(23) 部屋に戻った後、しばらくの間沢海は友之と口をきかなかった。 努めて冷静でいよう、そう思うのにままならない気持ち。それを持て余して友之に当たるのが怖い。だからなるべく見ないようにしよう、話さないようにしよう。そんな思いが、この時の沢海にはあったのかもしれない。 「 ………」 一方の友之は友之で沢海の沈黙と暗い表情が堪らないからこそ、逆に目の前に座る人物につい視線を集めてしまっていた。一応2人はいつものように折りたたみ式のテーブルを持ち出して向かい合わせ、ノートを広げて宿題をやっていたのだが、どちらもシャープペンシルを握る手は全く動いていなかった。 「 友之」 やがて沢海は深く嘆息した後言った。 「 もう…やめるか」 「 え…」 「 何かさ…やる気、しないし」 「 ………」 確かにそうだった。時刻はもう23時をとうに過ぎていた。別段眠くはないが、普段ならばテレビもなく特にする事もないこんな狭い部屋では、今頃はもう布団を敷いて横になっている時間だ。そんな時刻、頭に入らない数学の公式と幾ら睨めっこをしたところで、プリントに羅列された問題の答えを導き出す事など到底できそうにない。 「 ……でも」 それでも友之は沢海のその提案にすぐ頷く気がせず、口ごもりながら反論の意を述べた。このままノートを閉じて布団を敷いて。電気を消して互いに横になっても眠れるとは思えない。むしろその寝苦しさにこの堪らない気持ちが助長されるだけではないだろうか。 そもそも、どうしてこんなに鬱々とした気持ちになっているのだろう。 「 眠くない?」 考えを巡らせている時、沢海が言った。友之が慌てて顔を上げると、そこには心底疲れきったような沢海の顔があった。部活の疲れだけではない、自分とこうして面と向かいあっている事が苦痛なのだろうと瞬時に分かった。 「 拡…もう休みたい?」 「 …そうだな」 少しだけ迷った風になりながらも沢海はそう言った。それから先にノートを閉じると、「明日の朝早くにやればいいよ」と言って友之の物までかき集めてそれを勉強机に置いてしまった。 「 あ…」 「 もう片そう? それにさ、ホント…友之はやっていかなくても先生も怒らないって」 「 ………」 気遣う言葉だったのかもしれないが友之にはやはり痛かった。宿題をやらなくても良いと言われること、誰にも何も咎められないということ。 学校をサボっても何も訊かれないこと。 「 今日…暁とずっと寮の屋上にいたんだ。初めて行った」 「 ………」 友之の唐突な発言に沢海は何も言わなかった。ただ立ち上がったままの状態で友之のデスクに視線を集めている。話を聞いてはいるようだった。 「 暁、何をしたのか知らないけど、柴田さんが外に行っちゃ駄目だって言ったのに、行きたいからって出て行こうとして…。でも駄目だって言ったら分かってくれて」 「 それで」 「 え…?」 「 一緒にいたの」 「 う…うん。屋上なら外じゃないし…。それで…いろいろ話していて」 「 ……そうか」 ハアと大きくため息をついた後、沢海はそれだけを言ってから再び手を動かし始めた。ノートを片し、辞書を元あった場所へ仕舞う。それからちらと窓の外を見た後、ふと思い立ったように沢海は口を開いた。 「 外…か」 「 え?」 「 外、行ってくる」 「 え…?」 友之が怪訝な顔をすると、沢海は少しだけ笑ってから傍にあったパーカーを拾ってそれを羽織りながら続けた。 「 ちょっと外の空気吸ってくる。部屋にこもってたら何か…夜の空気吸いたくなったから」 「 でも…もう…」 寮の入り口は閉まっているのではないだろうか。 しかし沢海は「平気だよ」と言った後、もうドアの方にまで歩いて行ってしまっていた。 「 外に出る方法は知ってるから。皆結構やってるよ。で、ついでにコンビニかどっかで何か買ってくる。友之、食べたい物あるか?」 「 ………」 気さくに言う沢海に友之は何故だかまた泣きたくなった。 どうしてそんな風に平気そうな態度を取るのだろうか。辛そうなのに、でもこちらに向ける顔はいつだって優しい笑顔なのだ。 『 君さ、本当は優しい人なんかじゃないでしょう?』 暁の言葉が友之の頭にガンと響いた。暁のことは友達だけれど、それは違う。それだけは彼は間違っていると友之は思った。沢海はいつだって優しくて自分のことを気遣ってくれて考えていてくれる。口数が少なく、思いを半分も口にできない、否、自分自身とすら面と向かえないこんな弱い自分を。 好きだと言ってくれる。 「 拡…っ」 だから友之は部屋を出て行こうとする沢海の腕を駆けて行って咄嗟に掴んだ。 「 ……友之?」 「 あ…一緒、に…」 今夜沢海をここで行かせてしまっては、きっと沢海はまた大塚か誰かの部屋に行って帰ってこない。そう思った。それは嫌だった。沢海ともっと話したい、そう思った。 暁といろいろ話せたように。 「 中学の時、図書室にいたら本の話してくれて」 屋上で両の掌を枕にして寝そべっている暁の隣で、友之は昔のことを思い出していた。 「 あんまり…誰かと話したりってなかったし、びっくりしたけど…でも…」 驚いて声が出せない自分に沢海は申し訳なさそうな顔をしつつも笑顔で近づき、懲りずに話しかけてきてくれた。最初こそ途惑ったけれど、誰にも縋れずにいたその孤独な空間の中で友之は。 「 嬉しかったんだ?」 暁がそう言った言葉に友之は素直に頷いた。 『 迷惑だったらごめん。でもさ、俺…北川とこうして話したかったんだ』 遠慮がちにそう紡がれた言葉。何も持ち得ない自分にどう興味を持ったのか、一体何を話したいというのか。それが分からずも、それでも友之は自分を認めてくれた沢海の領域の中には入っていくことができた。思いのほか素直な気持ちで。 いつからだろう、それが当たり前のようになってしまったのは。 「 寒くないか、友之?」 梅雨時とは言え、夏が近づいてくる季節だ。友之はそんなところにまで気を回してくる沢海に平気だからとすぐに応えてから、先を歩くその温かな背中を黙って見つめた。 一緒に外に出たいと口走った時の沢海の何とも言えない表情。 1人で外に行きたかったのだろう事は明白だった。それでも行きたいと言った友之に「じゃあ行こう?」と笑ってくれた。 自分は本当に勝手だ。友之は心の中で独りごちた。沢海の気持ちは考えず、ただ自分の事ばかりで自分を守る事だけに必死で、本当にどうしようもないなと思う。そして、ただ自分を責めるだけで何も変えようとしない自分。 嫌だな、と思った。 「 今日は星が見えるな」 前を歩く沢海が突然にそう言った。 「 俺自身はそんなに興味ないんだけど、親父が星座とか詳しくてさ。いつか金貯めて田舎に展望台付きの別荘買うのが夢だって」 「 夢…」 「 そう。子供みたいな人だろ?」 うちは両親揃ってどこか夢見がちなんだよな。 沢海は淡々と、しかしどこか楽しそうにそんな事を言って、相変わらず変わらぬ歩調で闇夜のアスファルトを歩いていた。友之はそんな沢海の背中をただ眺めながら、昔ちらと会って挨拶をした気さくな人たちの顔と、それから大きな天体望遠鏡の置いてある木枠の屋根裏部屋をそっと思い浮かべた。 そういえば。 「 拡……」 「 ん?」 友之は思わず口を開いたものの、ふと気づいたその疑問をそのまま声に出して良いものだろうかと一瞬躊躇した。けれど立ち止まってこちらを振り返ってきた沢海にはもう言葉を出してしまっていた。 「 おばさんたち、拡が寮に入ること嫌がらなかった…?」 「 え…? 何で?」 友之のその突然の質問に沢海は少しだけ驚いたように目を見開いた。それから二、三歩距離のある友之をじっと見つめ、その困惑を誤魔化すように笑って見せた。 「 何で突然そんな事訊くんだ?」 「 だって…。拡は別に寮に入らなくても…」 都心にある沢海の自宅は、別段寮暮らしをしなくても今の高校へは十分通学可能な距離にあった。そう、沢海は事情のある友之と違い、別段不自由な寮生活などしなくても良いはずであった。 それなのに友之が入寮を決めた際、沢海は当然のように自分もその生活を送ると言った。 「 ……俺ン家って元々放任主義だから、別に何も言われなかったよ。逆に高校からそういう経験するのも良い事だろう、なんて言われてさ。さっさと出てけって感じだったな」 「 そう…なんだ」 「 ……友之は」 沢海は名前を呼んでから一旦口を切り、それから迷った風になって俯いた。 けれど暫くすると顔を上げ、ほんの少しだけ辛そうな顔をした。 「 迷惑だった? 俺がお前の後追うみたいにさ…寮なんか入って」 「 そ…! そんな事ない…!」 「 そうか…? それなら…いいんだけど…」 「 拡…」 そういうつもりで訊いたのじゃない。 困ったような、哀しそうな瞳を向けた沢海に友之は思い切り面くらい、そして焦った。しかし後の言葉を続けようとした時には、沢海はもう再び背中を向けると歩き始めてしまっていた。友之はそんな沢海の後ろ姿に無性にまた泣き出したい気持ちになったが、立ち止まれば立ち止まるほど開いていく距離により一層の焦燥感を覚え、考えるより先に足を動かした。 それから2人は歩いて数分の所にあるコンビニエンスストアに入った。 「 いらっしゃいませ、こんばんは!」 夜の遅い時間、しかしよく教育されているのだろう、アルバイトらしい若者が中へ入ってきた友之たちに元気に声を掛けてきた。ただ友之はその明る過ぎる声に逆に威嚇されたような心持ちがして、思わず沢海の背中に隠れるように身体を縮めた。思えばこんな風にコンビニに立ち寄るなど本当に久しぶりの事だった。 「 友之、何か買う? 好きなの買ってやるよ」 「 え……」 そんな友之に沢海は落ち着いた様子でそんな事を言った。 「 俺はポカリ。友之は?」 「 ………」 何を買うか、ではなくて沢海がまた自分に何かしてしまおうとしている事に友之は困惑した。別段何かが欲しくて一緒にここまで来たのではない。ただ沢海と一緒にいたかったから、何か話ができればと思ってついてきただけだ。それなのに、ここでも沢海にそんな事をしてもらうなんて絶対に駄目だと友之は思った。 「 ……っ」 そこで友之はハッとなり、反射的にジャケットのポケットに手をつっこんだ。 あった。 「 あ、ひろ…」 英語演習用のノートがなくなって新しいのを買おうと思ってお金を入れておいたのだ。友之はすかさず沢海に声をかけようとして、しかしもう既にそこになくなっていた姿に驚いてきょろきょろと視線をあちこちへ動かした。いつの間にか沢海は友之から離れ、店内の奥にある飲み物の陳列ケースまで移動していた。友之は慌ててそんな沢海の後を追った。 「 拡」 「 ん? 友之、もう決まったのか。何買うんだ?」 「 …違う」 「 え? 何が?」 言葉の足りない友之に沢海はきょとんとしている。友之はぐっと唾を飲み込んでから恥ずかしい気持ちがしながらも小声で言った。 「 今度は…奢るから」 「 え?」 依然として意を飲み込んでいないような声が友之の耳に返ってきた。 友之は最初よりも大きな声でそんな相手に向かって言った。 「 拡に…買ってあげるから…」 「 友之が?」 「 うん…」 「 ………」 心底驚いたような顔の沢海に無性に気恥ずかしい思いがしたが、友之はしっかりと頷いた。 「 ……友之」 沢海は最初こそぽかんとしていたが、やがてみるみる可笑しそうな顔になるとやがて首を横に振って言った。 「 何で? 別にいいよ、これくらいー」 「 この間、約束した」 「 ……まあそうだけど。それで友之がこんな事言い出してるってのも分かってるんだけど」 「 なら……」 けれど沢海は食い下がる友之に再度かぶりを振ると、心底参ったという風に言った。 「 うん、でも…。何か、実を言うと俺、友之に奢ってもらうのって嫌なんだよな」 「 嫌…?」 ショックを受けて口ごもると、沢海はやや俯いてから自嘲するように言った。 「 俺、とことんバカみたいだな。ヘンなとこにこだわってるって言うか…。何ていうか、友之にはそういう事してもらいたくない。俺がしてあげたいから」 「 え…?」 「 全部」 沢海はそう言うと、またにこりと笑ってケースからポカリスエットを出しそれを手にとってじっと眺めた。それからまた独り言のようにぽつりと言う。 「 ……でも、友之がそう言ってくれた事は嬉しいよ?」 「 拡、それ…」 それなら、自分にそれを買わせてくれてもいいではないか。 しかし、友之が暗にそう示しながら沢海の手からそのペットボトルを奪おうとすると、それは見事に空振って、代わりのようにその冷たいボトルが不意にぺたりと右の頬に当てられた。 「 ひ…っ」 「 ははっ」 突然襲ったひやりとするその感触に友之が小さく声を漏らすと、沢海は悪戯っぽい笑みを向け「ごめんごめん」と子どもをあやすような言い方で謝った。それから沢海はすぐにその場を去ると、あとは適当に菓子だのジュースだのを取り、さっさとそれを1人レジに向かって持って行ってしまった。 友之はただ茫然とそんな沢海を見つめるしかなかった。 「 俺ってさ、嘘つきなんだよな」 コンビニを出て暫く歩いた後、沢海は自分の後ろを行く友之をちらと振り返ってからそう言った。不服そうに黙りこくる友之にちらと苦笑を浮かべ、それでも構わずに話を始める。 「 嘘つきだし卑怯だし心狭いし…ホント、どーしようもないんだよ」 「 ………」 「 友之、まだ怒ってる? 機嫌直してよ?」 「 別に…怒ってない」 「 そう? むくれてるよ、顔」 沢海は素っ気無くそう言った後、再び前を向いて表情を隠してしまってから後を続けた。 「 …氷野も言ってただろ。俺は優しくない」 暗く静かな夜の道を歩いているのは、少なくともその通りでは友之と沢海の2人だけだった。沢海の声は闇の中でいやに澄んでいるように友之には思われた。 「 もうさっきはさ…本当、頭きてしょうがなかった。イライラしてムカムカして…。ホント…俺、きっとさっきはあのままあの部屋にいたら、友之にどんな八つ当たりしてたか分かったもんじゃないよ」 「 ………」 友之の反応など期待していないのか沢海は続けた。 「 俺、さっきは本当、お前と一緒にいたくなかったんだ。もういい加減にしろーって叫びたかったんだ。分かる、友之?」 「 拡……」 ようやく声を出した友之に沢海はちらとだけ視線を寄越したがすぐにまた前を向いてしまった。 「 それはさ、友之のせいなんかじゃないよ。俺の、俺自身の問題なんだ。俺がこんな奴だから…自分の事ばっかりだから、こんな胸ン中モヤモヤして汚い気持ちばっかりになって…。嫌になるんだ、自分が」 「 ………」 先刻自分が考えていた事とまるで同じような言葉を出され、友之は絶句した。思わず立ち止まってしまうと、後を追う気配が消えた事に気づいたのか沢海も足を止めた。 振り返りはしなかったけれど。 「 友之」 沢海は言った。 「 俺は我がままだから。本当勝手だから、何とかそんな自分消そうって、友之に嫌な思いさせたくないって、努力した…これからもしたいけど…。でも、苦しい時はさ、今日みたいにみっともなく逃げ出すかも」 「 拡…」 「 それでも」 沢海ははっと深く息を吐き出した。それから言った。 「 なあ、それでも…。まだ望みはあるのかな。俺、友之の…お前の傍にいてもいいのかな」 「 …………」 「 さっき奢ってくれるって言って嬉しかった。本当だよ? でもさ…俺って…お前の何なんだろう。ただの…ルームメイトかな」 「 ち…!」 違う。 咄嗟にその言葉が頭を飛び出したが、声にはならなかった。 沢海はそんな友之には気づかずにまくしたてた。 「 前、言ったよな。嫌だったらちゃんと言えって。だから俺、友之がもしちゃんと言ってくれたら嬉しいんだ。友之がちゃんと自分の考えている事口に出せたら嬉しい。それが俺を拒絶する言葉でも何でも。これだけは、本当」 「 拡、何言って…」 「 だから…ああ、何だか分からなくなってきた。…帰ろうか」 「 拡……」 沢海はそれから後はもう何も言わなかった。 友之はちくちくする胸の痛みを押しながら、けれど何も返せず、ただ必死に前を行く沢海の後を追って歩いた。行けども行けども追いつけない。それは沢海に避けられているかのような縮まらない距離だった。 先に行って欲しくなかった。 前を行く沢海が立ち止まって振り返って自分を待ってくれればいいのに。その時、友之ははっきりそう思っていた。 「 ……っ」 それでも息を切らせながら後を追う友之からその言葉が漏れる事はなかった。 その願いを想いをうまく言葉に出す方法を知らなくて。 友之はただ必死に前を行く沢海の背中を見つめていた。 |
To be continued… |