(8)


  暁は両親の顔を知らないと言った。
「 おばあはよくお金をくれたよ」
  淡々と話すその口調と視線は、対面している友之に向けられているような感じではなかった。相変わらず虚ろなその瞳は、友之どころか何をも映し出してはいないようだった。
  けれどだからこそ、友之は暁といる事が楽だった。
「 どうして東京に出て来たの?」
  訊くと暁は無機的な表情のまま、傍にあった文庫本の端を何となくざらりとなぜながら、「どうして?」と友之の言葉を反芻した。
「 いられなくなったから」
  そしてその後、実にあっさりとそう言った。
「 いられなくなったって?」
  再度友之が訊くと、暁はここでようやく友之の事を見やった。
「 人を殴ったんだ」
「 ……………」
「 そのせいでその人が死にかけたから」
  友之がそう言った暁をまじまじと見つめ返すと、相手は相手で実に静かな目を向けてあっさりと先を継いだ。
「 さすがにね。迷惑だしね」
「 何が…?」
「 一緒に住んでいる人とか」
「 お婆さん?」
「 爺さんも、その息子夫婦も。先生も」
「 先生?」
「 ジムの先生」
「 ジムって?」
「 ボクシングジム。通ってた」
「 ボクシング?」
「 そう」
「 プロになるの?」
  次々と問いを浴びせる友之に、暁の瞳にも光が宿ってきた。そうして暁は、にゅうっと自らの手を出してきたかと思うと、しつこく質問してきた友之の頭をがしっと掴んだ。
「 ……ッ」
  驚いて逆らおうとすると、暁はすぐに友之の髪の毛をぐしゃりとかきまぜてからそっと離した。そうして、本当に微かにだけれど笑みを見せた。
「 キタガワ君、よく喋るね」
「 ……………」
「 俺、珍しい?」
  友之が黙って首を縦に振ると、暁はつまらなそうな顔を一瞬だけ見せた。それからふいと横を向き、「こういう人はどこにでもいるよ」とだけ言った。
  そういえば暁は自分に対してもそんな事を言ったような気がする、と友之はぼんやりと思った。
  2人の間に沈黙が走った。
  その時、友之は不意に先刻からしきりに暁が触れている文庫本の存在に気がついた。カバーの取れたボロボロのその表紙は、暁の手もあってタイトルがよく見えない。友之が何ともなしにそちらに視線を向け続けていると、暁が先に口を切った。
「 この本、読みたい?」
「 何って本?」
「 ………言ったらつまらないと思うよ。もっとも、あらすじを全く知らないで読んでも大して面白くないけど」
  暁は言ってから、友之にその本をぽんと渡した。
「 読んだら返して」
  そう言って友之の手に渡ってきたその本は、しかしやはりタイトルがぼやけていてよくは読めなかった。ただ、作者の名前から外国の本だという事だけは分かった。
「 ……ありがとう」
  友之はそうして礼を言ったが、暁は何も答えなかった。そうして、何故か黙って正面にあるドアの方をじっと見やっていた。 友之が訳も分からずに一緒にそちらを見ようと振り返ると、果たしてその瞬間、視線を向けた扉はノックされた。
「 開いているよ」
  暁が言うとドアはすぐに開いて、外からは友之もよく知っている人物が顔を出してきた。
「 友之」
  沢海だった。
「 友之がここにいるって坊野に聞いて」
「 ……………」
  友之が黙って何ともなしに頷くと、沢海はどことなく落ち着かないような顔をしてから、すっとその友之の向こう側に座っている暁に目を向けた。
「 氷野、だよな?」
「 うん」
  暁はすぐに返事をした。友之が再度体勢を戻して暁を見ると、彼の表情はまた元の何も感じ入らないものに戻ってしまっていた。
「 友之と…仲良かった?」
「 うん」
  沢海のこの問いに、しかし暁はすぐに返事をした。ただ、この暁の返答には友之が驚いてしまった。そんな風に思われているとはとても思えなかったから。
「 そう…なのか。何、話してたんだ?」
  沢海は相変わらず部屋のドア付近から訊ねてくるだけで、どことなく態度がおかしかった。友之はそんな沢海にいつもと違う雰囲気を感じながらも、その場にいる事しかできなかった。
「 身の上話」
  そんな2人をよそに、暁はまたしても淡々と正直に答えた。それからふっと視線を友之に向けて、「もう帰れば」とだけ言った。
  友之はその暁の声でようやく立ち上がった。


  部屋に戻った後も、沢海は依然そわそわしたままだった。
  友之がいつもの通り学校鞄から数学の教科書とノートを出して宿題を始めようとしても、自分は未だに何をするでもなく、ただ部屋の中央に立ち尽くしたままぼうっと友之の仕草を見やっていた。
「 ……どうしたの?」
  思い余って友之が訊くと、沢海はようやく我に返ったようになり、それから戸惑ったようになりながらも自らの椅子に腰を下ろした。
「 別に……何でもないよ」
「 ……………」
  それでも友之が訝しげに見やっているのを感じたのだろう、沢海は何とか普通を装うように少しだけ笑って見せてから、机に置かれた本に視線をやった。
「 それ。氷野に借りたのか?」
「 うん」
「 何てやつ?」
「 知らない。読めば分かるって」
「 ふうん」
  しかし会話はそれきりすぐに途切れた。
  暁との間にあったものとはまた違う、異質の沈黙。友之はその場にいるのが妙に苦しくなり、それを誤魔化すように自分のデスクに向かうと教科書を開いた。
「 あいつって」
  すると沢海が言葉を切った。
「 友之と話した事あったっけ」
  友之が横に座る沢海を見ると、相手はもう当に真っ直ぐの視線を向けてきていた。友之が黙って首を横に振ると、沢海は不意に堰き止めていたものが溢れてきたように言葉を次々と出してきた。
「 じゃあどうしてあいつの部屋にいたんだ?」
「 ……話してみたかったから」
「 誰が? 友之が?」
  友之が頷くと、沢海は明らかに気分を害したような顔をした。
「 どうして」
「 ……どうして?」
「 友之、今まで誰かと話してみたいなんて思った事なかったじゃないか。どうしてそんな風に思ったんだ? あいつが何か言ったのか、友之に」
「 何も……」
「 じゃあどうして急に話してみたいなんて思ったんだ?」
「 ……分からないけど……」
「 分からないって事ないだろう? 友之からあいつの部屋に行ったんだろう? それとも、あいつが呼んだ?」
「 ……………」
  迫るように問い詰めてくる沢海に、友之は言葉が追いつかなくなって黙り込んでしまった。沢海の目が怒っているようで何だか怖くて、友之はただ困惑した。
「 ………友之」
  そんな友之の態度に気がついたのだろう、沢海は声のトーンを落として努めて優しい調子で言った。
「 あいつが呼んだのか? 友之に何かちょっかい出してきたのか」
「 違うよ」
「 じゃあどうして? 友之は知らないかもしれないけど、あいつ結構乱暴なところあるし…。友之が何か言われたんじゃないかって俺はー」
「 違う」
  暁は何も悪いところはないと思う。
  沢海に暁の事を悪く言われたくなくて、友之はすぐに否定した。
  しかしそんな友之の反応に沢海は余計むっとしたようになり、そして再び黙りこんでしまった。
  こんな沢海を友之は見た事がなかった。
  不安になった。
「 ……拡」
  だから呼んだが、しかし沢海は何の反応も示してくれなかった。
「 拡」
  もう一度呼ぶ。沢海は顔を上げてこちらを見てくれた。けれどいつもの優しい笑顔はそこにはなかった。
「 ……どうしたの」
  やっとの思いでそれだけを訊くと、沢海は一瞬とても悲しそうな顔をした。けれどそれをすぐにしまうと、「何でもないよ」とだけ答えた。
  言いたい事はあるはずだった。
「 ………どうして」
  何故、思った事をすぐに我慢して飲み込むのだろうか。沢海はいつもそうだった。多分、自分に対してもこうして欲しいとかああした方が良いというような思いを沢海は抱いているはずなのだ。けれど彼はそれを決して口にはしない。いつもいつも自分を受け入れ、「友之はそれで良い」と言ってくれるだけ。そして守ってくれようとする。それは沢海の沢海なりの優しさなのだろうと友之は思う。分かってはいる。
  けれど。
  今日の男子生徒たちの言葉が友之の胸には深く残っていた。

『 教師に頼まれているらしいぜ― 』

  迷惑…なのだろうかと思う。 
「 何か…怒ってる?」
  恐る恐る問うと、沢海は首を横に振ってから立ち上がった。
「 怒ってないよ。俺、風呂行ってくるから」
「 拡」
  怒っているじゃないか。
  それだけを言いたくて、友之は一生懸命名前を呼んだ。呼び止める事しかできなかったが、沢海はきっと立ち止まってくれると思った。
  けれど沢海はそのまま部屋を出て行ってしまった。
「 ………拡」
  もう一度、閉じられたドアに向かってつぶやいたが、当然そこに返ってくるものは何もなかった。
  どうして沢海があんな態度を取るのか、友之にはどうしても分からなかった。


  その夜は結局そのまま互いに一言も発しないまま就寝を迎える事になってしまい、友之はベッドに背中を向けながら、布団の中で息苦しい気持ちを抱えていた。身じろぐ気も起きなかった。
  体勢を変えてベッドの方へ身体を向けたら沢海と目が合ってしまうのではないか、それはないにしても、もしかして沢海はまだ起きているのではないか。そう思うと動く事ができなかった。
  沢海に口をきいてもらえない事など今までなかった。だから、友之は不安でいたたまれなくてどうしようもなかった。けれど様子のおかしい沢海と真正面から接するのは怖いと思った。だからどうする事もできなかった。
  そんな時が一体どれくらい経ったのだろうか。
  不意に背後でベッドの軋む音が聞こえた。
  友之は目をつむったままその音を聞いていたが、どうやら沢海が寝床を抜け出したようだった。トイレにでも行くのだろうか、やはり沢海も眠れないのかなどと考えながら、それでも友之は眠ったフリを続けていた。
  すると沢海の方は洗面所に行くでもなく、そんな友之のすぐ傍に不意に腰をおろし、そっと伺い見るように体を屈めてきた。沢海の覆い被さってくるような影で視界がより一層暗くなるのを友之は感じた。
  沢海の息遣いも近くで感じた。
「 友之……」
  その時、呼びかけるのとは違う、囁くような声が沢海から漏れた。
  声を出せずに目をつむったままでいると、沢海の手がそっと優しく友之の前髪に降りてきた。
「 ……ッ!」
  友之が驚いて少しだけ身体を動かしてしまうと、沢海もその相手の反応に驚いたのだろうか、すぐにその手を離してきた。
「 起きてる…? 友之…?」
「 …………」
  友之は何の反応も返せなかった。気まずい思いをしたくなかったから、寝ているフリが1番安全だった。
  すると沢海は再び自らの手を友之の前髪に絡ませ、それから実に丁寧な所作でその髪を梳き始めた。
  怒っていたのではないのだろうか。
  相手の行動にどうして良いか分からずにいると、やがて沢海は自らも寝床に横になり、背後から腕を回して友之のことをそっと抱きしめてきた。
「 ………ッ」
  先刻よりも驚いて友之が身体を震わすと、しかし今度は逆にその拘束は一層強まった。沢海に後ろからがんじがらめにされて、友之は一瞬息が詰まった。
「 友之……」
  その時、そんな友之の耳元で沢海が囁いてきた。
「 友之……」
  その声はただ名前を呼んでくるだけだった。
  それだけだったのだけれど。
「 友之……」
  それは胸が苦しくなるような、痛くなるような声だった。
  友之が抱きしめられながらも自らの身体を何とか動かそうとすると、沢海はそれを諌めるように、寄せていた自らの唇をそのまま友之の項にそっと当てた。
「 …ッ!」
  突然与えられた唇の感触に、友之は思い切り反応を返し背中を震わせた。けれど沢海は未だ友之が起きている事に気づいていないのか、それとも分かっていて何とも思わずにいるのか、再度友之の首筋に自らの唇を当て続けてきた。
「 友之……」
  触れられては離され、その度に呼ばれる声。
  幾度となく繰り返されるその口付けに。
「 ひろ……」
  名前を呼ぼうとしているのに、友之はうまく声を出す事ができなかった。



To be continued…



戻る9へ