(20) やっぱり眠れなかった。 「 ……っ」 ゆっくりと上体を起こしてそっと息を吐いた。なるべく音を立てないようにしたつもりだったが、静かな夜の中で自分の吐息はひどく煩いもののように感じられた。友之は電気の消えた暗闇の中、目を凝らして横のベッドで眠っているだろう沢海に視線をやった。相手は背中を向けたまま規則正しい寝息を立てている。起こさないで済んだようだった。 消灯前、散々人の歩く音が聞こえていた寮の廊下も今は何の物音もしない。 あの時、帰ってきたと思われた暁は今どうしているのだろうか、どうしても気になった。だから友之は喉の渇きを理由に遂に立ち上がると、真っ直ぐ部屋の入り口へ向かった。沢海は怒るだろうかと気になって一度だけ振り返ったが、それでもどうしても確かめたくてドアのノブに手をかけた。 暁が帰ってきているか。 どうしても、友之はそれを確かめたかったのだ。 「 ………」 しんとする廊下は非常口を示すグリーンのランプ以外、これといった明かりもない。足元がおぼつかなかった。元々室内にバス・トイレが完備されている最新式の建物だったから、消灯時間を過ぎると外に出る用はほとんどと言って良いほどない。せいぜい一階の自販機へジュースを買いに降りる程度だ。 停電した時の為にと、室内に設置されている懐中電灯を手に、友之はそろそろとした足取りで階段を下りていった。もし暁が帰ってきているのなら、もうとっくに部屋で眠っている時間だ。同部屋の坊野とて同じことだろう。確たる手段もなく、それでも友之は暁がいるだろう部屋の階にまで行き、その通りに誰もいない事を確認した後はそのまま一階のロビーにまで下りた。 管理人室にはまだ電気がついていた。 「 あら…?」 するとすぐにそこから声がかけられた。 「 北川君」 階段と管理人室がすぐ傍に隣接しているからというのもあるだろう。寮母の柴田は管理人室の窓から一度顔を出した後さっと廊下に出てきて、階段前で立ち尽くしている友之に驚いた顔を見せた。 「 北川君、どうしたの。こんな時間に」 「 あ……」 飲み物を買いに、と言いかけて、しかしその言葉はすぐに柴田にかき消された。柴田も友之同様、寝巻き代わりのようなトレーナーにスラックスというラフな格好になっていたのだが、目は冴え渡っているようでいつものはきはきとした声を出してきた。 「 喉でも渇いた? お茶淹れてあげる。入って」 「 え……」 「 もう1人お客さんいるけど」 「 あ……」 そこには暁がいた。 事務仕事用のデスクと電話くらいしかない狭い管理人室の奥には、もう1つちょっとした仮眠用の和室があった。管理人室と連なる形で存在するそこはガラス戸一枚で隔てられているのだが、その向こうに暁はいた。その和室は6畳ほどの中に漆塗りの卓袱台と茶碗などが収められているサイドボード、それにテレビがある通称「おやつ部屋」で、柴田が寮生たちをよくお茶に招く場所だった。 暁はその場所で、開け放たれた戸の向こうからいやにぼんやりとした目線でただ友之のことを見つめていた。 「 やあ」 そうして一間隔後、友之が自分の傍にまで来たところで、暁はいやにすっとぼけた声でそう言った。両手を腰の後ろについて身体を支え、だらりとした様子。何だかひどく気だるそうだった。 「 こんばんは」 それでも暁はもう一度友之にそんな挨拶をし、隣接した管理人室でお茶の準備を始めた柴田を目の先で追いながら「そこに座れば」と顎だけで友之に指図した。友之は言われるままにスリッパを脱いで和室に上がり、そう言った暁の目の前に座りこんだ。 「 今日は賑やかな夜だわ」 柴田がつぶやくようにそう言った。ちらと背後に視線をやると、柴田はどことなくやつれたような表情でポットからお湯を注いでいた。友之はそんな寮母をしばらく見た後、再び目の前の暁に視線を戻した。 暁はとうに友之の方を見つめていた。 「 キタガワ君、割と眠れない方なの?」 そして暁は至って普通に友之に話しかけてきた。友之が途惑ったように答えの言葉を探していると、更に助けるようなその声は続いた。 「 こんな時間に下りてくるからさ。丑三つ時っていうの? キタガワ君は暗いのとか平気なんだ?」 「 うん」 「 そう。俺は駄目」 暁は言った後、どことなく自身を卑下するように口の端だけで笑った。それから首をぐるりと一回りさせてからふうとため息をついた。 友之はそんな暁を黙って見守った。 「 はい、お待ちどうさま」 その時、柴田が湯のみに緑茶を淹れて戻ってきた。友之にそれを差し出し、それから暁と友之を左右で見られる場所にどっかりと座る。卓袱台の上には既に柴田の湯のみ、それにお茶菓子が幾つか皿に盛られてあった。 「 北川君もどうぞ。お饅頭とかおせんべいとか、ほら色々あるのよ。こんな時間によくないだろうけど、まあ北川君は痩せているし。たまにこんな間食も許されるでしょ」 「 柴田さんは許されないんじゃない」 「 あ〜。余計なお世話。誰のせいで夜更かししていると思っているのよ」 「 俺のせいかな」 「 そうよ」 柴田と暁の親子のような会話を耳にしながら、友之はただ黙って2人を交互に見やっていた。するとその様子に気づいた柴田が苦笑したように友之に話しかける。 「 今日の騒ぎは北川君も知っているわよね。暁君の大脱走のせいで、今日は1日てんやわんやだったわ」 「 ごめんね」 「 謝るくらいならおとなしくしてなさいっての」 「 あの…」 友之が声を出しかけると、暁は物珍しそうに少しだけ瞳をくゆらせた。それからだらりとしていた上体を起こし、卓袱台の前の菓子を1つつまんだ。しかし特に食べたいわけでもないらしく、暁は綺麗に包まれた桃色の包装紙をただ指でなぞった。中身は甘い饅頭なのだろうなと友之はその様子を眺めながら何となく思った。 「 キタガワ君、俺、遠くに行くんだよ」 その時、暁が唐突にそう言った。 「 え…?」 「 こらこら、まだ決まっていないでしょ!」 柴田が慌てて口を挟もうとしたが、暁はただ友之を見つめたまま言った。 「 耐えられなくて殴っちゃった。しばらく我慢してたのに」 「 だから暁君、それはー」 「 ほら」 再度柴田の声をかき消し、暁はすっと長い腕を差し出すと、友之の目の前に握った拳を突き出した。 「 ……!」 「 見て」 強く握られ作られた拳からは妙に浮き出てどことなく痛々しい手の骨が見え、友之に不可解な圧迫感を与えた。 しかし一方で。 その威嚇する拳は、皮が剥けて傷だらけだった。 「 これ…」 無意識のうちに友之はそんな暁の拳に手で触れていた。ざらりとした感触。するはずのない血の匂いを感じた。 「 痛い…?」 「 ん…大丈夫」 友之の問いに暁は静かに応えた。どことなく優しい声音だった。 「 ……本、返すの遅れたから…?」 そして友之が何ともなしにその言葉を口からこぼすと、暁のその手はぴくりと動き、微かに震えた。それで友之も驚いて反射的にその手を放した。恐る恐る暁に視線を送ると、そこにはひどく面食らったような、途惑いに満ちた顔があった。 「 何?」 「 え…だから…」 「 ……違うよ」 けれど間もなく、暁はそう言ってから薄っすらと笑った。 「 違うよ。……お前がそんな風に言う事ないよ」 「 …………」 「 何の話…?」 間から柴田が不審の声をあげた。交互に2人を見やったが、返答はなかった。 「 内緒の話?」 もう一度鎌をかけた柴田に、やはりどちらも応えなかった。 2人にしか分からない何らかのやり取り。柴田は戸惑ったように何かを言いかけ、しかし再び口をつぐんだ。暁の穏やかな話しぶりにも驚いているようだった。 「 本、読んだから返す」 その時、突然友之がそう言った。 「 え…?」 「 ………」 「 今…!」 柴田が唖然と、暁が無機的な顔をしている中、友之はもう一度声をあげ、出されたお茶には一度も触れる事なく立ち上がった。 あの本を。 一刻も早く暁に返さなければと思ったのだ。何故だか強くそう思った。 「 ちょっと北川君?」 「 明日でいい」 2人がほぼ同時にそう言った声が聞こえたが、友之はもう走り出していた。 暗い階段をだっと駆け上がり、必死に自室へ向かう。 事情など知らない。けれども暁が誰かを殴った。我慢できずに拳を出して、そして傷ついてしまった。それを思うと何故だかどうしようもなく苦しくて、その痛みがまるで自分のことのように思えて、居た堪れなかった。 不意にあの本の表紙が頭に浮かんだ。 「 ……っ」 一気に階段を駆け上がり、部屋に飛び込んだ。さすがに猛烈に息が上がっていた。物音を立てないようにと十分気をつけながら部屋を出てきた時と違って、勢いよく開いてしまったドアからはバタンと大きな音が響いた。しかし中で眠っている沢海を起こしてしまうと気づいたのはそのドアを開けた瞬間で、しまったと思った時にはもう急いだ拍子に部屋に駆け込んでいた。 けれども勢いこんで入ったその先には、予想したような暗い空間はなかった。驚いてベッドから飛び起きてしまった沢海の図も見られなかった。 部屋には明かりがついていた。 「 あ……」 眠っているはずの沢海がそこにはいた。 「 友、之…」 友之の机の前に立っていた沢海は手にしていた物をその場に置いて、突然部屋に戻ってきた友之をじっと驚いたように凝視した。友之はハアハアと切れる息を整えながら一歩二歩と部屋に入り、ただ沢海が手にしていた物に目をやった。 それは友之が自分の机の上に置いていた、あの本で。 「 あの……」 「 …………」 それを、と言いかけて、しかし友之はその声を飲み込んだ。瞬時、先刻自分を引き止めた沢海の言葉が脳裏をよぎったから。 今日は行かないで欲しいんだ。 「 ひろ……」 沢海はもうこちらを見ていなかった。最初に意表をつかれていたような顔も今はすっかり消え去り、ただ暁の本に触れたままじっと何事かを考えこんでいる様子で。 「 拡…」 もう一度呼ぶと、沢海ははっとしたようになって顔を上げた。 そして。 「 はい」 沢海はやがて触れていた本を手に取り、そのまま友之に向かってついとそれを差し出した。そうして少しだけ笑ってみせると、「ごめん」と静かに謝った。 「 ………」 どうして謝られたのか分からなかった。 |
To be continued… |