「俊史が一度も嫌な想いをせずに幸せになれる方法を模索して書いてみたけど失敗した話」(前編)


  俊史が記憶喪失になった。

「誰だ……?」

  歩遊を見てそう呟いた幼馴染に、周囲にいた人間が皆一様に驚いた顔をしたのは言うまでもない。
  無論、そう言われた歩遊当人も。

  別段、交通事故に遭ったとか、階段から転げ落ちて頭を打ったとかいうような身体的打撃があったわけではない。
  それは本当に、ある日突然、唐突に起こったのだ。
  朝方、不意の頭痛を訴えたかと思うとその場で昏倒した俊史は、運ばれた先の病院で目覚めた時には既にたくさんのことを忘れ去っていた。
  たとえば家族のこととか、学校の友人たちのこと。
  その学校での自分の立ち位置、それに――。
  歩遊のことも。
  医者は精密検査の結果を見ないと何とも言えないが、取り立てた外傷が見られるわけでもないし、家族や人間関係といったこと以外の記憶はしっかりしているので、心因性の健忘症である可能性が高いと告げた。
  そう、俊史は多くのことを忘れていたが、たとえばこれまでに培ってきた生活習慣や学習してきた知識などは一切失っていなかったのだ。
  忘れてしまったのは自分のことと周囲の人間のこと、「それだけ」。

「でも、気分は悪くないです。むしろ……何だかスカッとしてる。むしろ気持ちが安らいでいるような……いや、よく分からない、うまくは言えないですけど」

  頭を押さえつつも呟くようにそう言う俊史に歩遊は言葉がなかった。目の前にいるのは確かに自分が良く知る俊史のはずなのに、明らかに「違う」。先刻こちらを一度だけ見てくれたあの視線も今はもうない。いつも痛いくらいに向けられていたはずの俊史からのそれは、むしろ今は意図的に避けられているかのようだった。
  誰だ?
  歩遊を見て本気でそう言っている瞳に胸が抉られる想いだった。
  俊史が自分のことを忘れてしまうことなど、歩遊はこれまで一度も想像したことがなかったのだ。





「――ああ。また来てくれたのか」
  それから一週間ほど入院したが、結局、身体的には何も問題はないということで、俊史は「自宅療養」をすることになった。
「う、うん。あの…ご飯……」
「別に病人じゃないんだから、そんなしょっちゅう買ってきてくれなくても大丈夫だよ。自分の分くらい何とかするし」
「うん……」
「まあ、でも、折角買ってきてくれたんだしな。あがれよ」
  近所のほか弁屋で買ってきた弁当を引っさげた歩遊を、俊史は多少面喰らいながらも、気さくに笑って迎え入れてくれた。
「相羽って本当、世話好きだよな」
  何気なく発せられたであろうその言葉に歩遊は何も言えない。
  しかし俊史にしてみれば、自身は歩遊のことを何も覚えていないのに、歩遊がこう頻繁に自分のことを心配して自宅へ押しかけてくることにはどうしても困惑してしまうようだった。隣に住んでいる幼馴染だということは周囲からもよくよく教えてもらったようだが、その「たかが」お隣さんが、しかも今日びの男子高校生が、同級生の毎日の食事にまで気を配ってくれるということにはどうしても違和感を抱いてしまうらしい。
  それでも歩遊は俊史の様子を窺わずにはおれなかったし、俊史の方にもそれを拒絶する特別の理由などない。だから今夜も二人は「俊史の家で」、「歩遊が持ってきた」弁当を食べることになった。
「今な、アルバム見ていたんだ。小学校の頃のとか、中学の。最近のはあまりないみたいで、一応部屋の中色々見て回ったけど見つからない」
「写真…?」
「ああ。何か思い出すかと思ってさ」
  歩遊をリビングに通した俊史は、さっきまで自分がいたであろうソファ近辺に散らかっているアルバムを指し示しながら何でもないことのようにそう話した。
  もともと記憶喪失と言っても、医者からは「心因性」と言われており、身体に別条はない。だから俊史はむしろ通常の生活をした方が良いだろうとのことで、二日前から再び学校にも通い出した。全く不思議なことに、記憶喪失になる前日まで習った授業内容は全て覚えているのに、俊史は歩遊も含めた学校の人間を誰一人記憶していない。親友の戸部などはそのあまりにあんまりな露骨な忘れ方に「とぼけているんじゃないのか」と訝ったくらいなのだが、俊史が心底困ったように「ごめん」などと殊勝に謝るものだからすっかり毒気を抜かれたらしい、俊史に当たるのはやめて、彼は歩遊にせっつくように言ったものだ。

  どうせ俊の記憶喪失はお前のせいなんだろうから、さっさと何とかしろ!と。

「ちょっと散らかっているけど、そこらへん適当に座れよ。飲み物は俺が用意するから」
「あ……でも」
「いいから。お前が飯の時一緒に牛乳飲むってことはもう覚えたからさ。ははっ」
「あ、ありがとう……」
  明るく笑いながらさっさとキッチンへ行く俊史に、歩遊はただしどろもどろしているだけだ。記憶喪失になってからの俊史はやたらと明るい。よく笑うし、そして歩遊にもとても優しい。
  まるで普通の友人同士のように。
  はっと小さくため息をつき、歩遊はどこか重苦しい気持ちでソファ前のローテーブルに弁当の入った袋を置くと、その場に力なく座り込んだ。
  そのすぐ傍には、歩遊もよく知っている時の写真がたくさん貼りつけられたアルバムがある。
「何かさ。お前ばっかり写ってるのな」
「え?」
  キッチンから何気なくそう言う俊史に歩遊が顔を上げると、声は再び清々として返ってきた。
「小学校の時どころか、幼稚園とか赤ん坊の頃まで。いつも相羽がセットになって俺の横にいるだろ。――本当に、正真正銘の幼馴染ってやつだな」
「……うん」
  それでも今の俊史はこれまでの自分たちの軌跡をまるで覚えていないのか。
  戸部に言われたこととも相俟って、歩遊はこんな状況でも果てしなく落ち着いた風の俊史とは真逆に、このたった十日間ほどですっかり参ってしまった。
  そう、本来ならば、記憶喪失になって困ったり嘆いたりするのは俊史本人であるはずだ。けれど俊史は病院で目覚めた直後こそどこか狼狽えた様子を見せたものの、医者に「何故かスカッとしている」と呟いた後から、まさにその言葉が嘘ではないとでも言うように実に冷静に、そしてとても穏やかな態度で日々を過ごしていた。こうしてアルバムを眺めたりして以前の記憶を呼び戻そうと努力している節はあるが、それも別段焦ってしているわけではなく、「まあ不便だから、ちょっとは思い出せたらいいな」程度で、むしろ俊史は学校で新たに始めた「一からやり直しの人間関係」を構築することに夢中になってすらいた。周囲も、当初こそそんな当人の態度に呆れていたが、俊史本人が悲観していないならと大半が鷹揚に捉え始めている。
  そう、だから。
  つまりは、落ち込んでいるのは、歩遊だけなのだ。
「学校でさ。いきなり『お前はうちの学校の生徒会長なんだぞ』って言われてもピンとこないだろ。だからそんなの覚えてないって言っても、あの優……って奴? あいつが凄ェ怒りながら『早く思い出せ』ってせっつくんだよな。で、訳分かんない仕事押し付けてくるし。まぁけど、周りの奴らも順応早いな。俺がお前らのこと忘れているって言っても、『それならそれで今から覚えれば』ってさ。軽いよな」
  そんなことをつらつらと話しながら、俊史は歩遊の前にグラスに注いだ牛乳を置いた。歩遊が黙ってそれを眺めていると、俊史は「お前、どっち食うの?」と2つある弁当を示唆して訊いた。
「あ…えっと」
  話しているのは俊史のはずなのに、歩遊の心はざわざわする。
  こうしてにこやかに学校のことを話す俊史とか、歩遊に気さくに話しかける俊史にどうしても素早い反応が出来ない。これが普段だったら、「さっさと話せ! イライラする!」と怒られるはずだ。けれどなかなか言葉を出さない歩遊にも、俊史はただ苦笑したように首をかしげる。
「何? お前が買ってきたんだから、お前が先に選べよ」
  そしてそんな優しい目でそんな優しい言葉を紡ぐ。
  それだけで歩遊はもう泣きそうになってしまうのに。
「ん? どっちだ? ハンバーグか? 唐揚げ?」
「あ……ハン……」
「ハンバーグな」
  言いかけた歩遊をフォローするように自分が付け足して、俊史はさっとそれを歩遊の前に置くと、自分は残りの唐揚げ弁当を引き寄せた。
「レシートある? 今財布2階だから、金、後で払うな」
「あ、いいよ、そんな」
「いいわけないだろ、幾らお隣さんだからって」
「でも」
「それとも」
  焦って顔を上げる歩遊に俊史は言わせず、どこか窺うようにして訊いた。
「もしかして、こういうのってしょっちゅうだったのか?」
「こ、こういうのって…?」
「相羽がこうして俺に飯買ってくること。もしかして俺、お前をパシリみたいにしていたとか?」
「そんな、まさか!」
  違う方向に勘違いしている俊史にようやく気付き、歩遊は慌てて首を激しく左右に振った。
「違うよっ。いつもはしゅ……せ、瀬能君が、作って、くれてたんだ」
「はぁ? 俺が?」
「あ……う、うん」
「俺が飯作ってたの? お前のも?」
「うん……」
  歩遊がぼそぼそと喋るその台詞に俊史は本気で驚いたらしい。それはそうだろう。――が、すぐに気を取り直したようになると、俊史はそれ以上のことは訊こうとはせず、不意にバキリと割り箸を2つに割ると、そのまま豪快な勢いで弁当の白米を頬張り始めた。
  それで歩遊も仕方なくというか、流れで自分も食事を始める。
  テレビもついていないリビングはしんとしてとても静かだった。歩遊は何か話した方が良いのだろうかとふと思ったが、そういうことに気づいたところで、自分が気の利いたトークを展開できるわけもない。
  ところが俊史の方も同じように考えていたのか、やがて先に言葉を出した。どことなく場を盛り上げようとするような明るい調子で。
「本当、よっぽど凄い仲良かったってことだな。俺たち」
「え?」
「だってそうだろ。そのアルバムにも俺の横にいるのお前ばっかだし。今も学校一緒だし。で、飯までしょっちゅう一緒してて、しかもそれは俺が作っていたみたいだし。俺が忘れた今は、お前がこうして飯持ってきてくれるし。ただの幼馴染っていうか……親友ってやつ?」
「親友……」
  たとえその場の流れでも何でも、さすがにそこで「うん」とは肯定出来なかった。歩遊は詰まったまま再び沈黙した。
  だって親友じゃ、ない。今は、自分たちは恋人同士のはずだ。……多分。
  けれど記憶を失ってからの俊史は、歩遊の家へはちっとも来なくなった。
  もともと記憶がないのだから、そう頻繁に余所の家へ上がり込むなど通常ではありえないだろう。これが普通なのだ。ただ、それは歩遊にも重々分かるとして、それでも気になることはある。何って、歩遊がこうして毎日のように俊史の家を訪れ夕飯の心配をしてみたり、朝はいつもしてもらっていたように玄関前に迎えに行ったりすることを、俊史は嫌な顔こそしないが、明らか「そんなしょっちゅう一緒にいるなんて変だよな」と言わんばかりの態度で、学校では全くと言って良いほど歩遊と接触を持とうとしない。
  だから帰りも、いつも別々だ。歩遊が俊史を探している間に、俊史の方はさっさとクラスの仲間なり生徒会の仲間たちなりと下校してしまうから。
「相羽」
  そして。
  さまざまな既成事実により、歩遊とは「相当親しかったようだ」と認識はしたらしいのに、俊史は「苗字呼び」というこれでもかというほどの他人行儀っぷりで、あのよそ行きの、外面の笑顔を歩遊に向けるのだった。
「相羽、あのさ」
  その別人俊史は、そうしてさらに歩遊の気持ちを沈ませる。
「お前、俺の記憶がなくなったこと、凄い心配してくれているみたいだけど、俺は平気だよ。まあ全く平気とまでは言わないけどな。割とやれてる。っていうか、多分俺、忘れたい何かがあったんだろうな」
「え……」
  顔を上げた歩遊に、俊史は弁当を食べながら平然として言った。
「忘れたかったんだよ。だから今、こんな清々しいのかなって」
「清々しい…」
  歩遊がその言葉を反復すると、「そう」と俊史は頷いてこの時初めて歩遊を見た。それは歩遊の大好きな、凛とした端正な俊史の顔。
  けれど。
「自分でもよく分からないんだけどな。普通、記憶喪失になんかなったら苦しむだろ? いろんな奴のこと、それこそ親のことまで忘れてさ…。思い出したいのに思い出せないとかってなったら気持ち悪いって言うか。絶対苦痛のはずだよな? ――けど俺には、それがないんだよ」
「な、何で…」
「分からない。とにかく気分がいいんだ。喉につかえていたもんが取れたみたいな。頭ん中もクリアーになってる感じだし。だからさ……相羽がそんな悲壮な顔する必要ないよ」
  慰めるように俊史はそう言った。一応は日々やつれていく歩遊を心配してくれているのか、それとも自分が現在置かれている状況など単純に「本当にどうでもいい」と思っているのか。
「まぁ……お前とのいろんな思い出あったみたいなのに、そういうの忘れている俺は普通に酷いと思うけどな。そこは勘弁な?」
「……そんなこと」
「それに、過去のことは忘れても、今からまたこういう風に仲良くやれればいいだろ?」
  あ、また。
  俊史のふっと浮かんだ人好きのする笑みに歩遊はツキンと胸が痛んだ。
  歩遊はこういう俊史の顔を初めて見たわけではない。知っている。そもそも、俊史の笑顔など見慣れている。
  けれどそれは歩遊以外の、他人に向けられた時の笑顔。俊史はもともと要領も良いし器用なので、然程親しくない人間にも実に丁寧に接せられるし、気さくである。戸部のように大体本性を知られている気の知れた仲間にはきついところも見せているようだけれど、外にいる時の俊史のスタンダードは「こう」なのだ。
  俊史は実に無難に、そして気持ちよく人と付き合うことができる。
  誰とでも仲良くすることができる。
  けれど。
(俊ちゃんじゃない……別人みたいだ………)
  一緒にいるのに、ちっとも一緒にいるような気がしない。
  露骨な態度で優しく気遣ってみたり、気さくに「これから仲良くしような」なんて言う俊史は歩遊にとっては異質でしかない。
  けれど、それが通常の俊史であることも間違いはない。
  その他大勢に対する、これが俊史のまっとうな態度なのだ。記憶を失ってもそういう技術は失われていないのか。
(嫌だ……)
  堪え切れなくなった歩遊が黙ったまま俯いてしまうと、その俊史は自分が何か悪いことでも言ったのかと困った素振りを見せたが、歩遊はもう顔を上げることが出来なかった。
  呆れられてしまう、そう思うのに駄目だった。
  思えば、そんなうじうじとしたいつもの態度が、俊史を無駄にイラつかせてしまったのだ。
  だから俊史に「歩遊なんて忘れてしまいたい」と思わせてしまったのかもしれない。歩遊にはそう思えてならなかった。





  それから一週間ほどが経ったが、相変わらず俊史の記憶は元に戻らなかった。
「あいつ、変わったよなあ。って、記憶がないんだから当たり前っちゃ当たり前だけど」
  昼休み、耀が校庭で仲間たちとバスケットに興じている俊史を見ながら歩遊に言った。歩遊が俊史の傍に行きたいと無言のアピールをしているのが分かったのだろう、聡い友人は「俺たちも外で食おうぜ」とすぐ傍の芝生へ引っ張って行ってくれたのだ。
「こんな風にさあ、俺が歩遊とずっと一緒にいても、あいつ何も言わないのな。それどころか、さっきも歩遊の姿見つけたら遠目で手なんか振ってたけど。それだけで? 挨拶だけしてそれっきりって、何かただの知り合いっていうか……あ」
  どんよりとどこまでも地面の下へのめりこんでいってしまいそうな歩遊に、耀はぺらぺらと喋っていた口を一旦閉じた。
  けれどここずっと抱いていた自身のモヤモヤもどうにかしたいのだろう、わざとらしく咳き込んでから耀は会話を再開させた。
「最近さ、お前らってどうなの?」
「どうって…?」
  楽しそうにボールを回す俊史はすぐ目の前にいる。歩遊はそれちらちらと目で追いながら、昼食のパンに手をつけることもなく耀の言葉に機械的な反応を示した。
「朝は一緒に来ているみたいだけど、帰りは別々だろ。学校でもめったに顔合わせないし、こうして無理やり合わせるようにしてもさっきみたいにちょっと挨拶する程度だし。何つーか、まあそれが普通のダチ関係なのかもしれないけど、あれだけ物凄かったのがこんな急になくなると、調子が狂うっていうかさ」
「うん」
「歩遊は日に日に元気なくなるし」
「え……」
  耀の言葉にようやく視線を向けると、隣に座る気のいい友人は困ったように肩を竦めた。
「俺はさ、心配だったんだよ。これまでの瀬能が歩遊を異常に束縛したり命令したりする傲慢なところ。ぜってえどうにかしてやりたいって思ってた。歩遊もそんな瀬能にびくびくしてたし、俺はむしろあの関係じゃ、歩遊が可哀想だって思っていたくらいだ」
「可哀想?」
「そ。でも何か……今の歩遊の方がもっと可哀想なのかなって」
「……耀君」
  すらすらと交わされた話の中に、けれど必死にこちらを心配してくれる耀の気持ちを感じ取って、歩遊はくしゃりとパンを持つ手に力を込めた。
「なあ歩遊」
  そんな歩遊の様子を見ながら耀は再び口を開いた。
「歩遊、瀬能は別にいなくなったわけじゃないだろ? そこにいるだろ?」
「うん」
「でも歩遊の中では、あいつがいなくなったみたいに見える」
「……うん」
  改めてそう指摘されると本当にそうだとしか思えなくて、歩遊は目を潤ませ俯いた。
  そうなのだ、こんな風に近くにいても、俊史は歩遊にとってもうただの隣に住む同級生で、昔からの馴染みというだけ。
  俊史は歩遊を恋人だと公言したことはないし、歩遊本人にも好きだと言ったことはない。だから、これまでとてそういう間柄に過ぎないと言ってしまえばそうなのかもしれない。けれど一方で俊史は、自分たちが決してそれだけではないという密接な繋がりをいつでも歩遊に示してくれた。与えてくれていた。
  そして歩遊はそれを当たり前のように受け取っていて。
「相羽!」
  その時、不意に仲間たちの輪から抜け出して俊史が歩遊たちのいる場所まで駆けてきた。
  驚いて顔を上げると、俊史は心配そうにしながら戸惑う歩遊たちの前にまで来て自らも屈みこむと、歩遊を覗きこむようにして「大丈夫か?」と訊いてきた。
「え? 大丈……って?」
「何か、遠目で見ても泣きそうな顔してたし。今もだろ。で、こいつにいじめられてたのかと思ってさ」
「なっ、何だよ! それ!」
  これには一時ぽかんとしていた耀がはっと我に返って当然の抗議をした。確かに歩遊が泣きそうになっていたのは事実だが、それはそもそもここにいる俊史のせいである。耀は無実だ。
「ははっ。お前ら、いつも一緒にいるな。親友?」
  けれど俊史はむっとする耀へ爽やかにそう返し、すぐさま二人の空気から「泣きそうになっていたのは別のこと」と察したらしい。悪い悪いと軽く謝ると、俊史は「お前ら親友なの?」と先刻と同じことをもう一度尋ねた。
「お、おう、そうだよ! 俺と歩遊は親友だ。悪いか!?」
  調子が狂うと耀は言っていたけれど、確かに完全にペースを乱されているようだ。そもそも耀も歩遊同様、俊史にこのような笑顔を向けられたことが一度もない人物である。
  しかし何とか体勢を整えてそう答えると、そんな耀に俊史は再度破顔した。
「悪いわけないだろ。そうか、親友か…。むしろ、良かったよ」
「は?」
「いや…。ほら、相羽って俺のこと心配して、俺のことばっかりついて回っているだろ? けどもしかして、単に心配しているだけじゃなくて、俺以外にダチがいないのかと思ってさ」
「いや、それ……お前のせいだし……」
  耀のぼそりと呟くツッコミに、しかし俊史は「は?」と返したものの、全く取り合わずにマイペースに続けた。
「まあ、だから、な。相羽に心配かけているのは確かに俺のせいだけど、気になっていたからさ。だからお前いて良かったなって話だよ。けど今は相羽の顔が、何か元気なさそうだったし。それで気になってさ。平気か?」
「へ、平気だよ……。耀君は何も……」
「……そうか。ならいいんだ。じゃあな」
「あ……」
  心配してくれてありがとうと言いたかったのに、そんな間はなかった。
  俊史は歩遊が大丈夫だと頷くや否や、グランドでしきりに呼んでいる仲間たちの元へ再び駆けて行ってしまった。
「……何だ、一応歩遊のことも気にしてるじゃん。親切だ、一応。……俺のこと容認するあいつは本気で気持ち悪いけど」
  暫くして耀が慰めなんだか悪口なんだか微妙な発言をして、ぽんぽんと歩遊の肩を叩いた。
  歩遊はそれに曖昧に頷きながら、結局その後もまたずっと俊史の姿を目で追い続けてしまった。

  俊史が好きだ。
  幼馴染としてではなく、もっとずっと深い意味で。

(俊ちゃんに忘れられて……辛い。でも、俊ちゃんはとても楽しそうだ……)
  そのことを歩遊は改めて実感した。ああして校庭で快活に動く俊史は、中学の頃部活動や外で武道に打ち込んでいたりして輝いていた頃の俊史と被るものがある。俊史は今、確かに充実した日々を送っている。
  俊史が何も嫌な想いをしていないのなら、それでいいのではないか。
  俊史と一緒に前向きにこの今を受け入れるべきなのでは。
(分かっているのに……)
  けれど歩遊はどうしてもその一歩を踏み出すことが出来なかった。

  俊史が楽しそうなのは、自分たちの関係を、相羽歩遊との思い出を忘れることが出来たから。

  俊史が笑顔を浮かべる一方で、歩遊の胸はキリキリと締め付けられていた。




中編へ続く…


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