朝方早くに沢海は部活用のボストンバッグを肩に担いで早々に部屋を出て行ったが、友之は布団を頭までかぶって眠ったフリをしていた。本当は声を掛けたかったけれどどんな顔をしてどんな言葉を言って良いのか分からなかったから、結局いつも通りに逃げてしまった。 それに、どのみち。 「 キタガワ君」 「 ……あ」 自分が何か言おうとしたところで、また沢海の方が気を遣ってしまうに決まっている。 「 おはよう」 「 お、はよ…」 「 浮かない顔」 鬱々とそんな事を考えながら部屋を出た友之を待ち構えていたのは、昨夜と同じ格好のままの暁だった。 (21) 友之たちの部屋の前、壁に寄りかかった状態で暁はそこにいた。昨夜と同じ私服を着ていた事から友之が寝なかったのだろうかと何ともなしに思っていると、暁は「うん」と頷いてから無表情のまま続けた。 「 あの本、せっかく返して貰ったからあれからまた読んでて、気づいたら朝が来てた」 「 ……そうなんだ」 「 それより、今日は優等生いないの?」 部屋の中を探るようにして暁は唐突にそんな事を言った。友之は暁の視線を追うように誰もいない部屋の中を振り返ってから、途惑った風になって首を縦に振った。 「 拡は部活の朝練があるから」 「 へえ」 意味もなく感嘆したような声を出してから、暁はくいと首を横にやり、顎で友之を階下とは別の方向へ誘った。不審な顔をしているのに構わずに暁は口を開くととつとつと言った。 「 彼がいないと誘いやすくてちょっとつまらないけど。まぁそれはともかく、俺とも遊んでと言ったでしょ。今日はいい天気だから外へ行こう。柴田さんに見つかると怒られるからあそこから出て」 暁がそう言って歩き出した先は、普段滅多に使用しない非常用階段へと続く扉だった。友之は当然のように先を歩き出す暁を呆気に取られたまま暫し眺めやった。 学校は? 何処へ? 言葉に出せない当然の疑問が次々と頭を駆け巡ったが、友之はただ非常口へと向かう暁の背中を見つめていた。暁は多くを語らないけれど、また友之自身も訊かないけれど、昨日何らかの事があって暁が通っている高校から謹慎処分を喰らっているのは間違いなかった。そんな彼が外へ出たらどうなるか。友之は昨夜何ともない風に「遠くへ行く」と言った暁を思い出して急激に堪らないものを感じ、だっと駆け出すとそのまま暁の背中に声をかけた。 「 駄目だよ…っ」 「 ん…?」 やや大き目の声が出たからだろうか。効き目は絶大だった。 「 ……何?」 暁はくるりと振り返り、息を切らしながら自分を必死に見上げてくる友之に奇異の目を向けてきた。それから小首をかしげ、少しだけ陰のこもった声を返す。 「 何が駄目?」 「 そ、外…行くの」 「 何で?」 「 柴田さん、が…」 謹慎中なのだから寮にいろとは言えなかった。 暁が学校で何か事件を起こした云々というのは、食堂で流れていたただの噂に過ぎない。実際は柴田があれほど煩く寮にいろと言っていたのだから、似たような事が起きた事だけは間違いないと思うのだが、だからと言ってそれが確固たる事実かを確かめていない今、友之からその事を口にする事はできなかった。だから仕方なく寮母の名前を出した。 すると暁は何でもない事のように頷いた。 「 うん。だから柴田さんには見つからないようにここを出る」 「 駄目だよ…」 「 見つからないよ」 「 見つかるよ」 「 見つかってもいいよ」 「 え……」 「 いいんだよ」 「 ……っ」 何を言っても無駄だというのはすぐに分かった。 友之はぐっと詰まったまま、しかしそれを許容する事もできずにただ唇を噛んで俯いた。暁に行って欲しくない、駄目だと頑なに思ったから、友之は顔を上げる事ができなかった。 「 ……キタガワ君」 すると頭上から不意にハアといやに大袈裟なため息が降りてきた。見上げると、暁はややつまらなそうな顔をして友之をじっと見下ろしていた。 「 どうだっていいんだよ」 暁は言った。 「 キタガワ君。俺にはこの街も今の生活も…どうだっていい。全部くだらない。ボウノ君は面白いし、柴田さんもいい人だよね。ちょっと好きかな。でも、それだけ。誰が何を言っても俺を止めるのは無理だよ。誰も止められないよ。だから俺は外へ出て行く」 「 ………」 「 だからそれはキタガワ君も同じだよ。キタガワ君が一緒に遊んでくれないなら、1人で出るよ」 そうして暁はそのまま再び友之に背中を向けると、非常口のドアを開き、そこから外へ降りる階段へと足をかけた。 「 あ……」 友之は眉をひそめたまま声をあげかけ、けれどその後の言葉を見つけられなくてやはり口ごもった。 暁はいつも言葉の足りない人だ。だから周りから誤解されるし、敬遠もされる。だが、だからこそ友之はどこかで暁に自分と共通する何かを感じていた。自分もいつでも声が出ない。そしてそれによって周囲から中傷もされる。沢海がいなければもう当に駄目になっていたかもしれない。 そう、友之には沢海がいたから。 「 だ…」 だから友之は暁を止めたかった。自分が。 勿論、暁は友之にない強さを持っているし、見えにくいけれどひどく温かく大きな何かを常に胸の内に秘めている。 それでも。 「 駄…目…っ」 「 ……!?」 「 駄目だ…!」 声が大きかったから、否、そうではない理由で、去って行こうとする暁の動きはその制止の声の後ぴたりと止まった。 「 な……」 友之に突然抱きつかれたその背中は、明らかにその不意の衝撃に途惑い、固まった。暁は自分に向かってひっしと両腕を回し抱きついてきた友之に対し、明らかに面食らった様子を示した。 それでも友之の方は、その時そんな暁のことなど気にならなくて。 「 帰って、来られなく、なる…っ」 考えるよりも先に言葉が出た。この時は。 「 北…」 「 今行ったら、暁、帰ってこれな…それは駄目…。駄目、だから…」 「 ………北川」 「 殴るの…我慢できるようになったって…」 「 ………」 「 ここに来たからじゃないの…?」 「 ……ここは俺の帰る所じゃない」 掠れた声が聞こえた。あの飄々とした雰囲気が消え、どこか精彩の欠いた暁の声が友之の耳にじんと響いた。ああ、やっぱりそうだと友之は思った。 この人はとても強いけれど。 自分と同じで、弱くもある。 「 暁……今日は行ったら、駄目だから」 がむしゃらに抱きついていた腕を解き、友之はゆっくりと顔を上げると今度はしっかりとそう言った。暁はそんな友之に向き直り、やや光の揺らいだ瞳を向けたまま暫くの間は何も発しようとしなかった。 けれど、やがて。 「 うん」 暁は頷いた。 「 分かった。分かったからさ。いつまでもそうやって懐くの、やめてくれない?」 「 あ…っ」 苦笑したような暁に友之は慌てて今度こそ暁から二三歩距離を取って離れた。抱きつくのをやめた後もぎゅっと暁の腕を掴んで放さなかった自分に猛烈な気恥ずかしさが襲う。友之はかっと赤面したまま、慌てたようになっておろおろと所在なく辺りを見回した。 「 ははっ!」 すると急に柔らかい笑声が飛んで、見ると傍の暁が本当に楽しそうに目を細めているのが見えた。 そうして暁は友之の髪の毛をぐしゃりとかき回すと、心底可笑しそうに言った。 「 ああ、やっと分かった。優等生が君を好きな理由」 「 え……」 「 うん。分かった」 「 あ、暁……?」 唐突に沢海の事を持ち出され、友之は口を開いたまま声を失った。途端に体温が上昇する自分を意識しながら、それでも友之は尚楽しそうな顔をする暁から目を離す事ができなかった。 そんな暁は再び友之の頭を撫でると言った。 「 ね、キタガワ君。外出ないならいいんでしょ。なら、今日はここで遊ぼう? 俺と」 「 え……」 「 一緒に謹慎、付き合ってよ」 「 ………」 暁は悪びれもせずにそう言ってから、今度は自分から友之の手首を掴むとぐいぐいと引っ張って歩き出し、まるで悪戯小僧のような嬉しそうな顔で言ったのだった。 「 屋上なら外に入らないよね?」 「 あ……うん」 依然手を引かれたまま、友之は翻弄されつつも反射的に頷いた。 「 屋上で一緒に昼寝でもしようか」 暁はそんな友之には構わず軽快にそう言った。友之は途惑ったまま声を返す事ができず、ただ大人しく暁に手を引かれ階段を上った。 「 ………」 ただ、気になっていた。暁が外へ出ないと言ってくれた事は嬉しかったし、こうやって笑いかけてくれる事もとてもとても嬉しかった。ほっとした。 けれどこの時、友之は別の事がひどく気になっていたのだ。心臓の鼓動がどんどん早くなるくらい。 「 ……っ」 このまま学校をサボったら。サボってしまったら。そうしてこのまま暁と一緒にいたりしたら。 「 ひろ……」 やはり沢海は怒るだろうかと、それがとても気になっていた。 |
To be continued… |