数馬君ちへ度めのお泊り!


  ―2―



「 和衛さん」
  そわそわと部屋中をいったりきたりする和衛を静かに嗜めたのは、揺り椅子に背中を預けて読書をしていた母の峰子だった。
「 さっきから何ですかお行儀の悪い。お腹の空いた白熊みたいにウロウロして、何か欲しいならシェフに竹輪でも貰ってきなさい」
「 ……お母さん。何よ白熊って。それに竹輪って」
「 よく分からないわ。思った事をそのまま言っただけよ」
「 お母さんは私が白熊に見えるわけ? どこが!? あんな大きなもの、数馬お兄ちゃんの事を言うなら分かるけど!」
「 じゃあ子リスとでも言った方が良かったかしら」
「 大体私は竹輪が嫌いなのよ!」
「 ……静かになさい。そもそも、貴女がそうしていたって友之さんが早くに来るわけじゃないのだから。私のようにこうして本でも読んでいた方がよほど有効に貴重な時間を使えるでしょう」
「 もう宿題はやったもの」
「 そういう事ではなくて」
「 だ、大体っ。私はあんな人の事はどうでもいいのっ!」
  母の峰子に指摘された事が思い切り気に食わないという風な顔をして、和衛はふんと鼻を鳴らした。けれどもいつまでもその場に突っ立っているのも手持ち無沙汰ではあるのだろう、母に言われた事をきっかけとして、和衛は仕方なく傍のソファにぼすんと腰をおろした。
「 私はただお母さんたちばかりか、お父さんや昂馬さんまでがあの人の事をやたらと気にして、また家に招待するだなんて言うから…だから気に食わないだけよ。特にお父さん! 今日は何時に帰ってくるって?」
「 夕食までには帰ると仰ってたわ。本当はお休みしたかったらしいけれど、どうしても外せない用が出来たからって、早朝少し悔しそうな顔をしていたわね」
「 ……面白くない」
「 そうねえ」
  ぶすくれる和衛には視線をくれず、それでも母の峰子ははたと思い出したような顔になるとページを捲っていた手をぴたりと止めた。
  そうしてどこか遠くを眺めるような顔をして薄く笑う。
「 確かに、あの人のああいう様子は久しく見ていなかった気がするわね。いつでも退屈そうにしている人だから。……まあ分からなくもないけれど」
「 何が」
「 何がって、貴女だって分かるでしょう。お父さんが友之さんを気に入っている理由よ。勿論、それは私も貴女も」
「 私は別に気に入ってなんかないっ!」
「 女の子は素直な方が可愛いのよ」
「 余計なお世話!」
「 ………」
  依然としてぷりぷりとしているオシャマな娘に、母は気づかれないようにそっとため息をついた。一体どこをどう掛け間違えてこう意地っ張りな強気娘が出来上がってしまったのだろうか。確かに末っ子の長女という事で自分も含めた周囲は彼女をかなり甘やかして育てたが、だからこそ、上2人の兄と比べたり、過剰な教育を強制したりといった事はしなかったはずなのに。
  気づけば和衛は香坂家の誰よりも自己顕示欲の強い人間となっていた。
「 ……お母さん。今何かつまんない事考えてなかった?」
「 そうやって人を窺うようにして物を訊ねるのはおやめなさいな」
「 ふん」
「 和衛さん」
「 それにしても遅いわね、和樹兄さんは! どこまであの人を引きずり回しているのかしら?」
  最早峰子の言葉を耳に入れず、和衛は更に苛立った調子で呟いた。峰子はもう一度、今度はあからさまに嘆息した後、諦めたように膝に乗せていた本へまた視線を落とした。
  しかし、まさにその時だ。ビーッと激しいブザー音が隣室から鳴り響くのが2人の耳に入った。
「 ……あら」
「 昂馬さんが呼んでる!」
  和衛が叫ぶと同時にばっと立ち上がり、急いで窓際へ駆け寄った。峰子が座る揺り椅子の背後には窓越しに祖父・昂馬の離れがちらりと見える。変わり種の祖父は仕事を引退した後、家族とは何故か一線を隔してずっとその一軒家で1人暮らしをしていた。そして余程の用が無い限りはそこを出てくる事はなく、何か頼みたい事などがある時は本宅にある内線を鳴らしてくるのだった。
  ただ、それに反応して向こうへ出向く相手はいつでも決まっていた。
「 どうするの。和樹兄さん、まだ帰ってないけど」
  和衛が母を振り返り訊いた。母の峰子もやや首をかしげた後、ゆったりとした動作で立ち上がり、庭先へと目をやった。
  昂馬が用を言う相手はいつでも家族の中では長兄の和樹のみ。その和樹は友之を迎えに行っていて留守だった。
「 ヨシノを呼んできてちょうだい」
「 うん」
  峰子の言葉に和衛は素直に頷き、部屋を出て行った。和樹がいない時の用事は大抵使用人のヨシノがお伺いを立てる。若いながらもよく気がつく控え目な彼女を、昂馬は事によると嫁の峰子や孫娘の和衛よりも気に入っていた。
  そういうあからさまなところが、娘の和衛がまた一層捻くれてしまった原因のように峰子などは思っているのだが。
「 お母さん、お母さん!」
「 え?」
  そんな事を何ともなしに考えていた峰子の元へ、たった今部屋を出て行った和衛が勢いこんで戻ってきた。また廊下を走ってと嗜めようとした瞬間、和衛は興奮を隠しきれない様子で声を上げた。
「 き、来たっ。来たわよ、あの人! 今、車停まってる!」
「 えっ」
「 昂馬さん、私たちに知らせただけみたいっ。とにかく早く早く!」
「 あらあら、大変」
  和衛を叱る事も忘れ、その嬉しい来客の知らせに峰子も途端ぱっと笑顔を見せた。2人が争うように部屋を出て行くその瞬間、壁に掛けていた木枠のアンティーク時計がボーンボーンボーンと15時の知らせを打った。


×××××


  1度来た事がある家だ。
  けれど友之は和樹が運転する車で大きな門をくぐり抜け玄関前に立った時、その何ともいえない空気に思わずたじろいだ。
「 いらっしゃいませ友之様!」
「 いらっしゃいませ!」
「 ……っ」
  一斉に駆け寄られ深くお辞儀をしてくる香坂家の使用人たちに、友之は思わずびくりと肩を揺らして後ずさりした。どこかの王侯貴族が住む世界にでも迷いこんでしまったようだ。勿論、数馬たちが住む家の外観はそのような大きなお城でもなければ、使用人たちとて何十人も何百人もいるわけではない。前回も顔をあわせたヨシノという若い女性と老執事、それに数名の、ヨシノよりは年長だろう女性数名。それから友之に美味しい食事を振舞ってくれた元フランス料理店の主だったという痩せ型の老齢シェフ。それだけだ。
「 友之様! お待ちしておりましたよ!」
  最初に声を掛けてきたのはその老シェフだった。白いエプロンをしたシェフは頬をやや上気させ、嬉しそうにニコニコと笑って揉み手していた。
「 本日は旦那様から直々に友之様を大切なゲストとしてもてなすよう仰せつかっておりますからね。私も朝からもう気合が入って仕方がなかった! 夕餉を楽しみにしていて下さいよ!」
「 は、はい…」
「 友之様、いらっしゃいませ」
  次にぺこりとお辞儀をして近づいてきたのは前回も随分と良くしてくれたヨシノだ。完璧な立ち居振る舞いで友之の前に立つと、彼女はあの時と同じ優しげな笑みを浮かべた。
「 友之様のお休みされるお部屋の用意も出来ております。まずそちらでお寛ぎになりますか?」
「 ああ、そうだね。そうする? 友之君?」
「 え。あの…?」
  慣れない世界に思い切り動揺する友之の背中を支えそう言ったのは、荷物を下ろして後からやってきた和樹だった。傍にはシリューもいたが、さすがに家の中に入れない事は弁えている。彼は車から降りるとすぐさま主である和樹の傍に行儀よく座り、おとなしくなった。
  友之はそんなシリューと和樹とを困ったように見上げた後、沈黙した。
  先刻までここにいる和樹とシリューとで公園へ行ったりケーキ屋へ連れて行ってもらったりと既に随分もてなしてもらった気になっていたが、何だか更にこれから凄い事が起こりそうな気がした。元々そんな風に他人にしてもらう事に躊躇いを持つ友之であるから、歓待してくれる彼らの気持ちは痛い程に嬉しいのだけれど、その喜びを表に出すよりもまず先に怖気ずいた気持ちが先に立ってしまうのだ。
「 いらっしゃい、友之さん」
  その時だ。弾んだような、それでいて凛とした声で友之を呼ぶ声に、周囲にいた使用人たちが一斉に退いた。
「 あ…」
「 お待ちしてましたよ。香坂家へようこそ」
「 あ…は、はい…。あの…こんにちは…」
「 はい、こんにちは」
  にっこりと笑い、母の峰子は友之の挨拶に満足気に頷いた。……が、その笑みもほぼ一瞬のもので、すぐさまそんな母を押し退けるようにして数馬たちの妹である和衛が偉そうに現れた。
「 ちょっと友之さん。私には一言もなし?」
「 あ……」
「 貴重な休日にまた貴方みたいな他人があがりこむって知って、私としては大きな迷惑よ。勉強の邪魔にもなるしね」
「 和衛」
「 和衛さん」
  母の峰子と兄の和樹がほぼ同時に非難するような目と声を向けたが、当の和衛はまるで動じなかった。ちらちらと友之の反応を窺いながら、腕組をしてそっぽを向く。気になって仕方がない相手に冷たい言葉を吐き、尚且つ顔を背けながら横目でそんな相手を見据えるのは和衛の癖のようなものだった。まったく素直でないのだからと2人の家族が思っていると、そのすぐ傍で友之が消え入りそうな声を発した。
「 か、和衛ちゃん…。こんにちは…」
「 か…っ!?」
「 和衛ちゃん…!?」
  しかし友之のその発言は和衛をあんぐりとさせ、いつも静かな和樹をも仰天させた。
「 ……プッ」
  そうして母の峰子がやがてクスクスと笑い出すと、傍で呆気に取られていた使用人たちまでもが小さく笑みを漏らし始めた。
「 ちょ…っ!!」
  それに真っ赤になったのは勿論和衛だ。
  1人状況が分からずにオロオロとしている友之を思い切り睨みつけると、庭の木々がざわめいてしまうくらいの大声で怒鳴りつけた。
「 ちょっと! 《ちゃん》って何!? 何よその言い方! やめてよ子どもじゃないんだから!!」
「 子ども……だよ?」
  おずおずと言う友之に和衛は更に顔を赤くさせた。
「 違うわよ!!」
「 いいえ、子どもよ」
「 そうだな。子どもだな」
「 なっ…。お、お母さんと和樹兄さんまでっ! で、でも、それを言うなら貴方だってまだ子どもじゃないっ。そんな人に気安くちゃんづけなんてされたくないわ、私は!!」
「 あ…ご、ごめんなさ…」
「 いいんだよ友之君」
  謝りかける友之の肩をぽんぽんと叩いて和樹が笑った。
「 和衛のこと、そんな風に呼んでくれる子ってきっと友之君だけだよ。中学校でも和衛はクラスメイトに和衛さんとか和衛様とか呼ばれているみたいだからね」
「 さま…?」
「 和樹兄さん!? 何よそれはっ!!」
「 違うのか?」
「 違うわよ! 様なんて呼ばせてないっ」
「 意外」
「 ……ちょっと。和樹兄さん、数馬お兄ちゃんみたいよ、今の」
  ひくひくと頬をひきつらせながら和衛が呻くように言うと、何故か傍に座っていたシリューが一声「わんっ」と吠え立てた。和衛がそれでびくりとすると、シリューは嬉しそうにぱたぱたと尻尾を振って和衛のことを見上げた。
「 ……何よ何なのよ」
  和樹が訳も分からずむうっとして呟くと、友之がシリューを見て小さく笑った。
「 あの…シリュー、和衛ちゃ…さんのこと、好きなんだよ、きっと」
「 え?」
  友之の言葉に和衛はあからさまに途惑ったようになりながら、しかしやがて一瞬だけ嬉しそうな顔を閃かせた。
  本当に一瞬だったのだけれど。
「 う、嘘よっ。そこのバカ犬はねー。私には全然懐かないんだからっ。それこそ、いつ噛み殺されるかって私や他の家族は皆怯えてるくらいなんだからねっ」
「 シリューは良い犬だよ」
「 ありがとう友之君」
  和衛のシリューへの悪口にすぐさま友之が庇うように返すと、和樹が顔を綻ばせて礼を言った。普段からシリューをはじめとした動物全般に大した関心を示さない家族の中で、唯一和樹は無類の動物好きを自認する存在だった。彼が友之のことを殊更気に入っているのは、そのあたりも関係があるのかもしれない。
「 そういえば2人はシリューとお散歩へ行ってきたんだったわね。友之さん、楽しかったかしら?」
  峰子が間に入ってそう訊くと、友之はすぐに恐縮したようになって頷いた。
「 はい…。あの…それと、ケーキも買ってもらって…」
「 え?」
「 昂馬さんの奢り」
「 何よそれ…」
  すかさず不平のような呆れのような台詞を吐き出す和衛に和樹が苦笑した。
「 安心しろよ。お前の分もあるから」
「 私はいらないわよ!」
「 まあまあ、和衛さん。いい加減になさい。それよりもいつまでもこんな所に立っていたんじゃ友之さんにも迷惑よ。…ヨシノ」
「 はい」
「 友之さんをお部屋へお連れして。着替えは用意してあるわね」
「 はい、勿論でございます」
「 それじゃあ、私たちは応接間へ行っているから、貴方たちはお茶の用意をお願いね」
「「「はいっ」」」
「 それじゃあ私は夕餉の支度に戻りますわ」
  峰子の一言で使用人たちやシェフがばたばたとそれぞれの持ち場へ去り、更にぽかんとしている友之をヨシノが促すように家の中へと先導していく。
  その様子を一様に眺めた後、和樹はその場に残った峰子と和衛とを交互に見やった。
「 数馬は予備校へ行ったんですか?」
「 ええ。貴方が出た後すぐにね」
「 そうですか。ふ…驚くだろうな。友之君がうちに来ているって知ったら」
「 そうね」
  和樹の言葉に峰子もどことなく悪戯少女のような顔をして唇を緩めた。
「 ………」
  そんな2人の会話を聞きながら、和衛だけは未だ不満そうに頬を膨らませていた。何の迷いもなく発せられたあの呼び方。和樹が言った事は決して全て真実ではないけれど、まったくの嘘というわけでもない、自分の周囲に対する立ち位置。それを自覚しているだけに、和衛の胸の動悸はいつになく激しかった。
  和衛は振り返ってすぐ目の前にある二階への階段を見上げ、ぽつりと小さく呟いた。
「 まったく何が和衛ちゃん、よ。馴れなれしいんだから…っ」



【つづく】