(22)



  心地よい風が吹く屋上で、暁は友之に実にいろいろな話を聞かせてくれた。
  故郷で世話になっていた親戚の仕事のこと、暁にボクシングを教えてくれたというコーチの人となり、それに地元でしていた幾つかのアルバイトの事など。淡々とではあるが暁の話はどれもみな興味深かった。
  だから友之も少しだけ話をした。家族のこと、今は遠くにいる大切な兄のこと。
  そして「友人」である沢海のことも。中学時代に初めて声をかけられた時の事から、気づくとぽろぽろこぼれ出ていた。
  暁は黙って聞いてくれたし、友之も暁が話している時はその滑らかに動く唇だけをただじっと見つめていた。暁はこちらでの生活…特に今回の「謹慎処分」については何も語ろうとはしなかったが、それ以外のところでは随分と饒舌だった。
  友之はそんな暁に多少驚きつつも、やはり嬉しいと感じた。

  ひどく穏やかな時間だった。

  いつ暁の不在に気づいたのだろう。柴田は散々暁のことを探し回っていたようで、夕刻、屋上で友之と一緒に寝転がっている当人の姿を発見した時は、既に怒りの境地も超えていたのか、へなへなとその場に座りこんで「良かった」とだけ呟いた。それは暁が外へ出て行っていなかった事に対する、心底安堵したような声だった。
「 ……ごめんね」
  暁はそんな柴田の姿を暫く見つめた後、無機的な顔をしつつもそう謝罪の言葉を漏らした。
  友之は柴田に礼こそ言われ、学校をサボった事に関しては一言も咎められなかった。暁を押さえていてくれてありがとう、良かった、本当に良かったとひたすらに喜ぶ柴田に友之は妙な心持ちがした。
  そしてまた、沢海の姿を思い浮かべた。





「 ただ今」
  沢海は夜も大分遅い時間になってから制服姿で帰ってきた。夕飯は部活仲間と外で摂ってきたらしかったが、何よりも友之を驚かせたのは、その後その部活仲間の家へ数人で遊びに押しかけていたという話だった。
「 久々にCDとかたくさん借りちゃったよ。友之も聴く?」
「 え……」
「 あ、でも今日は遅いからまた今度な」
「 ………」
  沢海に友人がたくさんいるなどという事は周知の事実だった。友之とてそんな事は誰に言われずともよく知っていた。
  しかし、共に寮生活を送るようになってから沢海が部活動以外でこんなにも帰りが遅くなる事は、少なくとも友之が覚えている範囲では一度もなかった。沢海はただでさえ部活のせいで毎日帰りが遅くなる事、それにより友之をこの部屋にずっと独り置いてしまう事にいつも罪悪感を覚えているようだったから。「もっと友之といられるといいんだけど」と、沢海は折に触れ言っていたのだ。
  それなのに、今夜の沢海は。
  態度はいつもと変わらない優しいものだったけれど。
「 友之、風呂はもう入ったのか? 洗濯は?」
「 あ…」
  突然そんな風に話しかけられて友之は驚いて顔を上げた。沢海が帰ってきてから部屋の中央に手持ち無沙汰のように立ち尽くしていた友之は、そんな自分に構わず着替えを始めていた相手をようやく茫然と見つめた。
  沢海はそんな友之に困惑したようになりつつも苦笑して言った。
「 どうしたんだよ。風呂、入ったのかって訊いたの」
「 あ、うん」
「 そっか。洗濯は? 乾燥機から出してきた?」
「 うん」
  矢継ぎ早に友之に質問する沢海はいつもの世話焼き人そのままだった。それでも友之はどうしても落ち着かず、未だ突っ立ったまま沢海の動向をじっと見やった。
  すると着替えを済ませた沢海は友之の方を見ずに言った。
「 今日は帰りが遅かったから、これから今日出された宿題やらなきゃなんないんだ。友之の寝るの邪魔しちゃうと思うから、俺、大塚の部屋行ってやってくるな」
「 え……」
  その発言に友之は目を見開いて絶句した。
  いつも学校の宿題は沢海が帰ってきてから一緒にやっていた。沢海は「分からないところを教えるから」と必ず友之の勉強状況を確認したがったし、友之自身もそんな体制にすっかり慣れてしまっていた。勿論、友之は今日学校へ行っていないわけだから、沢海がやろうとしている宿題などやらなくても良いのだろう。けれど友之としては、今日出されたものはその内容を教えてもらって一緒にやるつもりでいた。それを当然の事としてただおとなしく待っていたのだ。別に風邪で休んだとかそういうわけでもなかったから。
  そう、風邪で休んだわけではない。ただ暁と一緒にいた。
  しかし、帰ってきた沢海は友之が学校に来なかった理由を一切訊こうとはしなかった。
「 どうした、友之?」
  その時、黙り込む友之に沢海が再び訊いた。
「 あ…っ」
  友之ははっとなって沢海を見つめてから、言いにくそうにしつつも声を出した。
「 あの…今日の宿題って何が出た…?」
  それだったろうか、自分が言うべき言葉は。
  そんな事を思いつつ、友之はただ必死に沢海との会話を保たせようとした。
「 ああ、いつもの英語と古典訳、あと今日は数学まで出ちゃったんだよ」
  大変だと言うように沢海はあっさり言った後、少しだけ首をかしげて友之に言った。
「 でも友之はやる必要ないよ。休んでたんだし。だから先に寝てろよ」
「 ………」
  胸がズキンと痛んで、友之はもう沢海を直視できず俯いた。
  柴田から聞いているに決まっている。今日一日暁と屋上で油を売っていたこと。それを問いただそうともせず、沢海は普通の顔で宿題などやらなくていいと言う。直接責められるよりもキツイと感じた。
  これが兄だったら何故学校を休んだのか、誰にでもいいから宿題の内容を聞いて必ず明日までにやれと厳しく言ったに違いない。これが兄だったら。
  でも沢海は言わなくて。
  休んだ理由も訊いてくれない。自分から言えばいいようなものだが、友之にはそれができなかった。沢海が訊いてくれるのをただ待っていた。
  そんな自分はズルイと知っているのに。
「 ……じゃあ行ってくるな」
  黙りこくった友之に困ったのだろうか、沢海は少しだけ笑ってみせてから教科書とノートを抱え部屋を出て行った。
「 ひろ…っ」
  友之は焦ったようにその去り行く背中を見つめ声を出しかけたが、それでもやはり出て行く相手を止める事はできなかった。
  しんとなった部屋の中、みっともなくただそこにいるだけ。
  友之は言い様もないない寂しさを感じた。ズキズキと痛む胸をぎゅっと強く片手で掴んだ。



  それから恐らくは1時間としていないだろう。



「 ……どうしたの?」
  部屋のドアを開けた大塚はその来訪者に軽く動揺したようだ。努めて冷静さを保とうとしているものの、困惑したように、けれどやや冷たい声で言った。
「 拡に用?」
「 あ……」
「 どうした?」
  すぐさま部屋の奥から声は聞こえてきた。そして近づいてきた。その足音にどきんとしているうちに、目的の相手はやはり大塚と同じような表情を見せた。
「 友之。どうした、寝たんじゃなかったのか」
「 あの……」
  意外な声を出されて友之は自身どうしてここまで足を運んでしまったのだろうかと思い下を向いた。カッと熱くなる身体を感じる。恥ずかしいと思っていた。
  心細くなって見苦しくも沢海を尋ねて来てしまった事。
「 ……入る?」
  大塚はドアをより大きく開いてそんな友之を中へ入れようとした。今にも倒れそうな細く小さな身体に同情したのかもしれない。友之は開かれたドアの向こうの温かそうな部屋をちらと見て、けれどまた視線を足元へ移した。
  そこはやはり見知らぬ他人のテリトリーだったから。
「 いいよ」
  沢海はそれを察したのだろうか、大塚に言ってから代わりに部屋を出て来て友之のすぐ傍にまで近づいた。それから困惑したような表情ながら、友之に向かって優しく笑いかけた。
「 ごめん、まだ終わらなくてさ。何か用だった?」
「 …………」
「 もうちょっとしたら戻るからさ」
「 …………」
「 友之?」
  やはり怒っているのだ、沢海は。
  優しい笑顔と声を目の前にしているのに友之はそう思ってしまうと後はただもう無性に泣き出したくなってしまった。それでも自分がここまで来てしまった理由、本来なら部屋でうずくまっているだけの自分がここに立っている事を考えると、言わずにはおれなくて声を出した。
「 宿題…どこか、教えてもらいたいから…」
「 え……」
  驚いたような声が上から聞こえた。友之はぐっと唇を噛んだ後、もう一度言った。
「 明日はちゃんと学校行くから…。やらないといけない範囲、教えて」
「 …………」
  答えはすぐに返ってこなかった。それでもその両者の姿を見ていた大塚が、やがてつかつかと部屋の中へ戻ったかと思うとすぐに沢海のノートをかき集めてきて言った。
「 部屋でやれよ。どうせ俺のクラスはそんな出てないのに、お前に付き合ってやってたんだし」
「 ………」
「 な、拡」
「 ああ……」
  くぐもった声を出した後、沢海はようやくそう声を出した。仕方なくそう言っているようなその声色に友之はまたズキンと胸を痛めた。嫌なのだろう、そう思うとどうしようもなかった。
「 じゃ、行こう友之」
  だから依然として優しくそう言ってくれた沢海に、友之はもう声を返す事ができなかった。



  部屋に戻る途中で暁とばったり出くわした。
「 こんばんは」
  随分元気になっている。むしろ異様なほど陽気になっているようだ。階下のランドリーから出してきたのだろう、暁は洗濯物の入った紙袋をぶら下げたまま丁度階段を上りきった場所に立っていた。こちらに向かって上ってくる友之たちを真っ直ぐに見下ろしている。
「 こんばんは、キタガワ君」
「 う、うん」
  返事をしない事でもう一度言われ、友之は慌てて頷いた。それから気にした風に沢海の横顔を見上げたが、ここからではその表情はよく読み取れなかった。
「 こんばんは、サワウミ君」
  すると暁は今度は沢海に向かってそう言った。試すような静かな目。ぎくりとして友之がそんな暁を見ると、当の「友人」はにこりと笑った後、また沢海に向かって素っ気無く言った。
「 今日ありがとう。君の友之を借りた」
「 ………ふざけるな」
  沢海のその押し殺したような低い声に友之は途端心臓を高鳴らせ声を失った。そしてそう思った瞬間、ふっと黒い影が降りてきたと思うや否や、友之は前方の視界を沢海の背中によって遮られた。
「 別に取って食いやしないよ」
「 当たり前だ…」
「 じゃあ隠さなくてもいいだろ?」
「 ………友之が」
  沢海の声だけを友之は聞いていた。顔は見えないから。
「 友之がお前に会いたいなら別にいい…勝手だ。友之がお前といようと、誰といようと俺には…」
「 関係ない?」
「 ……友之がそれを望むなら」
  その沢海の言葉にはっとして友之は顔を上げたが、やはり沢海の顔は見えなかった。けれど昨晩、暁の本を取りに来た自分に対して謝りながら本を渡してくれた沢海の顔、今夜は行かないで欲しいと言った寂しそうな顔は瞬時脳裏に浮かび上がらせる事ができた。
  また友之の胸は痛んだ。
「 ………そんなに無理に大人ぶらなくてもいいじゃない」
  その時、暁がバカにするような声でそう言った。呆れている、と言った方が正しかったかもしれない。ため息をついた後、暁はひょいと身体を動かして沢海の背後にいる友之を見やった。
「 後ろ見てみなよ、泣きそうだよ」
「 お前に…関係ないだろ…」
「 そんなことないよ」
  沢海の堪えたような声に暁はすかさず言った。
「 友之は俺の友達だから。君が怖いと友之は落ち込むんだ。君が素を出すと友之は困っちゃうんだ。だから優しくしてあげてよ。本当…君も大変だとは思うけど」

  君さ、本当は優しい人なんかじゃないでしょう?

「 氷野……」
  名前を呼ばれて暁はにやりと口の端だけをあげた。それから再度友之を見て言った。
「 だから友之みたいな本当を持っている奴に惹かれるんだよね。うん、それ…納得」
  そして暁はそれだけを言うとくっと笑い、後はもう2人の存在など見えないかのような態度で去って行ってしまった。
「 …ひ…拡」
「 ………」
  友之は不安そうに黙りこくる沢海の背中に話しかけたが、やはり声は返ってこなかった。 



 
To be continued…



戻る23へ