いせつ


  ―4―



 そのジュウジュウという鉄板が立てる音と鼻先を掠める香ばしい匂いとに、友之は周囲の熱気に翻弄されつつ、きょろきょろと物珍しげな視線を向けた。
 そこは商店街の大通りにある割と小奇麗なお好み焼き屋。
 最近店の主が頑固一徹な無愛想人間の「オヤジさん」から若い息子夫婦にバトンタッチした。その影響でその店は大掛かりな改装後、手狭なカウンターと古ぼけたテーブル席のみという様相から、座敷と新品の木材テーブル席とが配備された「イマドキ」の店へと見事なイメージチェンジを遂げた。
 結果、常連だった中年層のサラリーマンや夕刻過ぎのちょっとした井戸端会議に利用していた地元自営業のおじさん連中はその姿を消し、代わりに学生や若い家族連れが気軽に立ち寄るような雰囲気の店になった。
 そのお好み焼き屋を選んだのは光一郎だ。
「お前は本当に損な性格してる」
 程よい量の油を鉄板に布いた光一郎は、いやに慣れた手つきで運ばれてきたお好み焼きの素が入ったボールを持つと何気なく言った。友之は光一郎の手元を何となく見つめていたが、そう言われて「え」と驚いたように顔を上げた。
 光一郎が言った。
「たまにはな。あれが食べたい、これがいいってな自己主張をしろって事だよ。いつも何が食いたいって聞いても 『何でもいい』、だろ?」
「だって…」
 本当に何でも良いのだ。
 友之は困ってさっと俯いてしまった。それでもやはり光一郎の手の動きが気になって、すぐにちらりと視線を戻した。
 光一郎は友之の方を見ていなかった。ただ自分を見つめる友之の様子には気づいているのだろう。どことなく楽しそうな顔で丁度良い具合になっている生地を鉄板に落としこみ、手にしたお玉でくるりと器用な円を描き、友之の傍にある砂時計を顎でしゃくった。
「それ、ひっくり返して」
「え…?」
「時間計るんだよ。砂が全部落ちたらまたひっくり返す」
「う、うん…っ」
 言われた事に納得して友之は慌てて傍にあった小さな砂時計をくるりと逆さにした。サラサラと青く細い砂が下の方へと流れ落ちて行く。その様が何だかとても綺麗で、友之はじっとそちらへ目を向けた。
「こういう所、初めてか」
 光一郎が訊いた。ちなみに鉄板の上のお好み焼きは第2段階とでもいうように、その生地の上に昆布だしやのり、更に実に豪快な勢いで山盛りキャベツが乗せられていた。
「あ…うん」
 友之がそれらの光景に思わず目を見張ると、逆に光一郎の方は何とも思っていないようにただ無機的に作業を続け、ただ納得したような調子で「そうか…そうだよな」と呟くように言った。それから手にしていたコテを置いて肩肘をつくと、何事か考えこむようにふっと視線を横へとやった。
「………」
 つられたように友之もそちらへ目をやった。
 友之たちが座っていたテーブル席は丁度店の外が見える窓際の一番後ろで、夜の時間とはいえ商店街は未だ煌々とした明りに包まれ割と人の通りもあり、賑やかに見えた。雨はどうしたのだろう、止んだか随分と小雨になっているのか、傘を差している人はいなかった。
「こっちビール2本くださーい!!」
「はい、間もなく〜!!」
「………」
 そんな明るい外だけではない。店内も。
 友之はふっと視線を外して店の中へと目を戻すと、ざわついている辺りをもう一度見やった。席は殆ど埋まっていて、エプロンにジーンズ姿の店員たちが忙しそうに盆を持って行き来していた。客層もまちまちで、座敷の方では学生の集団がわいわいとビールジョッキを片手に騒いでいるし、友之たちと同じテーブル席には何故だか泣きべそをかいている子どもや、そんな子どもを叱咤している夫婦の姿もあった。そう、この時間帯だからか、家族連れも大層多かった。
 ちなみに「兄弟」とおぼしき組み合わせは友之たち以外見受けられない。
「そろそろいいかな…」
「あ…」
 不意に聞こえた光一郎の声で友之は我に返った。
 友之の視界には鉄板の上のお好み焼きを実に器用に手にしたコテでひっくり返し、軽く押し潰すようにして反対側もジュッと焼いている光一郎の姿があった。
「凄い…」
 無意識に友之が呟くと光一郎は笑った。
「もう1玉はお前がやれよ」
「えっ」
「ねぎ焼きの方。見てたからやり方分かるだろ?」
「う…うん…」
 鉄板の上で丸いお好み焼きを半分に割る光一郎。その光景に友之は急にわくわくとした気持ちになり、思わず口を開いた。
「できるかな…?」
「ん? ああ、簡単簡単。そら、こっちもういいだろ。皿出しな」
「うん」
「そこにあるソースは好きなの掛けて食えばいいから。かつおぶしとのりはこれくらいでいいだろ」
「うん」
 受け取った皿の上には妙に満足そうな様子で納まっている美味しそうなお好み焼きがあった。友之は感慨深気にそれを見やった後、テーブルの上に用意していた割り箸を手に取って「いただきます…」と小さく言った。
「あれ…」
 けれどふと目を向けた先、光一郎が自分の分は皿に盛らずに鉄板から直接コテで食べているのを見てぴたりと動きが止まった。じいっと見やっていると光一郎はまた笑った。
「何だよ。こうやって食うんだよ、ホントは」
「そうなの?」
「はは…嘘うそ。どうだっていいんだ、食べ方なんか。そんなもん人それぞれだから」
「……熱くないの?」
「ああ、別に」
「………」
「お前は箸にしとけ。冷ましてから食いたいだろ」
「………」
 友之は結構な猫舌だ。そうでなくとも元々熱い物はそれなりに温度が下がるまで食べない主義だった。だからスープなんかも本来はじーっとおとなしく待って、程よく冷めてからゆっくりと食す。友之は早食い主義や食い意地の張った人間から見れば何とも辛抱強い食事の摂り方をしていると言えた。
 けれどこの時の友之は何故かどうしても光一郎と同じように食べたいと思った。
「こうやるの?」
「え…ああ…」
 大皿の上にあったコテを取った友之を見て光一郎が動きを止めた。平気だろうかという不安そうな目に見守られながら、それでも友之はぱくりと割に器用な手つきで生地の端っこを少しだけかじった。
「……どうだ?」
「凄く……美味しい」
「ふ…。そうか」
 思わずふわりと笑った光一郎に、けれどこの時の友之は気づいていなかった。ただ必死にお好み焼きを食べ、はみ出したキャベツも落とさず口に入れようと必死に口をもぐもぐと動かす。さくりとした食感と食欲を誘うソースの匂いが堪らない。お好み焼きは裕子が家で作ってくれた事もあったが、あの時はこんな味だっただろうかと思う。どうにも思い出せなかった。
 とにかく美味しい。美味しくて嬉しくて胸が高鳴る。
「今度はこっちのねぎ焼きな。横で焼きそばもやるぞ」
「うんっ」
 今度は自分が作るのだ。友之はそれが嬉しくて急いで今の分を口に含むと、光一郎から嬉々として生地の入ったボールを受け取った。
 不思議だった。こんなに人がいるのにまるで気にならない。ジュウジュウと上り立つ煙と共に友之の気持ちまでが異様に昂ぶっていた。





 店を出た時は雨も止んでいて、「少しだけ遠回りして帰ろう」という光一郎の提案に友之はすぐ頷いた。このまますぐ家に帰ってしまうのは惜しい気持ちがしていた。
 あと少しの間だけでも、友之は「外で」光一郎といたかったのだ。
「寒くないか?」
「平気…」
 横に並んで歩く光一郎は当然の事ながらそのペースを完全に友之にあわせている。光一郎が普通に歩いてしまえばと足の長さが違う分、必然的に友之はどうしても遅れをとってしまうから。
「さすがに静かだな」
 光一郎が言った。
 わざわざ家路へ向かう道を2本ほど逸らして、友之たちは河原沿いの細い夜道を歩いていた。視界の左側にはいつも見る川が流れていて、ちょっと道を外れればもうその川岸に沿う草っ原へと通じる。いつも練習後はこういう草地に腰を下ろして辺りの景色や未だプレイをしている他の野球チームなんかを眺めて帰る。ただし今歩いている河原沿いの道はいつもの河川敷グラウンドへと向かうそれとは反対側の通りだったので、友之にとってはどことなく新鮮な見知らぬ場所のように感じられた。
「あ…」
 その時、友之はふと気づいた。
 雨上がりのせいというのもあるだろう。建物の少ないそこは、見上げればぽつぽつと小さな星の姿が見て取れた。アパートからはこんな風に見えたりはしない。友之がはっとして立ち止まりそれらに目を向けると、光一郎も足を止めて「ああ」と声を出した。
「オリオン座だな。今日はさすがによく見える」
「どれ…?」
「あれだよ」
 光一郎は友之の肩に手を置き、視線をあわせるようにしてもう片方の手を空へと指差した。やや屈んで声を近づけてくれたお陰でその言葉もよく聞こえた。
「小さな星が3つ並んでるだろ。それからそれを囲むようにしてあるそれぞれ2つの四角形…そうだな、全体的に見ればさっきの砂時計みたいな形したやつ。あれがオリオン座だ」
「…っ?」
「分からないか?」
「あっ…。あれ? 下に3つ…」
「そうそう、それだよ。それから今は冬だから、その下の方…ほら、シリウスもよく見える」
「………」
「おおいぬ座だ。……久々に見た」
「………」
 友之が何気なくそう呟く光一郎の方を見ると、そこには珍しくも妙に楽しそうな目をして星空を見上げる兄の横顔があった。
「……っ」
 友之は思わずどきりとした。
 こんな穏やかな光一郎の顔や声がすぐ間近にある。ただその距離も別段初めてのものではない。もうとうに慣れたはずだというのに、どうしてか今この時、友之は異様に緊張し頬を紅潮させた。
 何だかいつもと違う。
「……どうした?」
 そんな友之に光一郎がいつもの如く素早く気づいた。
「何でも…」
「……嘘つけ」
 そして光一郎は慌てて首を振る友之を一蹴すると、おもむろにすっと密着させていた身体を離した。
 それに友之はまた「あ」と思う。手を離して欲しくはなかったのに。
「さすがに冷えるもんな。そろそろ帰るか」
「えっ!」
 だからだろう、光一郎がそう言った時は咄嗟に声が出ていた。
「……っ。な…んだよ。そんな声出して…?」
「あ…。……」
「変な奴だな。本当、どうした?」
「………」
 言えなかった。
 光一郎の事をただ見ていただけだとか、離れて欲しくなかったとか、まだ帰りたくないんだとか。
「………」
 そういった事を言う事は。だから友之はぐっと唇を噤んで暫し逡巡した。
 そして。
「あの…。さっき、楽しかった、から…」
「ん…?」
 そして友之は暫くしてから不意に自分でも分からず、唐突にそんな台詞を出した。
「楽しかった…」
「あ…? ああ、メシな。あそこ見た目は大分変わったけど味自体は前とそんなに変わってないし。最後のデザートも美味かっただろ」
「うん…」
 友之はお好み焼きを堪能した後は、隣のテーブルで美味しそうにチョコレートパフェを食べている男の子を見つめ、光一郎にしっかと同じ物を注文して貰ったのだ。上にたくさん乗っているバナナは最高に美味しかった。
「今度ああいうの、家でもやるか」
 光一郎が友之の顔を覗きこむようにして言った。
「お前も初めての割にうまく焼いたし。ホットプレートならあるから」
「うん。……」
「……今度は何だ?」
「あ! ……うん。コウは…ああいう所、よく行くの?」
「え。ああ…そうだな。前はよく行ったな。高校ん時とか」
「そうなの…?」
「ああ。うちで…あんまり食う気しない時なんかに、な。学校の奴らなんかと」
「………」
 殆ど弾みで始めたようなそんな話題だったが、友之はここで思わず沈黙した。
 確かに光一郎は高校時代の特に後半、受験勉強だの何だの色々な理由をつけては帰りが遅くなる事があった。実際、家で勉強がはかどらなかったから外へ出ていたのは事実だろうが、それにしてもあの頃確かに光一郎は家族から、そして友之からも離れようとしていた。
 友之は心内で多少狼狽しつつも、ふと思い立ちまじまじと光一郎の顔を見やった。
「………」
 そういえばそんな光一郎の学生時代は勿論のこと、こうして2人歩いていけるようになった現在とて、彼が外でどんな風に誰と過ごしているかなど、1度もまともに聞いた事がないではないか。
「今も…行く?」
 意図せず掠れ声になってしまった。そんな友之の問いかけに光一郎は少しだけ笑った。
「今は行かないさ。昼だって学食の100円うどん食ってた方が安上がりだしな」
「………」
「夜だって殆どお前と一緒だろ? そりゃ…時々は付き合いで飲みに行ったりってのはあるけどな」
「……うん」
「この答えじゃ不満なのか?」
「あ……ちがう」
「違う?」
「うん。ただ、今まで聞かなかったから。僕が…いけないから」
「……何でお前がいけないんだ」
 憮然とする光一郎に友之はかぶりを振り、ようやくやんわりと笑って見せた。光一郎に妙な心配を掛けたくないというのは一環して友之の内にある想いだったし、大体にして今までの、そして現在の光一郎を知らないのは本当に自分自身が原因なのだ。変に落ち込んだり暗くなったりしてはいけない。
「何でもない」
 だからもう一度笑って見せた。そんな友之の表情に光一郎が一瞬たじろいだような瞳をちらつかせた事になどまるで気づかずに。
「コウ…」
 そして友之は尚続けた。
「これからは…言う…。もっと知りたい」
「何を……」
「コウのこと…」
「………」
「今日、嬉しかったんだ。さっきのお店でも、学校でも…」
「学校でも?」
「うん。コウが来てくれて…皆が喜んでた。先生も誉めてくれてた。コウ兄のこと、みんな…」
「バカ…お前の面談なのに俺が誉められてどうするんだ」
「でも、自慢だから」
「と……」
 思わず絶句する光一郎に急に恥ずかしいものを感じ、友之はぱっと視線を本来の色を消している川へと向けた。それでもこれだけは言いたかった。今日の嬉しさはきちんと口に出して言っておかねば後で必ず後悔すると思ったから。
「あの、皆、自分の兄弟とは仲良くないって。そういうの…普通だって。口もきかないし、いらないとか…平気で、言ってたし」
「そう…なのか?」
「うん」
 光一郎もこれには意外な気持ちでいるのか。その反応に友之はぱっと顔を上げて続けた。
「皆、羨ましいって。いいなって言ってた。先生だって言ってたし。だから…僕も頑張る…。……コウみたいになれるように」
「ばっ…!」
 思わず声を上げかけて不意に黙りこくった光一郎を友之は不思議そうに見上げた。それでも今の勢いを止められず、まるで何かの決意表明のように尚言った。
「お好み焼きももっと美味く焼けるようになる…!」
「あ…あのな友之…。………」
「………?」
「あー…くそっ!」
「コウ…?」
 友之が一通り吐き出して清清しい気持ちでいるのに対し、一方の光一郎はぐしゃりと前髪をかきまぜてどこか悲嘆するように項垂れた。そうしてその一拍後、怪訝な顔をする友之に「来い」と自棄のように言った後、光一郎は強引にその手首を掴み、どんどんと川べりへと下りて行った。
 そして公道のすっかり見えなくなった所まで来て、光一郎は抑制の糸が切れたように友之の身体を思い切り抱きしめた。
「コ…っ」
 友之が面食らってボー然とした声を出したが、それでも光一郎はその華奢な身体ぎゅっと抱きしめたまま暫し微動だにしなかった。
 そしてやがて。
「お前はバカだ」
「え…」
 光一郎は疲弊したようなため息交じりの声で言った。
「ふざけんなよ…。俺みたいになったら絶対承知しないぞ」
「コ…コウ兄…?」
「分かったな?」
「コ……ッ」
 すかさず塞がれた唇。
 友之はひゅっと喉を鳴らしながらそれを無抵抗で受け入れた。いつもよりも深い。そんな事を考えながら、反射的にぶらりと下げていた腕を微かにばたつかせた。けれど光一郎はそんな抵抗はどうでもいいというように尚も友之の薄い唇を何度も摘むようにして吸い付いた。
「ん、んぅ…」
 それが小刻みに離れていく度に息を吸おうとして、友之はその度拙く失敗した。さすがに胸が苦しくなって眉をひそめると、そこでようやっとその様子に気づいた光一郎が慌てて離れてくれた。
「……ごめんな」
「……っ…」
 そして光一郎は謝った。嫌だと思って必死に首を振ると、光一郎はそんな友之の頭を優しく撫でてやりながら苦笑した。
「でも本当はな…俺はあの店にいた時から、お前にこうしたかったんだよ」
「え…」
「お前があんまり可愛い顔してたから。それに、これ…さっき食べたチョコの味な」
「あ……」
 自らの唇を指先に軽く当てて光一郎は悪戯っぽく笑って見せた。
「甘い。お前…お前は本当に…俺には毒だ」
「え…」
「だから、そこでそんな顔するなって」
 心底参ったという風になりながら光一郎はまた小さく笑った。
 そうして本当にギリギリのラインで思い留まっていたのだろう。光一郎はその後「帰るか」と言った自分に対し、さんざ迷った挙句「手を繋いで帰りたい」というような事を必死になって訴えてきた友之に―。
「お前…」
 光一郎は何とも表現し難い顔で低く唸った後、こう言ったのだった。
「鬼か…」
 勿論、友之にこの時の光一郎の心意など分かるはずもなかったのだが。




大阪のお好み焼きって1人1枚ってホント?分けて食べないの?
【つづく】