(4) 柴田が管理する男子高校生専門の学生寮には、現在約60数名の生徒たちが寝食を共にしている。元々建物自体がそれほど大きいものではなかったから、学校側も管理人を任された柴田の方も、他校の生徒が入る事はあると言っても、まさかこれほどの人数が一気に入寮してくるとは予想していなかった。寮生たちの中には自由を求めて自ら親元を離れてきた者もいれば、地元の方で何らかの問題を起こし、やむなくそこから逃げ出す他なかった多少訳有りの者もいた。なかなかに一筋縄ではいかない生徒たちが揃っていたわけだが、それでも柴田はこの新しい仕事が気に入っていた。以前は主婦の傍ら、スーパーの惣菜屋で働いていたのだが、夫が突然の病気で他界してからというもの、子供も早くにして巣立ってしまった1人の家で、ただ毎日を送る事には耐えられそうもなかった。その点、この寮には若くて元気な子供たちがたくさんいる。少々悪さをする生徒がいたとしても、柴田には全部を抱えて彼らを面倒見てやれるという自信があった。 「柴田さーん、暁、まだ起きないよ。俺、知らないからね」 そんな仕事に生き甲斐を見つけた柴田女史が今日も朝から生徒たちの見送りを入り口前でしていると、303号室の生徒がやや苦笑しながら柴田に話しかけてきた。 「またなの。坊野君、本当にちゃんと起こしてくれたの?」 「声はかけたよ。けど、そんなしつこくやってらんないって。アイツ、キレるとおっかないし」 「何情けない事言ってるのよ、天下の演劇部員が」 「ぶっ。それって全然関係ないじゃん」 俺はひ弱なんだからね。 少し痩せ型で頼りない体型をした坊野青年は、苦笑したようになってそれだけを言い放つと、後は何やら芝居の小道具らしきものを脇に抱えて寮を飛び出して行った。 「全く…毎朝毎朝これだから…」 「柴田さん、行ってきまっす!」 「行ってきまーす」 「あ。行ってらっしゃい! みんな1日元気でね!」 坊野の後からも、朝食を済ませて次々と大勢の生徒たちが寮を出て行く。柴田は物思いに耽るのをやめ、笑顔で彼らを見送った。 ひとしきり出て行く生徒の姿が途絶えたところで柴田が中へ戻ると、玄関口でノロノロと靴紐を結んでいる友之と、その傍で立ち尽くす同室の沢海拡がいるのが見えた。何となくすぐに声をかけられなくて柴田が入り口近くで立ち止まっていると、沢海が友之に話しかけているのが聞こえた。 「友之、いつ切ったんだ、それ…?」 何やらひどく戸惑ったような沢海の声。柴田も一緒に顔をしかめた。 「その左手。ちょっと切れてるじゃないか。いつだ? 昨日?」 「……分からない」 「ちょっと見せてみろって」 靴紐に手をかけていた友之の手を、沢海は自分も屈みながらさっと取った。柴田のいる位置からはよく見えないが、友之は左手の指を怪我しているようだった。 「これじゃあ血も出てたんじゃないか? 気づかないって事ないだろ?」 「気づかなかった」 心配そうな沢海をよそに友之はどことなく他人事だった。自分の痛みに鈍感なのだろう。柴田にはそういう事はよく分からないが、この少年にはそういうところがあるのだということは、何となくだが感じていた。 そしてそれは多分、この付き合いの古い沢海も当に承知している事のようで。 「駄目だよ友之…」 友之の分まで、沢海は友之の怪我の痛みを感じているようだった。哀しそうに言ってから、沢海はもう一度癒すように友之の手に優しく触れた。 「お前さ…そういうのは良くないよ。本当に気づかなかったのかもしれないけど。そんなんじゃ…本当、お前って病気とかしても自分で気づかなさそうだし」 「…………」 「もうちょっと自分の身体のことも気にしなくちゃ、さ」 「………拡は気にするの」 「ん?」 「自分の事とか…」 「当たり前だろ」 何を言ってるんだという調子で沢海は友之にすぐに返した。しかし友之の方は少しばかり不審の顔をしてから、本当に小さい声で言った。 「拡は…自分より人の事ばっかりだ…」 「え?」 「だって…いつも…」 言いかけて友之は口をつぐんだ。それから困ったように沢海に取られている手を引っ込めた。 沢海はそんな友之の事をじっと見やってから、肩にかけていた部活用のバッグを下ろし、そこからバンドエイドを取り出した。 「これ」 「…………」 「駄目だよ。ちゃんと貼っておけって」 「うん」 「……お前、勘違いしてるよ」 その時、本当につぶやくような小声で沢海はそう言った。その口調がどことなく思いつめたもののようで、背後でずっとそのやり取りをみていた柴田は戸惑った。うまくは言えないが、沢海の見えない一面を見た気がしたのだ。 「柴田さん」 その時、ようやく背後の柴田の存在に気づいた沢海が、ふっと振り返って声を出した。 「あ……」 「おはようございます」 すっと立ち上がり、そう言って挨拶をしてきた沢海の顔は、もういつもの清清しいものに戻っていた。 「おはよう」 「柴田さん、昨日はお菓子ありがとうございました。友之にって預かったあれ、俺も貰っちゃいました」 「あ、ああ、あれ。うんうん、1個は元々沢海君のつもりであげたんだから」 「でも、みんなには内緒でしょ」 「え? あ、ふふ、そうね。内緒ね」 「はい。ありがとうございます」 「…………」 にっこり笑う沢海に、柴田は未だいつもの自分に戻りきれずにおりながらも、やはりこう思ってしまった。 完璧な子供というのもいるものだ。 柴田は元々沢海の事をただ一言、そういう風に評価している。そこには多少の厭味がこめられていないわけでもないのだが、素直に良い子だと思う。成績も優秀、運動能力も抜群、部活動では2年生にしてバスケット部のエースらしい。人望もあるようで、クラスの委員長もしているらしく、今年の生徒会長選挙にもまず推薦されるだろうという話を別の生徒から聞いている。それに加えて容姿も良い。親御さんはさぞ自慢だろうなと思う。 しかし、柴田がそんな完璧な沢海よりも、どうしても贔屓してしまうのが、このいつもその優等生の傍にいる北川友之だったのだ。 「おはよう、北川君」 「……おはようございます」 向こうから挨拶してくれる事は殆ど、いやないと言って良かった。こちらが何らかのアクションをして初めて向こうからの反応が得られる。ここまで内にこもりながら、それでも日常生活を営んでいる子供も珍しいと思いながら、柴田はどうしてもこの少年から目を離す事ができなかった。 「今日は沢海君は部活はない日だっけ」 友之に何かを話したいと思いつつも、柴田はつい矛先を沢海に向けてしまった。その方が楽だからだ。自分もまだまだ修行が足りないと思う。 そんな風に話を振られた沢海の方は、そういう事も重々承知しているのか、柔らかく笑んでから頷いた。 「はい。自主練の日ではあるんですけど…今日はサボっちゃいましたよ」 悪びれもせずに沢海はそう言って笑った。練習熱心な割には、ふっとこういう面も見せるなと柴田は何気なく思いながら、今度は再び友之の方に視線を戻した。 「じゃあ今日は一緒に登校ってわけね。でも、お帰りは別々?」 「あ、俺は部活があるんで。友之はまた早いよな?」 「……うん」 「そーお。じゃあ、おやつ作って待ってるからね」 柴田が笑顔満面でそう言うと、友之はどんな表情をつくったら良いものやらといった顔で困ったように俯き、再び靴紐に目を落とした。 その時ー。 「柴田さん」 入り口横にある階段から気だるそうに降りてきた生徒が、友之たちといる柴田に声をかけてきた。柴田はすぐに視線をそちらへやり、驚いた声を出した。 「まあ、暁君。自力で起きてきたんだ」 「……腹減ったんだけど、朝飯ってあるんだよね?」 「朝食に来た事がないキミは知らなかっただろうけど、朝ご飯は8時までに食堂に来ないとアウトなのよ」 「今何時?」 「20分オーバーね」 「……ふうん」 つまらなそうにそう応えた青年は、短いが寝起きのせいでぼさぼさになっている金色の髪を更にぐしゃりとかきまぜてから、所在なげに外の景色に目をやった。青年のその顔は虚ろなものではあったが、何かを見やるその瞳は不思議と澄んだ綺麗な色をしていた。そんな端麗な容貌は恐らく多くの人間を惹きつけるものなのだろうが、しかし如何せん「キレると怖い」その性格が災いしてか、寮内でも会話らしい会話ができる相手は、同室の坊野と、この柴田くらいのものだった。 「…まあ、その痩せた体に何も食べさせないというのも気が引けるから、特別に何か出してあげるわ。食堂行って待ってなさい」 柴田がそう言うと、「暁」と呼ばれた青年はふっと視線を外から中へと戻し、別段感謝の色も感慨の言葉も出さずに「あ、そう?」とだけ言った。 「学校行く用意はした? 急いで食べないと遅刻しちゃうでしょう。暁君の学校はお隣じゃないんだから」 暁は友之たちとは別の、ここから駅で数分の場所にある私立高校に通っていた。果たしてそこに毎日真面目に通っているかは別にして、越境入学の暁を面倒見るのは自分の役目であると柴田は友之とは別の意味でこの青年のことは気にしていた。 「じゃあ柴田さん、俺たち行きますね」 その時、2人の会話の合間をぬって沢海が言った。友之も立ち上がって出かけられる状態でいた。柴田ははっとして2人に目を戻し、再び笑顔になって「いってらっしゃい」とだけ言った。 「行ってきます」 「…………」 沢海が言って外に出た後、友之も口元を微かに動かしはしたが、その言葉を柴田が聞き取ることはなかった。けれど多分、「行ってきます」と言ってくれたのだろうなと思う。 「……誰アイツ」 すると階段付近に立ち尽くしていたままの暁青年が不意にぽつと口を開いた。 「え? ああ、同じ寮生の沢海君と北川君よ。まだ寮に来て間もないし、階も違うと、知らない顔は多いでしょう」 「1人は知ってる…。目立つ顔した方」 「沢海君? ああ、そうねえ。あの子は来年の寮長候補だしね」 生徒たちが出来たばかりの寮に入ってからまだ二月と経っていない。しかしそれでも、顔の広い者とそうでない者は割と早い段階ではっきりしてしまった。その中でも沢海は上級生にも同級生、下級生にも人望があり、人気があった。あの人当たりの良さが幸いしているのだろう。 それでも他と関わりを持たない暁が沢海を知っているとは意外だった。 「あれにくっついてた方は?」 「北川君? 沢海君と同じ学校の子よ。2人は中学も一緒だったんだって」 「…………」 「北川君がどうかした?」 柴田の問に、暁は何の反応も示さなかった。ただ着ているTシャツをぺらぺらと手持ち無沙汰そうに片手でめくっては、「腹減った」と言って自らの腹をなでるだけで。 「……どうでもいいけど、今日こそちゃんと学校行きなさいよ」 柴田がため息交じりにそう言うと、暁はそこでようやく微かに笑みを見せた。 |
To be continued… |