( 5 ) 友之は今まで自分の家族以外の人間に関心を持った事がなかった。 ただ、交友範囲が殆ど皆無であったそんな友之に、幼い頃から必要以上に構ってくれる存在は少なからずいた。兄や姉の友人たちがまさしくそうで、おそらく弟のいない彼らにとって、友之はどうしても放っておけない存在だったのだろう。優しくしてくれたり、時には怒ってくれたり。友之は、だからそんな彼らにもよく甘えていたように思う。 しかし、これが同年代になると事態は変わる。 大した自己主張もなく、ただだんまりを続ける友之と対等な友人関係を築きたいと考える人間は少なかった。むしろ、その何を考えているのか分からない無機的な態度に周囲は苛立たしさを覚えた。またそんな悪意ある周囲の感情に対して、友之が更に無反応な事も、状況をまずくする一因だった。 もっとも友之には何らの悪気もなく、ただ何も感じないというだけだったのだが。 「 ……痛ェ」 だから、友之は初めて同じ寮生の暁に害ある顔を向けられた時も、大した反応を返す事ができなかった。 それは友之がいつもの通り、1人早い帰宅をした時に起こった。 「 お前、人にぶつかっておいて謝らないの?」 暁は表情の何ら見えない友之に、自らも無表情のまま素っ気無く言った。 友之と沢海の部屋は暁たちがいる三階の一つ上の階にあったのだが、友之は下校後すぐに部屋へ上がった後、今なら空いているだろうランドリーへ洗濯物を運ぼうと階段付近を移動していた。別段急いでいたわけでも余所見をしていたわけでもない。けれど友之はその際、丁度同じく階段付近を歩いていた暁と接触し、相手の足を踏んでしまったのだった。 …もっとも友之よりも背が高く身体つきもしっかりしている暁より、先にぶつかった友之の方が弾かれたような形になったのだが。 「 …………」 友之は微かに唇を動かして謝罪の言葉を吐こうとしたが、やはり声はうまく表に出なかった。それでもぺこんと頭を下げ、自分の中で精一杯謝ってから、友之は暁の傍を通り抜けようとした。 「 …待てよ」 けれど暁はそれを許しはしなかった。 洗濯物の入った紙袋を手にしている友之の腕をぐいと掴み、暁は相手を一発で威嚇してしまうような鋭い眼を向けてきた。 「 口きけないの、お前」 「 …………」 「 ……人の足踏んどいて何もなし? すごいね」 「 …………」 声は出なかった。謝ろうと思えば謝れたはずなのに、どうしてか今度は口を開く事もできなかった。 「 ………キタガワ君」 「 ………!」 その時、突然暁は友之の名前を呼んだ。その事によって友之は初めてびくんと身体を揺らし、ようやく感情の入った目を相手に向けた。 「 ――で、いいんだっけ」 「 え……?」 「 名前」 驚きながら何とか頷くと、暁はそれでようやく蔑んだまま友之を見下ろしていた眼光を弱めた。痛いくらいだった友之への拘束もふっと緩められた。 「 口きけるんだ」 「 …………」 「 でも、きけないんだ」 「 ………?」 言われた意味がよく理解できなくて友之が眉を潜めると、暁はつまらなそうな顔をしたまま、ふいと視線を横へ向けた。 「 まァお前みたいな奴…珍しくもないけど」 そして暁はひどく冷たい声でつぶやくようにそう言った後、再び視線を友之に向けて素っ気無く続けた。 「 でもお前、多分長生きできないよ」 「 …………」 「 俺は百まで生きる」 そして暁はそう言った後、ようやく友之を掴んでいた手を離した。それから、もう友之の事など忘れたようになって自室への通路を歩いて行ってしまった。 友之はその背中を何となく見やった。 沢海が寮に帰ってきたのは、友之が食堂で夕食を済ませ、1人授業の課題をしている最中の頃だった。 「 ただいま。今日は練習がすごくハードでさ」 いつもの明るい調子で沢海はそう言い、それから友之の座る机にまで近寄って行って宿題を覗き込みながら「あ、もうここまでやったのか」と感心したように言った。 「 分からないところあるか? 今日の範囲ってすごく広かっただろ。友之、抜けているとこも結構あったんじゃないかなと思ってた」 「 ………うん」 友之は中学三年次にあまり学校へ行っていなかったせいで、未履修の分野が随分あった。けれど高校の授業では、当たり前かもしれないが中学で習った範囲はもう皆知っているものとして先に進められる。そのせいで友之には大分戸惑う事が多かった。 「 どこが分からない? 着替えるからちょっと待っててな。そしたら教えてやるからさ」 「 え……でも」 夕食は摂ったのだろうか。帰ってきたばかりだというのに、何もすぐさま自分の勉強など見てくれなくても良いのだ。友之があからさまに戸惑った顔をしていると、沢海はそれにも気づいたようでにっこりと微笑んできた。 「 あ、途中休憩で夕飯はもう済ませてきてるんだ。こんな時間まで飯なしってのはさすがに辛いよ。はは、後輩みんなで先輩と監督に直談判」 「 ……疲れてないの」 それでも一応気遣って言ってみると、友之のそんな台詞が珍しかったのか、沢海は少しだけ驚いたような顔をしてから、けれど途端に嬉しそうな表情になって言った。 「 全然。大体、俺だってその宿題まだ一問も解いてないし、どっちみちやらなきゃいけない事なんだから」 「 でも……」 何も自分の為に休憩も取らずに勉強する事などない。少しは休んでも良いのにと思う。 やはりそれをうまく口にする事はできないのだが。 「 何だよ、友之」 すると沢海は自分が困ったような顔になり、友之の顔を覗きこむと苦笑した。 「 俺は好きでやってるんだから。友之が困る事ないだろ?」 「 …………」 「 ……あ、そうだ。それよりさ。試験明けの日曜日に行く所…友之、考えたか?」 「 あ………」 すっかり忘れていたという顔をしていると、沢海は「やっぱりな」という眼を閃かせてから慣れたように先に続けた。 「 そんな事だろうと思った。けど、今さら行きたくないってのはナシな。あのさ、写真展とかどうかな」 「 え………」 「 友之、前に風景写真とかが好きだって言ってたじゃないか。今新宿でやってるんだよ、そういうの。な、それならいいだろ?」 「 ……うん」 「 そっか、良かった! じゃあ決まりな」 沢海は心底ほっとしたように言ってから、「顔洗ってくる」と言って洗面所へと向かって行った。 沢海が戻ると、沈黙で満たされていた部屋の中が一気に明るくなって、一気に時が回り始めるような気がする。 友之はハッと息を吐いた。 口、きけないの。 その時、不意に今日出会った暁の言葉が脳裏に浮かんだ。 初めて暁を見た時のことを友之は覚えていた。いつものように学校へ行く準備を整えて寮を出る時の事だった。みんなが忙しなく急いでいる中、朝の始まりに身を置いている中、独り悠々と階段を降りてきて、暁はうつろな瞳をどこかへやったまま、何にも興味がないような顔をしていた。外見やそのふてぶてしい雰囲気が確かに自分とは異質な存在であると告げているのに、その時友之は何となく暁を近くに感じた。 暁のように百まで生きようと考えた事は、友之にはなかったけれど。 |
To be continued… |