ろし、次にちらとだけ隣にいる暁を見やった。
  どうしてコイツといるんだ。
  まずそう訊きたかったけれど、当然そんな言葉は出せなくて。
「 友之、心配したよ…。いきなり寮からいなくなったって聞いて」
「 ………」
「 柴田さんがお昼に覗きに行った時にはもういなかったって。身体は…」
  言いかけて沢海は一旦口を閉じ、それからまた一瞬だけ暁へ視線を向けた。暁は黙って沢海の方を見つめ返してきた。怯む事のない、静かな目だった。
  沢海の中でまた何かが湧き立った。

「 ……とにかく帰ろう。柴田さんもすごく心配しているし」
「 ………」
「 もう、遅いし」
「 ………」
「 まだ17時だよ」
  暁がぽつりと言ったが沢海は敢えてその声を無視した。
「 行こう、友之」
「 ………」
  それでも友之は返事をしなかった。顔を上げて沢海を見ようとはしなかった。そして視線こそ向けなかったが、友之はまるで助けを求めるかのように暁に少しだけ顔を向けた。肩先が微かに震えていた。自分を拒絶しているのだと、沢海は思った。
「 キタガワ君、帰る?」
  黙り続ける友之の様子を眺めていた暁がようやく代わりのように声を出した。それはどことなく友之を気遣う風な、さり気ないがとても優しい口調だった。すると友之はそんな暁の言葉にはきちんと反応を返し、ゆっくりと首を縦に振った。
  そんな友之の態度に、瞬間沢海はカッと自分の頭に血が昇るのを感じた。
「 く……ッ」
  無意識のうちに手が動き、沢海は気づくともう友之の手首を掴んでいた。そして戸惑う相手の反応には構わずに、沢海は無理に立ち上がらせた友之に対して自分でも驚くくらいの声で怒鳴っていた。
「 早く立てよ!」
「 ……っ!」
  乱暴な沢海の口調に声もない友之。目を見開き、ただ怯え、しかしここで初めて沢海の事をじっと見やってきた。
  今度は沢海が視線を逸らしていたのだけれど。
「 ……っ。行くぞ!」
「 ひろ…っ」
  口許で友之が咄嗟に名前を呼んできたのが分かった。けれどそれに反応する事もできず、沢海は友之の手首を掴んだまま先に踵を返すとそのまま歩いて行こうとした。
「 ちょっと待て」
  けれどそうする事はできなかった。不意に自分たちの繋がった手の部分に第三者の手の力が加わってきたのだ。
  暁だった。
「 優等生。キミ、強引だよ」
「 な…離…っ!」
「 離すのはお前だ」
  暁は頑としてそう言いきり、2人の間に立ちはだかると有無を言わせぬ力で友之と沢海の事を引き離した。その反動で友之は後ろに2、3歩後退し、背後の大木に背中をついた。沢海はぐらつきこそしなかったが、暁のものすごい力に自分の手首がじんと痛むのを感じた。
「 キタガワが嫌がっている」
「 お前には関係ないだろ…」
  くぐもった声でそれだけを言ったが、相手はまるで動じていないようだった。ひどく冷めた目で沢海の事を見下ろし、それからゆっくりと友之の方を見やり、最後にぐっと自らの拳を固めてつぶやいた。
「 ……それじゃあ、キミには関係あるの?」
「 何……」
  暁の言葉の意味が分からずに沢海は怪訝な顔をした。そんな沢海に暁は依然無表情のまま、しかしきっぱりと言った。
「 キミだってキタガワと無関係じゃないの」
「 ……!」
「 少なくとも俺にはそう見えるけど。キタガワはキミの事何とも思っていないでしょ」
「 そ……」
「 キミの一方的な想いだけでこの人を引っ張っちゃいけない」
  そう言う暁はもう2人の事は見ていなかった。暁はどこか遠くの方を見つめており、それからしばらくして握っていた拳をゆっくりと開いた。
  手を出す行為を我慢していたようだった。ふうと息を吐いてこれだけ言った。

「 …無理やり引っ張ったら腕が抜けるよ」
「 あ…あ……」
  その時、ずっと声を失っていた友之がわなわなと唇を震わせながら声を出した。少しだけ背中を浮かし、それから頼りない足取りで暁の方へ近づく。
「 あ…暁……」
「 …何」
  暁は友之にいきなり名前を呼ばれた事で多少面食らっていたようだが、それでも落ち着いた表情で返答した。それで友之は少しだけほっとしたのか、ハアと肩で息をしてからようやっとの思いで言葉を紡いだ。
「 な…殴らないで…」
「 …ん」
「 拡のこと…殴らないで…」
「 …………」
「 殴らないで…」

  切羽詰ったような顔を向け、友之は暁にそう言っていた。それだけを言うので精一杯という感じだった。
  そんな友之に暁はしばらくぽかんとした顔をしていたが、やがて何やら楽しくなってきたのかひどく可笑しそうな顔になって声をたてて笑い出した。
「 はははっ。キタガワ君。俺の手、見なよ。たった今さっき『パー』にしたばかりでしょう。この人を殴ったりしないよ」
「 ………え」
  そう言って右手をぶらぶらさせて笑う暁に、今度は友之がぽかんとした顔を見せた。暁はそれで益々楽しくなったのか、くくと笑い続けながら2人の傍を離れ、1人先に公園に向かった。
「 帰るよ。俺の殴りたい人は、ここにはいないから」
「 ………」
「 優等生」
  そして暁は沢海の背中にいやに澄んだよく通る声で話し掛けた。
「 キタガワ君って優しいね。もしかすると…『やさしい時間』を貰っていたのは、キミの方?」
  振り返りもせず、返答もしない無言のままの沢海の背中を、暁はこの時初めて少しだけ意地の悪い顔で見つめた。けれどそれ以上は何も言わず、そのまま公園から出て行ってしまった。
  暁がいなくなった事で、公園の中は一気にしんと静まり返ったような気がした。
「 …………拡」
  何も発せず、視線すら向けずにただその場にいる沢海に、友之が先に声をかけた。
  昨晩の沢海を思い出すと怖かった。こうやって傍にいるだけで身体が震えてきてしまう、またそれを沢海に気づかれはしないだろうか。そう考えると不安は募ったが、それでも友之にとって黙ったまま沢海の反応を得られない事はもっと恐ろしい事だった。
「 あ…か、帰…」
  帰ろうと言いかけて、瞬間友之は息を飲んだ。
  再び沢海が先刻の倍以上の力で友之の事を抱きしめてきたから。
「 ひ…っ」
  咄嗟の事に逆らう事もできず、逃げる事もできず、友之はただぎゅっと両腕で自分の背中を抱いてきた沢海に混乱した。きつく抱き寄せられているせいで沢海の顔は見えない。足が地面から離れてしまうのではないかと思われるほどの拘束に息がつまった。宙をかくように両腕を弱々しく動かしたが、沢海はやはりびくともしなかった。
「 何で……」
  やがて思い詰めたような声が聞こえてきた。
「 何であんな奴にあんな言われ方しないといけない…」
「 拡……?」
「 あんな奴に何が分かるって言うんだ…!」
「 ひろ……」
「 離さない…絶対…!」
「 ひ……」
「 離さない…」

  けれど友之はもう沢海の名前も呼ぶ事ができなかった。代わりにけほっと咳が飛び出たが、それでも沢海は無反応だった。
  けれどだからこそ、そんな沢海が。
「 愛してる…」
「 …………」
  沢海の想いが、友之にはとても痛かった。



To be continued…



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