(19)



  暁に借りた本はもう読み終わっていた。
  ただずっと返しそびれていた。熱を出して学校を数日休んだ時、最初こそ身体が重くて何もできなかったが、体調も大分良くなったあたりになるとただ横になっているのも苦痛だった。そこでようやく暁の本を手に取って読み出したのだ。
  それは文章を読むことが異様に遅い友之にも、割とすんなり入りこむことのできるものだった。話の内容はそれほど複雑なものではない。仕事を辞めたばかりの青年が誤って人を殺してしまう話だ。青年には家族もなく友人もいないのだが、ただ1人…いや、1匹というべきか、自分に懐いてくれる野良犬がいた。本の内容はその青年が世間や警察に追われながら、自分に付き従ってくれるその野良犬と逃避行の旅に出る、というものだった。
  正直友之にはその本の作者が何を言いたくてこの本を書いたのか、そういった意図を掴む事はできなかった。元来、そういう事は苦手なのだ。相手の考えや周囲の事物に対する感情の起伏が乏しい。自分で分かっている。だからいけないのだという事も知っている。それでも友之は「何か」は感じ取れても、その「何か」が何なのか、その答えを明瞭に出す方法を知らなかった。だから暁が貸してくれたこの本もすらすらとは読み進められたし、主人公である青年の旅の顛末には興味を抱いたけれども。
  結局、そのラストに対してどうだこうだという感銘を見出す事はできなかった。
  きっと暁はそこから「何か」を感じ取ったはずであるのに。





  寮を出て行った暁は夕食の時間になっても戻ってはこなかった。
  食堂で数人が暁の噂をしているのが友之の耳にも入ってきた。それによれば、どうやら暁は通っている学校で問題を起こしたらしい。あくまでも噂であるからそれがどこからどこまで正しいものかは分からない。むしろ話はとんでもなく大きなものになっているように思えた。暁が自分の気に入らないクラスの人間を病院送りにしたとか、いや同級生ではなく上級生の数人をボコボコにしたとか。また、いやそのどれでもない、止めに入った教師を殺しかけたのだ、など。いずれも推測の域を出ておらず、それは随分と勝手な噂話のように友之には思えた。しかしいずれにしろ、暁が何らかの問題を起こし、寮母の柴田の制止も聞かず何処かへ行ってしまった。これだけは確かな事のようだった。
「 あいつもう退学じゃねえ?」
「 そしたらここからもいなくなるんだよな?」
  害のある声で誰かがそう言うのが聞こえた。確かに学校から何らかの謹慎処分が出ているのならば、今ここに暁がいないというのはマズイ事だろう。それでも友之はただ興味本位にそんな事を言う周囲の人間たちの方がよほど嫌なものに思えた。暁は周りが言うほどに凶暴で性質の悪い人間ではないと知っていたから。
  食堂を出て自室に戻る時、玄関近くの管理人室から柴田が何処かへ電話をしているのが見えた。管理人室は寮から出て行く生徒たちの姿が見えるように小さな窓がついているのだが、しかしそこから見える柴田は友之がいる廊下へ視線をやっていなかった。何やら神妙な面持ちで必死に電話口に向かって話をしている。詮索せずとも暁のことだろうと友之は思った。
「 友之」
  その時、ずっと友之と行動を共にしていた沢海が背後から声をかけた。
「 部屋、行こう?」
「 あ……」
  こくんと頷いて、友之は慌てて管理人室から目を逸らした。暁が気にはなったが、こんな風に柴田の会話を盗み聞きするのはよくないだろう。それでは食堂で好き勝手な話をしていた人間たちと同じになってしまう。
  仄かに顔を赤らめながら、友之は急いで先に階段を上る沢海の後についた。



「 絵葉書さ。光一郎さんに送るんだろ?」
  部屋に入ると沢海が友之に明るくそんな事を訊いてきた。友之ははっとなって「え」と間の抜けた声を漏らしたが、その後すぐに首を縦に振った。机の上に置いておいた、今日買ったばかりの絵葉書に目をやる。
「 あのさ、俺も一言何か書いていい?」
「 うん」
  そんな事を言う沢海は初めてだなと思いながら、友之は反射的に頷いた。それから何となくその場に座りこみ、傍にあったカバンからおもむろに暁から借りていた本を取り出した。
  今夜、帰って来るようだったら返そう。そう思った。
「 友之」
  その時、また沢海が呼んだ。
「 紅茶。飲むか」
「 あ…うん……」
  別段欲しいとも思わなかったが、また何ともなしに頷いていた。沢海はもうお茶の準備を始めていたし、それでいらないというのも失礼かと思ったのだ。
「 今日見に行ったあの写真家って紅茶が好きじゃないんだってな。というより、家が珈琲専門店をやってたからか、毎日コーヒーばっかり飲んでいて紅茶とは縁遠くなっただけみたいだけど。今日見た何かの資料に書いてあったよ」
  でもそれなら普通は逆になりそうじゃないか?俺は逆なんだよな。
  そんな事を言って沢海は1人話を続けた。
「 子供の頃に与えられなかったものって、逆に興味を持って好きになるっていうか。俺の家は親が2人とも異常なコーヒー好きでさ。だから初めて友達の家で飲んだ紅茶の味って何か忘れられない」
「 ………」
  へえ、と心の中で思いながら友之は沸かしたポットからお湯を注ぐ沢海の横顔を見つめた。
  確かに沢海は珈琲よりも紅茶の方が好きなようだった。銘柄などに細かくこだわる、というまではいかないようだが、それでも部屋に常備されているのはいつだって紅茶の葉だ。珈琲はない。
「 はい。友之」
  いつものように小さなテーブルを出して沢海はそこに淹れたばかりの紅茶を差し出した。部屋の隅の壁に寄りかかっていた友之はその声と同時に背中を浮かし、テーブルに身体を寄せる。紅茶の良い香りがすっと嗅覚を刺激した。
「 ありがと……」
「 砂糖」
  何もかも用意してくれる。いつもの沢海だった。
「 ……美味しい」
  少しだけ熱かったが、少しずつ口に運びながら友之はぽつりとそう言った。沢海は「良かった」と言って、それからようやっと自分もカップに手をつけた。いつでもそうなのだ。沢海にとっては友之が気に入ってくれるか、それが1番重要なのだ。
「 光一郎さんに何て書く?」
「 え?」
「 絵葉書」
「 あ…。今日の事、とか」
「 ………」
  笑顔ながらも少しだけ首をかしげた沢海に、友之は途惑って手にしていたカップをテーブルに戻した。
  言葉が足りなかったのだろうと思った。きっと沢海が聞きたいのは、今日その絵葉書を購入したきっかけやそれに対する感想を自分がどう書くか、という事だったのだろうから。
「 拡と出掛けて…楽しかったって…」
  迷いながらもとつとつとそう言葉を出すと、沢海は、しかし黙ったまま視線をカップに落とし沈黙していた。友之はますます困って開いていた口をやや歪めながら、何かマズイ事を言っただろうかと頭の中をフル回転させた。
  その時、階下の方で大きな音がした。
「 ……っ?」
  驚いて顔を上げ、意味もなく背後の窓の方へ視線をやった。そのまま意識を階下へ向けると、何人かがどたどたと下へ降りて行く音が聞こえた。
  暁が帰ってきたのだろうか。
「 ………帰ってきたみたいだな」
  友之が思ったと同時に、つぶやくようにそう言う沢海の声も聞こえた。やはりそうか、そう思った瞬間、友之はらしくもなくすっくと立ち上がってドアの方へと向かっていた。手にはもう傍にあった暁から借りた本を手にしていた。
「 友之」
  沢海が呼んだ。友之はそんな沢海の横を通り過ぎる時、振り向きざま「下へ行ってくる」と。
  言おうとした。言ったつもりだった。
「 ……あっ…?」
  しかしそう思った途端、がくんと膝が折れるのを感じた。思い切り体勢が崩れてもろに傍にいた沢海にしなだれかかってしまう。
「 ……っ」
  ただそうなってしまったのは沢海が唐突に腕を掴んで引き寄せてきたせいだったのだけれど。
「 ひろ……」
「 何処行くんだ?」
  再び座りこみ、沢海の身体に背中を預けるような形になってしまった友之。そんな友之を沢海は両腕で抱きかかえるようにしながら訊いてきた。
「 何処行くんだ?」
  沢海はもう一度訊いた。耳元で囁かれるように言われ、友之は思わずびくんと背中を揺らした。沢海のその声には翳りがあるように感じられ、怖かった。
「 拡…?」
「 氷野のところ?」
「 ん…っ」
  ともかくはこの体勢を何とか変えたい、そう思いながら必死に立ち上がろうとする友之に、しかし沢海は掴んだ腕を放してはくれなかった。両腕で抱き抱えるように背後から友之を拘束し、沢海はやや疲弊したような声を漏らした。
「 ごめん友之…。それ、今はやめてほしい」
「 え……」
「 後でなら…明日なら行ってもいいから。幾らでも話していいからさ…今日は行かないで欲しいんだ」
「 な…で?」
  思い詰めたような沢海の声がやはり怖くて、友之は掠れた声で聞き返した。
「 ………あ」
  するとその怯えた様子が分かったのか、沢海は掴んでいた友之の腕を放すと、そっと距離を取るようにして視線をずらした。
「 何で、とか訊くなよ。本当…キツイから」
「 ……拡」
「 ホント…俺、心が狭いから……」
  沢海はそう言ったきり、あとはたまらなくなったように立ち上がると、先刻まで友之がいた壁際へ移動し、背中を向けたまま部屋に一つだけある窓をガラリと開いた。
  途端、入って来る風と町の音…道路を通る車や犬の吠え立てる声などが、友之の鼻先を掠めて消えた。


  友之は沢海の背中を見つめたまま黙りこくった。
  沢海を怒らせてしまったのだろうかと思った。 



 
To be continued…



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