(9) 誰の目からも分かるほどの軽い足取りで大学の門を飛び出た涼一に、「 ちょっと待ったあああ!」といういかつい大声を出したのは藤堂だった。 「んだよっ! 俺は行かないって言っただろ!!」 折角あちこち動き回って逃げおおせたと思っていたのに。 涼一がちっと軽く舌打ちをすると、走って追いかけてきたのだろう、藤堂の方は汗だくの顔にむっと一本の怒筋を浮かび上がらせて唾を飛ばした。 「そうはいかねーぞっ。今日の約束、俺が一体どんだけ前からお前に頼んでいたと思ってんだよ! しかもお前、ちゃんとOKしてたよなあ!?」 「だからっ。急用が入ったんだから仕方ないだろっ!!」 「お前っ!! 涼一っ!!」 いつもならば涼一の怒鳴り声には半ば諦めの顔でもって沈黙してしまう藤堂だったが、この日はどことなく強気であった。涼一はそんな親友に一瞬うっと黙りこみ、それから面倒臭そうな視線を渋々と寄越した。 「……何でそんなキレてんだよ」 「お前のその冷たさになあ、頭にこない奴なんかいるかっ!」 藤堂はすかさずガンと言い放ち、それから興奮を抑えるようにフーと大きく息を吐いた。 「……ひでェじゃねえかよ。あの高校の時のさ、俺の憧れの寺見さんがわざわざ開いてくれた同級会だぞ? それを何だ? 『桐野と遊ぶ約束したから駄目になった』だぁ? お前、そんなんがそのまま通用すると思ってんのか? あ?」 「しょうがないだろ。あいつ、バイト始めちまったからあんまり時間に自由利かなくなったし。それを今日は1日休みで俺ン家に来るって言ってんだから」 「だーかーら、それがおかしいって言ってんだよ!! 俺の約束の方が先だろーがー!!!」 至極もっともな意見を力説してまた興奮の熱が甦ってきたのか、藤堂はハラの底から大声を出した。その勢いは半ば泣き出しそうなものでもあったから、通りを行く多くの学生の目を引いた。 だから、さすがの涼一もうろたえた。 「お、お前はみっともない顔してんじゃねえよ…!」 「なあ、頼むよ涼一。今日は俺と付き合ってくれ。一緒に行ってくれ、な?」 「俺が行かなくても平気だよ。お前、昔だってあいつと結構普通に話せていたじゃん」 「違うっ。俺は寺見さんと一緒だと駄目なんだ、めちゃくちゃあがっちまってうまく喋れねえんだよ。けど、お前といればごまかしきくっつーか…。大体、お前いたら寺見さんもこっちに来てくれると思うしさ!」 「……お前にはプライドってもんがないのかよ」 「ない!」 藤堂はきっぱり言うと、何やらおもむろに自身の携帯を取り出した。 そうしてさっさとボタンを押すと、それをそのまま涼一に渡した。 「…? 何だよ」 怪訝な顔をしてそれを何となく受け取った涼一に藤堂はしらけた口調で言った。 「お前、この間、桐野に無理やり携帯持たせたらしいな? ないと不便だからとか何とか言って」 「それが…あ、てめ!!」 「安心しろ。俺しか知らないから」 「お前、勝手に雪の番号…!」 「ふん、“雪”ねえ……」 冷めた顔、どことなく据わった目をした藤堂に涼一が何事か言い返そうとした時、しかし受話器の向こうから。 『もしもし…?』 「雪っ!」 涼一はその声を聞いた途端、もう声を出していた。明らかに動揺しているような雰囲気が向こう側から伝わってくる。 しかしそんな雪也の様子は、先刻別れたばかりなのに何だかもうひどく懐かしい気持ちがした。 『剣?』 「う、うん。悪い、藤堂が何かいきなり掛けてさ。お前、図書館だっよな、今?」 『大丈夫。まだ今、ロビーの所だから』 雪也がやんわりと笑う姿が目に浮かぶ。一瞬温かい気持ちになった涼一だが、隣のむっつりとした顔が間近に迫ってきてうっとむせった。 「さっさと断れ。今日のこと」 藤堂が珍しくドスの利いた声で涼一を脅した。 涼一は決して負けなかったわけだが。 「誰が言うかっ。俺はな、今日はこれから一足先に帰って部屋の掃除すんだよ! 雪がこの後来――」 『剣、今日駄目になったんだよな?』 「え!?」 しかし藤堂の声が聞こえたのだろうか、雪也が先にそんな事を言い出した。 「ゆ、雪!?」 『さっき藤堂から聞いたよ。前から約束してたんだろ、今日? 行かないと駄目だよ』 「そんな雪! だってな、それってすっごくつまんなくて――」 「さんきゅな、桐野! んじゃそういう事だから!!」 涼一が言いかけた言葉を藤堂が携帯をもぎ取るようにして遮った。 「おい、藤ど――」 「うん、うん。そうなんだよー。俺、今日のこの日をすっごく楽しみにしててさあ。付き合ってくれるのが親友ってもんだよな!? わはは、桐野は話が分かるぜー!!」 「おい、こら! 俺は!!」 「うん。ああ。んじゃな、桐野! またな!」 「ゆ……!」 しかし涼一の手を押し切り、藤堂は自らの巨体を壁にしてそのまま携帯を切った。そうして振り返り、にんまりと嬉しそうに笑う。 「これでよしと!!」 藤堂のこんな悪辣な顔を見るのは初めてだと、涼一は半ば口をあんぐりと開けたまま、後の言葉を続ける事ができなかった。 勿論、そんな事で今日の楽しみを諦める涼一ではなかったのだが。 「ああ、くそ…雨かよ…!」 仲間たちより一足先に居酒屋を出た涼一は軒先で腕時計を見た後、いつの間にか降り始めた雨雲に恨めしそうな視線を向けた。 高校の同級生など、殆どが一緒に内部進学した奴らだったから、懐かしさも何もあったものではなかった。勿論、中には藤堂が憧れていたという寺見のような才女もいたが、それでも別れて半年も経っていない元クラスメイトに感慨などあろうはずもない。 涼一はじりじりとした気持ちで、それでも一応藤堂の為だけにあの場で得意の作り笑いを披露し、場を盛り上げる事に努めた。 それでも心はずっと雪也の事が気になっていた。 「今日はずっと一緒にいられるはずだったのに…」 ぽつりとつぶやいてから、涼一はだっと駆け出し身体が濡れるのも厭わずに駅へと向かった。 どうしてかは分からない。 もうずっと、このところ考える事といえば、それは雪也のことばかりだった。 「雪」と呼び始めた頃、当人の雪也はそれになかなか慣れないのか、いつも困惑したような顔をして小さく返事をするだけだった。 それが夏が近づきはじめたこの頃は、笑顔も以前よりずっと増えてきて。 それを作っているのは自分なのだと実感し始めていて。 楽しかった。 だから。 「……あ、もしもし。雪?」 『剣 』 駅に着き改札を越えて、涼一は即自分の携帯で自宅マンションの番号に電話を掛けた。 すぐに雪也が出てくれて思わず顔がほころんだ。 「悪い、遅れた。今から帰るからさ」 『早いくらいだよ。こんな時間に出て来て…皆文句言っただろ…?』 「いいの、雪はそんなこと気にしなくて! ……な、今日は泊まっていけるんだよな?」 『あ…え、と…。電話してみたんだけど、やっぱり帰って来いって』 「……お袋さん?」 『うん』 雪也の申し訳なさそうな返答に涼一は暫し沈黙した。 「…そうか」 それでも、電車の入って来るアナウンスが聞こえ、涼一は慌てて言葉を切った。 「いいよ、それでも一緒に飯は食えるよな? 雪、作っておいてくれた?」 『それは…うん。けど、剣向こうで食べてきたんじゃ…』 「食べてない! ほっとんど! じゃ、急いで帰るから!」 『あ、剣、あ……』 受話器越し、雪也が何か言いかけた気がしたものの、涼一は気が急いていたのかそれを最後まで聞かずに電話を切ってしまった。 心の中は、もうすぐ雪也に会えるという気持ちでいっぱいだった。 涼一が駅の改札を出ると、そのすぐ目の前にある本屋前には雪也がいた。 「何で? 雪?」 驚いて目を見開き、慌てて駆け寄ると雪也は苦笑した。 「言いかけたら剣、電話切っていたから」 「いや、ごめん。けど、どうした? 別にわざわざ来なくても、待っていてくれたら…」 「だって傘、やっぱり持っていなかったろ?」 濡れた髪に持っていたタオルを投げられて、涼一はぽかんとした。 雪也は少しだけ笑んでから、持っていた傘を涼一に差し出した。 「今さら遅いけど。傘」 「さん、きゅ…」 「うん」 「………雪」 涼一は雪也のこういう細やかな心配りができるところをやっぱり好きだと思った。 「あの、勝手にどうかなって思ったけど、風呂も沸かしておいたから」 「え」 傘を開き、先に歩き出す雪也に涼一は再度驚いて足を止めた。雪也はそんな涼一に気づいて自分も振り返り、困ったように首をかしげた。 「あ、悪い…。駄目だったかな…?」 「そ、そうじゃない! 断じて!!」 「あ…そ、そう?」 慌ててブンブンと首を横に振る涼一に雪也は押されたようになったが、それでもほっとしたようになってまたにこりと笑った。 それだけで涼一はもう何だか胸がいっぱいだった。それをごまかしたくて自分も無理に笑って見せた。 飯とか風呂とか。 すっげえ、奥さんみたいじゃん。 その台詞は雪也に嫌がられそうで、やはり言えなかったのだけれど。 |
To be continued… |
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