(3)



 眠れない夜が多かった。
 元々ベッドが好きではなかった。何となく背中が痛いし、何度寝返りを打っても落ち着かない。動ける範囲も決まっていた。
「…………」
 堪らなくなって友之が上体を起こすと、上の段で眠っているはずの沢海が声をかけてきた。
「友之…眠れないのか」
 あまりにも忙しなく動いていたから起こしてしまったのだろうかと思い、友之はくぐもった声ながらも「ごめん…」とだけ謝った。すると上から再び、今度は焦ったような声が降りてきた。
「別に友之のせいで目が覚めたわけじゃないよ。俺も眠れなかったから」
 そうして沢海は上体を起こすと、梯子を降りて友之のいる下段のベッドを覗きこんできた。
「でもさ…友之、何だか寝苦しそうだな」
 ああやっぱり煩かったのかな、と友之は心の中だけで思った。沢海はそんな友之の心根には気づいていないのか、構わずに続けた。
「今日は帰ってからちょっと眠れていたみたいだけど、最近夜中に目覚める事多いだろう」
「拡のこと…起こしてた?」
 さすがに申し訳なく思って訊くと、沢海は苦笑してから首を横に振った。
「違うよ。俺は元々眠りが浅い方だから」
「…………」
「でも友之はそれに輪をかけて眠らない方じゃないか?」
 眠らないのは自分の兄だ、と友之はふっと思った。

 友之の兄は、本当にいつ眠っているのだろうかと不思議に思うほど、人に眠るところを見せない人だった。
 友之が起きている時は勿論、夜中にふっと目覚めた時も、兄は必ず居間で何かをしていた。そうして、不意に自分の元にやってきた友之に驚いたようになって「どうした」と聞いてくれるのだった。
 そんな時間に、安心した。
 いつまでもそんな風にしていられると思っていたのに。

「まだこんな時間だな。友之、何か飲むか?」
 その時、沢海が友之を気を遣ってか、そんな事を言った。
「……いい」
「そうか? 結構部屋乾燥してるし、喉渇いてないか?」
 友之は首を横に振った。
 下手に頷いたりしたら、沢海はまた部屋を出て自分の為に下の自販機までジュースでも買いに行ってしまうかもしれない。友之は頑なにふるふると首を横に振って、それから困ったように俯いた。
 時計の針は3時を少し過ぎたところを指し示していた。
 まだ夜が明けるには間がある。どうしてこんな時間まで眠る事ができないのだろうと思いながら、友之ははっとため息をついた。
 沢海はそんな友之の表情をただじっと見やっていたが、やがてすっと立ち上がると、勉強机の椅子を引いてドアの付近へ移動させた。
「なあ友之。ここに布団敷いたらどうだ?」
 そうして唐突にそう訊いてきた。
「………?」
 友之が何も応えずにいると、沢海は椅子がなくなった事で空いたスペースを見やってから、「一式くらいならここに敷けるし」と付け加えた。
「ここに…?」
「そう。友之、ベッド駄目なんじゃないか? 何かいつも居心地悪そうだし。こういう枠がついている所で眠るのが元々性に合わないんじゃないかって。家ではベッドだった?」
「ううん…」
「だろ? しばらくベッドやめてみたらどうだ。確かに狭いけど…まあ、それはここのベッドも同じなわけだし」
「……でも」
「嫌か?」
「…………」
 嫌ではないけれど、もしそうして眠れなかったらという気持ちもあった。また友之には、沢海のように「それだと駄目だからこうしたらどうだろう」というような前向きな改善策を練る発想が元から備わっていなかった。そうしようという気力もなかった。自分の事なのに、どうでもいいという気持ちもあったのだと思う。
 それに。
 多分、ベッドが嫌いというのは自分の中の言い訳なのだ。
 友之は薄々分かっていた。どうして自分が眠れないのかという事を。
「友之?」
 はっとして顔を上げると、そこには自分の返答を待っている沢海の姿があった。友之が再び困惑したように視線を下に移すと、沢海はしばらくはじっとそんな相手の姿を見つめていたが、やがてさっさと上段にある自らのベッドに上って行きー。
 いつまでもその場を動かない友之の代わりに、自分のベッドのマットレスと布団を下に降ろし始めた。
「拡…?」
 呆然としている友之には構わずに、沢海はあっという間に自分の布団一式を絨毯の上に敷いてしまうと、「な、簡単だろ」と言って笑った。
「いいからここで寝てみろって。ちょっとは環境変わって眠れるようになるかもしれないから」
「でも…」
「俺はそこに寝るから」
 そうして沢海は友之が今いる下段のベッドを指してにっこりと笑った。
「…………」
「嫌だったらすぐ交代するし。でもさ、嫌だと思ったらとにかくそれを変えてみなきゃ。それで良くなれば儲けものだろ」
「駄目だったら…?」
「また変えればいいんだよ」
「…………」
「何?」
「……そういう事…あんまり、考えた事、ないから」
「………そうか」
「変だよね…?」
「え? 友之が?」
 暗い部屋の中で沢海が目を丸くしてそう問い返してくるのが友之の視界に映った。
「そう思うのか、友之は…?」
「うん…」
 改めてそう聞かれ、友之は何だか無性に恥ずかしい気持ちになった。しかしやや赤面して下を向くと、そんな友之に沢海はより可笑しそうな顔をして笑った。
「そんな事ないよ。別におかしくはないよ」
「……でも」
「友之は変じゃないよ。俺が保証する」
「………」
 その夜、友之は沢海の言われた通りベッドで眠るのを止めた。
 不思議と、すっと眠りに落ちる事ができた。


               *


 朝、目が覚めるとそこにはもう制服姿の沢海がいた。
「おはよう、友之」
 ネクタイを締めながら沢海はそう言っていつもの優しい笑みを見せた。
「良く眠れたみたいだな」
「うん……」
 慌てて上体を起こすと、沢海は苦笑したようになって「まだ早いから大丈夫だよ」とだけ言った。時計に目をやると、なるほどまだ登校時間までには間があった。
「友之、ここ最近は俺より早い事も多かったのに、今日は俺が起きてきても目を覚まさないからすごく熟睡してるんだなって思った」
「うん」
「やっぱりベッドが良くなかったのかな」
 沢海は言ってから、友之の前に屈み込むと、何気なく手を差し出して友之の髪の毛をなでた。その所作に驚いて多少身体を引く友之には構わず、沢海は微笑したまま「良かったな」とだけ言った。
「………拡」
 それで友之も沢海を見てから、ぽつりと言った。
「ありがと…」
「え?」
「…………」
「はは…別に気にするなよ」
 沢海は素直に礼を言ってきた友之に驚いたような顔を閃かせたが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻して再び友之の髪の毛に触れてきた。
 今度は友之もそれに逆らうということをしなかった。
「俺さ…」
 すると沢海はいやに静かな声で口を開いた。
「俺…友之が辛そうなのを見ているのが嫌だから」
 
 だから、俺は好きでやっているんだから。
 
 沢海はそう言ってからすっと立ち上がり、今度は友之の顔を見ないようにして「食堂行くか」とだけ言った。
 友之は沢海のそんな姿をただ黙って見上げ、それから訳もなく胸が苦しくなるのを感じた。
 沢海の優しさが何だか胸に痛かった。



To be continued…


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