(26)



  半ば押し込むようにして友之を部屋に入れた沢海は暫くの間ドアノブを見つめたまま微動だにしなかった。
「 拡……」
  自分に背中を向けたまま項垂れている沢海が不安で友之はか細い声を出した。
  声は返ってこない。
  暁に無理やり引き寄せられた部分がまだその感触を覚えている。すぐ傍に暁の吐息があった。すぐ近くに唇があって、それが自分に触れようとしたところも。
  友之はとてもリアルに頭の中で再現する事ができた。
「 拡……」
  だからまた沢海を呼んだ。
  嫌だと思った瞬間、沢海がやって来てくれて暁の動きを止めてくれた。その時の顔はひどく恐ろしくてとても直視できなかったけれど、強引に腕を引っ張られ暁から離された時はほっとした。沢海が怒って暁を睨んだ時も、暁が沢海にただ意地悪く笑んでいた時も、友之はそれから逃げるように掴まれた手首だけをじっと見つめていた。
  それは強くて痛くて固い拘束だったけれど、友之はそこに与えられる熱が嫌ではなかった。

「 友之」

  どれくらい2人で突っ立っていたのだろうか。
「 え…」
  はっとして顔を上げると沢海はもうこちらを見ていた。それによってどくんと高鳴る自らの心臓音を聞きながら、友之はこちらを見やる沢海をじっと見返した。
  沢海の真っ直ぐ向けられる瞳に自然吸い寄せられてしまっていた。
「 友之」
  その時沢海がもう一度言った。
「 邪魔して悪かったか」
「 え」
  何の話をされているのか分からなかった。我に返ったように一度瞬きをしてからもう一度そう言った相手の顔を見ると、当人は至極真面目な顔をして友之のことを見つめていた。
「 氷野が好きか」
「 拡…?」
「 友之は最初からあいつには心を開いていたよな。あいつの事心配して、謹慎騒動の時もずっと一緒にいたり…あいつから借りた本を熱心に読んだり…。あいつとは平気で2人きりになれる。俺といる時は…どこか遠慮がちなのに」
「 そ…」
  そんな事はないと言おうとして、けれど声を出す前に手首を掴まれた。
「 ……ッ」
  先刻屋上から連れ出される時に掴まれた場所と同じ。ぎゅっと握り込まれたその左手首は突然のその所作に悲鳴を上げた。嫌がるつもりはなかったのに、驚きで顔を歪めてしまうと沢海の顔はみるみる曇っていった。
「 俺が怖い?」
「 う…ううん…」
  慌てて首を振ったが、沢海はまるで信じていなかった。手首を掴んだままぐいぐいと部屋の奥にまで引っ張っていき、先に座ると友之のことも強引にしゃがませた。
  沢海の思い切り不機嫌な顔が目の前にあった。
  友之はそれだけで無性に悲しい気持ちがした。


  沢海はいつでもやさしい顔を向けてくれていたから。自分に無理をしてでもやさしい態度をとり続けてくれていたから。


  だから今こんな顔をしている沢海を見るのが友之は辛かった。
「 ごめん…」
  しかしそう思った時、沢海が突然言った。
「 え?」
  聞き返すのと同時に掴まれていた手首から沢海の手が離れた。それを寂しいと思って友之が表情を翳らせると、それを違う風に受け取ったのか沢海は自嘲的な笑みを浮かべて俯いた。
「 どうしたって物分りのいい友達のフリができない。そんな自分が嫌になる」
「 ひろ……」
「 その度に俺じゃない他人が羨ましくなる。俺は光一郎さんのようにも氷野のようにも…なれない」
「 そんなの…」
  当たり前だし、なる必要もないではないか。
「 ………」
  どうして頭の中ではそうはっきりと思っているのに、口に出す事ができないのか。こんな風に苦しんでいる沢海が目の前にいるのに、どうして。一体何が足りないのだろう。
  自分の頭の中、胸の中、どこをどう探しても足りない言葉。
  見つからない声。
  一言。


  『 北川が一言言ってやればあいつもラクになるのに 』


「 ひ、ろむ…」
  たどたどしいながらも唇を戦慄かせながら名前を呼ぶと、相手はゆっくりと顔を上げてきた。その空ろな目はこちらに何を期待しているとも思えなかった。
  それがとてつもなく嫌だと友之は思った。それだけははっきりと。もう分かる。
  それは嫌だと。
「 拡」
  だから友之は崩れそうになりながらも先ほど自分から放れた沢海の手を自分から触ってみた。
「 友之…?」
  怪訝な声にびくりとしてまた離す。触ってはいけなかっただろかと思い怖かったが、それでも向こうが何も言わないのでもう一度触れてみた。
「 ……ッ」
  沢海のことをこうやって改まったように自分から触れてみたのは初めてだったかもしれない。そっと触れて、それからつっと撫でてみると、その温かい温度がこちらに直に伝わってくるような気がした。
「 友之?」
  今度は問い返すような確実な声が返ってきて、友之はまたびくんと肩を揺らした。けれど触れてみた手は離さずに恐る恐る顔を上げると、そこには虚を突かれた沢海の顔がすぐ傍にあった。
「 あ、の…」
  どうしようと思い口を開きかけた瞬間、しかしもうキスをされていた。
「 んっ…」
  きゅっと固く目をつむりそれを受け入れると、戸惑いがちに重ねられたその唇は徐々に角度を変え何度かついばまれた後、最後にきつく吸われた。
「 …っ…」
  ぞくっとして身体を揺らすとそれを諌めるように背中に腕を回されそっとさすられた。それに安心してほっと力を抜くとキスはまた激しくなり、何度も放れては繰り返す濃厚なものになっていった。
「 ん、んん…」
  やがて唇を開かれ差し込まれた沢海の舌に自分のそれを絡められ、友之は目をつむっているのに気が遠くなるような眩暈を覚えた。ぐらんと身体が後ろに倒れるような感覚。怖くてぎゅっと沢海の腕を掴むと、大丈夫だと言うようにもう一度背中を優しく撫でられた。
  それが嬉しくて友之はまたぎゅっと沢海の腕を掴んだ。
「 友之……」
  けれど何を思ったのか、沢海は唇を離した後悲しそうな顔をして笑った。
「 本当にごめん。これじゃさっきのあいつと変わらない。…いや、それより最悪だよな」
「 え…?」
  訳が分からずぼうっとしたまま目を開くと、虚ろな視界にとても苦しそうな沢海の顔が飛びこんできた。
「 ひろ、む…?」
「 本当にごめんな、友之」
「 なんで…?」
  謝って欲しくないのに沢海はその後何度も「ごめん」と言った。友之はただただ混乱し、自分が嫌がっていないこと、それどころか今のキスを喜んで溺れていた自分のことを何とか沢海に伝えようと口を開いたが、沢海はもうそんな友之の方を一切見ようとはしなかった。そして「もう何も言わなくていいから」と先に切り捨て、すっくと立ち上がると友之には背を向けたまま言った。
「 俺、夏休みになったら寮を出ようと思ってるんだ」
  友之の反応など待たずに沢海は続けた。
「 その方がいいかなと思ってさ。友之にとっては勿論だけど…俺にとっても」
「 出…るの?」
「 うん」
「 何で…」
  ようやく掠れた声でそれだけ訊くと、沢海は微かに笑ったのだろうか、少しだけ肩を揺らして応えた。
「 抑制利かなくなるのが怖いんだ。俺、嘘でも何でも…友之にはずっとやさしい奴でいたいんだ。でも…こんなのの度におかしくなってたら、そんなわけにもいかないだろ…」
「 …………」
  諦めたような沢海の声に友之はぶるりと身体を震わせた。勿論後ろを向いていた沢海にはそんな友之の様子は見えていなかった。
「 もうやめよう、この話」
  そして暫くしてから沢海は思い切り勢いをつけて振り返ると明るくそう言った。茫然としたままの友之にも知らないフリをして、沢海はいつもの明るい笑顔のままで「 もうこんな時間だし。風呂入って来いよ」とまるでさっきまでの事などなかったようにそう言った。
  何もかもなかったように、今までのやさしい友達に戻るからというように。
  沢海はただ笑い、何も答えない友之にもう一度背中を向けた。





  服を脱いで浴槽に入ると、友之はシャワーのコックを捻り熱い湯を出した。
  ぬるい。
  いつもは丁度良いと感じる温度なのにその時はいやに温く感じた。友之は頭から被ったそれに不快感すら抱き、くしゃりと顔を歪ませた。
  それでもわざわざ温度の調整をするのは面倒だった。友之はそのままシャワーを中段の位置に固定させると浴槽に座り込み、膝を抱えて目をつむった。
  断続的に落ちてくる湯の音にだけ耳を澄ます。
  今はそれ以外の音を聞いていたくなかった。
「 ……ぅ…ッ」
  どうしてか分からないけれど、辛くて哀しくて泣けて仕方がない。それでも友之はそれを止める術を知らず、そんな情けない自分の声を聞くのが嫌で必死に歯を食いしばった。
「 うぅ…う、うッ…」
  それでも涙は止まらなかった。こんな風に泣いてしまうのは何故だろうと思う。こんな風に胸が苦しくて哀しくて泣けてしまうのはどうしてだろうと考える。屋上で暁がキスをしてこようとして、自分はそれが嫌だと思った。沢海が引っ張って屋上から部屋に連れ帰ってくれた事が嬉しかったし、痛いほどに掴まれた手首の感触も安堵こそすれ嫌ではなかった。
  沢海がキスをしてくれたのは嬉しかった。
「 ひろ…む」
  それなのに今、物凄く哀しい。
  沢海が離れて、もうここからいなくなると言ったから哀しいのだと思った。
「 拡…拡…ッ」
  堪らなくなるともう呼んでいた。自分では心の中だけで呼んでいたつもりが、シャワーの音に紛れて訳が分からなくなっていたのか、何度もしつこく声に出して呼んでしまっていたようだった。
  だから。
「 友之…」
  浴室の外から沢海が声を掛けてきたことにも気づかなかった。
「 拡っ…」
  だから繰り返していた。扉が開かれてその本人が目の前にまで来ても、それでも友之はまだ気づかずに名前を呼んでいた。
「 ――…之…友之ッ!」
「 はっ…!」
「 どうしたんだ!」
「 ……ッ!」
  半ば叫ぶように発せられたその大声で、友之はようやく沢海の存在に気づいた。そして驚いた途端反射的に立ち上がっていた。
「 ……あ」
  傍には扉を開け放ち立ち尽くしている沢海がいた。自分よりも驚愕したようなその表情に、友之はさっと蒼褪めてろくにスペースもない浴槽の中一歩だけ後退した。
「 ひろ…拡……」
「 どうしたんだ、友之……」
「 あ…あ、あ……」
  相手の姿を発見して最初こそ目を見開いたまま硬直していたものの、その自分を見つめる目と視線が交錯した途端、友之は再びぼろぼろと泣き出してしまった。
「 友之…やめろよどうしたんだよ…」
  困惑しながらもそっと近づき抱き寄せてくれた沢海が嬉しくて、友之はその瞬間にはもうそのままぎゅっと抱きついてしまっていた。ひぐひぐと嗚咽を漏らしながらその胸に顔をうずめるとあからさまに動揺したような空気が伝わってきて、また友之は悲しくなった。
  それでもその手を離して欲しくなくて友之は口を開いた。殆ど崩れたようなその涙声が果たして相手に明瞭に伝わったのかは定かでなかったが。
「 い…行かな…で…」
  発した途端けほけほと咳き込んでしまったが、大きく息を吐き出してから友之は続けた。
  今言わなければ絶対に後悔すると思ったから。
「 拡と…拡と、一緒にいたい…」 
  シャワーの音が煩かった。
  あれほど有難かった音なのに、折角言ったこの言葉が沢海の耳に届いていなかったらどうしようと、それが気になって仕方なかった。




To be continued…


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