君にさよならを
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今日も大学に行けなかった。もうどれくらい休んでいるのだろうか。 「う…」 歩遊は気だるい身体を無理やり起こしながら、この途方もない遅れをどうやって取り戻せば良いだろうかと思案に暮れた。 出席を重視しない講義であれば、テストやレポートを頑張れば何とかなるだろう。しかし、歩遊が通う大学では、まずもって必修講義は大体の講師が「出席重視」を謳っている。他の学生たちなら、友人同士で代返するなどして乗り切れるかもしれないが、歩遊にはそれを頼めるだけの友人がいない。もう入学して大分経つというのに、知り合いと呼べる人間すらほとんどいない状況なのだ。 「いった…」 洗面台へ向かうのもやっとの歩遊は、よろよろと千鳥足で進みながら、何度も自分に「大丈夫」と言い聞かせ、泣きそうになる気持ちを押しとどめた。 親しい友人がいないことも、俊史から怒られることも、そのせいで勉強が遅れてしまうことも。言ってみればこれまでと変わらない。小学校、中学校、高校と、友だちはほとんどいなかった。勉強も今よりずっと出来なかった。何より、俊史とはただの幼馴染でしかなかった。 それに比べれば、今は自分が希望する大学に入ることも出来て、俊史とは恋人同士という関係にもなれた。……そうなってから俊史がカリカリすることは余計に増えた気もするが、それでもこうして「愛して」もらえる。だから幸せ、だ。 歩遊は何とか自分自身が安心できる着地点を探そうと躍起になった。 (大丈夫…俊ちゃんは優しい…。俊ちゃんは僕を好きで…僕も俊ちゃんのことが好きだ…) 冷たい水で顔を洗うと、少しだけ頭がすっきりした。鏡に映る自分の顔を、歩遊は少しだけ不思議そうに見つめて首をかしげた。先日、俊史に嘘をついてまで会いに行った耀―歩遊の唯一の高校時代の友人―は、歩遊のこの顔を見て「痩せたなぁ」と驚いていた。そうだろうか。毎日見ているものの変化など、自身ではなかなかに分かりづらい。 「ん…」 リビングに戻ると、テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯がチカチカと点滅していた。俊史からのメールだろうか。この頃の俊史は大体、歩遊の1日の生活についてあれこれと細かく指示を出す。何時に帰れ、どこそこで待っていろ――大抵はそういった類のものだが、大学を休んで家にいる時でも偶に連絡を寄越すことはある。 何だろうと思い、それを手に取ると、しかしその相手は俊史ではなかった。 「耀君!」 それは先刻その顔を思い浮かべていた友人からのものだった。つい10分ほど前だ、どうやら電話をくれていたらしい。少し悩んだ末、歩遊は急いでその番号に折り返した。ちらりと俊史が怒るかなと思わないでもなかったが、やはり耀だけは特別だ。大学で新しい出会いを持てずとも構わない、俊史がそれを望まないのなら自分も望まない。 けれど耀とだけは、その関係を切ってしまいたくなかった。 『あ、歩遊!』 耀はすぐに電話を取って、開口一番そう言った。いつ会ってもキラキラと太陽のように明るい耀は、電話越しでもその眩しい笑顔が容易に想像できた。 歩遊は心から安心する想いがして、自然笑顔になった。 「耀君、ごめん。すぐに電話出られなくて」 『いや、全然! むしろこんなすぐ出てもらえると思ってなかった、だから今メールしようと思ってたんだ。まだ大学だろ? 今、休み時間?』 「あ…ちがう。今日は…」 咄嗟に何と言って良いか分からず、歩遊は口ごもった。 耀はその異変にすぐさま気づいて、途端口調を変えた。 『何、どうした? もしかして具合でも悪いのか? 声、元気ないけど』 「あっ、ちがうんだ、大丈夫。何でもないよ。今、家にいるんだ。だから大丈夫!」 『家に…?』 「うん、だから電話できるよ。耀君は? 今、話していても大丈夫なの?」 『うん。本当に大丈夫か?』 「うん」 何故か胸がドキドキして歩遊はそれしか言えなかった。先ほどは何度も自分で「大丈夫」などと唱えていたが、耀から改めてそう訊かれると、それを認める時に仄かな罪悪感が灯った。勿論、嘘などついていない、大丈夫に決まっている。 ……しかし、咄嗟に返答したそれに、何故かもし耀が「嘘だろ」と言ってきたらどうしようなどと考えてしまい――。 『あのさ、歩遊。突然なんだけど、今からって会えるか?』 「え」 しかし幸いにも耀はそれを追求することはなく、代わりにそんなことを言い出した。 違う意味で歩遊はどきんと胸を鳴らした。 『実は歩遊に話しておきたいことがあるんだ。本当はこの間会った時に言えれば良かったんだけど、何となく言いそびれちゃってさ』 「何…?」 『うーん、電話ではちょっと。ちゃんと、会って話したいんだけど』 「………でも」 耀と2人だけで会う。 俊史は間違いなく怒るだろう。 (俊ちゃんに電話で訊いてみて、良いって言ってもらえたら会う…? でも…どうせ駄目って言うに決まってる…それに…) 昨夜、歩遊は俊史と約束したばかりだった。特別耀と会わないという約束をしたわけではないが、俊史が嫌なら大学のサークルに入るのはやめるし、それ以外でも誰と親しくなることもしない、と。 要はそういうことなのだ。歩遊は俊史以外の人間と親密になってはいけない。それは俊史が嫌がることだから。歩遊は俊史が嫌がることをしたくない。 つまりは、耀と2人で会うことも当然の如く禁忌であろう。それこそ、そんなことは高校時代から何百回となく言われ続けてきたことだ。今さら確認するまでもない。 しかしそれでは、耀とは永遠に会えないということにならないか? 俊史を介してなら、許されるのだろうか? 『歩遊? もしもし?』 「あっ…」 思わず黙りこんでしまったせいで、電話越し、耀が怪訝な声で呼んできた。 歩遊は慌てて「ごめんっ」と謝り、しどろもどろになりながら、「今日はちょっと…」と言葉を濁した。駄目で元々、今日俊史が帰ってきたら、3人で会えないかと打診してみるつもりだった。それなら俊史もOKしてくれるかもしれないと思って。 『あー、やっぱりいきなりは無茶だよな。急にこんなん言ってごめんな?』 「そんなことない! ごめん、こっちこそ!」 『いーんだよ。それで、いつなら平気そう? なるべくなら今週中がありがたいんだけど』 「えっと…ちょっと…予定を確認しないと…」 歩遊自身はいつでも空いているが、俊史はそうではないだろう。 ただ、当然のことながら耀の方は、これがまさか「俊史の予定を確認してから」の意とは取らず、「歩遊もいろいろ頑張ってんだな」と良い風に解釈して、「じゃあ連絡待ってるな」と言って電話を切った。 「頑張ってる、か…」 耀の発言に全く悪気はない。高校の時から、耀は歩遊のことをとても心配してくれていた。俊史の帰りを待つ為、歩遊はほぼ毎日のように学校の図書室で1人黙々と勉強していた。歩遊にしてみればそんな時間も楽しかったし、俊史と一緒に帰る家までの道のりはとても嬉しいものだった。だから何の問題もなかったわけだが、いつもたくさんの友人らに囲まれて、自分の好きなものに打ち込む耀の価値観からすれば、歩遊のそんな生活は「青春を浪費している」ように見えても仕方なかったかもしれない。 そんな耀が今の歩遊を見たら、この生活を知ったら……一体どんな顔をするのだろう。 その時、歩遊は胸を張って「大丈夫」と笑えるだろうか。 「俊ちゃん…。すぐいいって言ってくれるといいな…」 大きな不安を思わず口にしながら、歩遊はため息をついた。 耀に会いたい。どんな話かは分からないが、あの明るい友人の傍で聞く話なら、きっと何でも楽しいに違いないと歩遊は思った。 「は? ……何で俺があんな奴と会わないといけない」 しかし。 案の定と言うかで、歩遊が説明してから後の、俊史の第一声はそれだった。 帰宅してからすぐに言ったわけではない。俊史の顔色を窺い、食事をとりながらタイミングを見計らって、ここでなら良いかと思ったところで打診した。それも自分が耀に会いたいという気持ちを全面に打ち出しはせず、なるべく控えめに訊ねたつもりだ。 その甲斐あって、俊史もいつものように怒鳴りつけたりはしなかったのだが……やはり機嫌は急降下で、無碍もない返事をしてこの話を終わりにしようとした。 「なら…俊ちゃんが予定合わないなら、僕だけでも会ってきていいかな」 歩遊は食い下がってそう訊いた。筋は通している。黙って2人だけで会おうとはしなかったし、会うとしても俊史を介してそうすることを提案した。そして、俊史がそれにNOを突きつけたから、それならば2人で会っても良いかと訊いたのだ。 歩遊は何も間違っていないはずだった。 「……お前がそうしたいなら、そうすればいい」 すると俊史は冷え切った表情と声でそう返した。 歩遊は途端びくついた。お互いが「こういう」関係になってから、歩遊は俊史の心の機微がこれまで以上によく分かるようになっていた。俊史に言わせれば歩遊はとことん鈍い人間らしいが、歩遊は歩遊なりに俊史のことは普段から誰よりも観察している。 だから今もよく分かった。俊史の言葉と真意はまるで逆だということを。 「ご、ごめん…」 だからいつもの習性で謝った。もう条件反射みたいなものだ。つまりそれは心からの謝罪ではないのだが、歩遊が俊史を怒らせたくないという気持ちだけは本当だった。 「ごめん俊ちゃん。会わない…耀君には、断るから」 俊史がちらりと歩遊を見た。何も言わない。 歩遊は焦った。 「今、電話する。ここで」 「いい」 「え?」 「俺が連絡しておく」 「え、でも」 「片付けろよ」 椅子の足を蹴るようにして俊史は立ち上がった。もうこの話は終わりだという態度がありありと見て取れる。歩遊は黙りこんだ。 そしてすぐさま唱える、「大丈夫だ」と。 こんなことも別に珍しくはない。歩遊が親しくしている耀のことを、俊史は昔から好きではない。それで、高校の頃からずっと、耀が歩遊を遊びに誘えば何だかんだと言って俊史はそれを妨害したし、よしんば一緒にいられたとしても、それは必ず俊史がいる時だけだった。俊史が機嫌の良い時は耀と一緒にいられるが、それも2人だけで過ごせることはほとんどなかった。昔からそうだったのだから、今が特別なのではない。 だから大丈夫だし、耀とだってまた機会があれば会うことなどいくらでも出来るはずだ。 『歩遊。ホント、今回ばかりは会えないと困る』 けれどその翌日。 耀は立て続けに歩遊に連絡を入れてきた。「瀬能から意味不明な断られ方をした」と言う耀は、しかし彼自身もそれをいつものこととして受け流せたのだろう、めげずに電話をかけてきて、半ば呆れたように言い募った。 『いつもなら、また瀬能がアホなこと言ってるくらいで、奴の気分が良い時に出直してもいいんだけどさ。今回はホント違うから。歩遊に話したいことがあんの、凄く大切なこと!』 「すごく…?」 この日、歩遊は久しぶりに大学に顔を出していて、この時は夕刻の4限授業を受けるだけになっていた。同じ学科の俊史とはほぼ同じ授業を受講しているが、この時は珍しく互いの講義が別々で、歩遊は構内の窓際で独りその電話を受けることが出来ていたのだ。 それでもそれをまるで悪いことのようにこそこそと受け取りながら、歩遊は誰が聞いているわけでもないのに小声で返した。 「何かあったの…? 良くないこと?」 『いや、そんなことはないけど…。でも、良いけど、悪いことって言うか…』 「え?」 『とにかく会いたいわけ! 俺は! 歩遊と! ほんのちょっとでいいよ、駄目なのか!? 何なら俺、歩遊の大学まで行くからさ!』 「え、そんなの悪いよ…」 『悪くないよ。っていうか、今もう近くまで来ているから! これから行くから、門の所ででも待っててよ!』 「え!? ちょっ…」 歩遊が驚いて聞き返すも、電話はそのまま切れてしまった。すでに4限目は始まろうとしており、学生たちの多くはバラバラと教室へ入っていく。 「……っ」 歩遊は暫し逡巡した後、その人の波とは逆らうようにして、外へ飛び出した。 「ホントごめんなぁ、無理言って! また瀬能にバレたら超叱られんだろうな!」 「超くらいで済めばいいけど…」 「え?」 「な、何でもないよっ!」 慌ててぶんぶんと首を振った歩遊は、誤魔化すように耀が傍の自販機で買ってくれた缶コーヒーに目を落とした。 学生食堂の近くにあるその構内のベンチは、周囲にも似たような寛ぎスペースがあって、何人かの学生でにぎわっている。俊史に見つからない為には、大学から離れたどこかの店にでも入った方が良かったのかもしれないが、歩遊はそうすることも怖かった。俊史に無断で耀に会っている。普通に考えれば、高校からの友だちと、これだけたくさんの人間がいる場所で会話しているだけだ、何を咎められることもないはずだった。 それでも今の歩遊にとってそれは俊史に対するとんでもない裏切り行為だった。いつからかは分からない、ただ大学へ入って2人きりの生活をするようになって。恋人同士として毎日のように身体を繋げて。そして、俊史が歩遊と同じ進路を歩むに至ってほぼ一緒に行動するようになってからというもの、歩遊は何が正しくて何が間違っているのかがよく分からなくなっていた。 ただはっきりしているのは、俊史を怒らせたくない、ということ。 何故って、歩遊は俊史のことが好きだから。 それなのに。 ちらりと、歩遊は隣で同じようにコーヒーを口につけている耀を盗み見た。 断ることも出来たはずなのに、どうして今またこうして、俊史の逆鱗に触れるかもしれない危険を冒してまで耀と会ってしまっているのか。 「あのさあ、歩遊。あのさあ」 どれくらい経ってからなのか。耀が、いかにも言い出しにくいという風に口を開いた。 歩遊はそれを不思議そうに眺め、「どうしたの」と訊き返した。 「歩遊。大学生活、どう?」 「え? ど、どうって…」 思わずどぎまぎして、歩遊はさっと俯いた。単純に、大学生活のことを訊かれると困る。歩遊は今まともな学生生活を送っていない。けれどそれを耀には知られたくない。 そうだ。はっきりと思っている。今の生活を耀には知られたくないと。 「大学入って、瀬能と一緒に暮らすようになってさ。毎日、楽しいか?」 それでも耀はまた訊いた。歩遊は思わず泣きそうになったが、何とか堪えて努めて平静に「うん」と頷いた。 「楽しいよ…。何でそんなこと訊くの?」 「え? いやあ…あのさ、俺がさ。実は今、あんまり楽しくなくて」 「え?」 思いもしないことを言われたと思い、歩遊は瞬いた。てっきり自分や俊史のことを責められるのかと思ったから。耀は歩遊たちの生活のことなど知りようはずもないし、俊史の過度な束縛についても、ある意味慣れている。だから高校のそれより酷くなったことに気づかれなければ、何を責められるはずもないのに。 「何ていうか、別に日本の大学サッカーがどうこうってんじゃなくて、これって多分俺の問題なんだよな。俺が我がままなのかも。勉強もさ…何ていうか…俺がやりたかったこととはちょっと違うって言うか」 「そうなの?」 「うん。結構自分なりに調べて入ったつもりだったんだけど。こんな感じで4年間過ごすのってどうなんかなぁとか。最近、らしくもなく色々考えちゃってさ。歩遊ってそういうことない? 大学の勉強、自分に合ってる?」 「ぼ……僕は……まだ、よく……」 分かるはずもない。だって授業なんてまともに受けていない。 「そうだよな、まだ1年なんだもんな。そういうの、判断するの早いよな。俺がせっかちなんだよ、うん。それは分かる」 それなのに耀は良い風に解釈して勝手に頷き、うんうん言いながら腕組をした。そうして、歩遊には分かるはずもないスポーツ医学の現状や日本の学生サッカーのこと、周りの友だちも指導者も良い人が多いけれど、自分が目指していることとは根本的に違うような気がするのだと、実につらつらと、耀は独り言のように喋り続けた。 歩遊はそんな耀の姿を見て、単純に凄いと思ったし、羨ましいと思った。 一体自分にはこんな風に何かに情熱を傾けて、それこそ何もかもを忘れて打ち込むことが出来るものがあるだろうか。この大学は、一応興味のある分野があるということで希望した所ではあるが、それをすることに将来の仕事と結びつけてまともに考えたことはなかった。ましてや、俊史がそんな自分の後をついてくることに至っては、互いの両親が猛反対したにも関わらず、歩遊は俊史に強い異を唱えなかった。できなかった。「まずいのではないか」と考えはしたが、結局は俊史が怖くて、だからただ唯々諾々とその判断に従ったのだ。 俊史のことを考えるのなら、両親たちのように強く反対するべきだったのに。 「それでな。思い切って、行っちゃおうと思って」 そうこうしているうちに、耀の話は本題に向かっていた。歩遊がはっとして顔を上げると、耀は困ったような、それでもその自分の考えにどこか興奮しているような目を向けて続けた。 「海外。イタリア。迷うくらいなら、もういっそのことって」 「え…留学?」 「うん」 「大学は?」 「辞める」 きっぱりと言って耀は「両親は反対してるんだけど」と頭を掻いた。 歩遊は驚いて目を丸くした。 「辞めるって…。その、大学、残したままとか、無理なの?」 「無理ってこともないし、親も休学して行けばとは言ったけど。俺、そういう中途半端なの好きじゃないし。いつ戻ってくるかも分からないし、戻ってきてまたあの大学で単位取る自分とかどう考えても想像出来ないし」 「そ……」 「それで、これから色々準備が忙しくなると思うし、歩遊ともあんま会えなくなると思うんだ。あと、もう決めたことではあるんだけど、本当に大学辞める前に、歩遊に俺の気持ち聞いてもらいたいって思って」 「え……どうして?」 「え? だって、歩遊は俺の親友じゃん?」 「え」 「え!? 違うの!?」 「あっ…」 大袈裟にショックを受けたフリをする耀に歩遊が慌てて首を振って見せると、耀は分かりきっていたその反応に可笑しそうに笑い返した。 瞬間、歩遊の胸はズキリと痛んだ。 俊史のことばかり考えて、耀と会うことをあっさり諦めようとしたり、今もずっとびくびくして、俊史に見つかったらどうしようなどと気にして。 反して、耀はそんな歩遊に、自分の大切な未来について語ってくれた。俊史からの妨害にも負けず、わざわざここまで来てくれて。 歩遊は親友だから、と言ってくれて。 「耀君…」 じわじわと色々な想いがこみあげてきて、歩遊の目は潤んだ。まさかこんな大衆の面前で泣くわけにもいかない。それでも歩遊は嬉しかった。耀の存在に心から感謝した。 そして同時に、とてつもない寂しさが沸いた。 その耀は、間もなく手の届かない遠い所へ行ってしまうのだ。 「それで…いつくらいに行くの?」 「その前に、どう思う? 俺の、この考え。皆、俺のこと甘いとか、現実が分かってないとか、スゲー色々言うんだよ。これでも一応そういうの気になる方だからさ」 「僕は……耀君が決めたことなら、きっとそれが正しいんだと思う」 何の迷いもなく、歩遊はその想いを口にした。 「あ、あの…こういうの、もしかしたら無責任に聞こえるのかもしれない…ごめん。だって耀君の御両親とか、お姉さんが心配していることも分かるし、その、部活の監督さんが言ったり、友だちが言うことも分かるから。僕なりに、だけど。僕にはサッカーのことはよく分からないけど、でも、何となく分かるよ。でも、それでも僕は、やっぱり耀君がそう思うなら、そっちの道が良いんだと思う。だって耀君だもん」 「え、なにそれ?」 「え? だって耀君の選択って、いつも正しいでしょう?」 「そう…かな? そんなこともないと思うけど…歩遊は、そう思う?」 「うん、思う。でもごめん、やっぱり無責任だよね? こんな風に言うの」 「いや、そんなことないよ。むしろ俺、歩遊にそう言ってもらいたくてここまで来たのかも。今そう思った」 「そ、そう?」 「うん! やっぱり歩遊に話して良かったな。歩遊、ありがとうな!」 「………そんなこと」 人から感謝されるなど、どれくらいぶりだろう。 歩遊はどきどきして嬉しさに頬を紅潮させた。「ありがとう」って、こんなに凄い威力を持つ言葉なのか、そう思った。歩遊はいつも「ごめん」しか言わないし、俊史は何も言ってくれない。2人の間にこういうポジティブな言葉が飛び交うことは、もうずっとない気がする。 そう、もうずっとない。 「はー。というわけで、すっきりした!」 耀は立ち上がってぐんと伸びをした。それから歩遊を見下ろし、優しく笑いながらも、一方でどこか寂しげに目を細める。 「でも、向こう行ったら、こうして思い立っても、歩遊に会うことも出来なくなるんだよな。それはきついな」 「……僕も」 きついどころの騒ぎではない。まだ半年先の話とは言っても、これから多忙を極める耀とはそれこそ同じ国内にいても会う機会は確実に減るだろう。歩遊には耀しか友だちがいないのに。 「嫌だな…」 だから思わず言ってしまった。耀が「え」と聞き返して、やっと自分のその失態に気づいたくらいだ。 歩遊はすかさず「ごめんっ」と謝り、焦った風にかぶりを振った。 「ごめん、つい言っちゃった! 耀君と会えなくなるって思ったら、寂しくてつい! ごめん!」 「……いや、いいよ。むしろ嬉しいよ?」 耀は困ったように笑ってから歩遊の頭をよしよしと撫でた。まるで小さな子どもにやるようなそれだったが、歩遊は妙に嬉しくてさっと見上げて耀を見返した。ばっちりと目が合って、優しいその眼差しに心底癒やされた。耀といると安心する。怖いことなど何もない。何も起こりようがない。 「歩遊」 そう、例えばこんな風に――。 「あー。俺、お前が来ると思ったんだよなぁ。でも、大体用が済んだ後で良かった!」 歩遊の恐怖に気づかず、耀が能天気にそう言った。耀にしてみれば、お約束のようにこうしてこの男――瀬能俊史が現れることは想定内なのだろう。 ただし、耀が知っていた頃の俊史と今の俊史は少し…否、大分違うのだけれど。 「歩遊。何してる」 氷のように冷たい声で俊史は言った。耀のことは完全に眼中にない、ただ歩遊だけを見つめている。 その視線に歩遊は忽ち震え上がった。いつもの比ではない。その怒りを湛えた声は、最早単純な怒りだけではなく、あらゆる負の感情が混在しているように感じられた。 歩遊はもう謝ることも出来なかった。ただ固まったまま、目の前に現れた恋人の姿を凝視するのみだった。 |
後編へ… |