(14) 「やめなさいって言ったのに結局付き合ってるのね」 美奈子にあっさりと見抜かれてそう言われた時、涼一にはまだ平然と言い返すくらいの余裕があった。彼女は例の如くひどく酔っ払っていたし、またいつもの悪乗りで冗談の過ぎる言葉を吐いているのだろうと思えたから。 だからいつものように軽く笑って、雪也の為に嘘をついた。 「また何を馬鹿なこと言い出してんですか。雪は恋人じゃなくて親友。前にも言ったでしょーが。はい、水」 「もう…せっかくいい男なのに勿体ない…。あの子に捕まっていても良い事ないのよ?」 「しっ。雪に聞こえたらどうするんですか」 階下へ薬を取りに行っている雪也が母親のこんな発言を聞いたらどう思うのか。涼一は寝室で性質悪く荒れる「恋人の母親」を必死になだめながら、ドアの方に視線をやった。 幸い雪也がこちらへ来る様子はまだなかった。 「あーあ。あたしはまたフラれちゃってえ。息子は涼一ちゃんみたいな男をだまくらかしていい目を見てえ」 「何ですかそれ」 幾ら何でも酷すぎるだろ。 段々とむかむかしてくる胃を抑えつけながら、それでも涼一は美奈子に笑顔を向け続け優しく背中をさすってやった。すべては雪也のため。雪也の母親だから我慢する。その思いが常に涼一の心にはあったから。 「………」 すると酔いどれ状態だった美奈子は徐々に静かになっていき、やがてしんと黙り込んだ。ようやく眠る気にでもなったのかと涼一がほっとした矢先、しかしその言葉は突然投げかけられた。 「もし5年経っても気が変わらなかったら……会いに来てもいいって言ってあるの」 「え?」 それはあまりに唐突で、そして欠け過ぎた言葉で。 涼一ははじめ何を言われているのかさっぱり分からなかった。 「だから。あの子の本命よ」 けれど美奈子は涼一の反応を探るようにしながらきっぱりとした口調でそう付け足しをした。そうしてベッド脇にあった煙草に手を伸ばし、カチカチと神経質な手つきでライターを操り火をつけると、何でもない事のように後を続けた。 「前にも話したでしょう、護って幼馴染。あの子の初めての相手なんだけどね、まだ切れてないわけよ。知ってた? まあねえ、大体あの時だってあの子まだ中学生だったし。あたしもさすがに焦ったんで慌てて2人を引き離したんだけど。雪也は本気だったみたいだし、護ちゃんも満更でもないみたいだったからね…あの子が成人して…来年よね、20歳になった時、それでもまだ好きだったら、交際を認めてあげるって約束しているの」 「何の…話なんです?」 さすがに作っていた笑顔が消えた。 涼一は美奈子の嘘なのか本当なのか分からないその話に翻弄されながらも、しかし瞬時に「雪」と初めて呼んだ時の、そして護という幼馴染の話を初めて訊いた時の雪也の表情を思い出していた。 あの時の雪也は。 「あの子、涼一ちゃんにそういう話とかしているの? してないでしょう? 駄目よ、ちゃんとそういう事は訊いておかないと。来年になって突然はいさようなら、なんて、涼一ちゃんだって納得いかないでしょ」 「………だから俺たちは付き合ってるとかじゃないですから」 涼一のくぐもったその台詞に、美奈子ははっと鼻で笑った。 「まあいいわ。そこまで言うならそうなんでしょう。それなら私も安心だしね」 「………」 「でもあの子をよく見てごらん。あの子の目には、誰も映ってやしないんだから。護以外はね…」 美奈子はつまらなそうにそう言ってから、ひどくイライラしたようになって吸っていた煙草の煙をふっと宙に吐き捨てた。 「………」 その夜を境に、涼一は雪也に「同じ質問」を何度となくするようになった。 雪って俺以外の奴とセックスした事あるのか? そいつってどんな奴? その相手のこと、思い出すことってあるか? なあ雪…。 雪……。 「またその質問…?」 当然のことながら、雪也は涼一のその執拗な問いに対し、いつでも戸惑いながら心底嫌そうな顔をした。 「いいじゃん。答えろよ」 「……初めてじゃないよ」 「………」 初めて本人から直接聞いた時はやはりショックだった。雪也が嘘をつかなかった事は、それはそれで嬉しかったけれど。 「付き合ってたの、そいつと?」 「違うよ……」 雪也は思い出したくないような辛そうな顔をしていたけれど、涼一にしてみればその後の事も訊かずにはおれなかった。怖かったけれど、知りたかった。雪也を初めて抱いたという「護」のこと。 「護には彼女がいたし…。同情で一度だけ抱いてもらった…」 消え入りそうな声で雪也はぽつりとそう言った。恥ずかしいのか、それとも後ろめたいのか、雪也はその話をする時はいつでも涼一から目を逸らし、俯いていた。それでも雪也は涼一に、護のことはもう忘れたのだとその話をする度に繰り返していたし、そもそも護は自分のことを何とも想っていなかったのだ、だから引っ越してしまってからは一度も会っていないのだと何度も何度も言ってくれた。 それは本当のことだろうと涼一も思う事ができた。 「……な、雪。俺は雪のこと大好きだから」 だから涼一はその度に雪也にそう言い、そうしてその後はいつも決まって強く抱きしめた。訴えるように、そして確かめるように。 雪也もおとなしくそんな涼一の胸に身体を預けてくれていた。 それでも、来年の雪也の誕生日を思うと、やはり時々は不安になった。 |
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大学の後期試験も終了し、長い春休みを迎えたある日の事だった。その日は3月にしてはやけに日差しも強く、気の早い桜がちらほらと小さな花びらを咲かせていた。 午後5時。涼一は雪也と待ち合わせをしている大学の裏門へと急いでいた。そこは入学式の日に初めて雪也と出会った所で、そこを待ち合わせ場所に指定したのは涼一だった。その日はあまりにサークル活動に顔を出さない2人に、藤堂から「今日こそは飲み会に付き合え」と言う召集令がかかっていた。6時には駅に行かなければならなかったが、雪也が借りていた本を図書館に返すからと一旦大学に行く事を告げてきた為、涼一は自分もそこへ行くからと、その場所で待つように雪也に言っていたのだった。 皆と会う前に人気の少ない所で雪也と会っておきたかった。 「あ」 涼一がそこへ着いた時、雪也はもうその待ち合わせ場所に立っていて、ぼうと前方の桜を見つめていた。 「ゆ――」 涼一は声を掛けながらそんな雪也の所へ行こうとし、しかしぴたりと足を止めた。 「………」 一体何を考えているのだろう。その時、ふとそう思った。 雪也はただ桜を見上げていた。虚ろな目をして、陰鬱気で、とてもこれから行われる仲間たちとの飲み会を楽しみにしている、そういう顔には見えなかった。 それだけではない。 「雪……」 それは恋人である自分と会えるという事を楽しみにしている、そういう顔でもなかった。そんな事は思いたくはなかったが、実際そう感じてしまった。 「………」 思えば雪也は気付けばいつも何事か考えこんでいるようで。 どこか寂しそうで、辛そうで。 それでも自分には「何でもないよ」としか言わないのだ。 「雪」 気を取り直して近づいた時、雪也はすぐにはっとして視線を桜から離した。そうして涼一を認めるとやんわりと静かに笑んできた。その表情にどきりとしたけれど、涼一は顔には出さず、ただ黙って横に並んだ。自分も雪也が見ていた桜に視線をやった。 「……剣?」 様子がおかしい事に気づいたのだろう、雪也が不審な声をあげた。けれど涼一は「ん」と言ったきり何も応えず、やがて淡々とした調子で何気なく口を開いた。 「今、何考えてた?」 「え…今…?」 「俺のこと?」 「あ…え、と……」 絶対違うのだろうなという事はすぐに分かった。悔しくて無理に笑い、そのまま雪也に唇を近づけた。 「ちょ…剣?」 当然のことながら雪也は抵抗の所作を示したが、それで涼一は余計にかっとなった。強引に手首を掴んで逆らうその身体を拘束すると、そのまま顔を寄せて口づけをした。雪也は嫌がって顔を背けようとしたが涼一はそれを許さなかった。 「ん…っ、ん…!」 嫌だと、やめてくれと雪也は身体を揺らす事で涼一に訴えかけ、ようやく解放された時には思い切り眉をひそめて抗議の声をあげた。 「こんな…所で、誰か来たらどうするんだよ…っ」 「何で」 「な…何でって…誰かに見られたら…!」 「そんなこと」 涼一はくだらない、と思いながらふいとそっぽを向いた。 そういえば雪也は自分との事を皆には絶対に知られたくないからと折に触れ言っていた。涼一は以前からそれが不満だったけれど、雪也の頼みだからと受け入れてきた。 けれど今はそれが猛烈に堪らないことのように感じた。 「俺は人の目なんか気にしないよ。だって雪が好きなんだから。すっげえ好きなんだから」 「剣…?」 「……もう時間だな。行こ」 「え…う、うん…」 何となく流されるように雪也は頷いたが、それでもさっさとその場から離れていく涼一には思い切り面食らったようだった。必死に後を追ってくる。涼一は振り返らなかったけれど。 「………」 ひどく胸がざわついていたから。 「剣…待てってば」 雪也の途惑う声が聞こえた。怒っているような自分を気にしているのだろう。それは分かったけれど、突然こんな風に雪也に素っ気無く接するのも良くないと分かっていたけれど、それでもこの時の涼一は自分の中で蠢く黒い感情を止める事ができなかった。 雪也が好きだ。そう思った。 「雪…なあ雪」 けれど。 涼一は自分の後を追う雪也に依然背を向けたまま、相手にも聞こえないのではないかという程の声で呼びかけた。そして言った。 言わずにはおれなかった。 「雪、ちゃんと俺のことも……遠くばかり見るなよ……」 「剣、待てって…!」 雪也には聞こえなかったようだ。尚も必死にこちらを呼び止める声が投げかけられる。それはどことなく遠慮がちな、そしてうろたえたような情けない声で…だからかもしれない、涼一は雪也に対して余計に苛立たしい気持ちを抱いた。 「……何なんだ」 「剣!」 雪也の必死な声。困った声。どうしたら良いか分からないという声。こんな思いをさせている、自分。そして。 あの時の雪也の悲しそうな顔。 あんな表情を何度もされたら、この胸の中で激しく湧き立つものを抑えられる自信がない。 『20歳の誕生日が来たら――』 雪也の母・美奈子が言っていた言葉が甦る。 「……ッ!」 もしその男…護が雪也を迎えに来たとしたら、当の雪也は一体どうするつもりなのだろう。どうなってしまうのだろう。 「剣、どうしたんだよ…。俺…何か…何かした…?」 不安そうな声は尚も背中に響いてきた。振り返りたかった。すぐにでも笑って何でもないと、ごめんと言いたかったけれど、けれど涼一にはできなかった。 どうしたのだろう。 自分でも分からない負の感情が動き出していた。 |
【裏錆―Fin】 |
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