いせつ


  ―3―



「雨…まだ止まないな」
 すっかり暗くなっている空を見上げ、昇降口の所で光一郎が呟いた。
「……っ」
 友之は多少遅れながら、それでも必死の動作で下駄箱から靴を出し、そう言った光一郎の後に続いた。
 まだどきどきした胸が治まらない。三者面談があんなに緊張するものだとは思わなかった。
「トモ」
 しかし未だ意識をしゃんと出来ていない友之に光一郎が振り返って呼んだ。
「お前、傘は?」
「え…」
「……ないのか?」
 友之の手元を見やりながら光一郎は眉をひそめた。
「うん…」
 それに対し友之は実に決まり悪そうにしながらも何とか頷いた。
 朝から降っていたはずの雨は、しかし友之が登校するほんの僅かな時間だけは止んでいたのだ。薄暗い曇り空を見上げて「今日は雨だな」なんて事を思いながら、それでも友之は傘を持って出るのを忘れたのだった。
「お前な……まぁいいか。来い」
 光一郎は横着なのか何も考えてないのか分からないような友之に呆れながらも、すぐに立ち直ると自分の傍へ来るよう軽く手招きした。友之がそれにおとなしく従うと、光一郎は持っていた黒い傘をバっと開き、横に並んだ友之の細い肩をぐいと強く引き寄せた。
「あっ…」
「濡れるだろ」
「……っ」
 肩を抱かれるまま自らの身体を光一郎に寄り添わせ、友之は校舎を出た。拍子、ぱしゃりとコンクリートの一面にたまっていた水溜りを踏んでしまい、友之は咄嗟に濡れた靴先へと視線を落とした。
 本当はそんな事どうでも良かったのだけれど。
「あ、北川君! ばいばーい!!」
「………」
 その時、背後からあの元気声が薄暗い校舎からさっと降り注いできた。友之がその声の方を振り仰ぐと、右端の2階窓から橋本が顔を覗かせて手を振っているのが見えた。部活練習はとうに終わりの時間のはずだが、恐らくは先輩連中から抜け出した罰でも喰らっているのだろう。必死に手を振る橋本の背後から、先刻一緒にいた友人らが息を切らせながら「またサボる!」と声を荒げ叱っているのが見えた。
 けれど出し抜け自分たちも橋本と一緒に窓から顔を覗かせると、女生徒たちは「きゃっ」と奇声を上げて途端一斉に身を乗り出してきた。
「わ、きゃー、見てみて!」
「あ、やー! おにいさーん!!」
「ぎゃー!!!」
「わっ、おっ、おおー!!」
「あんたら煩いっ。何なのよもうっ」
「だ、だってだって!!」
「………?」
 窓から押し合いへしあいでこちらを見下ろしてくるジャージ女子軍団は、一種異様な雰囲気を漂わせていた。友之だけでなく、外にいた数人の生徒らもぎょっとして何事かとその上方を見やる。
「友之。行くぞ」
「あ…」
 けれどその光景を不思議そうに眺めていた友之に光一郎がややあってからそう言って前を促した。共に廊下にいた時はそれなりの愛想も振りまいていたような気もするが、一旦離れてしまえばもう関係ないのだろう。光一郎はただ友之の方を見つめたまま、その肩先を抱いた手に力を込めた。
「コウ…?」
 変だな、と思った。
 普段の光一郎はあまりこうして友之と身体を密着させたり親しいところを他人に見せたりはしない。最近でこそ家では出掛けや帰宅時、それに夕食後の寛いでいる時間なんかにキスを仕掛けてくる事が増えたが、それでも外では依然として「兄」の仮面を被ったままなのだ。
 現に先刻の三者面談とて。
「兄弟が2人で傘に入ってるのが何だっての! 別にいいでしょっ」
「いいよ! いいけど何か興奮すんのっ!」
「するっ。私もっ。やばいやばいきゃー!!」
「だから、うるっさい!!」
 遠ざかる背後からはまだそんな橋本たちのわいわい言う声が聞こえていた。
「……っ」
 友之はそんな彼女らの黄色い声を気恥ずかしい気持ちで聞き入れながら、自分を引き寄せている光一郎を再びそっと見上げた。
 どうしてだろう。どうしていつものように素っ気無い態度で距離を取る普段のスタイルを維持しないのか。確かにこうして身体をつけている方が雨には濡れないし、男同士が1つの傘に入るという事が全くありえないというわけでもない。別段、意識し過ぎる事でもないのかもしれない。
 けれど。でも。
「トモ」
「……っ」
 すると急に光一郎が声を発してきて、友之はびくりと肩を揺らした。
「…何だ?」
 けれどそれには光一郎の方こそが驚いたようになり、反射的に友之に触れていた手を離した。あ、と思ったが、何故だかその気持ちを隠したくて友之は慌てて首を横に振った。
「……何でもないのか?」
「うん……」
「そうか」
 長い長い駅までの1本道の歩道を2人で歩く。暫くは沈黙が続いた。
「トモ」
 どのくらい経ったのか。気を取り直したような口調で光一郎は言った。
「たまには何処かでメシ食って帰るか」
「え……」
「それとも家帰って食いたいか?」
「………」
 何だろう。そんな事を聞かれた事などないので、友之は思い切り面食らい声を失った。
 光一郎と2人で暮らし始めてから、いや元々の家にいた頃とて友之は外食などというものとは殆ど無縁の状態だった。元々人の多い所に行くなど好んでしたい事ではないし、不登校をしていた頃は特に外界との接触を持つのが怖かった。そしてそんな友之の心根をよく理解している光一郎は、共に暮らし始めてからは実にマメに自らが食事の支度をし、それに手を抜くという事を一切しなかった。
 だから友之は気持ちが落ち着いてからも「たまには外食したい」などと思うどころか、むしろアパートでの光一郎と2人きりの食事を好んだ。
「やっぱり嫌か」
 すると光一郎が友之の方を見やりながらそう言った。多少苦い笑いを浮かべてはいるが、大して気分を害したようではない。光一郎自身、たまたま言ってみただけで、別段どちらでも良いと思っていたのかもしれない。
「……コウは?」
 だからだろうか、ようやく落ち着いた気持ちになって友之はそう聞いた。
「ん?」
「コウは…どっちがいいの…?」
「俺? 別にどっちでもいい。ただ言ってみただけだから」
「………」
 やはりそうだった。友之はしとしとと降り注ぐ雨の音を意識しながら、自分よりも随分と背丈のある光一郎の横顔を見つめた。同時に、さんざ「カッコイイ」「凄い」と光一郎を褒め称えていた女の子たちの笑顔が思い返された。あの時は彼女らの勢いにただ圧倒され、まともな思考を働かせる余裕はなかった。
「………」
 でも、今は。
「コウ…」
「ん…」
「………」
 不意に、歩く度触れ合う肩や腕が気になった。一歩、二歩。濡れたコンクリート面を見つめながらも、意識するのは光一郎の体温だけだ。それをこんなに傍で感じられる。
「………」
 ふっと急に、友之はその事がひどく嬉しいものに思えた。だからもっとそれを感じたくて、試しにどんと光一郎の身体にわざと自らのそれをぶつけてみた。
 それはあまりにも唐突で露骨で、おかしな行動だった。
「どうした?」
「あ…」
 だから光一郎が一瞬目を丸くした後、可笑しそうに目を細め見下ろしてきた時、友之はぼっと赤面する自分の熱を抑えられなかった。焦ったように俯き、ほとんど無意識に傘から飛び出して逃げ出そうとした。何だかとても悪い事をしたような気がしたのだ。
「こらバカ。濡れるだろ、何処行くっ」
「あっ…!」
 もっともあっという間に手首を捕まれ傘の中に引きずりこまれてしまったが。
「ご、ごめ…!」
「あ…あのなあ、何謝ってんだよ。別にいいだろう。ちゃんとくっついてろ」
「で…」
 でも、誰かが見たら。
 そう言おうとした友之に光一郎が先んじて言った。
「別にいいんだ。誰が見てても」
「え……」
「特に今日は…いいんだよ」
「今日は…?」
「そうだよ」
 はっと何かを嘲笑うかのような笑みを零し、光一郎は傘の柄をぎゅっと握り直した。それを黙って見つめていた友之は、ぽっと何かに促されるようにして呟いていた。
「あの…。食べに、行きたい…」
「ん……。そうか。じゃ、行くか」
 すると光一郎も大して驚くでもなくあっさりと答えた。
「うん」
 だから友之もすぐに頷くとちょっとだけ笑った。安心した。
 それを見た光一郎も嬉しそうに笑った。





「友之君は先日の進路希望調査で福祉系の大学か専門学校への進学を希望されていますね」
「はい。聞いています」
 赤点ぎりぎりの数科目を今後よく復習するなど、試験休みの間にやるべき幾つかの課題を光一郎の前で友之に約束させた後、担任の岡村はやや眠そうな目でB4サイズのファイルに綴じてあったプリントをぺらりとめくった。そこには友之が悩んで悩んでようやく提出した進路希望調査の紙があった。
 それを見ているのかいないのか今イチよく分からないような曖昧な視線で、岡村は白髪混じりのぼさぼさ頭を片手で撫でながらゆっくりとした口調で言った。
「ご兄弟で将来の話などはよくされる方なんですか」
「そうですね…。殆どしません。こいつ、あまり喋らないんで」
「ああ…まあ、そうですね」
 光一郎の台詞にどことなく曖昧な笑みを閃かせ、担任・岡村は何かまずい事を言われてしまったかのような困った顔をしてみせた。教室内で大勢を前にしている時はもう少し威厳があるように見えるのだが、何故だかこの時の岡村は友之には妙に小さく見えた。
「クラスでもいつもとても大人しいですね」
 岡村が言った。
「でもクラスメイトの沢海君と橋本さんの2人とは仲が良いみたいですが」
「はい。橋本さんはよく電話をくれますし、拡君とは中学の頃から仲良くしてもらってます」
「いいですね」
「は?」
「え。いや、親友がいるというのは良い事だと思ったので。まあ、あれです。友之君は多少大人し過ぎるところが時々ストレスなどたまっていないかと心配なのですが、将来の希望も今の時期からはっきりしていて感心ですし、風邪による欠席の多さと今回の成績ダウン以外の点では特に問題ありませんよ」
「はあ…」
 どことなく拍子抜けしたような声で光一郎は曖昧な返事をした。友之から担任とはあまり話をした事がないし、どんな人かよく分からないと聞かされていた分、光一郎としてはこの岡村の事は今までの教師陣の印象…友之を腫れ物扱いしている…部類の人間だと予想していたところが大きかったのだろう。特別良い教師という印象もないが、それでも悪い奴というそれも抱きにくい。掴み所のないその様子に毒気を抜かれてしまったようだった。
「ところで北川はどうして福祉の道に進みたいと思ったんだ?」
 黙りこくった光一郎から友之へと視線の位置を変え、その岡村が言った。
 友之は途惑ってすぐには答えられず沈黙していたのだが、それにも慣れっこの目だ。
「別にどんな理由だって構わないんだ。何も思いつかなかったからとりあえずこれにしてみたとか、そんなのでも…」
「ちが…」
「違うのか?」
「………」
 こくりと頷く友之を岡村は黙って見やった後、今度は光一郎の方を見た。
「お兄さんは理由をお聞きになりましたか」
「あ…はい。誰かの役に立ちたいからと」
「ほう…。立派ですね」
 無感動な声ではあったが岡村はここでようやく笑うと、開いていたファイルをぱたりと閉じた。そうしてちらと窓の外へと視線を向け、「今日は友之君で5人目なんですけど」と独り言のように呟いた。
「実はうちの学校は進路指導に関して他の高校よりもスタートが随分と遅いものですから、生徒たちも急に卒業後の進路うんぬんと言われても困ってしまうらしいんですよ。ですから、この用紙をこうやってきっちり書いて提出してくれたのは北川君も含めてクラスの3分の1程度なんです」
「…そうなんですか?」
 光一郎が驚いたような声を出すと、岡村は先刻よりも渋い顔をして笑った。
「まだ高校1年だからといえばそれまでですけど、やっぱり日本って国はヘンなところではのんびりしていると思いますよ。基本は急かし主義のくせにね。逆に仕事面などでスローな外国なんかでは、もっと幼い頃から将来を定めて学校でも細かいクラス分けをしたりしているところもありますからね」
「へえ…」
 友之が思わず声をあげると、それに担任が驚いたような顔を向けた。はっとして慌てて俯くと、岡村はそんな友之にここで初めて可笑しそうな目を向けた。友之自身は気づいていなかったが、光一郎は見ていた。それはどことなく人懐こい情のある顔だった。
「そうなんだぞ、北川。まあ早く決めればいいってものでもないとは思うし、早く大人になるのがそんなに偉いというわけでもない。だけど、大人になるという事を意識するのはとても大切な事なんだよ」
「………」
「そうですね」
 光一郎が黙りこくる友之の代わりに返事をすると、岡村は突然からかうような声で言った。
「お兄さんは優秀な大学に入られているようですし、それこそ高校の頃からきっちりと目標を決められてたんじゃないですか」
「え? いえ…別に。僕が進路を決めたのは高3ですから」
「え…ああそうですか。それじゃあ、こういう話をしようとなったとしても、ちょっと弟君には説得力がなかったですかね」
「そうですね」
 光一郎が苦笑すると担任は「まあ、でも」と口調を変え、言った。
「何だかよく似た兄弟ですね」
「は…?」
「何となくですが。それに仲も良さそうで。北川良かったな、こんなしっかり者のお兄さんがいてくれて」
「………はい」
 友之がしっかと頷きながら答えると、岡村は自分も同じように頷きさっと先に立ち上がった。そうして「今日は凄いお母さんが多くて疲れましたよ」…そんな愚痴めいた独り言を放ち、最後につけ足しのように言った。
「うちは福祉系の推薦枠は結構あるので、これから残り2年間、しっかり勉強してそちらも考慮に入れた進学を考えていくといいですね」
「……欠席多いから既にもう無理だと思ってました」
 光一郎が驚いたような声ですぐに返すと、岡村は声を立てずに笑った。
「まだあと2年あるんですよ。幾らでも挽回できますよ」

 思えば光一郎がいやに積極的に友之を傘に入れたり肩を引き寄せたりしてきたのは、らしくもなく浮かれていたからかもしれない。そう、教室を出たばかりの光一郎はどことなく機嫌が良かった。

 良かったな、フツーの先生で。

 光一郎の言葉に友之は素直に頷いた。




時間軸をごちゃ混ぜにした事に特に意味はありません…。
【つづく】