(6)



  友之はテストの時間が意外に好きだったりする。
  出来はともかくとして、あのしんとした空間にはほっとするものがあるし、その時だけは誰も彼もが自分の目の前の白いテスト用紙にだけ視線を送る。
  安心だ。
「 よし、そこまで」
  たっぷり50分間。定期試験でもないのに、数学の教師は本番さながらの緊張感を持って今回の実力テストを行った。
「 うわ〜難し過ぎ〜」
「 最悪。もう終わった」
「 でもこれで週末遊べる!」
  しかしそんな時間も教師の一声でようやく終わりを告げ、教室の中は一気にざわつきを取り戻した。皆が皆、一様にウンザリしたような顔をしつつも、ようやく過ぎ去った嵐にほっとした様子を示していた。
「 友之、どうだった?」
  後ろの席から答案を回収する時に、同じ列の沢海がそっと声をかけてきた。
  友之が何とも言えないという風に微かに首をかしげると、沢海はふっと笑んでから、回収した答案を持って教卓へ向かって行った。
  きっと沢海は今回も完璧に出来たのだろうなと友之は思った。


  友之の周囲には、頭の良い人間が多かった。
  頭が良いと一言で言ってもその定義は広く、また人によってその捉え方も様々あるのだろうが、友之の中での「頭が良い」というのは「回転の早い」人間の事を指していた。
  何でも気がつく、人が言わなくても先回りして相手の望む事ができる…。
  つまりは、「理解」する事が早い人間の事だ。
  兄も兄の友人たちもそういった点で頭が良いと友之は思っていた。自分とは正反対で、何でも出来て何でも手に入れられる。そんな人たち。
  そして友之の中では、沢海もその部類の人間に入った。
「 ねえ、沢海君。あの問題ってどうやって解いた?」
  帰りのHRを終え、未だざわついた教室の中でクラスの女子たちが包囲するようにして部活前の沢海の座席に集ってきた。彼女たちは別段テストの答が気になっているわけではなく、ただ沢海と話がしたいだけなのだが、そんな彼女たちに対しても沢海は嫌な顔一つせずに請われた事をこなしていた。
  あんな風に人と接せられる沢海はすごい。
  もうすぐ部活の練習もあるだろうに、急いでいるだろうに、そんな態度は億尾にも出さない。自分に対してもいつもいつも面倒だろうに勉強やら何やら、何かと気を遣ってくれる。友之は素直に沢海の事は尊敬していた。
「 おい、北川」
  その時、クラスの1人がぼうっとしている友之に声をかけてきた。
「 お前、今日日直だろ。先生が教室のゴミ、焼却炉に持って行けって」
「 …………」
  友之は返事はできなかったが、こくりと頷いて立ち上がった。クラスメイトはそんな友之の態度に慣れたような目を向けてから、黙って仲間たちと教室を出て行った。
  木曜日という事もあって、週明けからのゴミが丁度たまったあたり。教室のゴミ箱だけとはいえ、それは結構な重さだった。
  燃える物と燃えない物の分別もあまりきちんとされていない。これは焼却炉へ行ったらまた別に区分けしなければならない。友之は無表情ながらもそれだけ思って、とりあえずは二つの巨大なゴミ袋の封を締め、それを両手に取った。
  ただ、それはすぐにふっと自分の手から離されてしまったのだが。
「 …………」
  廊下に出た瞬間、ゴミ袋の一つは沢海の手によって友之から離された。
「 こんなにたくさん。手伝ってくれって頼めばいいのに」
  沢海は当然のようにそう言ってから、さっさと先を歩き始めた。友之は突然の事だったので礼を言う事もできず、慌ててただ後を追った。背後でクラスメイトの女子たちが急に自分たちの元を去ってしまった沢海に残念そうな声をかけていたが、沢海は聞こえないフリをしているのか、振り返りもしなかった。


「 そっちも貸して」
  校舎裏のゴミ置き場まで来て、沢海はすぐに自分が手にしていた方をその場に置くと、結んでいた口を開いてから友之が手にしていたゴミ袋も取って、さっさと可燃ゴミとそうでないものの識別を始めた。
「 あ……それ……」
  自分でやる、と言おうとする友之に沢海は目線は寄越さずに言った。
「 いいよこんなの、友之はやらなくて。すぐに終わるから」
「 だって日直は……」
「 昨日までの日直だってここまでゴミ溜まってたんだから、捨てに行けば良かったんだよ。……こんな事友之に押し付けるなんて」
「 ……………」
  その沢海の口調はどことなく怒っているもののようだったので、友之は怖くなって何も言えなくなってしまった。沢海のほんの時折見せるこういう顔が、友之は何だか苦手だった。
「 友之はもう帰っていいよ。俺はまた部活あるから帰りはまたいつもと同じくらいかな」
「 でも、一緒にやるから……」
  さすがにそんな事はできないと友之がやっとの思いでそう言って手を差し出すと、しかし黙々と動いていた沢海がぴしゃりと言ってそれを制してきた。
「 いいから」
「 拡……」
「 俺の我がままだから。な、聞いて」
  沢海は優しい口調ながらも、しかし頑としてそう言い張り、結局友之に仕事をさせてはくれなかった。だから友之は何もせず、ただその場に立ち尽くす事しかできなかった。


  何でもやってやるなよ。

 
  以前兄の親友は、友之にとことん構って世話を焼きたがる同じ幼馴染にそう言って激昂した事があった。その世話好きの幼馴染は友之より三つ年上の、友之にとっては第二の姉的存在のような人だったのだが、彼女は不器用な友之をひどく心配しては、何でもやってくれようとした。
  それに兄や兄の親友たちはあまり良い顔をしなかった。
  そんな事をしてそれは本当にコイツの為になるのか、いつまでもそうやって何でも助けてやっていたら、コイツがいざ自分1人で立ち上がらなくてはならない時に、コイツは踏ん張れずに倒れてしまうのではないか。
  結局のところ友之を寮に入れたのも、兄が留学したのも、全ては自分の為だったのだろうと友之は思う。それでも兄などは徹底的に自分を突き放すという事はできなくて、手紙や差し入れを頻繁に送ってくれたりする。気を配ってくれる。友之はそんな兄の事を考える度に胸が痛くなった。
  そして沢海に親切にされる度に、友之はそんな兄の事を思い出してしまった。
「 友之、どうした?」
「 ………!」
  ぼうっとしてしまっていると、すっかり作業を終えた沢海が不思議そうな顔をして友之の事を見つめてきていた。友之が慌てたようになって首を振ると、沢海は少しだけ首をかしげてから、しかしすぐに笑顔になると言った。
「 それじゃあ、俺はもう行くな」
「 あ……拡」
「 ん?」
「 あの……ありがと」
「 ………いいよ、そんな」
  沢海はそれでも、きちんと礼を言えるようになっている友之に感動しているようだった。結局、わざわざ友之を昇降口まで送ってから、沢海は少しばかり遅れて体育館へと向かって行った。
「 ……………」
  どうしていつも沢海はここまでしてくれるのだろう。
  一日に必ず何回かは思ってしまう疑問。沢海の面倒見の良さが、こうやって1人で立つ事のできない自分を放っておけなくしてしまっているのだろうとは思うが、だからと言ってやはり同学年にあそこまで気を遣われるのは友之とてたまらないし、いけない事だと分かっていた。なのに、気づくと流されていた。
  これでは、何のために。
  何の為に兄が自分から離れていったのか、全然分からないと思う。
「 ……………」
  友之ははっと無意識にため息をつき、それからゆっくりとした足取りで昇降口を出た。
  けれどその時ー。
「 おい、お前」
  突然、背後から低い声が呼び止めてきた。
「 やっと保護者がいなくなったよ」
「 ったく、アイツうぜえよな」 
  振り返るとそこには数人の男子生徒たちの姿があった。中には同じ学年の見知った顔もある。彼らは皆一様に蔑んだ目をし、友之の事を見下ろしてきていた。
「 ちょっと来いよ」
  彼ら全員、上背のあるやたらと派手な格好をした者たちばかりだ。友之が見た事があると感じた生徒の1人も、乱暴で喧嘩好きという事で、周囲や教師連中からも避けられている人物だった。彼らが友之に対して友好的な気持ちがあって声をかけてきたとは、とても思えない状況だった。
「 北川ってんだろ、お前?」
  恐らくは彼らの中心的存在の人間なのだろう、三年らしき1人が友之に対してまずそう言ってきた。友之が頷くと、向こうはにやにやした笑いを浮かべながら、ガムでも噛んでいるのだろうか、くちゃくちゃと大袈裟に口を動かしながら馴れ馴れしい口調で続けてきた。
「 まあ、そんな心配そうな面すんなって。俺らさ、お前にちょっとした相談があるだけだからよ」
「 ……………」
「 仲良くしようぜ、北川君」
  友之が黙ってそんな彼らを見上げていると、しかしにやついていたと思っていた1人が途端に顔つきを変えて不必要に声を荒げてきた。
「 何睨んでンだよ、テメエ!」
  友之は睨んでなどいない。けれど感情の伴わない静かな目が、どうやらまた相手を不快にさせてしまったらしい。いかにも気の短そうなその怒鳴った生徒は、友之の肩をどんと押して、もう既に歩き始めている仲間たちを顎でしゃくって再び命令してきた。
「 トロトロしてねえで、さっさと来いって言ってンだよ!」
  彼らから逃げ出す事はできなかった。
  友之は半ば強引にそこから引きずられるようにして、人気のない校門入口脇にそびえ立つ大木の陰にまで連れて行かれてしまった。


「 北川君ってさあ…寮生だよな」
 逃げられないように包囲されて、友之は先刻のリーダーらしき生徒に質問された。
「 ……………」
  声は出せないまでも友之が黙って頷くと、そのうちの1人がいやにべとついた粘着質のような笑みを閃かせて言った。
「 寮生は親から仕送りとか貰ってンだろ? 俺たちさあ、今ちょっと金に困ってるんだけど」
「 ……………」
「 北川君、お金とか持ってないかなあって思ってね」
  仲間の中心に立っている生徒が補足するように付け足した。直後、周囲からは意味のない笑い声が飛んだ。
「 ……………」
  友之は何も発せられなかった。
  悪意のあるたくさんの目。偽りの笑み。
「 北川君っていっつも黙っているよねえ。何でなの」
  1人が馴れ馴れしい口調で言ってきた。
「 あれじゃない、今流行りの人間不信ってやつ」
  また別の人間が友之が応える前に言う。
「 俺たちの事は信用してくれていいよ? お金もきっと返すから」
「 ギャハハ、そうそう返す返す! 百年後くらいに」
「 ばーか、少しはリアルに三十年後とかって言っとけよ!」
  周囲からやたらと大袈裟な笑い声が響いた。何がおかしいのか友之にはさっぱり分からないが、とにかく彼らは楽しそうに笑っていた。
  けれども、そんな時もすぐに終わった。
「 ………おい、お前。何さっきから黙ってンだよ」
  昇降口で1番に友之にイライラした声を出した生徒が、不意に近づいてドスのある声で言ってきた。
「 あァ!? おら、何か言えって言ってンだろうがッ!!」
「 あーあ、無理でしょ。コイツ、沢海としかまともに喋ンねえってよ」
  その時、冷めた顔をした男が素っ気無くそう言って片手をひらひらさせた。友之が見覚えがあると思った男子生徒だった。
「 何だそれ」
「 コイツ、中坊の頃からこうなんだってよ。そんで同中の沢海がコイツの事教師から頼まれてるとか何とか」
  その言葉を聞いた時、友之は初めて彼らに感情のある目を向けたが、誰もその事には気づかなかった。
「 しっかし、マジあいつイラつかねえ? 何でもかんでも優等生面しやがってよ」
「 ホント! 頭良くてバスケうまくて顔良くてだって。頼むから死んでくれって感じだろ!」
「 言えてる。そんでこういうのの面倒まで見てンだろ? 信じられねえ」
「 点数稼ぎだろ」
「 そういうのに気づかないでのうのうと守られてるコイツもアホだな」
  好き勝手言われ、それからまた彼らは意味もなく大声で笑った。
  やはり友之は何も言えなかった。
「 ところで…おいテメエ! さっきから何黙ってンだよ! いいから早く金出せって言ってンだよ!」
  ずっと何も発しない友之にいい加減イラつきも限界に来たのか、先刻の1番血の気の多い生徒がいきなり友之の胸倉を掴んできてそう言った。
  ぐいと締め付けられて、一瞬息が詰まった。
「 ………ッ」
「 お前みてえな奴、ぶん殴っても全然足らねえ。ちっとは泣いて謝りでもしてみろ!」
「 男のくせに女みたいな顔してな。マジ気持ち悪ィよ」
「 財布出させようぜ」
  そして1人に締め上げられている間に、友之は既に奪われていた鞄から財布を取られ、中身を物色された。
「 何だよ、あんま持ってねえのな」
「 おい、寮にあんなら今すぐ取ってこい!」
「 ……………」
「 テメエ、聞いてんのかよ!」
  更に締め付けられ、そしていきなり大木に身体をガンと押し付けられ、喉元を太い腕で拘束された。ざらついた巨木の幹に無理やり身体をこすりつけられて、したたか打った後頭部がじんとした痛みを訴える。


「 何してんの」


  その時、背後から声が聞こえた。
「 ……! 何だよテメエは」
  いきなり何の気配も見せずに現れたその人物に、周りの人間はぎょっとしたようになってさっと身構えた。友之を脅す間、他の生徒たちに見つからないよう入口近くを監視していた生徒も、まるで気づかなかったようだった。
  暁の存在に。
「 その人、口きかないよ」
「 誰だって言ってんだよ、テメエは!」
「 その学ラン、テメ、他校の奴だろ! 何勝手に入ってきてンだよ!!」
「 声がしたから」
  暁はそう言ってから、しらっとした顔のまま辺りをきょろりと見渡した。それから再び視線を男子生徒たちに向け、つまらなそうに訊ねた。
「 お金ないの、あんたら」
「 ああ!? テメエには関係ねえだろ!!」
  自分たち大人数を見ても何ら尻込みした風でもない、余裕の態度の暁に、1人が凄んで声を荒げた。他の生徒たちも暁の周りをざっと取り囲む。それでも暁の表情はぴくりとも動じない。あの、いつもの静かな感情のない瞳だけがくゆっていた。
  そして、彼らが何かを言おうとした瞬間ー。
「 ぐぁ…ッ!」
  友之を抑えつけていた生徒が暁に殴られ、転倒した。
「 !! て、テメエ…!」
  信じられないダッシュ力だった。あっという間に距離を縮めてきたかと思うと、もう暁は相手を殴り倒していたのだから。
「 こ、この野郎…!」
「 ふざけやがって…!」
  一瞬は怯んだものの、相手は1人という事で再び頭に血を昇らせた男子生徒たちは、口々に怒声を上げ暁に殴りかかろうとした。
  しかし。
「 死ね」
  暁はそんな彼らには目もくれず、既に自分の一撃で気を失いかけている男子生徒だけを狙って激しい蹴りを入れ始めた。
「 テ、テメエ、やめろよ!!」
「 俺らが相手になってやるっつってんだよ!!」
「 あ……?」
  しかし暁は一瞬の眼光だけでそんな彼らを黙らせ、倒れているターゲットを片足で踏んでからひどく冷たい声で言った。
「 相手になってやる…? 相手して下さいだろ」
「 な、何だと…!」
「 こっちの人は、本当に口のきき方知らないね」
  そして暁は更にその倒れている生徒の胸倉を掴み、その細い腕のどこに隠しているのか、もの凄い力で相手の首を締め上げてきた。
「 ひぃ……ッ」
「 苦しいでしょ」
  相手の今にも白目を向きそうな状態にも、しかし暁は平然と言った。
「 いいんだよ、死んでも」
「 やめろって言ってンだろ!」
「 本当に死ぬぞ!」
「 だからいいって言ってるだろ」
  周囲をぴしゃりと黙らせて、暁は言った。
「 ……………」
  友之は声が出せなかった。
  ただ目の前にいる暁は、誰に向けるでもなく不敵な笑みを閃かせていた。


 


To be continued…



戻る7へ