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歩遊が目を覚ました時、隣に俊史の姿はなかった。 「俊ちゃん…」 咄嗟に呼んでみるも返事はない。覚めきらない意識の中で何となく腕を伸ばすと、馴染みの目覚まし時計には手が届いた。暗い部屋の中でもその針は淡い黄色を放っていて、歩遊に正確な時を教えてくれる。朝が来るのはまだもう少し先らしい。 「……痛っ」 恐る恐る身体を起こしたが、下半身に鈍い痛みが走るのと同時に臀部の不快感に気づいて、歩遊は思わずそこへ片手を差し向けた。血だ。しかもそれはまだ乾ききっておらず、実は意識を失ったのもつい先刻だったのかもしれないと考える。 耀から無理に引き離されて強引に家へ連れ戻された後、歩遊は俊史から散々な責め苦を受けた。それは「いつものこと」と言えばそうだ。俊史は歩遊が自分の知らない所で誰かと話すことを異常に嫌がる。特に耀は別格だ。 けれど歩遊にしてみれば耀は大切な友人だし、その耀が日本を離れると知った直後だったから、この「仕打ち」は余計に辛かった。今さらながら、どうしてこんな風に俊史は腹を立てるのか、そしてそんな時は決まって酷い抱き方をしてくるのか、歩遊のことなど全く構わず、ただ乱暴にしてくるのか。 そしてそれが終わった後は、こうして傍にもいてくれないのか……分からない。 何とかベッドから降りたってよろよろと隣室のリビングを開けると、急に明るい光が漏れ出てきて、歩遊は思わず目を細めた。 「俊ちゃん…」 それでも目当ての人物がそこにいると分かり、歩遊は改めて呼んでみた。俊史はソファに座っていた…が、歩遊の呼びかけには応じなかった。テーブルの上には何本かの缶ビール。歩遊の立ち位置からその姿は見えないが、どうやら大分飲んだらしい。俊史が酒を飲むことなど滅多にない。その場にあるビールとて、たまに俊史の友人である戸部が勝手に運んできて冷蔵庫に入れっぱなしにしていくだけだ。 今回はそれを取って飲んだのだろう。俊史はビールの缶を手にしたまま、微動だにしなかった。 「俊ちゃん」 振り向いて欲しくて、歩遊はもう一度呼んだ。裸のまま明るいリビングへ出るのは気が引ける。かと言って、このまま何も言わずに浴室へ向かうのも躊躇われた。とにかく俊史からの言葉が欲しい。それこそ簡単な応答で良いのだ。そうしたら歩遊は着替えを探すなり、浴室へ向かうなり、次の行動を起こすことが出来るから。 それでも俊史は返事をしない。 歩遊はどうして良いか分からずに、仕方なく「ごめん」と静かに謝った。 「何が」 するとようやく声が返ってきた。歩遊は扉に手を添えたまま急いで続けた。 「だって…まだ怒っているでしょ?」 「何を」 「僕が…耀君と、黙って会ったこと」 「別に」 素っ気なく俊史は答える。嘘だ、とすぐさまと思ったが、勿論声には出さなかった。そんな風に逆らってみたところで無駄だし、今の今まで散々やられたことをまた繰り返されるのは嫌だった。さすがにもう今夜はこれ以上されたら死んでしまう。 身体が、というよりも心が。 咄嗟にそう感じていた。 「……シャワー浴びる」 不毛な会話をするのに疲れて、歩遊はよろよろと浴室へ向かった。 「太刀川にはもう会うな」 すると俊史がさっと言った。歩遊はぴたりと足を止めて、そんな俊史を振り返った。 俊史は相変わらず歩遊を見ない。背中を向けたまま、どこを見ているのか分からない。 「耀君は……」 ここでの正解は、ただ「分かった」と言うことだ。それは明らかだった。 それは重々承知していたけれど、それでも歩遊は小さなかすれ声で返した。 「友だちなんだ。僕の、たった1人の」 俊史は歩遊を振り返らない。動きがない。息をしているのかと疑うほどに。 歩遊は焦れた想いがして、今度はもう少し大きな声で言った。 「だから……どうしても、耀君とだけは切れたくない…。他には何も言わないから、だから」 「だったら選べ」 「え…」 「俺か太刀川か、どちらか選べ」 「俊ちゃん…」 歩遊が絶望に近い声を出すと、ここでようやく俊史は振り返った。歩遊を無理やり抱いていた時の狂気の色は消えている。けれど相変わらず殺気立った様相は静かに湛えていて、歩遊は俊史の眼光に当てられただけでぶるりと全身に寒気が走った。 俊史を怒らせたくない。これ以上そんな眼で見られたくない。 それでも。 「同じじゃないよ…俊ちゃん……」 どうしてもあがきたくて歩遊は言った。知らず涙がじわりと浮かんできたが、それを厭う暇はない。ぶれる視界をそのままに、歩遊は必死に俊史のいる方を見つめながら、絞り出すような声で訴えた。 「俊ちゃんへの気持ちと、耀君への気持ちは違うから…。本当だよ…。僕は俊ちゃんを裏切ってなんかいない」 「俺に黙って会った時点で、お前は俺を裏切ったよ」 「違う! だって、それはッ!」 「離れたら殺すって言ったよな」 歩遊の言葉を遮って俊史は言った。歩遊がぎくりとして口を噤むと、俊史はソファに寄りかかったまま、どこか気だるそうに目を細めて、ぞっとするほど怜悧な表情を浮かべた。 それは最早歩遊が知っているはずの幼馴染とはまるで別人のような。 「その覚悟があるなら、あいつの所へでもどこへでも行っていい。ただ、そういうわけだから、例え俺から離れられても、そう長くは楽しめないぞ」 「しゅ、俊ちゃん…おか、おかしい、よ。何言ってるの…?」 「お前、俺があれを冗談で言ったと思っていたのか?」 「……っ」 思っていない。 あの時の俊史は本気だった。分かっている。肌で感じるものがあった。 それでも、いざ本当にそのことを改めて突きつけてくる俊史を、真正面から受け止めきれない。何故って、そんなのは歩遊が知っている本来の瀬能俊史とは違うから。 「俊ちゃんが……」 「俺がお前を殺すわけない?」 「……うん」 「じゃあ試してみれば?」 はっと、ここで初めて俊史が笑った。仄暗い眼をして、唇の端だけが動いたそれだったが、歩遊はその端正な横顔を直視して改めて震えた。 だから何度も唱える。大丈夫、大丈夫、と。今は俊史も頭にきていてこんなことを言っているけれど、朝が来て、部屋が明るくなって、少し落ち着いたら。 またこれより事態はきっと良くなっているはず、と。 そうだ、今は夜だから。 朝が来れば大丈夫。 「風邪引くぞ。さっさと風呂行ってこい」 ふいと顔を背けて俊史が言った。その言葉を受けて、歩遊はほとんど反射的に踵を返すと急いで浴室へ向かった。俊史が気遣ってそう言ってくれたことが嬉しかったし、ほっとした。何だ、やっぱり俊史は優しい。だから大丈夫だと、そう思った。 翌朝、俊史は早々に大学へ出かけて、歩遊は例の如く留守番だった。身体中が痛いし、だるい。熱もあるかもしれない。大学どころではなかった。 何せ、あれからも、歩遊は全然「大丈夫」ではなかった。 俊史はあの後も、いくら泣こうが懇願しようが、無関係に歩遊の身体を蹂躙した。そしてそれによって歩遊が何の反応も示さなくなると、今度はそれにも激昂して、歩遊の頬を何度も打った。 これまで、叩かれることなどめったになかった。偶に軽くこづかれたり蹴られたりということがあっても、そこに歩遊が恐れるほどの暗い感情は見えなかった。 けれど昨夜の俊史による暴力は、明らかに歩遊への憎しみが滲んでいた。 それをもろに感じ取ってしまったから、余計歩遊は恐ろしくて悲しくて、俊史の望むような熱を身体に取り戻すことはできなかった。 おまけに自分で口を噛み過ぎていたのか、気づいた時には唇に血が滲んでいた。ただでさえ下肢からも出血した身である。こんな状態では大学はおろか、外へなど、とてもではないが行ける心境にはなかった。 「………嫌い、なのかな」 無理やり立ち上がってカーテンを開けに行くと、窓から明るい陽射しが差し込んできた。今の自分の心とは正反対の青い空が見える。それが眩しくて一瞬目を細めたが、その直後、何だか猛烈な虚しさに襲われて、歩遊は小さな嗚咽を漏らした。 大丈夫、と、またあのいつもの台詞を頭の中だけで唱えてみる。 まずは落ち着こう。いつもやってきたこと。こういう時はまず深呼吸をして、それから顔を洗いに行く。もう一度、シャワーを浴びてもいいかもしれない。その後は再度ベッドで横になろう。ああでも、その前に水を飲んだ方がいいかな?ひと眠りしたら、洗濯機を動かして、着替えをする。もしもその時お腹が空いていたら、何か食べればいい。俊史はいつも歩遊が好きな物を何がしか買ってきてくれているから――。 「ひっ…」 けれどその必死の思考整理の最中に、携帯が激しく震えた。どきりとして、歩遊は思わず悲鳴を上げた。何か恐ろしいものでも見るように、ベッドサイドのそれに目を向ける。俊史だろうか。起きたかどうかの確認か。だとしたら早く出なければならない。でなければまた俊史から、良からぬことをしているのかと疑われる。 本当は怖かったが、歩遊は観念してそれに手を伸ばした。無意識に息が乱れた。どうしてこんなに緊張するのか分からなかった。 『歩遊?』 けれど電話の主は俊史ではなかった。歩遊ははっとして目を開いた。 『もしもし? 歩遊? もしかして、瀬能?』 「あ…ちが…」 『あ、歩遊か! 良かったぁ!』 耀の底抜けに明るい声。それはまるで現実味がない。けれどだからこそか、歩遊は必死に、まるで喰らいつくかのような勢いで、手にした携帯を耳に当てた。 『昨日あれから大丈夫だったか? 瀬能、かなりキレてただろ? それで、心配になっちゃってさ。歩遊、俺のせいでまたあいつにいじめられてたらどうしようって』 「……そんなこと」 『ん? それでさぁ、それでいて、こんな電話しちゃう俺もいい加減懲りない奴だけど。ま! 俺としては、しつこくこういうこと繰り返しているうちに、あいつもいい加減諦めて、俺のこと受け入れる時が来んじゃないかって思っているわけだ』 そんなことを話しながら、耀は電話の向こうではははと軽い笑声を立てた。 歩遊はそれに一緒に笑おうとして見事に失敗した。 本当は同じように願っている。期待しているところもあった。何度も何度も、例え毎回ひどく怒られても、耀との仲は切れないのだと示し続けることで、俊史が認めてくれる日が来るのじゃないかと。耀とも仲良くしてくれる日が来るのじゃないかと。そうなったらどれだけ良いか。どれだけ安心かと思う。 けれど、多分そんな日はもう来ない。 それを悟ってしまった。 『歩遊?』 何の返答もないことを怪訝に思ったのだろう、耀が歩遊に呼びかけた。歩遊はそれに応えようとしてやはり失敗した。どうしよう、何か言わなければと思うのに声が出ない。大丈夫、何もなかった。ただそれだけを伝えればいいのに、どうしても言えない。 それどころか、決して言ってはいけないことを思ってしまっている。 今すぐ耀に会いたい。あの明るい笑顔を見て安心したい。 そんなことを考えている時点で、それは俊史に対する大きな裏切りだ。それが分かっているのに。 『……あのさぁ、歩遊』 どれだけ黙ってしまったのだろうか。暫くして耀が先刻とは違う声色で言った。 『今って、どこにいるの? 大学?』 「……っ」 口を開いたものの、歩遊はやはり応えられなかった。本当はすぐにそれを肯定しなくてはいけなかった。それなのに。 『それとも家? だったらさ、今から会えるか?』 「……え」 やっと声が出た。自分の望みを耀が代わりに口にしてくれたからだろうか。 しかし、会ってはいけない。今、こんな姿を見られたら。 『えっと、迷惑だったらすぐ帰るんだけどさ。実は今、歩遊んとこにいるんだよね、俺』 「えっ」 今度は大きな声が出た。思わぬことを言われたからだが、歩遊はあまりに驚いて携帯を取り落としそうになった。聞き間違いだろうか、そんなことがあるだろうか? けれど確かに耀は「今いる」と言った。 「耀君…?」 『えっとね、差し入れ! 瀬能のご機嫌取りもあるけど、歩遊にも迷惑かけちゃったから、ケイポッシュのケーキ買ったんだ。だから、もし忙しいなら、それ受け取ってくれるだけでもいいから』 だから、と耀は言った直後に、歩遊がいるマンションのインターホンをピンポンと鳴らした。 「……っ!?」 歩遊はいよいよ仰天して思わず立ち上がった。すぐさまモニターを確認すると、ドアの前には本当に耀が立っていて、あのいつものにこやかな笑顔と共に、分かりやすく有名店のケーキを掲げて見せていた。 「ど、どうし――」 歩遊は一瞬オロオロとしたものの、それでも自然、身体は玄関へ向かっていた。まだ寝間着姿だ。髪の毛もボサボサだし、こんな姿は見せられない。 でもすぐ傍には、つい今しがた会いたいと思っていた耀がいるのだ。ドアの前にまで行き、すぐに鍵を開けて――そこでようやく歩遊はぴたりと動きを止めた。 この扉を開けてしまったら。 本当に取り返しのつかないことが起きるのではないか。 俊史はどんな顔をするだろう。 「……あの」 やっぱり、駄目だ。ドアのノブに手をかけたまま、歩遊はがくりと項垂れた。耀には会いたいし、そもそも、ここまで来てくれた友人を追い返すなど通常ならあり得ないと分かっている。それでも歩遊は自らそのドアを開ける勇気が持てなかった。 「ごめんな、歩遊!」 「あっ!」 けれどそのドアは、耀が開けた。 「ホントごめん!」 歩遊がカギを開けた音で分かったのだろう、耀は待っていられないという風に自分からその扉を開くと、まるで強引に押し入る訪問販売員のように、すかさず中へ片足を差し入れて、そのままさらにスペースを開けてするりと身体を割り込ませた。歩遊が驚いて一歩後退するといよいよドアは大きく開き、外からはあのモニターに映っていた通りの、ケーキ箱を持参した耀が現れた。 「こんな強引に入ってごめんな。でも歩遊――」 言いかけて、耀はぴたりと口を噤んだ。改めて歩遊の姿を認め、一気にはっとしたようになって真面目な顔になる。 それで歩遊も自分の姿を見られていることが急激に恥ずかしくなり、さっと俯いた。どう言い訳しよう。熱がある? 寝坊した? 今日はたまたま大学の講義が休講だった? 様々に思い浮かべては、けれどどれも平然とは言えそうもなくて、歩遊は忽ち困り果ててしまった。 「歩遊」 するとそれに助け舟を出すように耀が言った。 「とりあえずあがる。これケーキ。今食べたかったら食べてもいいし、冷蔵庫に入れておいてもいいよ。とにかく話そ」 「あ…」 「早く、早く」 耀はそう言うとさっさと靴を脱いで上がり込み、歩遊がすぐにケーキを受け取らないと見ると自分でそれをリビングまで運びながら、ぐるりと辺りを見渡して「瀬能はいないな?」と確認した。 「そうだろ? あいつは? 大学?」 「う、うん…」 「良かった。何時頃帰る?」 「分からない、けど…夕方かな…」 「あ、そう。それじゃあ歩遊、ここへ座れよ」 まるで自宅のように言って耀は自分が先にソファへ座り、その隣をバンバンと叩いた。急かすよなそれに歩遊は流されるようにして言うことをきいた。先に着替えてきたかったが、言える雰囲気ではなかった。 耀の顔がどこか怒っている風だったから。 「歩遊。まさかとは思うけど、あいつに乱暴されてるの」 「え」 その耀は急にがつりと歩遊の両肩を掴むと、真剣な顔で訊いてきた。 「俺に嘘はつくなよ? 正直に言ってみな。実は、昨日のあいつの態度があまりに尋常じゃないんで、本気で心配してたんだ。けどまあ、あいつのそういうのって高校の頃からだし、歩遊もそれを受け入れているところあったから、お前たちの関係ってそういうもんかと思っていた部分もある。けど、やっぱり気になったから来てみたんだけど…今、お前の顔見て、その嫌な予感が当たってたのかなって。歩遊はあいつにひどいことされてるの」 「されてないよ! 俊ちゃんは、別に…!」 「じゃあ何でそんな顔してんだよ」 「そんな…?」 耀は怯えた風に自分を見つめる歩遊を依然真面目な顔で見つめると、指先で歩遊の頬を撫でてから、切れた唇もすっと触った。 「自分で鏡見てないのか? 昨日もちょっと疲れた顔してるなと思っていたけど、今日はもっとだ。それにここ切れてるし……頬も少し腫れてる。殴られただろ」 「……違う」 「俺には嘘つくなって言ったよな?」 「違う、大丈夫! 僕は、大丈夫だから!」 何度も頭の中で唱えていた言葉を叫んで、歩遊は必死に耀を見つめた。 耀は変わらず真剣な瞳を湛えて歩遊を見つめている。耐えられなくなって歩遊の方が先に目を逸らした。耀の真っ直ぐな目を見ていたいと思うのに、それと同じくらい、或いはそれ以上に、それをすることは苦しいと感じた。 後ろめたかった。 歩遊は、俊史との今の関係を、耀に知られることを恥じていた。 「歩遊。ちょっと、俺のこと見ろ」 けれど耀は逃がしてくれなかった。耀が命令するなど珍しい。けれどそれはいつも俊史にされているものとは違った。そう感じた。 何故って、耀の言い方は怖くない。耀が放つ雰囲気は優しい。 それで歩遊も耀の言うことをきくことができた。 「昨日言っただろ。俺は大学辞めて、日本出るって」 「……うん」 「けど、歩遊のこんなの見ちゃったら、心配で行けなくなるだろ? お前、本当に最近どうなの? 瀬能とうまくいってないのか? あいつどうしちゃったんだよ」 「……うまくいってる。何も…どうも、してない。俊ちゃ…瀬能君、は…」 「じゃあ何でそんな辛そうな顔してんだよ。泣きそうになってんだよ? 歩遊、じゃあ言えんの? お前らの関係、俺にちゃんと説明できる? お前のここ最近の生活、俺にちゃんと、正直に言える?」 「……っ」 ぶるぶると歩遊は首を振った。耀の詰問が辛いのではない、耀の気遣いからくるこれらの言葉に、これまで胸の内に秘めていた重く暗い靄を全て吐き出しそうになっている自分が怖かった。それこそが俊史への裏切り。そして、決別。それは歩遊のこれまでの人生にはありえない選択肢であり、許されない愚行だった。 それでも耀に触れられている肩が熱い。大丈夫と言いたいのに、言えない。 「……暫く俺んち来るか?」 すると耀が暫し惑った末、そう言った。歩遊が驚いて顔を上げると、耀こそが辛そうな顔をしていた。 歩遊の胸は途端に痛んだ。 「何もお前らのことを引き離そうってんじゃない。ちょっと互いに距離取って頭冷やしたらどうかって話だ。とにかく、これだけは言える。良くないよ、歩遊。ここにこうして、独りでいるの。絶対、良くない」 「良くない…?」 歩遊が聞き返すと耀ははっきりと頷いた。それから歩遊の頭をがしがしと撫でて、ただでさえ乱れていた髪の毛をもっとぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。 けれどその大きな手のひらに、歩遊はやはり熱いものがこみ上げた。それはもう随分と味わっていない感覚。耀といると無理に忘れ去ろうとしていた色々なものが蘇ってくるような気がした。 恐る恐るその瞳を覗きこむ。耀はそれを惜しげもなく歩遊に見せてくれた。 そうして、両手で歩遊の頬を包み込むようにしてから、子どもに言い聞かせるように繰り返した。 「いいな、歩遊? 一度ここを出よう?」 「でも…」 「瀬能には俺から話してやるから」 「だっ…!?」 途端、ぎくりとして歩遊は目を見開き、激しく首を振った。しかも「その」光景を想像した瞬間、歩遊は忽ちぶるぶると震えだして身体が小刻みに揺れるのを止められなくなった。 「歩遊!?」 耀はそんな歩遊の反応に度肝を抜かれたようになってぎょっとした。そうして、「どうした」と言いながら歩遊の両腕を擦ってくれたが、それでも歩遊は震えを止めることが出来なかった。耀の提案があまりに恐ろしかったから。俊史は「離れたら殺す」と言っていた。「じゃあ試してみれば」とも。あんな挑むような眼をした俊史が、自分はともかく、この耀に何かしたらと思うと怖くてたまらない。 耐えられない。 「耀君、帰って! ごめん、もう帰って!」 やはり家に入れたのは間違いだった。歩遊は自分の身体を抑えようとする耀を無理に引き離して、顔を逸らしながらそう叫んだ。 「僕は大丈夫だから! だから、もう!」 「バカ、何言ってんだよ! こんなになっているお前、放っておけるわけないだろ!?」 「いいんだ、僕は! 何も問題なんかない、僕は俊ちゃんが好きで、俊ちゃんも―…!」 言いかけて、歩遊は思わず言葉を切った。 「しゅ……俊ちゃん、も………」 その先は言えなかった。言いたいのに、急ブレーキのように喉が詰まって声が途切れる。 何故って、それはあまりに確信のないことだから。 「――…っ」 そしてそれを直で感じてしまった瞬間、歩遊は遂に堪らなくなってぼろぼろと涙を落とし、相貌を崩した。 「うっ…ひ…ひっ…ぐ…!」 「……歩遊」 耀のどこかボー然とする声が遠くで聞こえた。呆れられている。だから早く泣き止まねばと思うのに、歩遊は涙を止められずに俯いて顔を覆った。何度拭っても涙が止まらない。情けなかった。大きな夢へと邁進しようとしている耀と比べて、自分は何と愚かで惨めな存在なのだろうか、と。 土台そんな自分が、耀と親友だなどと。おこがましいにも程があるではないか。 「歩遊」 「あっ…?」 けれどどんどん丸く小さくなる歩遊の身体を、この時、耀がぎゅっと強く抱きしめてきた。歩遊は慌てて顔を上げたが、深く掻き抱いてくる耀の顔は見えなかった。耀は元々スキンシップの激しいところはあるが、こんな風に抱きしめられたことはない。何故かドキドキして、歩遊はカッ頬に熱が走るのを感じた。 「耀君…?」 「ごめん、歩遊。あのな。正直、俺はあいつとは違うし…お前とも違うし…。多分、そういう目でお前を見ているのとは違うんだ、と、思うんだ…けど」 「うん…?」 耀が何を言いたいのか歩遊にはよく分からなかった。けれど耀の温もりがあまりに心地よくて、そしてそんな耀がとても必死だから、歩遊は自然涙を引っ込めることが出来た。何度か瞬きしてから、歩遊はそっと耀の身体に自らも触れてみた。 それを感じ取ると、耀ははっとしたようになってから再度続けた。 「悪い、うまく言えない…。けど俺、歩遊のこと、本当に大事な親友だと思ってる。他にも付き合い長い奴とか、最高に気の合う仲間もいるけど、けど何か歩遊はそいつらと違う、何かスゴイ大事って思える相手なんだ。れ、恋愛対象とは違うって思うんだけどっ。だから本当はそんな俺がっ…。こ、こんな風に思うのって駄目なのかもしれないけど! けど俺は! 今の瀬能に歩遊のこと任せておきたくない! 例え歩遊があいつのこと好きなんだとしても、あ、あいつの傍に、お前を置いておきたくない! お前のこと守ってやんなきゃって…何か悪いけど、そう思うんだよ!」 「よ……」 「ホンットごめん! こんなの告白みたいだよな!? でも違うんだ、ごめん! 混乱するよな!? でも駄目なんだ、ホントに! 歩遊が辛そうなの嫌だし、俺、本当に、歩遊がこんなんじゃ日本出られない! だから俺と一緒に来てくれ!」 がばりと身体を離し、けれどしっかと歩遊の両肩に手を置いて耀はそう言った。耀の顔は真っ赤だった。歩遊に混乱するよなと言っておいて、もっと混乱しているのは耀に見えた。歩遊はそんな耀を驚きと共に眺めていたが、やはりじわじわと泣きたい気持ちがわいてきて、けれどそれは先刻の悲しみとはまるで違うものだと分かって、思わず、と言った風に歩遊は耀にこつんと頭を寄せた。 「わ、歩…!」 「分かってる、耀君は親友。でも、僕にとって親友って呼べる人は耀君だけで、僕の方こそ、耀君は凄く大切な人だから…。だから耀君に…今の僕を見られたくなかった…」 「な…何で…?」 「認めたくなかった。今、幸せじゃないって…俊ちゃんの傍にいるのに、く、苦しいって…知られたく、なかった…。自分でも…気づきたく、なかった」 はっきりと口にしてしまい、歩遊は「ああ」と心の中で嘆息した。 言ってしまった。 そして、逝ってしまった。俊史への忠誠心。それは揺るぎないもののはずだったのに。 それでもそのことをもう悔やんではいなかった。 「少しの間だけ…耀君の所に行ってもいいかな…」 ゆっくりと顔を上げると、歩遊は訊いた。今度は涙がせり上がることもなかった。 「情けないけど、まだ俊ちゃんと面と向って話し合えない。僕は俊ちゃんが…凄く、怖いんだ。顔を見ると、もう何も言えなくて」 「……ああ」 「何も言えないで言うなりになっても、俊ちゃんは分かってた。僕が辛いって思っているの、僕よりもよく分かってたから…だから、どんどん怒って、どんどん俊ちゃんも……壊れてく」 「歩遊」 「耀君に迷惑かかると思う。耀君と一緒にいたら、絶対、耀君にも俊ちゃんは――」 「いいって言ってんだろ? 俺は大丈夫。とにかく歩遊に笑って欲しいだけ、俺は」 言って、耀は再び歩遊の頭をかき抱くと、おもむろにその髪の毛に唇を落として……さらに、額にもキスをした。 それは実に当たり前のようにされたが、歩遊を「恋愛対象ではない」と言った人間がするには如何にもおかしな所作で。 「ごごごごめんっ!」 自分でもどうしてそれをしてしまったのか分からないという風に耀は首を振った後、「あー!」と言って両手で髪の毛をがしがしと掻きむしった。 「ホント何やってんだ俺! ごめん歩遊! 何か歩遊のこと抱きしめたいって思って、そしたら知らない間に、身体が勝手に…! これじゃ俺んち来るのも歩遊は不安だよな!? あ、でも大丈夫、うちには両親も姉貴もいるから! 変なことは起こらないから…って何言ってんだ、俺!」 「あ、大丈夫、僕…」 焦る耀に歩遊も恥ずかしくなってきて頬が赤らんだ。けれど耀にはそんな歩遊の表情も毒だったらしい、堪らないという風にがくんと項垂れ、下を向いたまま絞り出すような声で言った。 「……けど、これでいいや。この方が俺も…歩遊を連れて行きやすい」 「耀君」 「俺もゆっくり考えることにする。そうと決まれば、着替えろ、歩遊。荷物まとめるのは俺も手伝う。瀬能が来る前に、とりあえず出よう」 「……うん」 俊史はどんな顔をするだろう。今度会った時には一体どんな言葉をぶつけてくるのか。そして、本当に歩遊を殺そうとするのだろうか。 (……そんなわけない) 昨夜はあれほどあの言葉を真実として受け取り、心から恐怖していたくせに、今は何を根拠にか、歩遊はするりとそう思った。そしてそれがもしもただの甘い見立てで、実際には本気で俊史から命を奪われるほどの憎悪を向けられたとしても、「それはそれで構わない」と、ごく自然に受け止められた。 着替えを済ませて荷物をまとめ、歩遊は耀と部屋を出た。大学に入ってから俊史が一方的に同居を決めて、勝手に契約を決めた部屋。去る前に一度振り返ると、いやに広く見えた。そして、とても寂しい部屋に見えた。 耀が持ってくれたボストンバッグには少しの着替えと日用品。歩遊が担ぐバッグには、主に大学の教科書や文房具を入れた。耀の家に厄介になると言っても、然程長居をするつもりはなかった。何日か様子を見て、俊史と落ち着いて話ができると思ったら、実家に帰るつもりだ。耀は間もなく留学の準備をする身の上なのだから、そう甘えてもいられない。 それでも、最初からその手を振りきれずに、仮に数日でも耀と一緒にいたいと思ったのは。 「なぁ歩遊。家に帰る前に、飯食べて行こうぜ。うまいお好み焼き屋知ってるんだ」 「お好み焼き?」 「嫌い?」 「ううん。好きだよ」 「良かった。じゃ、決まりな」 先を歩く耀はにこにこと笑っていたが、どこかぎこちなかった。先ほどのキスを意識しているのは明らかだ。歩遊もいまだ気恥ずかしい気持ちがした。耀をそういう対象として意識したことはない。けれど、今は意識している。あんなにくすぐったく、そして愛しいと思えた触れあいは経験したことがなかったから。 けれど歩遊には呪縛がある。 「……ッ」 駅へ向かうまでの道すがら、比較的交通量の多い国道の上には大きな歩道橋があった。そこを渡っている時、歩遊は何となく感じるものがあって、立ち止まり、振り返って眼下を見た。そして――驚愕した。 歩道橋から数十メートル離れた先、こちらを真っ直ぐに見上げているその人物は、間違いなく俊史だった。 「俊……」 咄嗟に声が出そうになるも、先を歩いている耀にハッとして、歩遊は口を噤んだ。 それから歩遊は震える手をわざとカバンの端に持って行って、堅い革製のそれをぎゅうと握ることで恐怖に耐えた。 俊史は動かない。何を考えているのか分からない、とても静かな表情で、ただじっと歩遊のことを見つめている。前方に耀がいるのだ、何がしか察するところはあるはずだ。それでも俊史はただ黙って歩遊のいる場所を見上げているだけ。 言わなくても分かるだろう、戻って来いと示しているのだろうか。 それとも、昨日言っていた通り、「試してみろ」と挑発しているのか。 或いは、そのどちらでもなく……。 「耀君の所に行くから」 暫し逡巡した後、歩遊ははっきりと唇を象って俊史にそう告げた。聞こえるわけはない。けれど俊史の身体が微かに揺れるのを歩遊は見た。だからもう一度、「あそこにはもう帰らない」と続けた。 俊史は動かなかった。 「歩遊?」 耀が呼んだ。歩遊は「うん」と応えて、無理やり笑顔を作ると、もう俊史からは視線を外して耀の後を追った。足はがくがくしているし、カバンを掴んでいる手はまだ震えている。それでも歩遊は、自分を待っていてくれる耀の顔だけを見て歩を進めた。 「歩遊、大丈夫か?」 様子のおかしい歩遊に気づいて耀が心配そうに訊いた。だから歩遊は「うん」頷いて、「ありがとう」と、「大丈夫」の両方言って笑って見せた。そう、ちゃんと言えた。耀には「ありがとう」がたくさん言える。そのことが堪らなく嬉しかった。 「あのさ、歩遊。手…繋ごうか?」 そうして耀が躊躇った後、そう言って差し出した手を、歩遊は不意に泣きたくなる想いに駆られながらも、「うん」と応えて自らの手を伸ばした。きゅっと握られたそれはやはり大きくて温かくて、そして優しかった。 「耀君、ありがとう」 だから歩遊はもう一度礼を言った。これまでは言えなかった、元気になれる魔法の言葉。 いつか俊史にも言える日が来るのだろうか…。 そう思いながらも、歩遊はもう決して後ろを振り返らなかった。 |
+α… |