(7)



  自分はこんなに心が狭かっただろうか。もう少し世の中の渡り方というものを心得ていると思っていたが。



「雪也…まだ気持ち悪いか?」
  生暖かい風が吹き荒ぶ中、涼一は雪也と「酔い覚まし」と称して最終電車を使わずに人通りの少ない線路沿いを肩を並べて歩いていた。
「ううん…今は大分いい」
  雪也は少しだけ笑ってみせ、それからまた申し訳なさそうな顔をちらとだけ見せた。
  雨こそ降っていないが湿気の多い夜だった。朝のテレビでは台風が接近していると言っていたから、明日にでも降り出すかもしれない。涼一はそんな事を何ともなしに思いながら、再び隣を歩く雪也を見やった。確かに今は大分顔色も良い。外の空気に当てられて落ち着いたのかもしれないと思った。
  店を出るまでは本当にイライラしていた。どんなに無理をしても、いつもの得意なあの愛想笑いはできないと思った。こんな自分ではなかったはずなのに。





「何でお前まで帰るわけ?」
  涼一の袖を引っ張り、店の入口近くにまで来てから藤堂は心底呆れたような声を出した。ちらと背後に目をやると、何人かの女性陣がちらちらとこちらを気にしたように視線を向けてきている。藤堂はハアと大きくため息をついた。
「何なの、涼一? お前?」
「何が。だって雪也、具合悪くなっちまってんのに、1人で帰すの心配だろ?」
  涼一が平然とそう言うと、藤堂は口をぱくぱくとしながら、けれども声が出ないというように大きな身体をただ横に揺すった。それから既に店を出ている雪也の方に視線をやり、「あいつもそれを望んでいるわけ」とぼそりと訊いた。
「雪也は1人で帰れるって言ってる」
「ならいいだろ! いきなり2人も抜けたらこっちが困るだろーが!」
「でも俺、これ以上こんな所にいたくねーもん」
「んな…っ」
  あまりの我がままな言いようにさすがの藤堂も絶句したが、唯一涼一のこういった一面を以前から知っている親友は、もう一度大きくため息をついた後、諦めたように首を左右に振った。
「分かったよ。もういいよ、帰れ帰れ。俺が好きな子、選び放題だ」
「うん、そうしろ」
「………」
  けれど涼一があっさりとそう言って店を出ようとした刹那、背後から藤堂はもう一度声を掛けた。
「涼一」
「ん?」
「桐野、やっぱりこういうの無理だって?」
「………」
  藤堂の言葉に涼一は視線だけをやり、それから1拍後、「バカ、面子が悪いんだよ」と答えた。





  藤堂が設定した合コンは、藤堂が想像した通りの展開で幕を開けた。
「えーやだ、カッコいいー!」
  涼一を見て露骨にそう喜ぶ女子学生たち、それを見てひきつる顔をする藤堂たち。それに、途惑った顔をしている雪也。
「あー、はじめましてえ」
  それぞれが席についた後、とりあえず隣同士になった者がいきなり親し気に挨拶を交わす。皆わいわいとやりながら、けれど女たちからはどことなく品定めをされている感じを受けた。涼一にはどれもこれもが鬱陶しかった。
  それに、雪也の隣に座った茶髪の女。
「桐野君ってすっごい可愛いー!」
  何を言ってもそう連発する甲高い声だけが耳についた。雪也は質問された事を律儀にぽつぽつと返していたようだが、明らかに困惑し、疲弊しているようだった。それでもそんな雪也の態度に気づかないのか、茶髪の女は雪也に接近し、べたべたとくっつきもした。
  涼一は自分に話しかけてくる他の女たちの声など全く耳に入らなかった。ただ、雪也だけが気になって。ただ、雪也だけを見ていたと思う。
「ごめん…俺、ちょっと……」
  だからそう言って席を外した雪也を見た時、迷わず自分も立ち上がって後に続いた。
「雪也」
  トイレで手を洗っている雪也に声を掛ける。雪也は涼一がすぐに入って来たことで驚いた顔をしていたが、すぐに苦笑するとやんわりと言った。ひどく心細そうな声で。
「ごめん…。俺、やっぱり駄目みたい……」
「雪也、もう帰らない?」
  だから涼一はすぐに言っていた。雪也は「え」と面食らったような顔をしていたが、すぐにこくんと頷いた。
  涼一にはそれが嬉しかった。





「うっぜー女だったよな! 雪也にくっついてた奴!」
  電車の通らない線路を眺めながら涼一は叩きつけるようにそう言った。
「何かごちゃごちゃ言ってたろ? 俺の場所からはよく聞こえなかったけど、雪也が引きまくってたのは傍から見て余裕で分かったよ。災難だったな、あんなのに目、つけられて」
「………」
「あ、どうした? まだ気分悪いか? 無理やり飲まされてたもんな?」
「あ…ううん…、大丈夫」
  心配そうにする涼一に雪也は慌てて首を横に振り、また弱々しい笑いを浮かべた。
  それからはっと息を吐き、俯きながら言う。
「剣、ごめん。俺のせいでお前まで出てこさせちゃって」
「え? はっ…何言ってんだよ。俺だって嫌だったんだから。お前が帰るのに同意してくれてすっげえ嬉しかったんだぜ、俺?」
「でも…剣はああいうの、別に好きだろ?」
「好きじゃねえよ!」
  何を言い出すんだと思って涼一は声を上げた。けれどそんな涼一に雪也の方こそ意外だという顔を向け、やや首をかしげた。
「でも剣は賑やかなの好きなんだよな…?」
「時と場合によるだろ。俺、ああいう図々しい女大嫌いだし!」
「………」
「雪也だって、そうだろ?」
  肯定してほしくてすぐに訊いた。雪也はトイレで本当に参ったと言う風に「ああいうのが駄目だ」と言っていた。だから今もまたその台詞を繰り返してくれるだろうと思っていた。
  じっと視線をやっていると、雪也はしばらくしてからようやく口を開いた。
「俺……本当は、彼女を作りたかったんだ」
「え……」
  あまりにも予想外の台詞に、涼一は思わず足を止めて先を歩く雪也を見つめた。雪也は涼一が立ち止まった事に気づくと自分も足を止めて振り返ってきた。けれどその顔は至って真面目なものだった。
  涼一の中に寒い風が吹いた。
「雪也、彼女欲しいのか…?」
「うん……」
「………」
  そんな事。
  涼一は瞬時にそんな事を考える雪也は嫌だと思った。何故強くそう思うのか、未だよく分からずに。
「何で?」
  何とか訊ねると、雪也はそんな涼一に無理に笑って見せた。
「俺…剣に迷惑かけたくなかったんだ」
「え?」
  掠れたような声で聞き返すと雪也はすぐに後の言葉を続けた。
「俺のせいで剣まで周りからヘンな風に見られたら嫌だって思ったから。俺、知ってたんだ。俺がホモで、剣がつきまとわれて迷惑被ってるって噂流れてるの」
「な……っ」
  瞬時に相野の意地の悪い顔が思い出されて涼一は目を見開いた。
「お前…それ…!」
「俺…剣が気を遣って俺といてくれてるの、分かってたから…。なのに俺のせいでそんな風に言われて、俺、お前に申し訳なかった。だから彼女作ればそんな噂流されないで済むし…」
「バ…バカかお前! そんなの!」
「俺自身、嫌だったから。そんな風に周りから思われるの」
「………雪也」
  それなら自分こそ雪也にすまない事をしている。涼一はそう思った。
  雪也が周囲にそんな風に言われるのは、自分が雪也につきまとっているせいだ。周りがどう誤解しているのか知らないが、しょっちゅう雪也について回っているのは自分の方なのだ。それなのに雪也がホモ扱いで自分ばかりが被害者のように言われているのには我慢ならなかった。そんなバカな話があるかと思った。
「雪也、俺…!」
「でも、今日分かった。やっぱり俺、駄目だ…」
「え………」
「俺、本当に女って苦手みたい」
「ゆ……」
「ごめん、本当に。気持ち悪いよな。もう俺に構わなくていいから」
  雪也の寂しそうに笑って言うその台詞に、涼一は胸を射抜かれた気分に陥った。動けない。雪也に近づいて、それこそ「そんな事はない」と言ってやりたいのに、どうしてか目が離せなくて金縛りにあったようにその場に突っ立っている事しかできなかった。
「あ、じゃあ俺、こっちだから……」
「ゆ……!」
  けれど雪也が固まっている涼一に心底困ったように笑いかけ、背中を向けた時には。
「雪也!」
  無意識に身体が動き、涼一は雪也の腕を掴んでいた。
「剣…?」
  驚いて振り返る雪也の表情。ああ、駄目だ。やっぱり目が離せないと思った。
  気持ち悪い? 誰が? どうして俺がお前をそんな風に思える?

  こんなに綺麗なのに。

「雪也、そんな風に言うなよ」
「剣……」
「俺、お前の事、全然そんな風に思えないから」
「……でも」
「俺こそ、俺のせいで雪也がそんな風に言われて悪かった。だって俺だろ? いつも雪也の隣に行ってたの。雪也につきまとってたのさ。俺こそずっと気づかないで悪い」
「剣は悪くないよ、俺が……」
「なあ、周りの事なんかどうだっていいよ」
  涼一はまくしたてるように言った。そして雪也の手首をぎゅっと掴んだまま、涼一は必死に笑いかけた。
「知るかよ、くだらない噂なんかさ。俺ら、気ィ合ってるじゃん。誰よりもさ」
「………」
「なぁ…ちょっと、やってみる…?」
「え…何を……?」
「キス」
「え?」
  自分でも何を言っているのだろうと思ったが、その台詞は案外簡単に出す事ができた。思い切り困惑している雪也には構わず、涼一は自分でも驚くほど冷静な顔をして相手の事を見つめ続けた。そしてすぐに唇を近づけ、至近距離にまで行った後、もう一度訊いた。
「な…いいか?」
「い、いいかって……」
  みるみる焦る雪也を本当に可愛いと思いながら涼一はいよいよおかしくなって目を細めた。それから、雪也が途惑う間にそっと触れるだけのキスをした。雪也はそれだけで驚いたようになってびくんと震えるとすぐに涼一から離れた。もしかして初めてなのだろうかと思った。
「つ、剣…っ…」
「大した事ないじゃん。こんなの」
「………」
「気持ち悪くなんかない。それどころか…」
  言いかけて、けれど雪也が既に真っ赤になっているのを見て、涼一はそれ以上の言葉を出すのをやめた。
  けれど掴んでいる手だけは放さずに。
「なぁ…俺ら、もうああいうの行くのやめような」
  そうして涼一は相手の返事も待たず、そっと片手を上げて雪也の髪の毛を優しく撫でた。
  「好き」という言葉は、まだ口にはできなかったけれど。



To be continued…



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