(15) 翌朝、友之が目を覚ますとそこには既に出掛ける支度を整えた沢海の姿があった。 「 おはよう」 いつ戻ってきたのだろうか。そして沢海はきちんと眠る事ができたのだろうか。ぼんやりとそんな事を思ったが、友之はそれを訊く事ができなかった。黙って沢海を見つめたまま、蒲団の上でどことなく気だるい身体をゆっくりと起こした。 「 俺、朝練に行くから」 そして短くそれだけを言い、沢海は部屋を出て行った。 友之は何も返す事ができなかった自分を少しだけ嫌悪したが、それでも1人になった部屋でやっとふうと息をついた。 昨夜、沢海が誰の部屋へ行って眠ったのか、それは友之には分からなかった。一度は引き止めかけたものの、そして沢海はそんな友之にキスをしてきたものの、2人の間にそれ以上の事は起きなかった。沢海が堪えているのが友之にも分かった。苦しんでいるのが分かった。それでも友之は一昨日の夜のような事が自分の身に降りかかる事を畏れた。沢海の気持ちも考えず自分の事ばかり考えている自分が一方で嫌ではあったけれど、それでもそう思ってしまう気持ちを抑える事はできなかった。 ズキンと頭が痛み、それから身体に寒さを感じた。 1日の始まりが嫌だった。 「 北川」 フラフラとしながら何とか部屋を出て、食堂にも寄らずに表門へ向かおうとした時、背後から声がかかった。振り返って怪訝な顔をする友之にその人物は困ったように片手を頭に置いて「おはよう」と気さくに挨拶をしてきた。人の良さそうな目が眼鏡の奥で笑っていた。 「 ずっと一緒の寮にいるのに、話すの初めてだな。俺、隣のクラスの大塚。拡とは委員が一緒」 「 ………」 身構えるような、怯えるような目を向ける友之に、その大塚と名乗った青年は更に困惑したように苦笑してみせた。スラリとした長身の大塚は見下ろす形になってしまっている友之に気を遣うようにしてやや距離を取ってから、手持ち無沙汰のようにかけている眼鏡の縁に指を当てた。 「 俺、1人部屋だから。拡が昨日泊めてくれって来たんだ。丁度今日のライティングの課題当たりそうだったからさ、教えてもらえてラッキーだったんだけど」 「 ………」 「 あいつと喧嘩でもしたの」 玄関口に立ち尽くす友之と大塚の横を、食事を済ませた生徒たちが次々と通り抜けて外へ向かって行く。友之はその人の流れから逃れるように入り口の端に寄ってからもう一度自分を見下ろす大塚を見やった。別段害のある雰囲気ではなかった。そんな大塚は友之に少しだけ近づくと、辺りには聞こえないような声でそっと言った。 「 お節介なようだけど、あいつっていい奴だろ。俺も色々世話になっているからさ。あそこまで落ち込まれると何ていうか…かわいそうになるっていうか。あ、こんな事俺が言ったって内緒な。でもさ…まあ、仲良くやってくれよ。何かあったんだとしても、君の方から折れてやってくんない?」 「 別に……」 「 何でもないって事ないだろ。あいつが落ち込む理由なんて、君以外に考えられないし」 「 え……」 「 あのさ…こんな事あんまり言いたくないけどさ」 そして大塚は本当に言いにくそうになりながらも、更に友之に近づいて言葉を切った。 「 北川ってあれだけ拡と一緒にいるくせに、あいつの交友関係とかって全然知らないだろ? 俺って一応あいつとすごい仲良い方だけど、俺の存在だって知らなかっただろ?」 その大塚の発言に、友之は返す言葉を見つける事ができなかった。 「 別にさ…そんなの、知らなきゃいけない義務があるわけでもないけど…。そんなのは北川の勝手なんだけど。でもさ…あいつは北川の事すごくよく知っているというか。少なくとも、知ろうとはしてるだろ。そういうところだけは、君にも知っていて欲しいって言うか」 「 あ……」 「 いや、ごめん。俺には関係ない話なんだけどさっ。でもさ、何か…北川見てると、時々一言言いたくなってた。拡が怒るから我慢してたけど。…頼むな」 大塚はそれだけを言うと、後は何事もなかったかのような顔をして靴を履くと、そのまま玄関口から去って行ってしまった。友之はしばしそんな大塚や、その後も次々と外へ出て行く学生たちの姿を何ともなしに眺めた。 のろのろしていたのだろうか。それとも寮を出た時間が遅かったのだろうか。教室に着いた時には、既に朝のHRは終わっていた。座席に着いた途端1限の予鈴が鳴り、友之は鞄から宿題も予習も全く手付かずになっている数学のノートと教科書を出した。もっとも友之はめったな事では教師から指名される事はなかったから、授業の準備などしなくてもそこに座っているだけで問題なかった。それを幸運な事だと言うクラスメイトもいれば、無視されているかわいそうな奴だと言う者もいた。 友之自身はその事を別段何とも思っていなかった。 ちらと振り返ると、後ろの席にいる沢海の姿が見えた。周囲の人間と談笑している。いつもと変わらない態度の沢海がそこにいた。仲の良いらしい大塚という青年には、昨夜弱いところを見せてしまったようだが、今はいつもの優等生沢海拡だった。友之は向けていた視線を前に戻し、それから窓の外へと視線を移した。 早く1日が終わればいいのに、と思った。それから今朝方襲った悪寒を再度感じ、友之はぶるりと身体を震わせた。 コウ兄……。 友之はぼうっとした思考の中で不意に、今は遠くに行ってしまった兄の事を思い返した。今頃何をしているのだろうか。あちらとこちらとでは随分時差があるから、向こうは夜か。だとするともう寝ているだろうか。否、元々眠りの浅い人だったから、今も相変わらず机に向かって勉強をしているかもしれない。 それとも。 自分の事や日本での生活など全て忘れて、誰かと楽しく談笑している最中だろうか。 「 ………ッ」 そんな事を考えてから、友之はハッとこっそり息を吐いた。何だか妙に息苦しい。やはり学校になど来なければ良かった。ぼやけた視界の中で前方の黒板を眺めたけれど、教師の顔も何かを説明する声も全てが曖昧で訳が分からなかった。周りの人間の存在もよく分からない。全てがぼやけて見えて、全てが自分とは異質なものに思えた。 それでも友之は何とか意識をはっきりさせようとゆっくりと首を動かして額に浮かんだ汗を片手でそっと拭った。瞬間、再び背中にゾクリと悪寒を感じたけれど、努めてそれには気づかぬフリをして、友之は何も書かれていないノートに目を落とした。 そんな事を昼休みまで繰り返した。気分はどんどん悪くなっていたが、このまま教室を出たら二度と学校には来られなくなるような気がして、友之はただじっと我慢していた。 ただ、我慢をしていたのは沢海も同じのようだった。 「 友之」 堪りかねたように声をかけてきたその時、沢海は友之の席の前でひどく翳った表情をしていた。 「 具合悪いんだろ」 素っ気無い声が同時に妙に厳しいものに聞こえて、友之はやや怯えたようになりながら慌てて首を横に振った。しかし沢海はもう友之の鞄を勝手に手に取ると歩き出していた。クラスメイトの何人かが慣れたような目をしてそんな光景を眺めていたが、友之はそれが無性に恥ずかしくて、なるべくそんな彼らの姿を見ないように沢海の後を追って慌てて教室を飛び出した。 「 拡…!」 友之は学校に来ると、どうしても具合の悪くなる事が多かったのだが、それは今に始まった事ではないし、それでいちいち早退しては成績にも響くしで、なるべくは我慢しようと決めていた。それが自分の自立を望む兄や兄の友人たちの望みだと思ってもいたし。 しかし沢海はそんな事にはいつも構わず、友之が具合が悪いと察するとすぐに1人でさっさと決断して、保健室へ連れて行くか寮へ返すか。とにかく過剰に心配して、さっさと行動に移るのだった。 いつもは友之もついそんな沢海の言うなりになっていたのだが。 「 だ、大丈夫だから…!」 やや早足で歩く沢海に友之は必死に追いつきながら、その背中に向かってようやくそう言った。あと2時間授業を受ければ終わるのだ。学校にいたくないという気持ちは勿論あったが、こうやっていつも沢海に甘やかされてサボるように思われるのは嫌だと友之は思った。 「 具合、悪くないよ…。だから…」 「 嘘だよ」 きっぱりと沢海は言い、振り返りもせずに階段を下りて行く。そのまま昇降口へと向かう沢海に、今日は保健室へも行かせず寮に帰すつもりなのかと友之は他人事のように思った。 「 拡、鞄…」 「 寮まで一緒に行く」 未だ沢海は友之の方を見ない。ただそれだけを言った。怒っているようなその声に、友之は心の中で震えた。いつもの沢海なのだけれど、けれどどこかがいつもの沢海ではないと思った。 「 ………拡」 心細い声で呼んだが、その先をどう続けて良いか分からない。それでも友之は今朝の大塚の言葉や教室で何事もないように笑っていた沢海、そして今こうして自分の心配をしている沢海の態度にただ堪らなくなり、ぐっと俯いたまま昇降口の前で立ち尽くしてしまった。 「 ……友之。早くしろ。行くぞ」 ようやく立ち止まった沢海がそう言った。こちらを完全には振り返らない。けれどちらとだけ背後に目をやり、自分について来ていない友之に不快な顔をしている。そうして沢海はぎゅっと鞄を握り直し、感情を抑えるように息を吐いてから再度友之に声を掛けた。 「 具合悪い時は無理に登校する事ないよ。いつも言っているだろ」 「 ……平気だから」 「 平気なわけないだろ。見れば分かるんだよ。……帰ったら熱計って見るからな」 くぐもった声。やはりいつもよりキツイ、怖い声だった。友之はびくと肩を揺らし、少しだけ沢海の傍に寄った。反射的に身体だけが言う事を聞こうとしたようだった。 それでも、一、二歩前へ進んで、やはり止まった。 「 ……鞄、自分で持つ」 「 いいよ」 「 ……1人で帰る」 「 部屋まで行くって言っているだろ」 「 ………いい」 「 良くない」 「 いいよ」 「 ………良くない」 頑固に言い張る友之に、沢海も一瞬言いよどんだ。それでも意思の固い声で何とか友之の言葉を遮断する。友之はますます追い詰められたような気持ちになり、ぐっと唇を噛んだ。 何でもやろうとする沢海。 何でも甘えてきた自分。 自立を願っていた兄。 そうしなければと思った自分。 何一つできていない、自分。 「 ………ひろ…」 その時、不意に大塚の「お前の方が折れてやってくれよな」という台詞が蘇ってきたけれど。 「 …1人で、帰る…」 思わずそんな言葉が口から漏れていた。 「 帰れる…!」 沢海の顔を見る事ができず、友之はただ下を向いたままじっと痛む胸を抑えていた。ひどい事を言っている自覚があった。勝手な事を言っていると思った。いっその事これで嫌ってくれてもいい。そう思った。こんなに親切にしてくれているのに、何を意固地になっているのか。そうも思った。 けれど混乱する頭の中で必死に言った友之のその台詞も、その後すぐに沢海の一言によってかき消された。 「 駄目だ」 「 え……?」 「 ……早く来いよ」 沢海はぶっきらぼうにそう言うと、後はもう振り返りもせずにさっさと先を歩き出した。茫然とする友之を置いてきぼりに、真っ直ぐに前を向いて校舎を出て行く。 友之はそんな沢海の背中をただ眺める事しかできなかった。 |
To be continued… |