雪也とキスをしたその夜、涼一は妙に気分が高揚してしまい、なかなか寝付く事ができなかった。
  ほとんどその場の勢いというか衝動でやってしまった行為。それでも後悔は全くない。気持ち悪いどころか、雪也の唇に触れただけで電流に打たれたような衝撃が身体中を巡ったのが分かった。
  もっと雪也のことを知りたい。
  けれどそう強く思った涼一に対し、雪也は翌日構内で顔を合わせた途端に言った。
「昨日…酔ってたよな…?」
「え?」
  ぽかんとして口を半開きにしまままの涼一を、雪也は探るような、どことなく怯えたような顔で見つめていた。
「ごめんな、何か。迷惑かけて」
「雪也……」
  なかった事にしようとしている。
  それをコイツは望んでいる。
「剣だってせっかくの彼女作るチャンスだったのに」
「……別に気にするなって」
  だから思わず合わせてしまった。己のそんな性格が恨めしかった。
「あんなのなくても俺、女なんていつでも選びたい放題だし。それより、雪也は身体の方はもう大丈夫なのか?」
「あ…う、うん」
「そっか。それならいいんだ」
  昨夜あった事などもうすっかり忘れてしまったというように、涼一は軽い口調でただそう言った。笑顔も見せてやった。
「ありがとう、剣……」
  そうして雪也がそんな自分を見て安心したように笑い、そう礼を言うのを見て、「あぁやっぱりな」と涼一は心の中で落胆した。何故か耳の奥がじんと痛んだ。


  (8)



  以前から話を聞いていたとはいえ、雪也の母親は確かに規格外な人物だという印象を涼一に与えた。
「あらー、雪也が友達をうちに連れて来るのなんて久しぶりねえ」
  表面的にはいつもニコニコしていて親しげな感じの女性だった。常に漂う強い香水の香りには正直辟易したが、無口な息子とは対照的に、母親の美奈子は実によく喋る女性だった。ただ元々話上手な涼一はそんな美奈子と合わせるのはお手のものだったし、相手がよく話す分、相槌を打つだけで良いから楽だなどと、最初はそんな彼女のお喋りも別段気にもしなかった。
  けれど、日を追うにつれ。


「あー…今日はもう駄目。今日は気分が悪いわあ」
「母さん。もう上行って寝なよ…。水、飲んで」
「じゃーちゃんと運んでよー。ほらぁ、涼一ちゃんも手伝って!」
「母さん、剣は……」
「ああ、いいよいいよ。おばさん、ほら肩貸して」
「もーう、ホント良い子よねえ、涼一ちゃんはっ。うふふふ、ありがとう、おばさん、くっついちゃおうかなー!!」
「母さん…っ」
  美奈子が酔って帰ってくる夜に鉢合わせすると、それはいつものただ陽気なだけのユニークな人物とは違って見えた。勿論涼一はそんな戸窓いは顔に出さないし、何も感じていないように装う事も簡単だった。
  ただ雪也がいつも以上に表情が硬くなり、どことなく怯えているように見て取れるのが気になった。
「ゆーきやっ! あんたは〜、下へ戻ってグラスと氷、それからあのボトル持ってきて! ホラ、あたしの前の前の前の彼氏が残していってくれたやつ!」
  ほとんど涼一に寄りかかりながら美奈子は二階の寝室へと辿り着いたが、彼女はそこで寝入るでもなく、いきなり思いついたように息子にそう言ってにやりと笑った。雪也は思い切り面食らった顔をして何事か言いたそうな顔をしていたが、逆らえないのかすぐに階下へ下りて行った。
「あの子。とろいの」
  美奈子はベッドに座ったまま、煙草を取り出してそれに火をつけながら涼一に言うでもなくそうつぶやいた。毒のある言い方。なるべく表情を出さないようにしていた涼一も、そんな美奈子の事は思わずまじまじと見やってしまった。肌の露出した真っ赤なワンピースは見るからにどぎつく、崩れた化粧から覗く素顔も言っては悪いが相当見苦しい。 本当にこの人は雪也の母親かと、涼一はそんな事を真剣に疑い始めたくらいだ。
「涼一ちゃん。最近よくうちに来るわねえ」
  その時、突然美奈子が顔を上げて涼一に言った。薄っすらと半開き状態の目は明らかに酔っており、意識もはっきりしていないのではと思わせたが、話を振られた以上涼一も黙っているわけにいかなかった。努めて人好きのする笑顔で対応した。
「すみません、いつも。こんな時間まで、迷惑でしたか?」
「ふふふ…いいのよ。けど、初めてだなあって思って」
「何がです」
「あたしと何回か会って、尚うちに来るコって早々いないから。あたし、素面の時だってやかましいじゃない。あのコ目当てでうちに来るオトモダチもそれで大抵遠ざかるわね」
「………」
  酔っていたはずだ。さっきまで、間違いなく。
  それなのに。
  あの先ほどまで甲高かった声が今は怖いくらい静かで冷静だ。涼一は美奈子の真正面に立ったまま、煙草を吸うその人物を半ば驚きの目で観察した。
「あのコ。可愛いでしょ」
  美奈子が言った。
「バカだけど可愛いでしょ」
「……何で自分の息子をそんな風に言うんです?」
「息子だから、かな」
  すうっと煙を吐き出してから、美奈子はやや俯きがちになってから何かを思い出すようにくくっと笑った。それから涼一を見上げ、楽しそうに続ける。
「あたしと違ってあのコは男を捕まえるのがうまくてね。それも特上の男をモノにする才能があるの。高校の頃だって、ネクラなあのコにそりゃあもうしつこく付きまとった二枚目の優等生がいたけど…ふふふ、あたしが追っ払ってあげた…」
「何の話してるんですか?」
「あのコ、女ダメなの知ってる?」
  涼一の責めるような声を無視して美奈子は続けた。
「ねえ、知ってる?」
「………知ってますけど」
「じゃあ、やっぱり涼一ちゃんは雪也の新しいカレ?」
「違います」
「じゃあ…今狙い中ってとこか」
「違いますよ。おばさん、酔っ払うのもいい加減に…」
「でもあのコ本命はいるから、せいぜい遊ばれないようにしなさいな」
「え……」
  美奈子の言葉に涼一は部屋から出ようとした足を止めた。振り返りざま美奈子を見ると、何もかもを見透かしたような顔がそこにはあった。
「『雪』って女の子みたいに呼ばれていたの。小さい頃からずっと一緒でね」
「………」
「あのコ、母親のあたしがそう呼ぶと嫌がるくせに、そのコに言われる時は本当に嬉しそうに笑ったわ。雪、雪って犬コロを呼ぶみたいに呼ばれるのに、本当に嬉しそうだった……」
「それ…誰ですか…?」
「あらやっぱり気になるの」
  ふふふ、とまた美奈子は楽しそうに笑ってから、持っていた煙草を傍の灰皿にぐりぐりと押し付けた。それからバカにしたような薄い笑みを張り付かせ冷たく言った。
「いい男なんだから、唾のついたうちの息子なんかやめて、まっとうな恋愛した方がいいわよ。あのコは、息子ながら本当に恐ろしい魔性のコなんだから…」
「母さん、お酒。持ってきたよ」
「!!」
  不意に雪也がそう言って部屋に入ってきた。涼一は思い切り意表をつかれて仰け反ってしまったが、雪也の方はただ母親が心配なのだろう、トレイに乗せたグラスを渡し、ため息交じりに言う。
「それ一杯飲んだら本当に寝なよ…? 明日も仕事だろ…」
「分かってるわよー。もう、雪也はいちいち説教くさいんだからー!!」
  口調がすっかり元の軽い調子に戻っている。
「………」
「母さん、剣に絡んだりしてない? あんまり迷惑……」
「かけてない、かけてないわよ。あんたの数少ない『まともな』お友達でしょ。ふふふ……」
「………」
  その悪意の混じった母親の台詞に、雪也の横顔が思い切り翳った。
「………」
  涼一はそんな雪也の顔を見つめながら、何も言う事ができなかった。





  泊まっていけば、と控えめに言った雪也にやんわりと断りの言葉を入れて涼一は桐野家の玄関を出た。今日は美奈子が車で出勤をしていなかった為、涼一は乗ってきた自分の車を雪也の家から少し離れた通りの道に路駐していた。自家菜園のある人通りの少ない一本道で、一晩くらいは停めても平気なのだと以前美奈子が教えてくれた場所だ。近所との親交はゼロに等しいが、恋人をよく自宅に招待するから、この辺りの道には詳しいのだと美奈子は自慢気に話していた。
  雪也はそんな母親の話をいつも口を横に引き結び、俯いたまま聞いていた。
「本当は泊まるつもりだっただろ…? ごめん、母さんがあんなで」
  車の所まで一緒に行く、と雪也は涼一と一緒に家を出てきていたが、そう言って口を開いたのは通りを曲がって自宅が見えなくなってからだった。
「ん…別にいいよ。初めて見るわけじゃないし」
  お前も大変だな、と何となく明るく言ってみて、けれど涼一はすぐに自分で出したその笑顔をしまった。
  そっと横を歩く雪也の横顔を眺めてみる。
  陰鬱的な、思い詰めたような顔。よく酔って帰ってくる母親が心配なのだと、雪也は折に触れ涼一に言っていた。何人もの男にフラれ、「不器用な人なんだ」と笑ってもいた。
「なあ…雪也……」
「え?」
「………」
  こんなに母親想いの雪也を、何故あの人はあんな風に言うのだろう。
「剣…?」
「あ……」
  呼ぶだけ呼んで何も言わなかった自分に慌てて、涼一は焦ったように雪也に視線をやった。不思議そうな顔が思い切り自分の目に飛び込んできた。

  あのコ、可愛いでしょ。

「………っ」
  不意にそう言ってこちらの真意を見透かしたような美奈子の笑顔が思い出された。涼一は唇を噛んだ。
  可愛いさ。そう思っちゃ悪いか。
「剣、本当にどうし…」
「なあ、あのさ。お袋さんに聞いたんだけど」
「え…う、うん…?」
  何を言おうとしているのか自分でも分からなかった。
「雪……」
「え……」
  雪也の顔が一瞬で凍りついた。涼一は驚いて歩いていた足を止めた。
「……あ、あのさ。お前の事、そう呼んでた奴がいるって……」
「………」
「仲、良かったのか?」
「………」
  雪也はなかなか答えなかった。不意に涼一は自分の心臓がどくどくと高鳴り始めたのを感じた。痛い。ただ心臓が鳴っているだけなのに、どうしてこんな痛みを感じるのか分からなかった。
  ただ、雪也に早く何か言って欲しくて。
「………幼馴染」
「え?」
「幼馴染なんだ」
  雪也が言った。涼一は夢から覚めたような気持ちになった。
「あ…あぁ、幼馴染なのか? じゃあ今も近所に…あ、お前、高校の時こっちに引っ越してきたんだっけ? じゃあ今、その人とは?」
  ぺらぺらとよく動く舌。止められなかった。
「雪って呼び名、女みたいだからお袋さんなんかが呼ぶと嫌がるけど、その人が呼ぶのは別に構ってない風だって」
「………」
「その人…その、今でも会ってたりするのか?」
「ううん」
  涼一のその問いに雪也は即答した。
「もう…引っ越して以来会ってないよ。子供の頃よく遊んだってだけだし…そんな…母さんがどう言ったか知らないけど、呼び名だってどうだって……」
「雪って呼んでもいいの?」
「え……」
  自分は何がしたいのか。まだどこかで必死に問い掛けるもう1人の自分がいたが、やはり涼一は続けていた。
「俺が雪也の事さ、そう呼んでもいい?」
「剣…?」
「あ…っ。だ、だってさ、その方が呼びやすいし。雪っていい呼び名だと思うしさ。さっき聞いて気に入ったから」
「………」
「ダメか?」
「………」
  もし嫌だと言われたらどうしよう。
  バカな事を聞いた。何をやってるんだ。そう思ったけれど、もう遅かった。涼一は告白しているわけでもないのに、もう既に息をするのも苦しくて、ただバカみたいにその場に突っ立っている事しかできなかった。
  その時は数時間にも数十時間にも思えた。
「別に……」
  けれど雪也は言った。
「え?」
「別にいいよ」
「そう呼んでいいの?」
「うん」
  雪也は俯きがちにそう言って、こくりと頷いた。それから困ったような顔で、呆けている涼一を見つめ、首をかしげた。どうしてそんな風にそんな事を聞いてくるのかという顔をしていた。
  けれど涼一にとってはそんな雪也の疑問などもうどうでもよくて。
「うん! じゃあ俺これからお前のこと、雪って呼ぶ!」
  はしゃいで言っていた。何だか無性に嬉しかった。


  雪也は他の誰でもない、自分を受け入れていると思った。



To be continued…



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