(1)



  雪也は何も覚えていないけれど。



  桜も満開の4月。
  その日は新しいスタートを切る日としてふさわしい晴れ晴れとした陽気だった。涼一は真新しいスーツを身に纏い、大学の入学式の会場近くで手にした携帯電話に目を落としていた。周囲は振袖や涼一と同じスーツ姿の学生で賑わっている。
「あのバカ、初日から何やってんだ…」
  涼一は中学の時からの同級・藤堂と式場の近くで待ち合わせをしていた。が、その時間になってもその友人の姿が見えないので、涼一はメールで「先に行く」という一言だけを送ってから、一人喧騒とした会場の周辺を歩き始めた。まだ式の時間には早い。附属高校からの持ち上がり進学とは言え、校舎の建つ場所は違う。高校とは段違いに規模の違う広い構内に、涼一は少しだけ心が躍るのを感じていた。
  解放された気分。
  少なくともこれからの4年間は好きな事をして過ごせる。父親の言う事を守り、勉強もスポーツも高校ではずっとトップだった。口煩い両親や親戚連中には特に逆らう事もなく平穏に真面目な態度を通してきたけれど。そしてそれは大学を卒業した後また繰り返される事なのだろうけれど。
  とりあえず今は。

「好きな事してやるぞっ」
  まだ見ぬ新しい生活に、涼一は希望と期待でいっぱいだった。
「ん……?」
  その時、会場の裏手にある石造りの壁に寄りかかって、青年が1人でぽつんと立ち尽くしているのが目に入った。散策気分で歩いて来た涼一が通りかかったくらいだから、全く人が来ない所というわけではない。けれど新入生が来るような場所でもないらしい。ちらほらと見える人通りの中で、それらしき姿はその青年と涼一の他に見受けられなかった。
  それでも青年が涼一と同じ新1年だろうという事は、新しいスーツをぎこちなく着こなしているところから容易に見て取れた。

  黒い髪が穏やかな風に少しだけさらさらと揺れている。
  誰かを待っているのだろうか、それともあまりの大人数に疲れてここへ来たのか、青年は涼一が見ている事にも気づかずにただ壁に寄りかかり、何かを見ていた。だから涼一もその青年の視線の先へと何となく目を移した。
「ああ……桜か」
  青年が眺めていたのは、目の前にどんとそびえ立つ大きな桜の木で、枝からはこぼれんばかりの桃色のそれがぎっしりと花をつけてそこにあった。さわさわとそよぐ風に揺れて、枝は少し重そうではあったが、なるほどその木は表に立ち並ぶ桜並木のそれよりも立派なものに見えた。
  涼一はそれを見た後、すぐにその青年の傍に近づいていった。
「何してんの?」
  見知らぬ人間に気さくに話しかけるのはいつもの事だった。涼一はそういう事に何ら抵抗がない。警戒心がないというわけではないけれど、元々が人見知りをしない性格だから1人きりの青年には尚更話しかけやすかった。
「え……」
  それでも当然というかで、いきなり現れ声をかけてきた涼一に、青年の方は途惑ったようだった。
「何って……」
「新入生だろ? 式、もうすぐ始まるぜ?」
「あ……うん……」
「?」
  涼一の問いかけに、青年はどうして良いか分からないという感じになり、下を向いた。話したくないのだろうか、瞬時に涼一はそれを悟ったが、それでも顔には出さずに首だけをかしげた。
「誰かと待ち合わせしてんの?」
「………うん、まあ」
「………」
  嘘だな、と何となく思ったけれど、勿論その思いを涼一は口には出さなかった。
 
  まあ、いるよな。こういう、人と群れるのが苦手な奴。


「あのさあ……」

  けれど涼一が更に話しかけようとした時、不意に持っていた携帯が鳴った。藤堂からだった。
「ん…? ああ、分かった。あ、じゃあそこにいろよ。すぐ行くから。あ? ああ、うん。じゃな」
  涼一は携帯を耳に当てながら藤堂に返事を返し、それからすぐに青年を見やった。相手はまだ下を向いていた。
(そんな顔隠すほど不細工なわけでもないのになあ)
  そう思ったが、涼一はとりあえず青年に背を向けると、「じゃあ、先に行くな」と言ってその場を離れた。別れ際ちらと振り返ると、青年はまた顔を上げて桜を見ていた。
「…………変な奴」
  涼一はぽつりとつぶやいた後、1人そのまま友人たちが待つ式場へと急いだ。



To be continued…



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