決行は明日。
  卒業式が終わった後、1人学校の裏門で大きな桜の木を見上げながら月人は心の中で呟いた。美術部の顧問は式の後ファミレスで卒業祝いのパーティをしようと言ってみんな凄く乗り気だったけれど、月人は用があるからと逃げるようにしてここへ来た。いつまでも学校に残っていたいと思う程の友人はいないが、かと言ってこのまま真っ直ぐ家に帰るのも嫌だった。
  兄の太樹からは卒業したらすぐさま塾へ行けと命令されていた。返事もしないうちに自宅から電車で二駅ほど行った先の大手予備校の春期講習に申し込みされていた事を知ったのは昨日だ。兄の秘書である支倉が手続きから何から全てやってくれたらしく、受講する科目まで詳しく決められていたのにはただただ唖然とするよりなかった。
  もう限界だ。
  月人は未だ花の咲いていない桜の木を見上げながらぐっと唇を噛んだ。
  太樹は絶対に美術大学への進学を許してくれない。将来、絵の道へ進む事を選ばせてはくれない。興味のない経済だの何だのを大学で学ばせる為に、したくもない受験勉強をこれからの1年間ひたすら強要するつもりなのだ。
  耐えられない。絵が描きたい。どうしても絵の勉強がしたいのだ。
  わざと落ちれば諦めてくれると思ったのに。
「月人様」
「……っ」
  はっとして声のする方を見ると、一人大木の傍に立つ月人に申し訳なさそうな視線を向ける男の姿があった。兄の秘書である支倉だ。どうやら月人の行動パターンはこの聡明な人には分かり過ぎる程に分かるらしい。思わず微苦笑が漏れて、月人は小さく「帰るよ」と呟いた。

  家族の誰も式には来てくれなかったけれど、夕食の時間までには帰ると兄は言っていた。きっと兄が自分の為に立てたという明日からの憂鬱な計画を聞かされるのだろう。
  それに従うつもりはないけれど……。



もう一つの明日



  月人は幼い頃から実兄である太樹をとても慕っていた。昔から大した愛情も示してくれなかった両親や意地の悪い姉とは違い、太樹だけはいつも月人の事に気を配ってくれた。年齢差があったし、何をさせても優秀でどこか近寄り難い雰囲気も漂わせる兄だったが、それでも月人にとっては絶対の人で憧れの存在だった。素直に感情を出せる中学生くらいまでは、それこそ何をするにも何処へ行くにも兄がいればと思ったし、実際その想いを直接本人に告げたりして「甘えるな」と苦笑されたりもした。ただ、言われる太樹の方も可愛い弟に懐かれるのを本心から疎んだ事はなかっただろう。2人の関係は姉の陽子に言わせれば「行き過ぎた兄弟愛」で、互いに言わせれば極自然の、当たり前のものだった。
  それが何もかも変わってしまったのは、月人が高校へ上がってからだ。
「またくだらないものにウツツを抜かしていたのか」
  何をしても自信を持てなかった引っ込み思案の月人が生まれて初めて一生を通じ打ち込みたいと思った事―絵を描く―という作業を兄の太樹は一笑に付した。そんなものは何の役にも立たない、大体にしてお前には才能がない。それよりも今のお前にはやらなければならない事があるのだから、まずはそれを人並に出来るようになれ、と。常に厳しく容赦のない兄ではあったが、それの度が過ぎていると感じるのはいつでもツキトが絵に熱中している時だった。
「お前の将来は俺が決める。お前が美大へ行く事など俺は絶対に認めない」
  一生懸命勇気を振り絞って頼んだ願いもそんな言葉で掻き消された。確かにツキトの家は一族で切り盛りしている事業があり、大抵の者は大学でその経営に参画出来るような知識や素養を身につけ、卒業後はそのグループ傘下で己の力を尽くすのが普通だ。特にそれら一族のトップに君臨する人間を父と兄に持つ月人が彼らの為に生きる事は、この上なく幸福な身の上だと周囲からも羨まれていた。
  周囲から見れば。
「兄さん…。でも僕は…僕は、絵が描きたいんだ…」
「駄目だ」
「兄さん…っ」
  数少ない月人の抵抗は大学受験が始まる年明けにはすっかりなりを潜めた。何を言っても無駄だという事はもう分かっていた。
  だから、取るべき道は一つだけ。
「月人、アンタ兄さんが勧めた大学全部落ちたんですってね? かなり下の2流どころも混ぜたって聞いてたけど。アンタがそこまでおばかだったとは、姉としても恥ずかしいわあ」
「………」
  姉の陽子に何の気遣いもないそんな台詞を吐かれても、兄から侮蔑に満ちた目で見つめられ「あと1年だけ猶予をやる」と浪人を決定させられても、支倉や使用人の典子に「来年は絶対大丈夫ですよ」と気を遣われ慰められても。
  月人はただ曖昧に頷き、来る「計画」に備えてじっと静かにしていた。

  家を、出る。

(もうこれしかない…。兄さんだって…僕みたいな足手まといはいない方がいいに決まってる…。家を出て、独りで頑張るんだ。絵を描きたい…!)
  丸い筒に入れた卒業証書をぎゅっと握り締めながら、月人は支倉が運転する車の助手席でじっと思いつめた表情を浮かべていた。





「卒業祝いはなしだ。大学に受からなかったお前にやれる褒美はないからな」
  2人きりの夕食の席で太樹は素っ気無くそう言った。陽子は今朝から「デート」だと言っていたから今夜は帰らないだろうし、両親は1ヶ月前から海外へ行ったまま何の音沙汰もない。恐らくは月人の受験結果すら知らないのではないだろうか。
  使用人の典子も今夜は早々に引き上げてしまっておらず、広い食卓なのにしんとしていて窮屈で、月人の表情も自然暗く陰鬱になった。
「月人」
「………」
「月人」
「えっ…」
「聞いてるのか」
「え…ああ、うん…。卒業祝いなんか別にいらない…。期待もしてなかった」
  なるべく兄の方を見ないようにしながら月人は自身でも驚く程にいじけたような声を出し、目の前の皿に乗っている料理を見つめた。手にしたナイフとフォークは先ほどからちっとも動こうとしない。食欲などなかった。目の前の兄の怖い顔を意識したら何も喉を通らなかったし、そもそも目を合わせたが最後、自分の企みがばれてしまうのではないかという危惧もあった。
  そう、明日の早朝家を出るという計画は決して誰にも知られてはならないのだから。
「…月人。手が止まってるぞ」
「え…」
  そんな月人に太樹が不満そうな声を出した。自らも手を止めて先刻から一向に食事をしようとしない弟に焦れたようになっている。
「全部食べ終わるまでは席を立たせないぞ」
「……食欲がないんだ」
「無理にでも食べろ。明日から予備校通いだぞ。お前は新しい環境へ入ると決まって体調を崩すだろう。そんなんじゃ一日もたない」
「………」
  予備校、という言葉でツキトの表情は一瞬のうちにより一層どんよりと曇った。勿論それを見逃す太樹ではなく、ふっと嘆息するといよいよ手にしていたフォークを乱暴に置き、椅子の背に身体を寄りかからせた。
「何だ。何が不満なんだ。言ってみろ」
「………」
「言いたい事があるならはっきり言えと言ってるんだ」
「言っても…っ」
  兄の横柄な言い様にツキトもついカッとなり、初めて顔を上げた。
「言っても、意味ないじゃないか…。兄さんは…僕の願いなんか聞いてくれないんだから」
「願いっていうのはあれか。ラクガキ遊びがしたいって事か?」
「遊びなんかじゃ…」
「ああ、いいさ。描けばいい。俺の言う大学に受かったらな。そうしたら、趣味の範囲でやるくらいなら俺もいちいち口出しはしない」
「……っ」
  兄は全然分かっていない。否、分かろうともしていないのだ。月人は抵抗する気力を失い、口を閉ざすと立ち上がった。
「月人」
「ごちそうさま」
「まだ残っているだろうが。座れ」
「要らない」
「座れ」
「………」
  きつく言われて月人はぐっと怯んで顔を赤くした。悔しいという感情はあるものの、やはり逆らえない。いつでもそうだった。太樹に厳しく見据えられ凛とした声を出されると、月人は決まって従順なロボットのようにぴたりと動きを止めて大人しくなるのだ。
  怖かったのかもしれない。兄だというのに、ずっと一緒に暮らしてきた人だというのに、月人は太樹が怖かったのだ。
「………兄さん」
  泣きそうな声になりながら縋るように呼んだが、太樹はそれでも許さなかった。「座れ」ともう一度命令すると、もう繰り返さないという風に黙りこむ。
「……はい」
  それで月人は結局食卓から逃げる事が出来なかった。
  胸のむかつきを覚えながら必死に食べ物を口に運ぶ。時に嘔吐しそうなほど追い詰められながら、それでも月人は目の前の兄を意識しながら黙々と食事を続けた。
  だからデザートにと用意されていた普段は好物のはずの有名店のプリンも、正直どんな味だったかは分からなかった。
  あと少しの辛抱だ。明日になれば、この生活からは解放される。
  自分は勿論…兄の太樹も自由になれるのだ。





「な、何で…」
  けれど計画はものの見事に失敗した。
「どうして…」
  早朝、誰にも見つからずに家を出たつもりだった。事前に用意していた最小の荷物を手にし、始発の電車が出る駅へと月人は走った。振り返ったら決意が鈍りそうだったし、万が一兄が追いかけてきたらと急く気持ちもあった。だから警戒に警戒を重ねつつ、猛烈な勢いで全力で駅まで駆けたのだ。
  それなのに、電車が駅に入る寸前、だ。
  「兄から逃げおおせた」と、そう思った瞬間だった。
「なっ…!?」
  背後から伸びてきた手にがつりと腕を掴まれ、その瞬間月人の中では何もかもが止まった。
  振り返らずとも分かる。兄の太樹が今まさに旅立とうとする月人の腕を取り、それを阻止したのだ。
「どうして…」
「………」
「兄さん、何で…」
「帰るぞ」
  掠れた声を出す月人に太樹はそれだけを言った。絶望する弟を映したその瞳には何の感情も見えなかった。
  そうして自ら運転してきた車に月人を乗せて自宅へ帰る時も、太樹は一言も口をきかなかったのである。





  あれから一ヶ月。結局月人は何も変わる事が出来ていない。
「……ねえ支倉さん。もう迎えに来てくれなくても大丈夫だから」
  予備校の前の通りにいつものように停車しているビーエムは、現在同じ予備校生たち(特に女子の間)ですっかり話題となっている。決まった時刻に月人を迎えに来る支倉はそんな月人や周囲の噂にもまるで動じる事がないが、当の月人にしてみればこう毎日自宅と予備校の間を送り迎えしてもらっては気が滅入ってしまう。帰りに寄り道したいと言っても支倉付き、たまに夕飯を外で取りたいと言っても兄の許可付き(支倉同伴)…では、一人になれるのは部屋に篭もっている時くらいだ。
「社長命令ですから」
  支倉は淡々とした感情の見えない声でそう言い、夜の公道で愛車を走らせていた。
  月人の予備校授業の終了時刻は曜日によっても差があるが、大体は22時近くになる。支倉が己の仕事外でこの任務を引き受けているのは目に見えて明らかだった。
「こんなの公私混同じゃないか。支倉さんは兄さんの秘書であって僕の子守じゃないんだから。大体、こんな風に監視されなくたって、もう……」
  わざと車窓に視線をずらして月人は一旦は言葉を止めた。
  けれどもしんとなる車内の沈黙を埋めるようにすぐ後を継ぐ。
「もう、家出するつもりなんてないから」
「………」
「無駄だって分かったから。そんな事しても兄さんからは逃げられないって」
「……月人様」
「いいよ、もう。適当に勉強して…適当に入れる大学に行って…。兄さんはそれで満足なんだよ。僕の事なんて本当はどうだっていいんだ。あの人は体裁だけが大事なんだから」
「月人様」
  自棄になったような月人の発言に支倉が初めて止めるような口調を発した。
  それでも月人はいじけたようにそんな支倉から視線を反らしたまま、あからさまため息をついて見せた。優しい支倉に甘えている事は十二分に分かっていたが、誰かに当たらずにはいられなかった。
  それくらい、息の詰まる毎日。
  実際、怒りのまま口に出したそれに偽りはなかった。兄はいつでも「お前の為を想って」と言いながら、結局は自分の思うがままに弟を縛ろうとする。操ろうとしている。あれほど描きたいと訴えた絵も完全に封印状態だ。絵筆や油絵の具は外の温室に追いやられてそこには鍵が掛けられた。絵の描けない右手は時々癇癪を起こしたようにびりりと痺れる。
  それでも逆らえない。逃げ出せない。
  月人は重くなる胸を引きずったまま、支倉が運転する車の中で再度大きなため息をついた。

  自宅では兄の太樹が既に帰宅していて、どうやら自室で仕事をしているようだった。

  使用人の典子は帰った後だ。姉の陽子はよく分からないが、こう静かだとどうせいないのだろうなというのは分かった。
「兄さん」
  月人は階下で手洗いとうがいを済ませた後、その太樹の部屋をノックした。嫌だと思っているくせに、もう大嫌いだと思っているくせに、こうして太樹の顔色を伺う事を月人はやめられない。「入れ」という声と共に扉を開くと、そこにはいつもの広くて大きな背中が視界に入った。
「ただいま」
「ああ」
  太樹は月人の声にすぐ振り返ろうとしなかったが、何か一段落ついたのか、暫くしてからようやくくるりとイスごと振り返ってきて月人の顔を見やった。愚かな弟は未だ着替えも済ませず予備校の鞄を持ったままだ。その格好を一瞥してから太樹は黙ってすっと片手を差し出した。
「見せるものがあるんだろう。さっさと出せ」
「……うん」
  前回受けた初めての定例模試の結果が返ってきたのだ。月人はのろのろとした動作でそれを鞄から取り出すと黙って太樹に渡した。
「………」
  嫌な沈黙だ。
  月人は兄の前に力なく突っ立ったまま、早くこの状況が終わらないかと必死に念じた。
「月人」
  やがて太樹が顔を上げ、呆れたような心底失望したような声を出した。
  月人の身体はそれだけでびくりと震え、顔は真っ青になった。
「お前はこの一ヶ月間、一体何をやってたんだ?」
「何って…」
「今、何月だ? もうすぐ五月だぞ。この時期、お前みたいな浪人は現役より点が取れて当たり前なんだ。それが…何だこれは? 一つもまともな偏差値出せてないじゃないか。特に数学は何の冗談だ? 試験の時、居眠りでもしてたのか?」
「そんな言い方しなくてもいいじゃないか…。ちゃんとやったよ。分からなかったんだ。数学はセンター試験が終わってから手をつけてなかったし、ちょっと忘れてて…」
「言い訳はいい」
  ぴしゃりと叩きつけるように言ってから、太樹は模試の結果が書かれた紙をその場にひらりと投げ捨てた。
  月人はそれを追うように視線を下に落とし、ぐっと唇を噛んだ。
  兄がこんな結果で満足するとは勿論思っていなかったけれど、国語だけは校内でも30位以内につけていて、全国偏差値も高かった。そこくらいは誉めてくれても良いじゃないかと思った。
「月人」
  心の中だけでぶつくさと文句を言っていると鋭く呼ばれ、ぎくりとして顔を上げた先には、依然として冷たい双眸を宿している兄がいた。
「………」
  思わず逃げ出したくなる。兄の事は尊敬している。昔は大好きだった。けれど、だからこそ。
  この人から「どうしようもない、バカな弟」と思われている事には耐えられない。
「月人」
  そんな想いの月人には構わず、太樹は淡々として言った。 
「一度、今の自分の勉強法を誰かに再確認してもらえ。あの予備校は担任制を取っていただろ。担当の先生に相談してこい」
「………無理だよ」
「何故だ?」
「先生いつも忙しそうだし…。相談しに行ってる人いっぱいいるから…」
「バカか? お前も生徒の一人だ。お前が相談したい事があると言いに行けば、時間なんか向こうで幾らでも都合つけてくるさ。それが仕事なんだからな」
「………」
「まだ何かあるのか?」
「兄さんが…」
  教えてくれればいいじゃないかと言いそうになり、月人は慌てて口を閉ざした。
  バカバカしい、甘えるなと言われるのが関の山だ。
「………」
  けれどもこんな風に互いがギスギスする前、折に触れ塾や家庭教師を頼むかと言う太樹に月人はいつも首を振って「兄さんに教えてもらいたい」と甘えたものだ。実際太樹につきっきりで見てもらう方が張り切れたし、理解も早かった。もともと家族の中で兄にしか縋れないという背景もあったが、その頃の月人はその事をむしろ幸運に感じていたくらいだ。
  兄と一緒にいられる時間が好きだったから。
「何だ、月人」
「………」
  それが今はこんなにも辛い。
  月人は緩く首を振り、「何でもない」と呟いた。そして下に落ちた模試結果を拾うと、月人はくるりと踵を返した。
「何処へ行く。まだ話は済んでないぞ」
「……先生に相談するよ。模試も次は頑張る。それでいいでしょ」
「何だそのいじけた態度は」
「別に…っ」
「月人」
「何でもないっ!!」
  むっとして月人は初めて声を荒げた。そしてキッとした目を向けると、去り際それこそ自棄気味に尖った声を上げた。
「兄さんは僕の事が嫌いなんだろっ。だからそんな風に意地悪ばっかり言うんだ! だったら…もう全部放っておいてくれればいいじゃないか!」
「月人」
「嫌いだ!」
「……月人!」
「兄さんなんか大っ嫌いだ!」
  国語の成績を誉めて欲しかった。
  駄目なところは兄から教えてもらいたかった。
  もっと話を聞いてもらいたかった。
  そんな鬱憤がいきなり全身から湧き上がってその勢いのまま放出してしまった感じだ。月人は背後でガバリと立ち上がった太樹の気配を感じながらも急いで自室に飛び込んだ。ベッドにもぐりこみ、怯えたように布団を被って目を瞑る。兄が追ってきて物凄く怒ってきたらどうしようなどと、今さらながらその考えに身体が震えたが、結局その後太樹が月人の部屋にやってくる事はなかった。
  それに安堵する反面、どこかがっかりした気持ちを抱いた事に、月人は自身で気づいてはいなかった。


  それから数日間、太樹は月人と口をきこうとしなかった。


「月人、アンタはまたなの?」
  朝食の席で姉の陽子が呆れたようにそう言ったが、月人は何とも答える事が出来なかった。
  一足先に家を出た兄のいない朝、その食卓には姉の陽子と月人、それに傍に控えている典子の3人しかいない。
  そんな中、陽子はほとほとウンザリしたようになりながら軽く肩を竦めた。
「嫌なのよねえ、アンタが太樹兄さんに無視されている間って、こっちにも思いっきりとばっちりがくるから。兄さんずっと不機嫌だし、アンタはアンタでこの世の終わりみたいな死にそうな顔してるし。だったら喧嘩なんかしなけりゃいいのに」
「……喧嘩なんかじゃないよ」
「なら何よ?」
「兄さんが一方的に僕を無視してるだけだ。僕は…」
「何言ってるのよ」
  フンと鼻を鳴らし、陽子は嘲るような目をした後おもむろに立ち上がった。あんたらの相手はしていられないというような見捨てた態度だったが、それでも太樹から「とばっちり」がきている事は本当なのか、いつでも傲岸不遜な女王はもう一度くるりと振り返ると気弱な弟をじろりと一瞥した。
「あのお兄様はね、アンタが望みさえすれば、いつでも口なんてきいてくれるわよ。そりゃもうアッサリとね。何てったってアンタが一番なんだから、兄さんは」
「嘘だよ…」
「何が嘘よ。アンタが望めば、あのお兄様は24時間アンタの事だけ考えて生きてくれるわよ、きっとね」
「嘘だよ!」
  あの仕事人間の兄がそんな風になるわけがない。大体自分にはそんな価値もない。
「嘘だっ」
  月人がムキになって声を荒げると、陽子はいよいよウンザリしたようになって首を振った。
「嘘だと思うならさっさとごめんなさいして話しかけてごらんなさいな。途端に優しくなってくれるんだから。あーあ、やってらんないわ、ホント」
「何で僕が謝らなくちゃならないんだよ!」
「知らないわよ。でも無視されるような事は言ったんでしょ? だったら謝っちゃえば楽だって事。あんたもそんな苦しまなくて済むし」
「苦しむ…」
「またご飯食べてないし。典子も泣いちゃうわよ」
  ねえ?と傍にいる典子に目配せした後、陽子は颯爽と部屋を出て行った。慌ててそんな陽子の後を追いかけた典子は、しかし彼女の言う通りまた一段と食の細くなった月人を心配しているのか、ちらと泣き出しそうな顔を見せた後、同じくバタバタと部屋を出て行った。
「…何で僕が…」
  ごめんなさいといえば優しくしてもらえるわよ。
  姉の言葉が頭を何度も行き来する。
  月人はズキリとする胸を抱えたまま、もう手を動かす気もないフォークをぎゅっと握り締めた。





  その夜は太樹の帰りは遅く、陽子は帰ってこないという連絡を受けていた。
  月人は広い屋敷でたった一人、自室で丸くなって無理矢理目を閉じていた。もう午前を回る時間だが兄はまだ帰ってこない。幼い頃のこんな夜は必ず家政婦がいてくれたが、それでも心細かった事を思い出す。さすがに今は広い屋敷に一人だからと言って怖いとか寂しいとかいう感情を抱く事はないが、成長したからこそ生まれるある種の孤独感は、こんな日にこそより大きくなって細い身体を締め付けた。
  兄が帰ってきたのは月人がその苦痛と格闘し始めてから二時間程が経過してからだ。
  冴え渡った耳が階下で扉の開く音を聞きつけると、月人ははっと目を開いて部屋を出て行こうかどうしようか考えた。
  それでも兄とはずっと口をきいていない身だ。やはり動けず結局はベッドにくるまったままでいると、やがて兄の階段を上りこちらに来る気配が感じられた。月人がそれにびくっとして慌てて再び目を閉じると、同時ガチャリと静かにドアの開く音がして、太樹が部屋に入ってきたのが分かった。
「………」
  足音はすぐ傍にまで来て、そしてベッドの所で止まった。顔を覗きこまれているのが伝う空気の流れで何となく分かり、月人はもう寝たフリが出来なくなってぱちりと目を開いた。
「あ…」
  太樹は月人が眠っていないのが分かっていたようだ。別段驚く顔も見せず、ただ黙って身体を屈めると月人の額に片手を当てた。その突然の所作がしかしとても優しくて、月人はほっとしたようになりながら身体から力を抜いた。
「お帰りなさい…」
「ああ」
  太樹は短く相槌を打ちながら月人の前髪をさらりと撫でた。良かった、口をきいてくれていると思い、月人はいよいよ安堵した。
「遅かったね」
「……眠れないのか」
「うん」
「なら勉強でもしてろ。もうすぐ次の定例だろ」
「………」
  途端いつもの厳しい口調がやってきて月人は思わず苦笑した。結局兄は変わらないのだなと思うと、何だか何もかもがどうでも良くなってくる。
  それにこの手がこんなにも優しい。ならば少なくとも今は本当に何がどうでもいいじゃないか、そんな気がした。
  だから月人は姉の助言を素直に受け入れる気になった。
「太樹兄さん…」
「何だ」
「ごめんなさい…」
「………」
「この間…生意気言って、ごめんなさい…」
「………」
「兄さんの事、嫌いって言ったことも」
  ぴたりと手が止まり、月人はそれを意識しながらも尚口を開いた。
「そんなの本気じゃないからね…」
「……ああ」
「嫌いじゃないからね」
「分かっている」
「兄さんは…」
  自分の事が嫌いなのかと訊こうとして、けれど月人は口を閉ざした。それを確認するのはやはり怖い。今まで兄の期待に沿った事をしてきた覚えがない。毎度失望させ、怒らせて、こんな弟などいらない、好きなわけがないだろうと言われたら、きっと自分は立ち直れないだろうから。
  それで月人はそれを確認するのを放棄し、代わりに無理に笑って見せた。
「良かった。兄さんが口きいてくれて」
  それだけで十分だ。
  結局どんなに酷い事をされ、理不尽な仕打ちを受けても自分はこの兄を嫌う事など出来はしないのだ。月人はそう改めて思い、すっと目を閉じた。太樹の温かい手のひらの感触にただただ安心する気持ちだけがあった。
「月人」
  けれどその直後、不意に唇に太樹の吐息が掛かるのを感じて月人は目を開いた。
「え……んっ!」
  刹那、重なった唇にその目を大きく見開く。
「ん…んんっ」
  何が起きたのか、さっぱり分からなかった。




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