(29) 「 その時の勢いに乗るのとかってさ。とっても大事」 陸橋の丁度真ん中の鉄柵に両肘を置いて、暁は遠くを眺めながらそう言った。 駅の付近に架けられたその鉄の橋は、入り組んだ線路やそこを走る電車、更にその脇の公道も上から見通す事ができる。 暁は最近始めたという自転車便の指定制服に身を包み、恐らくは随分な距離を走ってきたのだろう、やや埃に塗れた顔をしていた。 それでもその横顔は相変わらず、否、以前よりとても精悍としている。 「 キタガワ君はちょっとマイペースだから心配だったけど、案外あっさりいったもんだね。やっぱり波に乗れると違うね」 「 波…なのかな」 「 違う?」 意外だという風に暁は横目だけで友之を見つめてきた。友之はそんな暁に少々窮屈な気持ちがしたが、それでも隣に並ぶとぽつりと言った。 「 そうだとしても…それ、多分自分で乗ったわけじゃないから。拡が…乗せてくれたんだと思うから…」 「 ふーん」 「 あ、暁、仕事は…?」 「 ん、ヘーキ。もうあと会社に戻るだけだから。ケータイも鳴らないしさ」 これですぐ人をこき使うんだよ、うちの社長。 そう言って尻ポケットから何とも時代遅れの巨大な携帯電話を取り出した暁は、どことなく楽しそうな顔をして目を細めた。友之はそんな暁を見てから、やっぱり良かったと胸をなでおろした。 夏休みに突入してから5日後。暁は寮を出て行った。 「 俺の事すぐ分かった? こんな髪してて」 暁は目深に被っていた帽子を取ると照れたような笑いを浮かべた。友之はすぐにしっかり頷いて、その今では真っ黒になってしまったやや短めに刈られた暁の髪を見上げた。 住み込みで世話になっている自転車便の社長が「お前に金髪は似合わないから」と黒く染めさせたらしい。暁はその事に対し別段怒りもせず、何も感じ入りもせずに髪を元に戻したようだが、それでも友之は暁の表情は変わったと思った。 勿論、それは髪の色が変わったからではなくて。 「 それで何で今日はキタガワ君は制服なの。夏休み、なんでしょ」 たまたま近くに来たからと駅の近くから寮に電話をくれた暁は、当然1人部屋に篭っているだろうと思っていた友之が制服姿で現れた事に多少驚いた顔をしていた。 友之は自分の格好をさっと見直してから恥ずかしそうに笑った。 「 学校休み過ぎたから…補習受けないと赤点のまま二学期になっちゃうんだ」 「 そんなに休んでたっけ?」 「 うん。テストの点もそんなに良くなかったし…」 「 そーお。でも、優等生がいるから大丈夫でしょ」 「 うん。拡が…ちゃんと教えてくれてる」 「 …ふふ」 暁は口元だけで怪しく笑うと「良かったねえ」と今度はからかうようにそう付け足した。それから遠くをすっと指差すと、きっと学校から飛び出てきたのだろう、慌てて自分たちの所へ駆けてくる人物を面白そうに見やった。 「 ひ、拡…」 まだ学校にいるはずなのに。友之が驚きながら身を乗り出さんばかりの勢いで下を見下ろすと、その横から暁が唐突に言った。 「 俺ね。最初はあの人あんまり好きじゃないと思ってたけど、今は好きだな」 「 え?」 友之が視線を暁に戻すと尚も清々とした声は続いた。 「 俺、兎角優等生なんて人種は自分と同じ人間だとは思ってなかったから。でもそれは…俺の偏見だった。ごめんっていつか言うかも――」 「 友之!」 「 あ……」 暁が話し終わるか終わらないかのうちに、階段を上り終えて大きく友之の名前を呼んだのは沢海だった。ただ夢中で走って来たのが分かる。沢海は随分と息を切って切羽詰まったような顔をしていた。 そんな沢海を涼しい目で見つめた暁は、ふいと視線を友之に戻すと言った。 「 でも、今はやっぱむかつくから言わないわ」 寮には寄らないで帰ると言った暁をその場で見送ってから、沢海と友之は2人陸橋の真ん中に立ち尽くし彼の去っていく背中を眺めた。 自転車といえどそのスピードは並でない。車の流れを追うように走り去ったその暁をじっと驚きの目で見守る友之は、だから沢海の声にはすぐに気づく事ができなかった。 「 氷野、突然やってきて…何だったんだ?」 「 え? あ、ううん…。ただ近くに寄ったからって来てくれただけ」 彼が去って行ってから視線を沢海に戻した友之はここでようやく相手が不機嫌な顔をしている事に気がつき慌てた。別段悪い事をしているわけでもないのに、まるで取り繕うように早口でまくしたてる。 「 あ、暁、今のアルバイト先もうまくいってるし、ボクシングもすごく頑張ってるって。練習がすごいキツイんだけど楽しいんだって」 「 ………」 何も言わない沢海に友之は一層焦って、ふと思い出した暁の最後の言葉も添えた。 「 そ、それと暁、拡のこと好きだって」 「 ……はあ?」 さすがにその台詞には反応があった。沢海は思い切り眉をひそめると気色の悪い事を聞いてしまったというように背中をぶるりと震わせた。 「 それって…友之の間違いじゃないのか?」 「 ち、違うよ…っ。拡の事だよ。そう言ってた」 「 ……まあどっちにしろふざけた奴だよ」 吐き捨てるように言ってから、しかし沢海は友之の困ったような顔を見るとハアと大きくため息をつき俯いた。 それからすぐに立ち直ったようになって苦笑する。 「 ごめん、そんな顔するなよ。俺…もう怒ってないから」 「 やっぱり怒ってた…?」 「 あ…はは。うん、ごめん」 沢海は暁のことをあまりよく思っていない。友之にとってそれは悲しい事だったが、その事自体は初めて抱き合った日の翌日に本人の口から聞いてもう知っていた。 『 友之と一緒にいるあいつに嫉妬した 』 真っ直ぐに偽る事なく、沢海は友之に自らの想いを告げた。 だから友之もそんな沢海の気持ちを知っているくせにこうやって黙って出てきた自分を反省した。 大切な友人に久しぶりに会えたという嬉しさは隠せなかったのだけれど。 「 友之」 しかしそんな友之の心意はお見通しなのだろう、沢海は言った。 「 怒ってるのは俺の心が狭いからで、友之のせいなんかじゃないよ。氷野と会えて…嬉しかったんだろ?」 「 うん…」 恐る恐るながらも素直に頷くと、沢海はふっと優しく笑った。 そうして視線を下の流れる車道へ移すと、沢海は抑揚の取れた声で続けた。 「 俺がヤキモチ焼きなのはもう絶対一生治らないからしょーがないよ。それに…あいついなかったら、俺、絶対友之のこと諦めてたと思うし」 「 え」 驚いて目を見張ると沢海は今度は小さく笑った。 「 だって俺、あの時だって言っただろ? お前のことちゃんと待つって言ったのに…寮出てくって言った俺に泣いた友之見て押し倒してんだもん。最低だよ」 「 そ、そんなの…っ」 「 あれ、俺一生引きずるから」 「 拡…」 困ったように言い淀む友之に、しかし沢海は突然全てを吹き飛ばさん程の明るい声を発した。 「 でもさ! 全部結果オーライってやつ? だって友之はもう俺のものだもんな」 「 ひ、拡…?」 「 そうだよな?」 そうして顔を上げると沢海はいやに晴れ晴れとした顔で友之のことを見つめた。 それから当然のように友之の腕を掴んで引き寄せようとする。 「 ひろ…っ」 友之はそんな沢海の行動に思い切り困惑して辺りをきょろきょろと見渡した。誰かが階段を上ってくる気配もないし、わざわざ陸橋の上にいる自分たちを見上げてくる人影もない。それでも友之は公衆の面前で堂々と自分のことを抱き寄せようとしている沢海に面食らった。 沢海はあの夜から、随分と変わったと思う。 「 拡…っ」 「 何? ほら友之」 「 ……でもっ」 あの夜から、沢海は。 やさしい性格は以前のままだけれど、あからさまに友之と接触を持ちたがるようになったというか。 「 あの…拡、人…」 「 誰もいない」 「 だ、誰か来たら…」 「 ラッキーだと思うけど?」 だって友之が俺のものだって宣伝できる。 「 ……ッ」 万事がそんな調子だった。 「開き直った男は強い」とは沢海が後に言った言葉だったのだけれど、友之にしてみればそんな沢海にはただただ翻弄されるばかりだった。 まだそれほどの実感があるわけでもないのに。 恋人、という言葉とか。 愛してる、という台詞にも。 「 友之。な、キスしよう?」 「 こ、ここで…?」 「 うん」 逆らう間もなかった。 沢海は躊躇する友之をしっかりと引き寄せるとそのままの勢いで友之に口づけた。石のように硬直してしまった友之の肩を優しく包み込みながら、そうして強張る頬を片手で撫でながら、沢海は何度となく友之の唇にキスをした。 しかし、実際にはそれはほんの数秒の出来事だった。 「 あっ! しまった!」 「 え…っ」 沢海は突然大声をあげるとばっと友之から離れ、元来た道を猛烈な勢いで走り始めた。友之が呆気に取られてその姿を眺めていると、沢海は振り返りながら楽しそうに声を張り上げた。 「 あのな、今生徒会の資料を取りに寮戻っただけだったんだ! すぐ戻らないと怒られる! それじゃな、友之!」 「 あ…う、うん…っ」 「 早く帰るから! そしたら一緒に宿題しよう!」 「 うんっ。ひ、拡…っ」 「 えっ?」 急いでいるだろう沢海は、しかし必死に呼び止めた友之に対してぴたりと律儀に動きを止めると完全に足を止めて見上げてきた。 「 どうしたー?」 「 き、気を…つけて…っ」 そうして精一杯の大声でそう言ってきた友之を見ると、沢海はこの上なく幸せそうに笑うと片手を挙げた。 「 うん! 友之、愛してる!」 「 ……っ」 仰天して友之が再び固まっていると沢海はまた一段と大きく笑い、後はもう振り返る事なく全速力で駆けて行ってしまった。 「 ………」 友之は暫しその場に立ち尽くし、どきどきする胸の鼓動を必死に抑えようと何度か大きく息を吐いた。 アイシテル! そんな言葉を平気で言ってしまえる沢海が友之には信じられなかった。 「 ……拡」 それでも、友之には自分にそう言ってくれるその温かい声が今の自分の全てだと思った。 |
To be continued… |