(24)



  期末テスト一週間前、友之が通う高校では一部大会中などの部活動を除き、あらゆる部が活動禁止となる。勿論それは生徒たちを勉学に集中させようという学校側の配慮によるものだが、果たしてその学習強化期間を教師たちが思うところの「有意義な時間」に使う者が多いかと言えば、それはどうも違うようだった。
「 ごめんね、それじゃあよろしくね!」
「 北川君、ホントお願いね!」
  放課後、試験前だろうがなかろうが関係なく真っ直ぐ寮へ帰ろうとした友之を呼び止めたのは、顔も名前も知らない複数の女子生徒だった。
  彼女たちは校舎を出ようとする友之を突然昇降口で呼び止めたかと思うと、一方的に用件を並べ立て、それが済むとあっという間に去って行ってしまった。その事態に仰天して身を竦ませている友之になどまるで構う風もなく。
  つまり、「これ」を。
「 ………」
  友之は強引に胸に押し当てられ抱えさせられた紙袋と手にした封書をただ茫然と見やった。別にこれが初めてというわけではなかったけれど、この時は今までにない
「フクザツな気持ち」を味わった。
  沢海はどのような顔をしてこれを受け取るのだろうかと思った。



「 北川君、お帰りなさい」
  玄関脇の管理人室にいた柴田はいつものように早めの帰宅をしてきた友之をにっこりと笑って出迎えた。普段とは違う柄の濃紺のエプロンをしていた柴田は、丁度館内の掃除でもしていたのだろうか、やや汗ばんだ顔をしていた。
「 ……ただいま」
  相手に聞こえたか聞こえないかくらいの小声で友之が靴を脱ぎながらそう言うと、柴田は再び目だけで笑い、背後の管理人室をちらと振り返った。
「 今ねえ、ちょうどお茶にしようと思ってその用意をしていたところなのよ。良かったら北川君もどーお? 昔大人気だったドラマの再放送もやってるし」
「 え…と…」
  困ったように言葉を濁す友之に柴田はまるで気分を害した風もなく、気を遣った風に言葉を足した。
「 あ、でも試験前だからやっぱり勉強しないとまずいかな? でもねえ、ここの寮の子たちは部活がないならないで何処へ行っているのかちっとも帰って来ないのよねえ。これ幸いと遊び歩いているって感じがしてるんだけど。周りの子たち、皆テスト勉強なんてしているの?」
「 分からないです……」
  実際分からなかった。
  友之はクラスメイトがテスト前にどのような勉強をしているのか、またテストというものをどれほど気にしているのかと言った事をまるで知らなかった。授業中に教師が「ここはテストに出すから」と言えば必死にメモも取るようだったが、休み時間になればその話をいつまでもしている者はいない。友之のクラスがたまたまのんびり屋の集まりだったというだけなのかもしれないが。
  けれどクラス委員の沢海も。
「 沢海君はテスト前なのに部活が休みにならないのねえ」
「 えっ…」
  まるで自分の心根を見透かされたような気がして友之は思わず声を上げた。柴田はそんな友之を気にする風もなく、顎に手を当ててから考えるような素振りを見せた。
「 でも、そうだとしても沢海君は何だか最近特に帰りが遅くない? 夕飯も寮で取らないし。ちゃんと栄養のあるもの食べているのかしらね。それに幾ら部活が忙しくてもテスト勉強しなくていいのかしら? 彼、学年でもトップなんでしょう?」
「 ………」
「 まあ、沢海君ならそんなにしゃかりきにならなくても平気なのかな?」
「 ………」
  何も答えない友之に柴田は1人で喋り1人で納得すると満足そうに笑った。


  最近の沢海は帰りがとても遅かった。


「 ……っ」
  部屋に入り1人きりになると、友之は手にしていた鞄を部屋の隅にぼとりと落としてからはっと息を吐いた。女子生徒たちから預かった紙袋と手紙だけは皺などが入らないよう丁寧に扱い、そっと沢海の机の上に置く。
「 ………」
  静まり返った部屋の中。着替えたらおやつを食べにおいでと言った柴田を思い返しながら、それでも友之は制服を脱ぐ気すらせずにそのままその場に座りこんで再び嘆息した。
  沢海は本当に部活動だけであのように毎日帰りが遅いのだろうか。
  ふとそんな考えが頭をよぎり、すぐさまそれを消そうと頭を振る。ずるずると這って歩き、友之は壁際にまでくるとそこに寄りかかり膝を抱えた。
  友之が通う高校は基本的にクラブ活動がそれほど盛んではない為、既存の運動部もみな弱小ばかりだったが、沢海の所属するバスケットボール部だけは例外だった。人数も一番多く、活気がある。それに伴い実力もあった。3年生も受験そっちのけでギリギリまで活動する熱の入れようだったから、テスト前だろうが何だろうが練習が休みにならないのは誰もが承知している事だったし、実際学校側も「成績を下げないこと」という条件で彼らのテスト期間中の活動を認めていた。
  それでも、と友之は思う。
  よりにもよって期末テスト直前になって、寮の夕飯にも間に合わないほど毎日練習するものだろうか。沢海だけでなく同じ部の人間も帰ってこないわけだから、部活動絡みで遅くなってはいるのは間違いないのだろうが。
  それでも。
  しかしそんな疑問を抱きつつも、友之は沢海にその理由を詳しく訊いた事がなかった。
  「部活?」と訊けば「うん」という返答しか返ってこないから。


  最近の沢海は友之とあまり話をしなかった。


  別段怒っているわけではない。嫌われている節もない。
  教室で会えば、またこの部屋に帰ってきて顔を付き合わせれば沢海はいつも通りの優しい笑顔で友之と接してくれた。気を遣ってくれた。勉強で分からないところも困った顔をすれば察して教えてくれた。
  それは本当にいつもと変わりない日常だったのだ。
  ただ、沢海が帰りが遅いという事だけで。
  ただ、沢海の口数が減ったというだけで。
  態度は何も変わらない。いつもの柔らかい、落ち着いた物腰の沢海拡だ。それでも友之はそんな沢海に日々自らの心が揺れるのを感じていた。どこか不安な気持ちになる自分がいると自覚していた。
「 拡……」
  ぽつりとその名前を呼んだ友之は、実際にそう言った自分の声を聞くとかっと赤面して黙りこんだ。
  その声色はどことなく情けない響きを伴っているような気がしたから。





  沢海が帰ってきたのは今日も消灯直前になってからだった。
「 ただいま、友之」
  疲れているだろうに、相変わらずの明るい声で沢海はにこりと友之に笑いかけ部屋に入って来た。わざわざ制服に着替えてから体育館を出てきたのだろうか、ジャージが入っているだろうボストンバッグは肩に掛けられていた。
「 お帰り…」
  じっと見つめていて出迎えの言葉を遅らせてしまった友之に対し、沢海は別段訝るような態度も見せず、鞄を置いてネクタイを緩めながら机に向かっている友之のことを覗き込んできた。
「 英語?」
「 うん」
「 数学はもうやった?」
「 まだ……」
  英語は辞書を使えばまだ何とかなったが、数学を1人でやりきるのはやはり難しかった。中学時代のブランクがいつまでも後を引いていた。元々高校受験の時も兄の光一郎から遅れた分野を散々叩き込まれてやっと今の高校に滑り込めたという程度だったから。
「 拡…」
  しかしそれとは関係なく、友之は沢海が帰ってきたら言おうと決めていた。
  それは明日の授業の為でなく。テストの為でなく。
「 教えてもらっていい…?」
「 え?」
  勇気を出してそう声を搾り出した友之に対し、沢海は最初やや驚いたような表情を閃かせ声を詰まらせていたが、やがてすぐにいつもの調子になると嬉しそうに笑って頷いた。
「 勿論いいよ」
「 あ、りがと…」
「 あ、でも先に英語やっててくれるか。俺、その間に風呂入ってくるから。いい?」
「 う、うん。あの、ごめん」
「 ええ? 何でそこで謝るんだよ?」
「 だっ……」
  沢海と話したいと思ったばかりに、遅くに帰宅して疲弊しているだろう事にも考慮せず、「勉強を教えろ」などと言ってしまった。
  その事を申し訳なく思い謝ったのだが、どうやら沢海にはそんな友之の思いが今ひとつ伝わらなかったようだ。不思議そうな顔をしてこちらを見やる沢海は友之を余計に困惑させた。
  ただそれもほんの僅かの間だけだったのだが。
「 友之、これなに?」
「 え…あ…」
  それは沢海が自分の机の上に置かれていた物に気づいた事によって破られた。
「 それ…」
  それは友之が見知らぬ女子生徒たちから預かった紙袋と数通の手紙だった。沢海はシャツのボタンを外しながら紙袋に触れかけ、中を開ける前に再度友之のことを見やった。
「 何が入ってるの?」
「 あ、知らない…」
「 え?」
「 渡して欲しいって頼まれたんだ」
「 誰に?」
「 え……」
  知らない。名前も学年も。クラスメイトでない事だけは確かなのだが。
「 ………」
「 知らないの?」
  黙りこんでいると沢海はそんな友之を見つめたまま静かに訊いてきた。思わずびくりと肩を揺らし友之が恐る恐るといった風に沢海のことを見上げると、その当人はすっかり笑顔を消して何事か考えこんだ風になり口をつぐんでいた。
「 あの…自分たちじゃ渡せないからって……」
  沈黙が嫌で友之は必死に言葉を継いだ。
「 それで…帰りに急に呼び止められて。すぐ行っちゃって」
  言い訳のようだ。そもそも何を言い訳しているのかもよく分からないのだが。
  友之は何も言わない沢海にオロオロしたようになり、縋るような目を向けた。
  また怒らせたらどうしようと思った。
「 ………」
  沢海はそんな友之には応えず、黙って手紙の一通を手に取ると何気ない所作でくるりと裏を見、それからびりびりと粗雑に封を破った。橙色の可愛らしいデザインの施された便箋が顔を覗かせる。友之はそれらに記されているであろう文字を追っている沢海のことをただじっと見やった。
「 何言ってんだ」
  やがて沢海は一言だけ、そう呟いた。
「 え…?」
  訳が分からず聞き返すと、沢海はようやく友之の方を見て苦笑した。
「 何でもない。こっちの話」
「 ………」
「 友之、断れないなら仕方ないけど、あんまりこういうの貰ってこないでくれな?」
「 あ……」
「 迷惑なんだ」
  感情のこもっていないような無機的な声で沢海はただそれだけを言った。
「 ………」
  思わずズキリと胸が痛んだ。よくは分からない。それでも友之は抑揚のある声でそう言い放った沢海を「冷たい」と感じた。そして、自分自身が沢海にそう言われたような錯覚に陥り、不意にじわじわと胸の奥で暗い影が落ちていくのを感じた。
  迷惑。
「 ………」
「 ……何、友之」
  様子のおかしい友之に沢海はすぐに気づいた。素っ気無い調子ではあったが、手紙を机に置いた沢海は椅子に座ったまま固まっている友之に近づき覗き込むように身体を屈めてきた。
  椅子の背に手を添えて顔を近づけてきた沢海に友之は思い切り動揺した。
「 あ…あ……」
「 何?」
  言いたい事はきちんと言う。
  それはもう沢海と友之の間の暗黙の了解となっていた。友之はごくりと唾を飲み込んだ後、思い切って言った。
「 どうして…迷惑…?」
「 あの手紙?」
  ちらと机の上に放置された封書を目で追ってから沢海は友之に訊いた。黙って頷くと沢海は静かな目をしたまま言った。
「 好きでもない相手に付き合ってって言われて迷惑じゃない人いる?」
「 ………」
「 しかも日にちも時間も指定されてて、『まずは皆で遊びに行こう』って。まずって何なんだよ」
「 拡…」
「 ああいう強引なのは自分を見てるみたいでイライラするんだよ」
「 え……」
  驚いて視線を向けた友之に対し沢海は何も言わなかった。そうして踵を返すと黙ったまま友之から離れ、着替えを持つとそのまま浴室へ行こうとした。友之はそんな沢海に慌てて咄嗟にその腕を掴んだ。
「 な…っ」
  そのいきなりの所作に沢海は、そして当の友之自身も驚いたような顔をした。
「 う……」
「 友、之?」
「 拡は……」
  自分でも何を言いたくて沢海を引きとめたのか分からなかった。それでも友之は相手のその腕を両手で掴んだまま、だらだらと冷たい汗を流しながら声を出していた。
「 拡…怒ってる…?」
「 怒ってないよ」
  やや茫然としながらも、しかし答えはすぐに返ってきた。それからふっと肩から力を抜いたようになった沢海は、着替えを傍の机に置くと空いた片手で自分を掴んでいる友之の手をそっと振り解いた。
  そして言い聞かせるように言う。
「 ごめん、今日はちょっと気分が悪くてついキツくなってたよな。何でもないから」
「 ………」
「 手紙くれた子たちにもちゃんと返事はするし、友之が心配する事はないよ?」
「 ………」
「 な?」
「 ………拡は、同じじゃない」
「 え?」
「 どうして自分を見てるみたいって……」
「 だから忘れてくれって」
  珍しくしつこい友之に沢海は参ったように口元を歪ませたが、ふうと深く嘆息すると俯いた。
「 何でもないから。ちょっとそういう風に思っただけだよ。でも気のせいかもしれない。だから友之は――」
「 拡、何で最近帰り遅いの?」
「 え?」
「 あ…っ」
  友之は思わず口走った自分のその台詞に心底驚愕して声を上げた。
「 急に…何言い出すんだよ、友之?」
  沢海自身も面食らったのだろう。今の今まで2人の話は沢海に手紙を寄越してきた女の子たちについて、だったはずだ。それなのに突然何の前触れもなく、毎晩帰りの遅い理由を問われれば誰でも面食らうだろう。勿論沢海も例外ではなかった。
「 ……だって、遅いから」
  しかしもう後戻りはできない。友之は何故かどんどん真っ赤になる自分を意識しながら、下を向いたままぼそりと呟くように言った。頭のすぐ上で沢海がじっとこちらを見下ろしてきているのが分かった。居心地が悪かったけれど、それでも友之は沢海の返答をじっと待った。
「 ……友之」
  すると沢海はただ友之の名前だけを呼んできた。そうして返答をせず未だじっと俯いている友之の頭をさらりと撫でると抑えるようなくぐもった声を出した。
「 友之の嫌がる事したくないからに…決まってるだろ…」
「 拡……?」
  その苦痛に歪んだ声に友之がはっとして顔を上げると、そこにはやはり居た堪れないような目をした沢海の姿があった。ズキンと胸を鳴らし眉をひそめると、沢海はそんな友之よりももっと表情を翳らせた。
  けれどすっと唇を寄せると。
「 あ…っ」
  沢海ははっとして何か言いかけた友之の唇にそっと触れるだけのキスをした。
「 ひろ……」
「 ごめん」
  すぐに謝ってきた沢海に友之は声を失った。それを拒絶と受け取った沢海は再び離れて距離を取ると後は何も言わずに今度こそ本当に浴室へ消えてしまった。
「 ………」
  やがてザーザーとシャワーを使う音が友之のいる所にまで聞こえてきた。いつもは自分ばかりが使う浴室。何だか妙な感じがした。今あそこで、自分のすぐ傍で、あんな近くで。
  沢海は何を考え、何を感じながらあの熱い湯を身体に当てているのだろう。
「 拡…」
  友之はドキドキとする胸の鼓動を感じながらそっと自らの唇に触ってみた。沢海は自分にこういう事をしたくないから帰って来るのを遅らせているというのだろうか。沢海はあの女子生徒たちのように自分に強引に迫りたくないから、自分と話す時間を意図的に減らしているというのだろうか。
  だとしたら、そんな事はやめて欲しいと友之は思った。
「 違う……」
  沢海からのキスは嫌ではない。友之は今確かにそう感じていた。



 
To be continued…



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