たいせつ |
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―2― 三者面談当日。 生徒にとっては勿論、その保護者や教師らにとっても一応の一大イベントであるこの1週間ほどは、全ての授業が午前中で終了する。校舎内外の清掃も早めに済ませ、順番待ちをする保護者や生徒の為の椅子が並べられ、「廊下ではなるべく物音を立てないように」などという放送が全校舎的に掛けられたりもするのだ。 ……が、その日。学校内はいつもより数段に騒がしかった。 「きっつ〜。ちょっと休憩。何か飲もうぜ」 「俺も。あいつぜってー太ったろ。重いっつーんだよ!」 「あぁ〜、まだ5往復くらい残ってんぞ…」 教室前の椅子に座って独り読書をしていた友之は、前を通り過ぎるジャージ姿の男子生徒たちの姿を相手に気づかれないようなさり気なさでそっと見やった。どこの運動部だろうか。室内練習に大量の汗を流し、既に大層バテているように見えた。 今日は朝から降りしきる雨が放課後になっても止まず、体育館を使用できない一部の運動部が非常口側の階段などを使用して二人一組の昇降トレーニングをしているようだった。基本的に三者面談が行われている教室前の廊下には来ないようにしているようだが、それでも時折バタバタと騒がしい足取りで通り過ぎて行く者たちを友之は何度か目撃している。教室内にいる教師連が何度か「静かにしろ」と注意をしているものの、それは一向に止む様子がなかった。 友之の順番は18時。その日最後の時間枠だった。夕刻まで学校で時間を潰すのはどれほど大変だろうと思っていたが、図書室で明日ある英語の予習をしていたらそれはあっという間だった。30分前に片づけをして教室前の廊下へ行くと、ちょうど友之の前の番に当たるクラスメイトが母親らしきいやに化粧の厚い女性と2人で教室に入っていくところを見た。担任が教室の入口でその2人を迎え入れる時、友之の存在に気がついてちらと視線を向けてきた。ややあって「兄さんはまだか?」と言うので慌てて頷くと、「そこに座って待っていなさい」と言ってきたので、再び頷いて大人しく指し示された椅子に座った。 ぼやきながら通り過ぎたジャージ姿の男子生徒を見たのは、それから10分程後の事だ。 多少ざわつきを見せている廊下は、しかし友之の周辺にはそれから誰の姿も見受けられなかった。文字を追ってもいない本に目を落としながら、友之はぼんやりと教室の中から聞こえてくるクラスメイトの母親の声を何ともなしに耳に入れていた。「うちの子、全然勉強しなくて!」とか、「2年になったら塾に入れた方がいいか」とか。肝心のクラスメイトや担任の声はまるで聞こえてこないのだが、何だか緊迫しているような雰囲気に他人事ながらどきどきした。大体、一組30分という時間も多いような気がした。クラスの誰かが叫んでいたのを小耳に挟んだところによると、そんなに多く時間を取っているのは友之のクラスだけのようだった。友之自身はよく分からなかったが、友之のクラスの担任である中年の男性教諭はクラスメイト曰く「うちの学校の中では比較的まとも」な部類の教師らしかった。まともな会話など数える程しかした事がないが。 担任は光一郎にどんな話をするのだろう。 「北川君っ」 その時、所在なげに椅子に納まっていた友之の頭からいつもの聞き慣れた元気全開な声が降ってきた。ゆっくりと顔を上げる。橋本だった。 「もう疲れた〜。今日は男子と合同練なんだ。って言っても階段往復してるだけだけどね。えへ、北川君がそろそろいるかなって思って、ちょっと脱走してきちゃった!」 悪びれる様子もなくそう言う橋本は先ほど見かけた男子生徒らと同じ青のジャージ姿で、汗も大分かいていたのか頬のあたりもまだ上気していた。橋本はバレー部なのだが、彼女の言によると「沢海君のバスケ部が優遇されているせいでうちが体育館を追い出された」らしく、泣く泣く不本意な室内メニューを課せられているという事だった。 そんな橋本は「練習を抜けてきて平気なのだろうか」と心配する友之をよそに、どっかと隣の椅子にふんぞりかえると意気揚々と喋り出した。 「北川君、最後なんだよね。最後は緊張するよねー。まあオカムラだから時間延長とかはしないと思うけど」 「うん…」 「オカムラ」とは友之たちの担任教諭の名前だ。時間にきっちりしていて、授業も終業の鐘が鳴るとその場で話を切り上げてしまう。悪く言えばドライなのかもしれないが、友之にしてみればそんなあっさりとしたこだわりのなさそうな淡白さが逆に気楽だった。妙に干渉されたり熱血教師よろしく何だかんだと正論を説かれるよりは余程良い。当初は教師連中から「腫れ物扱い」の友之にだけそんな態度なのかと思ったが、どうやら一環してそういう主義の人間らしかった。 「でもさ」 橋本は続けた。 「でもあいつ、成績の事とか遅刻の事とかは結構フツーに突っ込んできたよ。もう帰ってからお母さんに怒られたし。……ま、今回確かに下げちゃったから仕方ないけど。2年で盛り返さないと推薦危ないし」 「推薦?」 「うん。私は指定校も考えてるから!」 「………」 「大学行って教員の免許取るの。私、小学校の先生になりたいんだー!」 「…先生」 「うんっ」 にこにこして言う橋本を友之は珍しいものでも見るような視線でまじまじと見やった。沢海だけではない、橋本ももう既にきちんと自分の夢を持っていて、それを堂々と人に言えるのだなと思った。 「ねえねえ、ところでさ!」 けれど友之がその事についていつもの如く暗く考えこもうとすると、そんな間もなく橋本があっという間に声色を変え、身を乗り出すようにしてきて言った。 「北川君、今日お兄さんが来るんでしょ?」 「え…? うん…」 「あーそうだよねー。楽しみだなー!」 「え?」 友之の不思議そうな声に橋本は一気に目を輝かせると声を大にして答えた。 「だって北川君のお兄さん、もうすっごい! カッコいいじゃない!? この間北川君家行って顔見た時びっくりしたもん!!」 「………」 橋本は光一郎に1度だけ会った事がある。 確か数馬が親しい人たちほぼ全員をアパートに呼びつけた「昼食会」の時だ。光一郎とは電話で何回か話をした事がある橋本も、実際に「北川君のお兄さん」の姿を見るのはその時が初めてだったのだ。 あの時橋本は同じく光一郎ファンを公言する由真と一緒にあからさまにキャーキャー言って裕子の不評を買っていた。 友之の隣の席で足をぶらぶらさせながら橋本は尚も浮かれたように言った。 「何かさ、北川君のお兄さんって凄く落ち着いてるよねー。5コ上なんだっけ? でもさ、私、ミユキのお兄さんも見た事あるけど、同じ大学生でも全然違ったよ? やーホントやばい。ねえねえ何かさ、あんなだときっとすっごくモテるんだろうねえ。やっぱり彼女とかいるよね?」 「……ううん」 「えーっ。嘘、ホントにい!?」 「………」 橋本の興奮したような声に友之はすっかり困って俯いた。以前由真にも同じような事を言われてどう答えて良いか分からなくなる事があった。 「ちょっと真貴ぃ」 しかし、幸か不幸かその時は困惑している間はあまりなかった。 「それでいつ来るのよ、その北川君の超カッコいいお兄さんってのは!」 「え…?」 驚いて顔を上げた友之の視界の先には、いつの間にこちらに近づいてきていたのか、橋本と同じジャージ姿の女子集団があった。知っている顔もあれば全く見知らぬ顔もある。 「さっきから物陰に隠れて待ってるあたしらの身にもなれって〜」 「そうだよ、その為にあんたがサボって北川君といちゃついてんのも大目に見てやってたのにーっ」 「まあ待て待て。もうすぐ来るから。ねっ、北川君?」 「あ、あの…?」 何だかコワイ。 それはあっという間の出来事で、一旦声を掛けて自分たちがいた事をバラしてしまったせいか、困惑する友之の周りには橋本の部活仲間数人がずらりと円を描くようにして立っていた。まるで椅子に座る友之と橋本を完全に包囲するかのような格好だ。橋本から注目される事には慣れているが、こんなにたくさんの女の子に囲まれた事がない友之はそれだけで小さなパニックを起こしそうになってしまった。こんな時沢海がいればすかさず「お前らいい加減にしろよ」などと言って彼女たちを解散させてくれそうなものだが、期待のバスケ部は体育館だ。沢海は友之の傍にはいなかった。 暴走特急の女子軍団は橋本を中心に友之の心内になどまるで気づかない。何だかぎゃーぎゃーと勝手にわめいては盛り上がっている。 そんな中、不意に橋本が嬉々として言った。 「それにしても北川君、やっぱりお兄さんと仲良いんだね。うーん、ていうか、愛されてるよね! わざわざこんなの来てもらえるんだから」 「え…」 友之がはっとして声を出すと、立て続けに別の女子が口を開いた。 「そうだよね。うちの姉貴なんかどんなに暇でも絶対来てくれないね」 「うちもー」 「うちも。仲サイアク!」 「最悪…なの?」 殆ど反射的に相手の顔を見つめながら鸚鵡返しすると、それをされた女子生徒の1人は友之のその大きな瞳にたじろいだのか、「そうだよ」と言ってからへらりと腑抜けた笑顔を作った。 「うちは弟なんだけどね、もうすっごい生意気でー! それにありゃ、どうしようもないバカだしね。口なんか殆どきかないよ。いらないいらない!」 「……そうなんだ」 「そういうもんだよ、兄弟なんて」 もう1人もうんうんと納得したように頷いた。 「………」 友之はそんな2人の顔をまじまじと見上げた。そうしてまた別の子が「私は兄弟いないから羨ましいけどなあ」という声も黙って聞いた。 そういうものなのだろうかと思った。 「友之」 その時、廊下の向こうから待ちわびていた声が響いた。 「あ…」 光一郎。 友之はその声にはっとして思わず立ち上がった。その普段見られないような友之の勢いある動きに驚いたのか、前に立っていた数人がよろりと後退して場所を空けた。 「コウ…」 「悪い、少し遅れた。待ったか?」 「う…ううん…」 まだ自分の順番は来ていないから。 「………」 そう言おうと思ったがうまく言えなかった。さっきまで女の子たちに囲まれて途惑っていたというのもあるし、突然現れた光一郎に完全に意表をつかれたというのもある。 「先生、中か?」 「あ…」 近づきながら教室を目で指す光一郎に友之は半ばボー然としながらも何とか頷いた。大学から直行してきたのだろう、いつものラフな格好をしていたが、何だか学校で見る光一郎はいつも以上に大人に見えた。それに自分の「兄」に見えた。 周りの認識もそれを手伝っていたのかもしれないが。 「ちょっ……まじ?」 「うわあ…うわあ…」 「かっ…か、か、かっこいい…」 「どうよ、みんな!!!」 「は…?」 ちなみにいやに得意気な様子の橋本も含め―光一郎は友之の周りにいるジャージ軍団が一様にぼーっとしたままその場に固まっている事にここでようやく気づいたらしい。修司や数馬が目撃していれば間違いなく何事か言っただろう。柄にもなく光一郎は友之を廊下で独り待たせていた事に焦っていて、周囲の状況にまるで気を配っていなかったのだ。そんな余裕はなかったらしい。 「あ」 それでもやっといつもの調子を取り戻すと、光一郎は友之の傍に立つ橋本にさっと人好きのする笑顔を向けた。 「橋本さん。部活?」 「はい! こんにちは、お兄さん!!」 話しかけられて有頂天になる橋本。こちらはこちらで途端恨めしそうな顔をするチームメイトの視線など目に入らないらしい。元気いっぱい光一郎に挨拶をし、いつものテンションで続ける。 「今日は雨だから地獄の階段往復練習なんですよっ。今はちょっと休憩です。北川君で癒されに…じゃなかった、ホント、ただの休憩です、へへへ…」 「そう。橋本さんは三者面談終わったの?」 「はい、昨日! もうすっごく憂鬱でしたよー。ロクな事言われなくって!」 「ちょっと真貴!!」 「はっ? ちょっ…いたたた、何なのよあんたら!!」 「いいから来なっ!」 「わっ、引っ張らな…。あ、あはは、それじゃ、またね、北川君!」 「あ…」 ずるずると引きずられるようにして距離を取らされる橋本を友之と光一郎は半ばぽかんとした目で見やった。ひそひそ話のつもりなのだろか容易に聞こえる。橋本のチームメイトたちは異様に目を血走らせながら「自分だけ話すな」とか「あたしたちにもお兄さん紹介しろ」だの、烈火の如くに依然としてにこにこ状態な橋本を責めまくっている。 「………」 友之はそんな彼女らの様子をただただ唖然として眺め続けた。 「友之」 「え…」 けれど逸早くその状況から目を逸らした光一郎がそんな友之に声を掛けてきた。咄嗟に顔を上げると、友之のその視界にはこちらを見下ろしている光一郎の優し気な視線があった。 何だか照れくさい。学校だからだろうかと思った。 直後、光一郎からの台詞でそんな気持ちはいっぺんに吹っ飛んでいったのだが。 「何か先生に言って欲しい事とかあるか?」 「え?」 光一郎の言葉に友之は思い切り面食らった。 「言ってって…?」 「言われっぱなしってのも何だろ。何かあったら言ってやるから、今言っとけ」 「な、ないよ、別に…」 「………」 「クラス…良い人ばっかだし…」 「そうみたいだな」 「……うん」 何だか先刻とは別の意味でどぎまぎして俯くと、光一郎は微かに笑ったようだった。頭の上にそっと置かれた掌にまたしても驚いてしまう。焦って顔を上げると、やはり光一郎は笑っていた。 「北川さん。お待たせしました」 「あ、はい」 その時、ガラリと扉が開いて前の2人が出て来た。妙に疲弊したような担任教諭は光一郎の姿を認めると儀礼的にお辞儀し、そのまま「どうぞ」と中へ促した。 それで2人は流されるように教室へ入った。 |
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【つづく】 |