びんぼっちゃまの呪い



  ―1―


  涼一はその日、寛兎が急な腹痛を起こしてのたうち回っているから、「看病しなくてはならない」という理由で、雪也からデートの約束を反故にされた。
  何でも、その日に限って服部家一同は不在。寛兎の家人も留守にしていて、「寛兎が寂しがって泣くから」との事だったが、そんなものは雪也を引き留めたいが為の大嘘に決まっていたし、よしんば腹痛が本物だったとしても、どうせ「道に落ちていた物でも拾い食いしたんだろう」と思えば同情の余地などなく、涼一は怒りで腸を煮えたぎらせていた。
  しかも、「それなら自分も一緒にいる」と言う提案も、「それじゃ寛兎が安心して休めないから」という理由で却下。
「あのクソガキ……毎回毎回、ふざけんなっ!」
  通話の切れた携帯電話をその場に叩きつけて涼一は激昂した。最近、特に酷い。勿論、自分たちの約束をあっさり打ち破ってしまう雪也も許せないが、優し過ぎる恋人の性格を考えれば、目の前に病気で泣きじゃくる子どもがいれば放っておけないのは想像に難くない。皮肉な事に、寛兎を放置してさっさと自分の元に来てしまう雪也ならば、それは涼一の好きな雪也ではないのだった。
  だから、頭にくるのは何と言っても「あのクソガキ」である。あいつが絶対的に「悪」なのだ。
「あの野郎! 《ガキ》って特権を最大限に利用していやがる!」
  物に当たったところで、当然の事ながら気は収まらない。今頃布団の中で舌を出しているに違いない小さな悪魔に歯軋りし、次いで、そうとも知らず甲斐甲斐しく世話を焼いているだろう雪也の姿が思い浮かんで、涼一の全身は見事に沸騰した。大袈裟でなく、身体全部から湯気が出る勢いである。
  寛兎が憎い。
  いや、この際、全世界に生息する“子ども”全てが憎い。
  子どもなんて大嫌いだ!
「くそ〜!!」
  そんなしょうもない恨み節を脳裏に過ぎらせながら、涼一は意味もなく部屋の天井へ向けて咆哮した。それはさながらマンションの屋上まで突き抜けて空にまで撃ち届かん程の勢いである。
  そしてそんな涼一の神がかった怒りは、ある日涼一自身の身に奇跡を起こした。





「う……」
  怒りを誤魔化す為に飲み過ぎたせいだろうか、涼一は翌朝酷い頭痛で目を覚ました。
「いって…」
  ズキズキとする頭を必死に押さえながら何とかむくりと身体を起こす。水でも飲もうとベッドを出ようとして、ふと何だか距離感がおかしいと気がついた。
「あれ……何だこの足……」
  ベッドから足を出そうとした「それ」が、何だかいつもと勝手が違う。普段なら身体を逸らせばすぐに床に足がついて立ち上がる事が出来るのに、今日に限って両足共に何だか酷く短いと感じる。
「…………は?」
  ぼやけた目でそれを何となく眺め、次いで涼一は眉をひそめてどきんと心臓を鳴らした。
「な……」
  そしてあっという間に意識を奮い立たせてぱちりと目を開く。
  ありえない。
  信じられない。
  何なのだ、これは? 
「嘘だろ……」
  ふと自らの手のひらにも視線を落とし、それから転げ落ちるくらいの勢いでベッドを抜け出して寝室を出ると、涼一は無我夢中で洗面所にまで走って行った。
「と、届かねえ…!」
  けれど鏡台で己の顔を見ようにも、背伸びをしてようやっと頭の先がちらりと見える程度だ。低い。明らかに小さい。自分の身体が縮んでしまった!
「な……何なんだよ…!?」
  そう、何故か涼一は子どもの姿になってしまったのだ。
「おいーっ!」
  意味もなく絶叫したが、気のせいかその声も妙に高くて可愛らしい。明らかに声変わりを果たしていない幼子の声。いや待て、ちょっと落ち着けと必死に頭の中で色々と考えてみるも、現状が理解出来ない。涼一は未だガンガンする頭を押さえながらふらふらとリビングへ戻り、部屋の中央にまで行ってぺたんとその場に腰をおろした。
  何が起きたのだ、一体。
「何でガキになってんだ…。どうなってんだよ…」
  ただひたすらボー然とするよりない。幸い、記憶や意識は青年の時と変わらないようだが、身体はどう見繕っても5〜6歳くらいだ。不思議現象を信じる性質ではないが、実際問題、涼一は子どもの姿に「変身」してしまっているわけで、何かの呪いか、さもなければ性質の悪い夢か。後者であれば覚めるのを待てば良いだけだが、それにしてはいやにリアルな感覚がある。
「マジで洒落にならん……」
  小さな腕を組み、涼一は眉をひそめた。
  思い当たる節などない。例えば、何か変な物を食べたとか何とか。確かに昨日は雪也からデートの約束をふいにされてヤケ酒を煽ったけれど、それもいつも飲んでいる種類のもので、特におかしな物を口にしたわけではない。別段変わった味もしなかったと思う。
  他に考えられる事と言えば、せいぜい「全世界の子どもを呪いたい!」と理不尽な怒りで身を燃え立たせたくらいで――。
「……まさかそれで呪い返しにでもあったのか」
  非科学的なものは信じないくせにそんな言葉を吐き、涼一はとりあえず落ち着こうと、改めて自分の身体をじっと見つめた。昨夜は間違いなく青年の姿だったのだろう、私服のまま寝てしまったが、服がぶかぶかだ。ズボンはいつの間にか脱げてしまったらしく、トレーナー一枚だけだが、それだけでこの小さな身体は十分覆われている。
  しかしこんな格好では外へ出る事も叶わない。
  さて、どうするべきか。
「雪……には、こんな姿見られたくないしな」
  真っ先に雪也に助けを求めるべきだろうが、涼一のプライドがそれを邪魔した。まだ現状認識が薄いせいか、今の状態を悲観しきってもいないが、実際雪也にこの姿を見られたらと考えたら、それは少し居た堪れない気がした。しかも仰天し困った雪也が護だの創だのに助けを求めでもしたら、それこそ一大事である。
  あいつらにだけはこの姿を見られたくない。考えるだけで空寒い!
「じゃあとりあえず藤堂でも呼ぶか……いやでも、あいつも色々面倒臭ェしな……」
  けれど涼一がそんな事をつらつらと考えながら思案している時だった。

  ピンポーン、と。

  不意に、玄関のチャイムが高らかに来客を告げる音をかき鳴らした。
「こんな時に誰だ…」
  苛立たしい思いをしたまま、しかしやはり内心ではどこか心細い思いがしていたのか、来客をカメラで確かめる事もなく、涼一はばたばたと荒い足取りで直接ドアにまで向かって行った。
「誰だよ!」
  そうして乱暴に訊く。オートロック形式のマンションである、そもそもドアの前にまで来ている時点で誰だか察しをつけるべきだったが、その時の涼一には深い思考など存在していなかった。
「え…? えっと……桐野、です」
「え!?」
  涼一の乱暴な問いかけに、その声はそう答えた。遠慮深気な声。どうやら涼一の幼い声を聞いて誰か違う人間がいると思ったらしい、雪也は戸惑ったような声を出しながら、立て続けに「あの涼……涼一君、いますか?」などと言った。
「雪!」
  たった今まで「雪也にはこの姿を見られたくない」と思っていたくせに、その優しげな声を聞いた瞬間、涼一はもう背伸びをしてチェーンを解き、ドアを開けていた。目の前に昨日会えなかった恋人が姿を現す。涼一は嬉しさで忽ちぱあっと顔を綻ばせた。
「あれ? ……えっと」
  けれど雪也の方は涼一と同じように微笑んではくれなかった。明らか頭2つ分は低い目の前の「子ども」に驚き、戸惑い、部屋の奥にこの家の主がいないかと様子を窺ったりしている。
「……雪」
  涼一はむっとしながら、「俺の方を見ろ」とばかりに目の前の雪也に手を伸ばした。
「え?」
  けれど雪也はあくまでもよそよそしい。突然怒った風に自分を呼ぶ子どもにためらいながら、しかし無碍にも出来ないような態度で身体を屈めると、小さく笑いながら首をかしげる。
「君って、涼一の親戚の子?」
「違う! 俺は、りょ……りょ……りょりょりょりょ……ううっ!?」
  けれど涼一が素直に自分だと訴えようとしたところで、何故か急に喉が詰まり、その先の言葉が紡げなくなった。
「う…うぐ!?」
「ちょっ…どうしたの!? 大丈夫!?」
  雪也がぎょっとして声を掛けるも涼一は答えられなかった。喉が痛い。猛烈に苦しい。「ふがが」ともがきながら首を押さえのたうち回ると、雪也が余計焦った風に「な、何!?」、「どうしたの!?」と、幼い涼一の身体を支えるように両肩を掴んだ。
「ぷ、ぷはあっ。ハアハアッ…!」
  しかしその苦しみもほんの数秒だった。直後、脳天に直接《名乗るな》という何者かの声が響いた気がして、涼一は即座に状況を把握した。
  どうやら名乗ろうとすると呼吸困難になるらしい。これは「呪い」なのだ。よくは分からないが、子どもになる呪いを掛けられ、更にその事を誰かに訴えようとすると痛みが襲う。
  涼一は「くっ…!」と悔しそうに唸った後、スーハーと深呼吸をして、じとりと雪也の顔を恨めし気に見やった。
「もう…大丈夫だ……」
「本当? どこか悪いの? 病院行く?」
  雪也はしきりにちび涼一の頭を撫でながら気遣うように言う。
「雪……」
  そんな優しい雪也にきゅううんと胸を鳴らしながら、涼一は堪らなくなって雪也の首筋に両腕を絡めて抱きついた。
「雪、優しい。好き」
「え? あ、あの、君は俺のこと知っているの?」
「うん。凄く知ってる……」
「そ、そうか…」
  雪也は不思議そうに返しながらも、とりあえず自分に抱きつく「ちび涼一」の背中をぽんぽんとあやすように叩いた。
  それから再び目線を合わせるべく、涼一を遠慮がちに引きはがしながら尋ねる。
「あのね、涼一知らない? この家の人」
「……今、いない」
「いない? そっか……。いつ位に帰るか、分かる?」
「分かんない」
  こっちが知りたいくらいだと思うも、涼一は一方で自分の頭を優しく撫でてくれる雪也が妙に嬉しくて、ひたすらじいぃっとした視線を向けた。
  雪也はいつも優しいけれど、何だかいつも自分に向けている笑顔と、この「子ども」へ向ける笑顔は種類が違う気がした。いつもの笑顔が嫌なわけでは勿論ないが、こういうのも新鮮と言えば新鮮である。……違う子ども(例えばあのクソガキ)にこの笑みだったら許せたものではないが。
「君は涼一の親戚の子?」
「うん」
  雪也の質問に涼一は適当に頷いた。
「そうなんだ。名前は?」
「えっ? え、えっと、えっと……涼……涼二?」
  全く芸のない名前を口にしてから、涼一は雪也の手をぎゅっと握った。とりあえず、見られてしまったものは仕方がない。それに、今は雪也の力も借りねば自分は何も出来ない。元に戻るまでせいぜい甘えるしかないなと開き直ってにやりとする。
  そうだ、それにこれは、とてつもないチャンスじゃないか?
  いつもあのバカうさぎがやっているように、「ガキの特権」を生かして雪也に甘えまくるのだ!!
「あがって」
  だから涼一はぐいぐいと雪也の手を取って部屋へ導こうとした。そうだ、甘えまくってやる。ついでに、普段だったら聞けないような、自分への想いとかもさり気なく聞き出そう。夢は広がった!
「あ、あの、でも、ごめん」
  けれど雪也はそんなウキウキモードの涼一に逆らうようにして、その場からぴくりとも動かない。普段ならそんな風に逆らわれたらむっとして無理にでも引っ張るところだが、悲しいかな、今は非力な子どもである。
  やたらと背後を気にする雪也に、涼一は思い切り気分を害して声を荒げた。ただ、その声も凄く可愛らしいのだが。
「何!?」
「え? あ、いや、その……。涼一がいないなら、また出直すよ」
「いいよ! 中で一緒に待ってようよ!」
「でも……」
「桐野君、剣君はいないの?」
「!!!!!!?」
  突如として聞こえたその声と姿に、ちび涼一はその場で思わずフリーズした。
「え? 何だ、涼一いないのか」
「あ、剣さん、いないのですか? や、やはり事前に連絡をしてから来るべきでしたね…」
「いや、したんだけど…。携帯、電源切っていたみたいで。きっとまた怒ってるんだろうなって思ったから」
  たどたどしくそう答える雪也が今の涼一には目に入らない。
  何故って、その雪也の背後には「不必要な存在」が何と一気に3体も現れたのだ。
  服部創。
  冴木護。
  そして何故か、服部那智。
「おーい、桐野〜。ナニナニ、涼一いないってぇ?」
「おぉ、ラッキー! んじゃ、勝手にあがって待ってようぜ!」
「いや、それはまずいんじゃ…」
「えー! いいよいいよ、いないあいつが悪い! わざわざ来てやったんだからさ、あがっちまおうぜえ!」
「何でお前らまでいるんだ!?」
  思わず絶叫してしまった涼一に、その場で勝手に騒ぎ立てていた彼らは一斉にしんとなって黙りこんだ。創たちの背後から更に現れた大学の悪友、藤堂と逢坂康久。2人はぽかんとして、ふるふると真っ赤になって怒っている「見知らぬ子ども」を凝視した。それは創や護、那智も同様である。
  最初に声を出したのは康久だ。
「……桐野。そのガキ、何?」
「あ…えっと、俺もよく知らないんだけど、涼一の親戚の子みたい」
「親戚の? はぁ、どうりで生意気なわけだ」
「剣君によく似てるね」
  創も興味深そうにそう言ってまじまじとした視線を向ける。
「へえ〜、あいつにこんな親戚いたんだあ。従弟かなあ? おいおいボク君、涼一兄ちゃんは何処へ行ったか知らないか?」
「煩ェ、デブ!」
  藤堂の如何にも子ども受けしそうな風体と語り口調も、当然の事ながらちび涼一にはイラつきの対象でしかない。容赦のないその罵倒に、藤堂はあからさまひきつった笑いを浮かべて後退した。
「何この小生意気な坊主君〜。まさに涼一のミニ版じゃねえかよう!」
「煩ェ! 帰れ、お前ら!」
  涼一は必死になってそう恫喝するが、如何せん声変わりもまだな幼い子どもなので、何の迫力もない。周囲にいた若者たちは皆一様にしら〜っとしていたが、ややあってから康久が前に出てきてべしりと涼一の頭を叩いた。
「何すんだテメエ!」
「うっせ、教育的指導だ! お前みたいなガキはロクな大人にならんぞ! いいのか、お前は、お前んとこのあの鬼涼一みたいになっても!」
「何だと!」
「まあまあ、康久。お前も子ども相手にムキになるなよ〜」
「だってこいつ生意気過ぎる! つか藤堂、お前もこいつに暴言吐かれといてのほほんとしてんじゃねえ! 幾ら事実とは言っても!」
「わははは、康久、お前それ全然フォローになってないからよう!」
「……ダメだこのバカは」
「ああああのっ! ち、ちち、小さい子に、暴力は……そのっ!」
  既にドアの向こうに追いやられて姿の見えなくなっている那智が物凄く遠慮がちにぼそぼそ言う声が聞こえた。
「帰れ〜!!」
  しかしそんなフォローの発言すら、今の涼一には邪魔以外の何物でもない。
  折角折角、子どもになったこの好機に雪也に甘えまくろうと思っていたのに! 何でこいつらが一斉にこんな大集合するんだ、これも呪いの一種か!? と、天に恨みたくなる。
「と、とにかく。涼一もいないし、この子もこう言っているし。出直そうよ?」
  雪也が控えめにそう提案し、申し訳なさそうに涼一に微笑みかける。
「あの、留守番中にごめんね。俺たちは帰るから、涼一が帰ったら来た事だけ伝えてもらえるかな?」
「雪は残っていい! 雪だけは帰るな!」
「え?」
「何だとこのガキ! 何で桐野だけはオーケーなんだよ!?」
「だから康久、お前は殴ろうとするのやめろって!」
  カッとなる康久に藤堂が羽交い絞めして何とか涼一への接触を止める。康久はそれでもじたばたとしていたが、雪也はそんな学友たちを振り返りみてから、再び遠慮がちにちび涼一を見やった。
「で、でも、俺もまた出直すから…」
「やだ! 雪は帰っちゃダメ! 雪は絶対ここにいるんだ〜!」
  むぎゅう〜と雪也の足に縋りついて離れないちび涼一。雪也は困惑しながらどうしようという風に護を顧みた。すかさずそれに気が付くちび涼一。何でやっぱり、こういう時はすぐさま護を頼るんだ雪は〜!と、思わず「むかあ〜っ!」となり、涼一はそうされた護の方をぎろりと睨みつけた。
「あのさ」
  すると今まで黙って様子を見ていた護が思い切り苦笑して肩を竦めた。
「何か。この子が涼一ってことは……ないよね?」
  護のその発言に、その場にいた全員が呆気にとられて黙りこくった。




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