(14)



  柴田は寮に戻ってきた沢海と友之にうまい言葉をかけてやる事ができなかった。2人の顔を見た瞬間、何かあったのだなという事が分かったから。友之は勿論、沢海の顔もどこか蒼白で、何かをひどく思い詰めているようだった。こんな時は寮母と言えども無理に彼らの内に入って行ってはいけないという事を柴田はよく知っていたから、敢えてぐっと口をつぐみ、ただ「お帰り」だけを言った。
  そんな寮母・柴田の態度は、2人にはありがたいものだった。
  沢海は友之には「食事に行ってこいよ」と言ったものの、自分は部屋に入るなりじっと黙りこんで、ベッド脇の壁に寄りかかったまま、ただ俯いていた。友之は部屋の中央に立ち尽くしたまま、そんな沢海をただ眺めていたが、どうして良いか分からずに、とりあえずは沢海の言う事をきいて食堂へ向かった。お腹などまるで空いていないのに。
「 あ、北川! なあ、拡いる?」
  食堂に入ってきた友之に声をかけてきたのは、沢海と同じバスケット部に所属している上級生だった。彼は丁度仲間たちと食事を済ませて食堂から出るところだったらしいのだが、沢海と同室の友之を認めるや否や、人懐こい笑顔で近づいて来た。
「 あいつさ、今日部活出て来なかったから。こんな事初めてだろ? みんなびっくりしちゃってさ」
「 あ…具合……」
「 え、何? あいつやっぱり具合悪いの?」
  小さな声でぼそりと言った友之の言葉を逸早く拾って、上級生は心配そうな顔をした。それから仲間たちに「部屋に様子見に行く?」と話しかけた。けれど仲間の1人が首を横に振ってから友之に向き直った。
「 やめとこ。寝てるんだろ、あいつ?」
  友之が黙って首を縦に振ると、最初に友之に声をかけた人物も納得したように頷き、「じゃあ、よく休むように言ってな」とだけ言い残して去って行った。友之はそんな上級生の一団を見送った後、ほうと息を吐いた。嘘をつくのは疲れると思った。


  友之が部屋に戻ると、沢海は先刻と全く同じ体勢のまま、やはり顔をあげずに部屋の隅でうずくまっていた。
「 拡……」
  恐る恐る声をかけると、しかし沢海はぴくりと肩を揺らしてからゆっくりと顔をあげた。生気のない、白い顔をしていた。いつもの沢海とはまるで違った。
  友之はそんな沢海を見やりながら、手にしていた食事の並んだ盆をテーブルに置いてそっと言った。
「 これ…夕飯。拡の分」
「 ………」
「 柴田さんが…部屋に持って行っていいって…」
「 ……いらないよ」
「 !」
  素っ気無く返されて友之は驚きと恐怖でびくんと身体を震わせた。沢海の返答は勿論、その声色がとても冷たいものだったから。
「 ………」
「 食欲ないから」
  何も言えなくなっている友之に沢海は再度そう言って、それからふいと視線を横に逸らした。しかしすぐに自分の言った台詞に戸惑いを覚えた風になり、沢海は一瞬だけ迷ったような表情をしたものの、すぐに後を継いだ。
「 ……ごめん」
「 ………」
「 せっかく持ってきてくれたのに」
「 う…ううん…」
  友之がそれに対して力なく首を横に振る。沢海はそんな友之の態度にますます辛くなったような顔をした。少しだけ身体を浮かし、それからゆっくりと部屋の中央に置かれたテーブルに近づく。それから目の前の盆に乗る食事を見つめ、沢海はぽつりと言った。
「 ……これ食べたら……」
「 え?」
「 出て行くから。誰かの部屋で寝かせてもらう」
「 え……」
  沢海の言葉の意味が分からず、友之は困惑したように訊き返した。けれど沢海の方はそんな友之の顔を見ていなかった。
「 今夜、俺と一緒の部屋で寝るなんて嫌だろ? だから…」
「 拡……」
「 俺が友之のこと…想っているのはずっと変わらない。でも、俺…このままお前と一緒にいたら、どうなるか分からない…」
「 分からないって…?」
「 ………」
  友之の問いに沢海は応えなかった。ただ盆に乗った食事にだけ視線をやり、厳しい眼をしていた。
  一体どれだけの間、2人はそうやって面と向かっていたのだろうか。
「 ごめん、やっぱり」
  沢海は食事に一口も手をつけられないようで、思い余ったようになって立ち上がった。それから盆を持ち、部屋を出て行こうとする。
「 拡…」
  友之はそんな沢海をただ呼ぶ事しかできなかった。けれどそれだけでは沢海を引きとめることができない事も、また友之は理解していた。自分が沢海にどうして欲しいのかは分からなかった。けれど、こんな風に苦しむ沢海をただ見送るのだけは、してはいけない事のような気がした。
「 待っ…」
  だから思わず、声を出した。それは最後まで言い切る事はできなかったのだけれど。思わず咳き込んで、友之は苦しそうになりながら、けれど自分の横を通り過ぎようとしている沢海を見上げた。
「 ………」
  沢海もまたそんな友之のことを見下ろしていた。ひどく悲しそうな、泣き出しそうな顔。ああ、この顔は昨夜も見せていたあの顔だと友之は何ともなしに思った。
  また沈黙。
  2人は何を言うでもなく、ただその場に固まって互いに動かなかった。

「 ……友之」
  やがて沢海が声を出した。手にしていた盆をゆっくりと自分のデスクの上に置くと、友之を驚かせないように静かな動作で傍に座る。それでも友之は沢海が突然自分の至近距離に来た事で、自然身構えてしまった。
「 ……怖い? 俺のこと…」
  そんな友之の強張った態度に気づいたのか、沢海が自嘲するように訊いた。友之は慌てて首を横に振ったが、しかし沢海に納得したような様子はなかった。
  沢海は言った。
「 本当は…俺、光一郎さんみたいになりたいって思っていたんだ」
「 え…」
「 あの人のようになれれば…友之はいつか俺の方を向いてくれるって思ったから」
「 拡…?」
  突然出てきた自分の兄の名前に友之は動揺を隠しきれなかった。沢海の表情は依然静かだった。
「 友之が…光一郎さんのことすごく特別に想っているの前から知ってた。兄弟なんだし…ずっと一緒にいたんだから、頼るのも当然だし、光一郎さんは何でもできる人だし…。俺があの人に敵わないなんて事、よく分かってた。でも俺は…でもそれでも、自分を殺しても、ただの真似でも、あの人のようになれればいつか友之が俺を見てくれると…」
「 何で…」
  茫然としてそれだけをつぶやいた友之に、ここで沢海は初めて視線を合わせてきた。友之はそれで後の言葉を続けやすくなった。
「 どうして…そんなに…想って、くれ、るの…」
「 ん……」
「 何も、何も…拡に…し、てないのに…」
「 友之が? 俺に?」
  力なく頷いてその疑問を肯定すると、沢海はそんな友之を少しだけ可笑しそうな目をして眺めた。そうして友之が怯えないように実にゆったりとした動作で片手を差し伸べると、そのまま優しい手つきで友之の前髪をかきあげた。
  友之は逆らわなかった。

「 氷野が言っていただろ…。俺はいっぱいお前にもらってる…」
「 拡…?」
「 友之は本当に…優しいから…」
  その言葉に、友之はどう応えていいか分からなかった。優しいのは、いつも何でもしてくれていたのは、この目の前の友人の方だから。それをいつも引け目に感じ、してもらうばかりの自分に友之はいつも嫌悪を覚えていたのだ。
  だからそれは違うと訴えたくて、友之は力なく首を横に振った。声は出せなかったのでただ首を横に振った。
「 ……友之」
  けれど沢海は友之の髪の毛を撫でていた手を止めて、すっと友之の傍に顔を寄せた。そうしてそのまま自分の手を友之の頬へ移動させ触れると。
「 あ……」
  触れるだけの口付けを友之に施した。
「 ひろ……」
  それは本当に一瞬のものだったので友之も怖がらずに受け止める事ができた。
「 ………」
  遠慮がちな、けれど温かい熱を沢海の唇から感じた。けれどだからこそ、どうして良いか分からなかった。何と言って応えれば良いか分からなかった。友之はただ俯く事しかできなかった。
  そんな友之に沢海は自らの唇を再度、今度は友之の耳元に近づけそっと囁いた。
  その沢海の発した台詞に、友之はまた涙が出そうになった。だからその痛みから逃れるように、ぐっと目を閉じた。それでも沢海の声は耳に残って離れなかったのだけれど。



  『 愛してる…。』



To be continued…



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