(25) 期末テストが始まってからも沢海の帰りは一向に早くならなかった。さすがに試験期間中は彼の所属するバスケットボール部も練習がない。結局毎晩沢海の帰りが遅かったのは部活動が原因なのではなく、先日本人が友之に言った通り「友之の嫌がること」を沢海がしたくないから、という事らしかった。沢海は部活が終了した後、同じ部の友人宅へ上がり込んで試験勉強をしていたようなのだ。 友之はそれを沢海の友人である大塚から聞いた。 「 あいつ。北川の前では元気?」 たまたま寮の食堂で顔を合わせた時、大塚は食事の乗った盆を持ったまま友之が座る席の前にまで来ると突然そう切り出した。2つ向こうのテーブルにいる友人達に声を掛けられ「今行く」と返したものの、大塚は身体を強張らせ黙りこんでいる友之のことをすぐにじっと見下ろして続けた。 「 最近帰ってくるのは門限ギリギリだろ。俺の部屋にも近づかないし。俺からごちゃごちゃ煩い事言われるのがウザイんだろうな」 「 ………」 「 北川が一言言ってやればあいつもラクになるのに」 「 え…」 一言? 「 あの…」 何を言えばいいのかと問おうとしたが、その時不意に食堂の入り口がざわついた事で大塚の視線は逸らされた。誘われるようにして友之も同じ方向へ目をやると、そこには周りから注目されつつも誰も寄せ付けないと言った雰囲気を漂わせている暁の姿があった。 暁は帰ってきたばかりなのか、未だ制服姿のままだった。 寮内では暁の謹慎騒ぎはすっかり静かになっている。学校から言い渡された期間寮でおとなしくしていたのが良かったのか、周りも暁の退学騒動やら何やらを噂することはなくなっていた。 それでも彼が現れると周囲の空気はガラリと変わる。それは好奇と恐れと、それにどこかしら僻みめいた感情が交錯したようなものだった。 「 ……あいつと仲いいんだって?」 大塚が言った。 「 別に俺には関係ないけどさ。でもせめて氷野と拡が北川の中でどう違うのかって事くらいは、拡にもちゃんと説明してやってくれよな」 「 ……?」 訳が分からずに怪訝な顔で見上げると、大塚は依然として無機的な、しかしどことなく冷めた目で友之を見返した。背が高く精悍とした顔つきの大塚はただでさえ威圧感がある。見下ろされているとそれは尚更で、友之はすっかり萎縮して身体を縮めてしまった。 無言を否定と受け取ったのだろうか、それに対し大塚はぴくりと片眉を動かした。 「 まさか…違うよな?」 「 え……」 「 まさか拡よりあいつがいいなんて事は…」 「 何の話?」 「 ……っ!」 大塚が驚いたようになって背中を反らした事で友之も同じように肩を震わせ、声のした方へ視線を向けた。 そこには暁の姿があった。 すぐに友之のことを見つけたのだろう、彼はコップに水だけを淹れて真っ直ぐこちらへやってきたのだった。 「 俺も仲間に入れて」 そうは言いつつ暁の眼はあからさまに大塚に対して敵意を持っていた。2人の会話は聞いていないはずだ。それでも蒼白になっている友之を見た事で、暁は大塚をとりあえず自分の敵と見定めたようだった。 「 ……何でもない」 相手の殺気が嫌という程分かったのだろう、大塚は小さくため息をつくとそれだけを言い、後は友之の方をちらとも見ずに自分を待つ仲間たちの方へ行ってしまった。 「 ………」 友之が黙りこんでいると、大塚の背中を見送っていた暁は不意に視線を戻してきてにやりと笑った。 「 あれはいじめっ子なの?」 「 違う」 「 そう? でもいじめられているって顔してたよ」 暁は言いながら友之の前の席に座り、肩肘をテーブルに乗せたままけだるそうに俯いた。しかしそれも人と視線を合わせる事が苦手な友之を思っての体勢だったかもしれない。 「 いじめられてない」 友之はそんな暁にすぐにまた繰り返した。それから気になったようにちらと配膳近くに掛けられていた壁時計を見やる。もうすぐ食事の時間が終わる。暁は行かなくていいのだろうかと思った。 「 飯食いに来たんじゃなくて、キタガワ君を探しに来ただけ」 大塚よりも相手を読む力がある暁はすぐにそう言った。 「 もうすぐ夏休みだね」 「 うん」 「 ………」 「 ……?」 ぽつと喋ったきり黙り込む暁に友之は不審の顔を向けたが、声はすぐに返ってこなかった。その代わり暁はすっくと立ち上がると「あそこ行かない?」と友之を誘った。 屋上のことだった。 「 俺ね、もうすぐここからいなくなるから」 寮の屋上から見渡せる風景はさほど綺麗なものではない。空気が汚れているせいで空を見上げても星が見える事はないし、ぽつぽつと建てられている新興住宅地と駅に隣接している幾つかのビルから発せられる灯り以外は特に見られる物もなかった。 そんな光景を見つめながら、暁は屋上の手すりに両肘を預けたまま何でもない事のように先刻の言葉を吐いたのだった。 「 いなくなるって…?」 暁の背後に突っ立ったまま友之は驚いた声を出したが、その後の問いかけの言葉は何故かすぐに出す事ができなかった。 「 学校。辞めるから」 友之の方を振り返らずに暁は言った。 「 でも気に喰わないって思ったまま、あのまま辞めなくて良かったよ。それは本当にそう思う。……キタガワ君のお陰」 「 何処行くの?」 「 ん?」 「 辞めて何処行くの?」 「 どっか」 相変わらず遠くを見つめながら暁は言った。けれどすぐにふっと笑うと、やや肩を揺らして言った。 「 嘘だよ。別に遠くへ行くわけじゃない。あのね、俺働く事にしたから。働きながらまたボクシングやる事にしたの」 「 え……」 「 先生がやっていいって言ってくれたから」 「 先生?」 「 うん。俺に教えてくれた先生」 暁はそれから静かに話し始めた。謹慎中に郷里の恩師に手紙を書いた事。高校を卒業するつもりはない事。自分には勉強よりも仕事をする方が性に合っているという事。 その後、思いもかけずその恩師が上京してきてくれて、知り合いのボクシング事務所に連れて行ってくれた事も。 友之は暁の背中を眺めながら聞く事ができた。 「 ジム、ここからちょっと離れてるんだ。それに元々ここって学生専用の寮だしね。キタガワ君と会えなくなるのは残念だけど」 「 でも…」 「 なんか」 言いかけた友之に、しかし暁は突然ぐるんと振り返り口を切った。やや風のある夜空の下、手すりに背中を預けたまま暁は友之に笑顔を見せていた。それは害のない笑顔だった。 「 何か俺たちって似てんだよね。周りが何て言おうが関係ねーよ。俺たちはそう思ってた。違う?」 「 ちがわ…ない…」 「 俺は友之より1コ上な分、吹っ切るのが早かったのかも。案外言ってみるもんだよ」 「 何を…?」 「 自分が思ってること」 「 ………」 依然として笑顔を閃かせたまま暁は友之にそう言った。それからふっと足元を見た後、自嘲したように呟く。 「 何でだろうねえ…。まあただ話せばいいってもんじゃないんだろうけど。でもさ…まあ口開くとこれが案外気持ちいいって事気づいたのは、ホント友之がいたから。あの本にもそんな事は書いてなかった。あの本にはさ、苦しかったら息を吐けって書いてあっただけ」 「 え……」 「 確かにラクになったけど、それだけじゃん。その先のことがイマイチよく分からなかったんだよね、俺は。でも、友之と会ったらあの本の本当に言いたかった事も分かったし」 「 ………」 「 ホント、ありがとな」 顔を上げてにっと笑う暁に、友之は慌てて首を横に振った。けれどその笑顔を見た時、暁が本当に行ってしまうという事だけは分かった。それを知り、それを実感し、けれど友之はその瞬間にはもう口をついて言っていた。 「 良かった…ね」 「 ん……」 「 そう、思うから」 「 ……ああ」 あの時、寮から出て行くといった暁のことは何が何でも止めたいと思った。暁に行って欲しくないと強く思ったからだ。 駄目だと。 けれど今はあの時とは違う。暁と離れてしまうのは悲しいけれど、それが良い事だと分かる。だから友之も素直に笑い返す事ができた。 「 夏休みになったらいなくなるけど、その前に協力してやるな」 その時、暁が不意にそんな事を言った。友之が意味が分からずに首をかしげると、暁は可笑しそうに目を細めた。 「 まだ分からないの? 優等生のこと」 「 え」 「 あ…いい事考えた」 「 何…?」 けれど暁は問い返す友之には直接答えず、ふと面白いことを思い立ったというような顔をして寄りかかっていた手すりから背中を浮かせた。そうしてさっさと友之に近づくと、楽しそうな目を一層細めて口の端をあげた。 嫌な予感がして友之は眉をひそめた。 「 暁?」 「 ちょっと実験してみようか」 「 実験?」 オウム返しをした友之に暁は頷いた。 「 そう。考えるより感じる方が分かりやすいから。あのね、俺がお前にこういう事したらどうする?」 「 え……」 途惑っていると暁はそんな友之の首筋に触れながらすっと唇を近づけてきた。はっとして何かを言おうと口を開きかけた途端、本当にすぐ傍に暁の唇が接近してきて、同時に抱かれるように引き寄せられて友之は唖然とした。 けれど、唖然としてその後はすぐに。 「 や…ッ」 背中がぞくっとして、思わず後ずさろうと身体を揺らした。暁が意地の悪い顔をしていたからというのもあるが、吐息を近くに感じた時にはもう瞬間的に嫌だと思っていた。 「 放し…!」 「 嫌…? でもちょっとやってみない?」 「 あ…ッ」 「 友之!」 けれど友之が怯えたように暁から逃れようとした瞬間、屋上の扉が勢いよく開かれた。 「……ッ!」 友之はその突然の大きな音にびくんと身体を揺らしたが、暁の方はまるで動じずふと口元を緩め笑った。依然として友之の腰は引き寄せたままだ。 「 邪魔が入っちゃったよ」 何でもない事のように暁はそう言い、それからやや屈めていた身体を元に戻して目の前に現れた人物に向けて声を発した。 「 友之が可愛いからつい、ね」 「 氷野…!」 暁の言葉に耳を疑いつつも、友之は自分もゆっくりと屋上のドアへ目をやり、緊張した身体を震わせながら自分たちの前にやってきた相手のことを見つめた。 「 拡…」 2人がいる屋上にやってきた沢海は、荒く息をつきながらひたすら暁のことだけを鋭く見据えていた。 |
To be continued… |