ノータイトル


  ―1―




「可哀想だからもうやめなって」
  内勤の女子社員がそう言って苦笑する声がドア越しに聞こえてきて、外から帰ってきたばかりの中原は首をかしげながら事務室のドアを開けた。
「な……」
  そしてその光景を見るなりフリーズした。
「おっ、兄貴のお帰りだぜ。良かったなあ、ボクちん?」
「ホントホント。このままじゃ、石化したままここで銅像になっちゃうとこだったもんな」
「中原さん、お帰りなさい」
「………お前ら」
  自分を一斉に出迎える視線には一瞥もくれず、中原は扉を開いてすぐ目に飛び込んできた「その少年」の存在に目を見張った。人間、いるはずのないモノが突然目の前に現れると、時としてこういった金縛り状態になるものなのか。…もっともそれもほんの3秒ほどの事で、すぐにハッと我に返った中原は一度だけ頭を振るとすぐにいつもの怒声を上げた。
「お前ら、コイツに何したんだッ!?」
  ツカツカと歩み寄って、その「コイツ」もすぐに奪還する。その行動たるやまさに光の速さで、折角の玩具を取り上げられた同僚たちは中原のその勢いに暫し唖然とした。
「おいおい…、何したってなぁ、何だよ?」
「何もしてねえって。なあ?」
「そうそ。ただ可愛がってただけだって」
「可愛…っ。トモ、来い!」
「あ…っ」
  既に腕を引っ張り自分の元へ引き寄せていたが、同僚のどことなくニヤついた発言を受けた中原は更に「それ」を己の背後へと隠した。
  友之と呼ばれる、自分にとっては弟に近い存在を。
「あー、トモちん、見えなくなっちゃったよ〜」
  それにすかさず残念そうな声を上げたのは、中原が事務所へ入ってきた時に一番友之を抱きかかえて放さなかった男だ。すかさずジロリと殺気だった視線を向け、中原は尚も強く背後に追いやった友之の手首を握りしめた。
  中原に怒鳴られ睨み据えられた男たちは計3名。中原と同じ配送ドライバーで、20〜30代の仕事仲間である。スタッフの入れ替わり激しい中原の職場では、年が若くとも勤務年数は年配の職員より上という事がままあり、この時もこの中では中原が一番の古株だった。…もっとも、この場合相手が仕事上の先輩だろうが直属の上司だろうが、中原にはあまり関係がなかったかもしれないが。
  何しろ彼らは自分がいない間、この友之に明らかな「セクハラ」行為を働いていたのだから。一見しただけだが、その証拠は明らかである。傍にいた女子社員が遠慮がちに嗜めていた声を聞いたというだけでなく、実際に見たのだ。一人は友之の頬を気持ち良さそうに触っていたし、一人は腿に触っていたし、一人は何と膝の上に乗せていたのである。
「…トモ。お前、何だってこんな所にいるんだ」
  しかし中原は同僚を糾弾するよりも先に背後の友之にそう訊いた。友之が自分の職場へ来るなど勿論初めてだし、第一コイツがここへ来なければこんな事にはならずに済んだのだ。
「また鍵でも忘れたのか」
「あ…ちが……」
「おいおい中ちゃん、こんな所って事はないだろー?」
「そうだよ。仮にも俺らの神聖な職場でさあ」
  未だ椅子にふんぞり返ったまま、一向に働く気配の見せない同僚たちがからからと軽い笑声を立てた。しかもそのうちの一人などは未だ未練がましく中原の後ろにいる友之が見えないかと首を大きく揺らしている。
「しっかしなあ!」
  やがて同僚の一人が大声で言った。
「中ちゃんにこんな可愛い弟がいるなんて全然知らなかったぜ。何で教えてくんなかったわけ? いや〜、もうやーらかいの、太ももが。二の腕が。久々に柔肌に触ったカンジー!」
「ぎゃははは、コイツ最近ご無沙汰だからなぁ。可愛い少年でも盛っちゃうわけよね」
「煩ェなあ。お前らだってお触りしてたくせにぃ」
「だってトモちん可愛いんだもん!」
「トモちゃーん、出てきてよー。顔見たいよー」
「……っ」
  呼ばれてびくんと身体を震わせる友之に対し、中原の方は既に血管の切れる一歩手前だ。自分の着ているジャンパーの布地を友之がぎゅっと縋っている事も背中ごしによく伝わってきた分、ここでこの「弟」が奴らにやられたであろう戯れがどれほど恐ろしかっただろうと思うのだ。
「お前ら……」
  けれど中原がどうしてくれようと押し殺した声を発した時だった。
  相手のそんな怒りに全く気づいていないような一人が能天気に言った。
「それにしても兄貴想いだよね、トモちゃん。わざわざお弁当持ってきてくれるなんてさ。あー羨ましい!」
「弁当だ…?」
  思わず呟き眉をひそめる中原に、今度は彼らの傍にいた女子社員が補足した。
「裕子さんって人と作ったのを持ってきたって言ってたけど? 中原さん、裕子さんてどなたですか? もしかして彼女?」
「あ…? 別に関係ねえよ…」
  聞き慣れた幼馴染の名前が出た事で中原は素早く頭を巡らせたが、それを邪魔したのは勿論同僚三人組だ。途端やんややんやとはやし立てる。
「はっはは、うそうそ、彼女っしょ〜? 中ちゃん、そういうの全然隠して教えてくれないんだもんなあ。大方、彼女、自分で持ってくるのが恥ずかしかったから弟君に頼んだんじゃない? ねえトモちん?」
「トモちんがこれまた全然事情を教えてくれないからさ〜。つか、全っ然喋らないから。そんで俺らも困ってたわけだよ」
「何かすっかり怯えちゃったしねえ」
「お前らの顔が怖ェからだよ!」
  元々剛毅なここの社長のテンションについてこられる人間は、自分同様短気で喧嘩っ早い者が多かった。今でこそ大人しく真面目に勤労しているものの、昔ながらに染み付いた荒っぽい雰囲気はどうにも消す事はできない。
  自分の存在で慣れているとはいえ、大柄で髭面で図々しいコイツらに絡まれては友之もさぞ萎縮した事だろう。喋れなくて当然だ。

  だから何でこんな所に来たんだって話なんだよ、クソッ!

「……行くぞ」
  自分の職場をまた「こんな所」扱いにした中原は、友之の手を引いたまま帰ってきたばかりの事務所を後にした。勿論同僚たちは引きとめたが、「早退」と言いおいて乱暴にドアを閉める。とにかく一刻も早く友之を彼らの見えない所まで連れ出したかった。
「それにしてもなあ」
  去り際に聞こえた同僚のからかう声が中原の耳に木霊する。
「何ていうの、いじりたい顔っての? むっちゃくちゃ苛めてやりたいタイプ!」





  その帰り道。
「トモ、お前ちゃんと説明しろ! だんまりは許ささねェからな!」
  自転車を漕ぎながら中原は尚怒りが鎮まらないという風に友之に荒っぽい声をあげた。
  事務所を出てきてから友之は一言も発しない。中原が怒っている事に途惑っている事は明らかだが、それにしても一切の声がない事は心配だった。
  あのバカたちに何か…触られる以外の事はされていないだろうか。
「おいトモ。聞いてんのか!」
「……っ」
「あ?」
「うん…」
「何が『うん』だよ!?」
「き、聞こえて、る…」
「!」
  瞬間、こちらにしがみついてくる腕にぎゅっと力が込められた気がして、中原はごくりと息を呑んだ。やばい、こういう時の友之は泣いてしまう可能性が大だ。まずは落ち着こうと、中原はペダルを漕ぐ足にだけ神経を集中させながら、頭に上った血を何とか諌めようと努めた。
  努めて静かに、静かに静かに。
「……弁当って何の事だ? 裕子と作ったってのは」
「うん…」
  効果は早速テキメンだった。友之はゆっくりとだが口を開き始めた。
「今日、コウが帰ってこないから、裕子さんが夕飯を作ってくれるって言って…。自分でやるからって言ったんだけど、やりたいからって…。それで、凄くたくさん…また…裕子さん、買い物好きだから」
「……何となく分かった」
  幼馴染の裕子は自分同様、友之への想い入れは相当である。しかし、普段は日常生活のあらゆる事を隙無くそつなくこなす光一郎がいるせいで、彼女が友之にしてやれる事は少ない。
  が、こうやってたまに自分が介入できる日があると、裕子はいつも嬉々として必要以上の買い出しをし、冷蔵庫に入りきらない程の食材を友之たちのアパートに散乱させて光一郎のため息を買うわけだ。
  恐らくは今回もそれの度が過ぎたという事だろう。余りモノのお鉢が回ってきたというわけか。
「俺の他にも誰かに配ったのか」
「うん。チームの人たちの家を裕子さんが回ってる。十人分くらい作ったから」
「どんだけ余らせてんだあいつは…ったく」
「でも、凄く美味しそうだよ」
  中原の自転車のハンドルに掛けられた紙袋は、慌てて事務所を出て来た時も友之が決して手放さなかったものだ。二人前入ったそれは、恐らく中原と一緒に食べようと友之が自分の分も持ってきたものに違いない。
  それにしたって、何も職場にまで持ってこなくても良いではないか。
「何で来たんだよ」
  当然の疑問を中原は投げ掛けた。
「あんなおっかねえ所、お前絶対来たくなかったろ。裕子が行けって言ったわけでもあるまいし…。俺んちで待ってりゃ良かったじゃねえか。鍵のありか、忘れたか」
  中原は北川兄弟にだけ合鍵の隠し場所を教えている。
  定番にアパート内の敷地にある植木鉢の下に隠しているのだが、これも殆どは友之の為に用意していると言って相違ない。友之が中原の所へ来る事は滅多にないが、それでも何かあった時にと、第二の兄である彼の心配は尽きない。もともと盗まれる物があるわけでもないし、友之が毎日首にかけて持っているというのなら、中原としては本当は直接手渡してもいいくらいなのだ。
  しかし友之はきっと受け取らないだろう。自分の事は小煩い兄の親友くらいにしか思っていないのだろうから。
「鍵…知ってたけど」
  そんな事をつらつらと考えている中原に友之がようやっと言った。もうすぐ中原のアパートに帰り着く頃だ。
「見てみたかったんだ…」
「何を?」
「正兄の…仕事場」
「あ…?」
  何故、という事を訊く前に自転車は遂に目的地に達してしまった。
「………」
  深く突っ込む機会を何となく逸してしまい、中原は仕方なくそこでその話題を中断させた。





  光一郎と裕子に今夜は自分の所へ友之を泊めるという電話をした後、中原はこういう時に限って数馬のバカが突然来たりするんだよなと思いながら、念力を込めつつ扉の鍵を2つ掛けた。
「正兄…出た」
「ああ…」
  先に風呂を使えと言えば遠慮しながらも言う事をきく。飲み物は自分で用意しろと言えば「正兄は何にする」とこちらの希望を訊いてそれを先に用意する。光一郎に躾られたせいだろうか、最近の友之は口数こそ少ないが、行動自体はやや早く機敏になったと中原は心内で思わずしみじみとした。
  中原は中学時代の友之を思い返す度、否、それよりももっと前の友之を思い出す度に胸の奥がちりちりと焼かれる思いを味わう。幼馴染と言っても、友之は裕子や光一郎の妹である夕実の背後に隠れてばかりで、自分の事は怯えたように遠目で見ているだけだった。母親が死に、夕実が消えてから一時期はもっと酷くて、完全に家の中に閉じこもったと思えば光一郎にすら心を開かず、憎たらしい事に修司としかまともに話をしていなかった。
  自分はその時、この友之に何も出来なかった。
  ただイライラした感情をそのまま友之にぶつけ、そして怖がらせただけだ。
  傷つけただけ。
  自分なりに心配する気持ちがあり、気に掛かる気持ちがあり、何とかしてやりたいと思っていた事も事実なのだけれど、それでも中原はあの頃の友之の事が「好き」ではなかったし、それ以上に腹立たしいと思っていた。

  それも恐らくは、「嫌われている」と感じていたからだ。

  自分はこんなに気にしているのに、向こうは自分を嫌っている。
  その想いが中原をどうしようもなく乱暴にさせたし、それで余計に友之に嫌われるきっかけを作った。お互いの関係はただただ悪循環だった。
「正兄、ビールついだ」
「ん…ああ…」
  それが今は少しずつだけれど、風向きが変わってきている。
  友之はこうして自分の部屋に一人で入る事も厭わないし、こうしてビールをつぐ事だってできる。一緒に食事を取る事だって出来るようになったのだ。
  「嫌われている」という感覚は、少なくとももう中原の中にはない。
  実際友之がこちらをどう思っているかは分からないが。
「トモ」
「……?」
  静寂が嫌で中原は何となくテレビをつけていたのだが、その時友之はそちらに目をやっていた……が、呼ばれると分かるとすぐに首を向けて手にしていた食事の動きも止めた。
  不思議そうに見つめてくるその瞳に何となく気圧される。
「お前」
  それを誤魔化すように中原はビールを勢いよくあおった後、さり気なくテレビに目をやりつつ訊いた。
「夏休みの宿題、終わったのか」
「……ううん。あとちょっと」
「何が終わってねえの」
「英長文の訳が少しと、あと英文法の問題集」
「………」
  そんなのは自分は手伝ってやれないなと何となく思いながら、それでも中原は尚突っ込んで訊いた。
  こんな会話どうでも良いと思いながら。
「難しいのか」
「ちょっと」
「学校の勉強ってついていけてんのかよ」
「……時々難しい。でも、学校の友達もコウも教えてくれるから」
「ふうん」
「数馬はなるべく自分でしなさいって言うけど」
「んだよあいつ。偉そうなのな」
  そう言った時の後輩の顔が中原にも容易に思い浮かび、また妙にむかっ腹の立つ思いがした。友之に偉そうに講釈を垂れて随分と苛めてもいるようなのに、何故か友之があの生意気な後輩を慕っているのを知っている。だから余計に癪に障った。
「トモは勉強好きか」
「え?」
  またどうでもいいなと思いながら中原は口を動かした。
  友之と話したいと思っていたのかもしれない。
「俺は学校の勉強を楽しいと思った事は1回もねえからな。何だろうな、テストが嫌いだったな、まず。あー…テストっていうかな、あれの為に必死こいて、ダチのこと出し抜いて蹴落としてでも良い成績取ろうって奴が多かったのがむかついたな。まるで内申良くなきゃ人生終わりだ、みたいなよ。それを助長する教師連中もバカだろって思ってたし」
「………」
「まあ実際、そうなんだろうけどな。今のご時世、大学くらい出てないと、みたいなとこあるからよ。けど俺は、何かそういうのはむかついたんだよな」
「正兄も修兄も大学行ってない」
「だから俺らバカだろ?」
  ハッと笑ってから、中原はこちらをじっと見つめている友之を自分も見返した。
「お前は、だからそれなりに勉強してよ、大学くらい行っておけよ。別に光一郎みたいに一流どこじゃなくてもいいから」
「……正兄も修兄もバカじゃないよ」
「ん……」
「バカじゃない」
「……何ムキになってんだよ」
  珍しく早口できっぱりと言う友之に中原は目を見張った。自分は大した事のない、愚にもつかない「世間話」をしているだけだ。それなのに、こちらの言った何かで友之は明らかに気分を害したような…いや、悲しそうな顔をしている。
  一体何だというのだ。
「コウもいつも言ってる」
  友之が言った。
「正兄も修兄も、2人とも凄く頭いいって。自分はバカだけど、2人は凄いって」
「……何だそりゃ」
「同じ大学にはびっくりするくらいのバカがいて…、そういう人を見る度に、学校の勉強が出来るって事は、本当に頭がいいって意味とは違うと思うって」
「………」
「あ…僕のこの説明、分かる…?」
「分かんねえ」
  つくずく光一郎は「デキた」人間だと思いながら、中原はとりあえず友之には冷たくしらばっくれて見せた。何やら猛烈に照れくさい気持ちがしたし、そんな話は苦手だった。親友がそうやって自分を陰で評価してくれていることにどうしようもなく嬉しいし誇りも感じるし、また一方で。
  酷い罪悪感も抱いてしまう。


  光一郎。俺はお前が考えているようなまっとうな奴じゃねェんだよ。


「…弁当、美味いな」
  誤魔化すようにそう言うと、友之は嬉しそうにふわっと笑った。そうして「うん」と頷くと、再び食事を再開させる。
  そんな友之の仕草を見ながら中原はまた胸の奥がちりっとした。
  ああ、それはやばい。その笑顔は。
「………」
  多少の眩暈を感じながら、中原はそちらを努めて見ないようにして再びビールを煽った。



To be continued…




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