天気予報では雨だと言っていたのに、朝起きた時は見事なまでの雲ひとつない晴天だった。 「 友之、こっち」 人込みに目眩を感じてぼうとなっていると、沢海がよく通る声で前方から声をかけてきた。友之はそんな沢海の声ではっと我に返り、慌てて止めていた足を前へ動かした。 新宿、都庁周辺は休日の割に人の通りが激しかった。JRの改札を出るまでのそれに比べれば静かなものには違いなかったが、それでも沢海と通るその長い遊歩道は友之にとっては大き過ぎた。見知らぬ人間の視線も何だか怖いと感じた。 「 友之、大丈夫か。疲れてないか」 友之の臆した様子に気づいたのだろうか、常に数歩先を行っていた沢海がさり気ない口調で再び優しく話しかけてきた。振り返って友之を見つめてくるその表情は、いつもの柔らかく落ち着きのあるものだ。友之はそんな相手の顔を焦ったように見上げてから深く頷き、それから少しだけ笑ってみせた。 沢海に心配をかけたくなかった。 (17) 体調を崩して早退した日から、結局友之は日曜日を挟んで数日間寝込んでしまった。学校も2日ほど休んだ。 けれどその熱を出した日…友之が沢海に向かって手をあげ、「嫌だ」と叫んだ日から。そして友之が自分を怒った沢海に礼を言った日から。 沢海は友之に陰鬱な表情を見せなくなった。友之の事が好きなのだと告白をし、思い詰めたようになって迫ってきた沢海。しかし、沢海はそれ以来もう、少なくとも友之を追い詰めるような態度は決して取らなかった。ただいつもと同じに笑い、親切で、そして時には冗談も交えて、沢海はまた以前のように友之のことを優しく見守る同級生になってくれていた。 それは友之にはとても嬉しくありがたい事だった。 何かが胸につかえたままというのは、変わりなかったけれど。 「 良かったな、写真展。今月いっぱいまで延長でさ」 横を歩く沢海の明るい声に友之は黙って頷いた。 約束していた日曜日は友之の熱で行けなかったし、その後はまたすぐ沢海の部活やら、何より定例テストやらで出掛ける余裕など見つけられなかった。 それでも、今日。 梅雨の合間に晴れ渡ったその日、2人は肩を並べて外出をしていた。 目的の写真展は都庁と隣接したビルの中の催事場で行われていた。月毎に絵画や書道展なども催されるそこには通路の壁至る所に様々な展覧会の案内ポスターが貼られていた。友之は何となくそれら一つ一つに目をやりながら、数歩先を行く沢海の後を大人しく追った。 「 いらっしゃいませ」 簡易の長テーブルで受付をしていた女性が友之たちの姿を認めて丁寧に頭を下げてきた。沢海は慣れたような顔でその人物に2人分の入場料金を払うと、既に切られたチケットの半券を後から来た友之に差し出した。 「 あ、お金…」 「 いいよ」 沢海はにこりと笑ってからそのままさっさと会場に入って行ってしまった。友之は慌ててそんな沢海の後を追い、早速作品に目を通し始めている友人に焦ったように声をかけた。 「 自分の分…払うから」 「 いいって」 「 で…でも、そんな…」 そんなの、と言おうとした言葉は、しかし沢海の「しっ」という声に遮られた。慌てて周囲を見ると、入場している人間たちの真剣な様子が目に入って、友之は仕方なく口を閉ざした。ここを出たら絶対にお金は払おうと思いながら。 沢海はひどく面白そうな顔をして、3フロアに渡り展示されている作品群をゆっくりと見て回っていた。自分は取り立てて写真に興味があるわけではないけれど、と前置きをした上で、沢海は友之をこの写真展に誘った。友之が以前からこの写真家を好きで、本屋で数冊の写真集をわざわざ購入までしていたという事を知っていたからかもしれない。元々は不登校時代に兄が「暇つぶし」にと本をくれた事が始まりだった。その写真家が雑誌などにもちょくちょく取り上げられる有名人で、さほどカメラに詳しくない人間にも知られているというのを知ったのは、もっとずっと後の事だ。 そのまだ若いと思われるフリーの写真家は、何かこだわりでもあるのか、風景写真、それも山間の深い緑ばかりを撮る人物として知られていた。友之は人の顔を見ているよりもそういった自然の風景の方が見ていて好きだったから、まずその点でこの写真家を気に入っていた。また、その人物が撮る絵は同じ風景写真でもそのどれもが違う。同じ緑であってそれは決して同じ緑ではなく、同じ山野であってもそれは決して同じそれではない、別の表情を映し出しているように見える。その不思議な感覚が友之は好きだった。そしてそんな写真群の前に立っていると、友之は自分が徐々にひどく落ち着いた気持ちになっていくのを感じる事ができた。 同じファンがいるのだろう、館内は割と混雑していた。 「 友之はどれが良い?」 一周してから沢海がそっと小声で友之に声をかけてきた。友之がどれか一つを選べずに困惑していると、沢海は勝手知ったるような顔をして「俺も」と言った。驚いて顔を上げると、そこにはいたずらっぽい顔をしている沢海がいた。 「 どれもいいよな」 「 ……うん」 「 ポストカードとか売ってるみたい。買う? 友之」 「 あ…うん」 頷くと沢海はさっとまた先を歩き出した。友之がはっとしてその背中に声を掛けようとすると、また先を見越したような沢海の声が振り返る事なくやってきた。 「 友之にプレゼントするよ。欲しいやつ」 「 ひろ……」 「 あ、セットのがいいよな。12枚1組とかのがあるかも」 「 じ、自分で買う、から…っ」 「 いいよ」 「よ…」 「よ?」 言いかけて、けれどやはり言葉の出ない友之に、沢海は可笑しそうにその声を復唱した。 それで友之はむっとして唇を尖らせ、再度口を開いた。 「 よくない…!」 「 ……それ、嫌ってこと?」 「 え…」 「 俺が、嫌ってこと?」 「 あ…っ!」 その時、不意にぴたりと止まった沢海に意表をつかれ、友之は思わずその背中に思い切り頭をぶつけてしまった。けれどぶつかられた沢海はびくともせず、逆に振り返りざまふらついた友之の腕を掴むと「大丈夫か?」などと訊いてきた。友之が慌てて頷くと沢海は安堵したように笑った。 そして再び言った。 「 な、友之は俺から物を貰うのが嫌なのか?」 「 ……」 「 何で? 俺、友之にあげたいんだけど」 「 何でって……」 いやに強引にそんな事を言う沢海に途惑いながら、しかし友之はごくりと一旦唾を飲み込んでからたどたどしくも答えた。 「 だって…悪いから…」 「 悪い? 何で? だって俺があげたいって言ってるんだよ。俺がそうしたいって」 「 でも…でも、そういうの…嫌だから…」 「 じゃあやっぱり俺が嫌だって事」 「 そ…そうじゃ、なく、て」 やはり喉が詰まってしまい、友之はやや前のめりになって咳き込んだ。それでも不満そうな顔の沢海に向かって必死に自分なりの言葉を練ろうと苦心した。顔を見る事はできなかったのだが。 「 自分が…嫌だから…。そうやって拡に何でもしてもらうの…。自分で買いたい…から」 「 ふうん?」 「 拡の言ってくれた事、嬉しい、けど…。でも、そういうのは駄目だと思うから…」 「 そっか」 すると沢海は次の瞬間、いやにあっさりと引くと納得したように頷いた。同時に支えられるようにして掴まれていた腕もぱっと放された。 「 あ…」 けれどその際、さらりと。 「 ………」 「 …分かった」 沢海は頷きながら、実にさり気ない所作で友之の掌に触れた。 それは互いの指先が一瞬触れ合う程度のものだったけれど。 「 拡…?」 その突然の行為に意表をつかれて友之が弾かれたように顔を上げると、そこには相変わらずいつもの優しい笑みを湛えている沢海の顔があった。 「 うん、それならやめる。友之、自分で買ってこいよ」 「 あ…う、うん…」 「 じゃあ俺、ちょっと気に入ったやつもう1回見てくるから。え、と。11時に出口の所で待ち合わせな」 「 うん…」 「 じゃあな」 茫然としている友之には一切構わず、沢海はそれだけ言うと、後は人が1番集まっているらしい隣のフロアへ向かって歩いて行ってしまった。友之はぽかんとしたままそんな相手の背中をしばらくの間見送ったが、沢海が自分の言う事をすんなりと受け入れてくれた事は素直に嬉しいと感じた。 きちんと言えれば聞いてくれる。 きちんと言わなきゃ伝わらない。 あの日から実感と共に理解してきている事だった。そしてそれを教えてくれたのが沢海だということも。 友之には分かっているつもりだった。 「 ………」 友之は沢海が少しだけ触れてきたその指先に何となく視線を落とした。 その時、自分の心臓がとくんと小さく踊るのを友之は聞いた気がした。 |
To be continued… |