「俊史が一度も嫌な想いをせずに幸せになれる方法を模索して書いてみたけど失敗した話」(中編)



「相羽。ここにいたのか」
「え…あ」
  放課後、歩遊がいつもの習慣にならい図書室で勉強をしていると――全く集中していなかったが――そこへ俊史が息せき切ってやって来た。
「教室にいなかったから、ちょっと色々探し回った」
「え? 何で……」
  俊史の発言に歩遊は驚きからぱちぱちと瞬いた。
  歩遊がいつもここで俊史を待つことを「今の」俊史は知らない。だからその俊史が歩遊の居所が分からずあちこち探し回ること自体は別段驚きではないのだけれど、そもそも何故わざわざ探していたのかというのが謎だ。記憶を失ってからの俊史はいつも歩遊のことなど一切構わず、他の友人たちと下校していたから。
  歩遊がどう反応して良いか分からず戸惑っていると、しかし当の俊史の方は至極あっさりとその答えを寄越した。
「ふと下駄箱見たら相羽の靴がまだあったからさ。こんな時間まで残っているなんて何でだって思って。部活しているわけじゃないだろ? 勉強しているのか? いつも?」
「あ、うん。大体……」
「へえ……」
  俊史はたどたどしく頷いた歩遊へ感心したような眼差しを向けながら、おもむろに歩遊の隣席に腰を下ろした。
「勉強熱心なんだな。どこかいい大学でも狙っているのか?」
「え……う…うん、ちょっと…。絶対無理だとは思うんだけど」
「何で? 2年のうちからこんな頑張っているんだから、絶対ってことはないだろ。相羽はもうちょっと自分に自信持った方がいいよ」
「…………うん」
  こうして明日の予習や受験勉強をする習慣が歩遊にはすっかり身についている。それに併せて成績も上がった。だから俊史の言う通りなのかもしれない、少しは自信を持って堂々として良いのかも。それだけの努力を歩遊はしてきた。
  けれど全ては「これから帰りはここで俺を待て」と命令した俊史がいたから。
  「同じ大学を受けるんだからな」とプレッシャーを掛けた俊史がいたから。
  だから歩遊は勉強していただけだ。
  けれど「今の」俊史はそんなこと知らない。
「そ、それより、どうしたの。今日は、生徒会は…?」
「今日はもう終わったんだ。それで、何人かでカラオケ行こうって話になって」
「カラオケ?」
「ああ。で、みんなで帰ろうとした時、相羽がまだ残っているみたいなのに気づいたからさ。良かったらお前も一緒に行かないかと思って」
「え」
  思ってもみないことを言われて、歩遊の思考は一瞬真っ白になった。
  俊史が仲間たちとつるんでどこかへ遊びに出掛けることは特別珍しいことではない。加えて、「子パンダ物語」の時のように、俊史がそういう仲間たちとの交流に偶に気まぐれで歩遊を誘ってくることとて、その回数こそ幼少時よりは格段に減ったけれど、皆無ではない。
  しかし、カラオケは別だ。
「何? 相羽、カラオケ嫌い? 歌とか興味ない?」
「う、ううん…。そんなことない、けど」
  歩遊は音楽を聴くことは勿論、自分で歌うこととて大好きである。子どもの頃から引っ込み思案でおどおどぼそぼそ喋るくせに、歩遊は好きな音楽を聴く時は自然とそれに併せて口ずさんだり、時にはめいっぱい歌ったり。音楽は聴くのも、自ら歌うのもれっきとした趣味と言って差し支えなかった。
  しかしそれは俊史以外、決して誰にも知られてはいけない趣味だった。
  何故って、昔から歌う事に関しては、俊史から耳にタコが出来るほど言われている。
「ぼ、僕、凄く下手なんだ。歌……」
  俊史は容赦がない。歩遊の歌うところをずっと黙って聴いている割には、それが終わると必ずと言ってよい程同じことを言う。
  すなわち、「お前の歌、間違っても他の奴には聴かせるなよ」と。
  要は、歩遊のように歌の下手な人間が人前で歌っても恥をかくだけだと言いたいのだろう。散々バカにするように言われ続けてきたせいで、歩遊は歌を歌うこと自体はやめられないが、人前で歌う事だけは決してするまいと決めていた。
「僕、カラオケは……」
  それに以前、何を思ったのか耀が「歩遊は美声だな、今度カラオケ一緒に行こうぜ!」などと誘ってきた時、一体その情報をどこから聞きつけたのか、俊史は歩遊が耀と具体的な約束をする前にきっちり釘を刺してきた。

  即ち、“あのバカとカラオケになんて行くなよ、誘われても絶対に断れよ”と。

  そんなこんなで、今に至るまで歩遊はカラオケというものに一度も行った事がない。俊史の言いつけを従順に守ってきたというわけだが、それなのに、今まさにその当の俊史がカラオケに一緒に行こうと誘ってくるとは。
「別にカラオケなんて特別うまくなくたっていいだろ」
  俊史は何でもない事のようにそう言った。
「俺だって歌なんてそんな歌うわけじゃないし。他の連中だってお世辞にも上手そうな奴いないぜ? それとも歌うこと自体嫌いなのか?」
「ううん…。凄く好きだよ」
「だろ。そう思った」
「え? 何で…?」
  にっこりと笑う俊史に歩遊は単純に不思議で首をかしげた。
  俊史はそんな歩遊にさらに微笑みかけると何の照れもなく堂々と言った。
「だって相羽の声って、凄く綺麗だからさ」
  俊史の表情は全く無害である。どうやら冗談ではなさそうだ。
  歩遊はぽかんとして俊史を見つめた。
「前から思ってた。お前の声って小さいけど、結構耳に残るって言うか、すっと通る感じがするよな。ああいうのを透き通った声って言うんだろうな」
「そんな、まさか……」
  何を言われているのか実感が持てない。あまりに真っ直ぐに誉められた事に居た堪れなく恥ずかしくなり、歩遊は思わずさっと下を向いて赤面した。
  そんな歩遊に、俊史は尚誘うようにしてぽんと肩に手を置いた。
「な、だから行こうぜ? もうみんな先に行ってるけど、場所は聞いてあるから」
「で、でも……」
「何? ……ああ、それとも、あいつのこと待っているとか?」
「え?」
「ほら、同じクラスの。太刀川、だっけ」
「耀君?」
  突如出たその名前に歩遊がぴくと反応を返すと、俊史は無感動に頷いた。
「ああ、そうそう。あいつサッカー部のエースなんだって? この学校でも結構目立っている方みたいだな。何かと話題を耳にするしさ」
「う……うん、そうだよ。耀君は、プロのスカウトも見に来るくらいサッカーがうまくてさ。本当、凄いんだ」
  友人の耀を自慢したくて、歩遊はさっと目を輝かせてまくしたてた。いつもは俊史に耀の話をすると怒られるけれど、「今の」俊史はむしろ歩遊と耀との友人関係を歓迎している。カラオケ話に戸惑ってはいたが、急に嬉しくなって歩遊は尚急くように言葉を繋げた。
「いつも僕が一人でいると心配して声掛けてくれるんだ。凄く優しいんだよ」
「……へえ」
  いつもはオドオドとなかなか言葉を出さない歩遊がすらりと流暢に喋るのが珍しかったのか、俊史はやや驚いたように目を見開いたが、やがて「それで」と話題をさっと元に戻した。
「じゃあやっぱり、あいつのこと待ってるのか?」
「あ……そういうわけじゃ」
「じゃあ、カラオケ行こうぜ。な、いいだろ?」
「………ううん」
  いいよ、と。
  小さく呟いて歩遊は首を振った。
  折角俊史が誘ってくれたのだ。行ってみたい、そうも思ったけれど、同時にやっぱり怖いとも思った。
  いくら俊史が一緒と言っても、普段何の関わりもない生徒会の面々が集まるカラオケの場に行くなど図々しい気がしたし、そもそも俊史からお墨付きを貰うくらい歌が下手な自分を、戸部あたりなどはどれだけ嘲笑うか分からない。さすがにそんな無駄な想いをする趣味は歩遊にもなかった。
「僕、もう少しここで勉強していくから」
「……そうか。分かった」
  無理強いする気はないらしい。俊史は割ときっぱり断った歩遊にすぐにそう答えると、「じゃあな」と割にあっさりとその場を去って行った。
  ただ、去り際の俊史にはもうあの気さくな笑顔はなかった。無理に柔らかい声を出していたようにも思うが、多分というか、ほぼ確実に気分を害しただろう事が歩遊には分かった。
「悪かったかな……」
  わざわざ気にして誘いに来てくれたのに、それを歩遊は無碍にしたのだ。大体、今日の昼食の時とて、勘違いとは言え俊史は歩遊が耀にいじめられているのではと心配してくれた。自分以外に友達がいないのではないかということも気にしていてくれた。
「行った方が良かったのかな」
  しかし時は元には戻らない。それに戻ったとしても、やっぱり行くとは言えなかっただろうと思ってしまう。
  歩遊は大きなため息を吐いた後、再びノートに視線を落としかけて、しかしそのまま机の上に突っ伏した。とても勉強をする気分ではなかった。
「痛い……」
  何だか胸が苦しかった。
  俊史に優しくされるのが辛いだなんて贅沢な悩みだ。ダメだと思っている、分かっているのに、歩遊は苦しみのループから一向に抜けきれなかった。


  しかもそれに追い打ちをかけるかのように、その日は俊史の方もどうにもおかしかった。


「え……どうし……」
「ああ、何かさ。飯作ろうと思って」
  歩遊が帰宅した後、殆どすぐに玄関のチャイムが鳴って、扉を開くと目の前には俊史が立っていた。
  しかも両手には何やら野菜だの肉だのが顔を覗かせているスーパーの袋が握られている。
「上がっていいか?」
「あ……」
  いいよと口だけが動いたが声は出なかった。
  しかし俊史は歩遊のその表情だけで許可を感じ取り、するりと横を通り抜けてさっさと中へ上がりこんだ。
「俺がさ、飯作ってたんだろ?」
  慌てて後を追う歩遊には構わず、俊史は真っ直ぐリビングを突っ切ってそのまま台所へ入り、傍のテーブルに買い物袋を置いてからそう言った。
「だから、これまでは結構相羽に飯買ってきてもらっていたのもあるし。今夜は俺が作ってやろうかと思って」
「で、でも」
「何だよ、大丈夫だよ、何故か作り方は頭ン中に入ってる。多分そこまで不味いもんは作らないと思うぜ」
  黙りこむ歩遊の前で、確かに俊史の手際はいつもの通りだった。そう、俊史は記憶喪失とは言え、学校で習ってきた勉強内容や普段の生活習慣、世間の一般常識などの知識は身に着けたままなのだ。だから恐らく、料理の腕もそのままだろう。
「あの、瀬能君」
  それでも歩遊はちらりと背後の壁かけ時計を見てから訊いた。
「もう生徒会の人とのカラオケ終わったの? その……凄く早いね」
「ん? ああ、カラオケは行くのやめたんだ」
「え?」
  何でもないことのように言う俊史に歩遊はびくりと動きを止めた。
  しかし俊史はそんな歩遊を見ていない。袋から取り出した野菜を流しに置いて、それを豪快に洗いながら平然と続ける。
「何か行く気なくなってさ。相羽と別れてから何となく一人で帰ってて、駅の近くのスーパー見たら、結構あそこに寄っていたような気がして。で、何となく材料買って、ああ、飯作ってみようかなって」
「何か思い出したの?」
「いや、全然。けど、何か懐かしい気はするよな、この台所。やっぱ俺、ここで何回か飯作ってたのかもな」
「……っ」
  俊史は何気なく言っているつもりなのだろうが、歩遊にとってその台詞は痛みを伴った。切ない痛み。俊史と自分の思い出が俊史には失われている、それを尚強く実感してしまったのだ。
  それでも俊史がこうして自分の家に来てくれた事が歩遊は嬉しくもあった。

  たとえ忘れても、今からまた仲良くやっていければいいだろ?

  俊史がそう言って笑ったことが思い返される。
(そうだよ……俊ちゃんがこんなに前向きなんだもん。僕だっていい加減暗くなるのはやめなくちゃ……)
「しゅ……なら瀬能君、僕も手伝うよ」
「あ、そうか? じゃあお前は――」
  いつもだったら「邪魔だからいい」としか言わない俊史が、今は嬉しそうに歩遊の申し出に応えてくる。歩遊にはそれも信じ難かったが、前向きになろうと決めた瞬間、それはとても嬉しい事のように思えた。
  歩遊は胸の中にくすぶるモヤモヤしたものを無理に抑え、俊史にやっと緊張を解いた笑顔を見せた。


  夕飯の席では歩遊の気持ちも大分上昇していた。


「凄いね、美味しいね!」
「お前、そればっかりな」
  歩遊は素直な感動をそのまま伝えているだけなのだが、俊史は何か食べる度に大袈裟に「美味しい」を連発してにこにこする歩遊に困ったように笑った。
  けれど歩遊にしてみれば今夜の食事はこれまで以上に感慨深かった。何せ久しぶりの俊史の手料理が、あの記憶を失う以前のものとまるで変わりなかったから。ここで2人で過ごしてきた時間が戻ってきたかのようにすら思われる。
「あのさ、相羽」
  そんな楽しい食事のひと時が大分経った頃、不意に俊史が箸を置いて真面目な声を上げた。
「お前さ、今日ちょっと元気なかっただろ」
「え…?」
「昼休みの時も放課後の図書室でも。何か浮かない顔って言うか。いや、別に今日に限らないよな、ずっとそうだったろ。……俺、最初は単にお前って人間が根暗なだけなのかと思っていたけど」
「え…っ、それは……うん…。僕、別に元々明るい性格じゃないよ……」
  それどころか卑屈だし気弱だし、いつでも下を向いて歩いているような人間である。歩遊にもその自覚は大いにあった。
  けれど俊史はそれを肯定した歩遊に大きくかぶりを振った。
「いや、けどやっぱり、元気がないんだよ。だからあの太刀川って奴といる時はちょっと笑ったりしているところも見られて、それは良かったと思ったけど」
「え?」
 一体いつの事だろうか。歩遊は単純に驚いてまじまじとそう言った俊史を見やった。
  昼休みに耀といるところで俊史と会った時は、歩遊はこれでもかという程落ち込んでいたはずだ。目の前の俊史は嬉々としてバスケットをしていて、それを本当は喜ばなくてはいけなかったのに、逆に落ち込んだりした。自分の事を忘れてしまった俊史を見ているのは辛かったのだ。
「教室とかで。あいつに何か言われて結構笑ったりしていただろ」
「……ああ」
  けれどここ数日、そんなどこまでも落ちていきそうな歩遊を助けてくれていたのは、確かに耀だった。
  今日も気を遣って俊史の近くで昼を取ろうと言ってくれたり、教室でもわざとおどけたり楽しい事を言って歩遊を笑わせてくれていた。そんな時は歩遊も耀の気持ちが嬉しくて、いつものような自然な笑みを出せていたかもしれない。
  そんなところをどこかで俊史は見ていたのか。
「それでな……俺、思ったんだ。もしかしてお前が暗い時って、俺が近くにいる時なんじゃないのかって」
「え!?」
  俊史の発言に歩遊はぎょっとして顔を上げた。
「しゅ……瀬能君?」
  俊史に冗談を言っているような節はない。それどころかどこか重々しい面持ちで、ほんの少し笑みを作った表情にも力はなかった。
「たぶん、幼馴染の俺がこんなになっていて、俺がいくら気にするなって言ってもお前は気にするんだろうな。そりゃそうだよな。いくら俺が平気でも……俺は、お前とのこと色々忘れちまっているわけだし。気分も悪いよな」
「そ! そんな! 別に、瀬能君のせいじゃ!」
「けど原因は俺なんじゃないのか? お前が元気ないのって俺のせいだろ。俺……何か、お前との事で忘れちゃいけない事を忘れちまっているのか」
「そんなこと……僕は大丈夫だから」
「全然大丈夫って顔してねえよ」
  はあと小さくため息をついて、俊史は本当に困ったように目を伏せた。
「あのさぁ、何かあんならはっきり言って欲しいんだよな、俺は。学校の連中とかあの優みたいにさ。前のお前はこうだったとか、俺にはこういうこと言ってたんだとか。そういうの、遠慮なく言って欲しいんだよ」
  俊史は努めて優しく言っている風ではあったが、どことなく怒っているようにも感じられた。 ここ数日、もしかすると俊史は歩遊の暗い態度にイライラしていたのかもしれない、そう思った。歩遊がやや青ざめながら俊史を見つめると、もうその痛いくらいの視線は歩遊を捉えていて、記憶はないはずなのに、そこに昔のような責める瞳の色が宿っているのが分かって歩遊はびくんと肩を揺らした。
「俺たちって本当に仲良かったのか」
  俊史が言った。
「カラオケも……歌う事は好きなのに、俺の誘いは蹴るって、お前、俺といるのが嫌なんじゃねえの。だから」
「そんなわけないよ! だ、だったら今、こうして一緒にご飯食べたりしないし!」
「義務だったとか」
「な、何!? 義務って」
  焦る歩遊に俊史は冷めたような顔で肩を竦めた。
「何か昔から隣同士で、そういう風に飯食う習慣があったとかさ。何か俺らの親って全然家に帰ってこねえし。俺はそれを不便には思ってないけど、明らかに変だよな、これって。お前んちも同じような感じみたいだし、で、俺らの親同士って仲いいんだろ? だからさ、飯とか登校だけは何となく一緒にしてたのかなって」
「違うよ、そんなんじゃない…」
「本当かよ。大体仲良かったって言う割に、お前の俺への態度っていつも硬いよ」
「でも……でも、ずっと一緒だったよ……」
  歩遊が我慢出来ずに絞り出すようにそう言うと、俊史がようやくぴたりと動きを止めた。
  歩遊はそれに気づかなかった。
「本当だよ。ずっと一緒だったんだ。無理やりとかじゃなくて。あっ……もしかしたら、俊ちゃんは嫌だったかもしれない、僕みたいなのと一緒にいるの。僕はいつも面倒でさ、しょっちゅう仲間外れになっていたし、何するのも全然ダメで、いつも俊ちゃんの足を引っ張ってたから。けど……中学を決める時も一緒にって言ってくれて、大学も……一緒の所行こうって。だから勉強も、僕は全然成績足りないけど頑張ってた。俊ちゃんは忘れちゃったかもしれないけど、約束したんだ」
「………相羽」
「あっ!」
  僻みめいた言い方になってしまったことに気づき、歩遊はぎくりとして口を手で覆った。途端しんと辺りが静かになって、気まずい沈黙が流れた。
  それがどれだけ続いたのか、ややあってから俊史がようやっと口を開いた。
「しゅんちゃんって……誰のことだ?」
「え」
「話の流れからすると俺の事みたいだけど……それ、俺の名前?」
「あ……あの」
「そういう風に呼んでたのか」
「う、うん。昔っから……」
「……ふうん」
  俊史は何を考えているのか急にそんな話を振った後、「それで」と何故か歩遊から目を逸らしたまま続けた。
「大学……一緒の所行く約束してたんだ? 俺たち」
「それは………もういいんだ。別に」
「何で。全然よくねえじゃん。約束してたんだろ」
「も、元々、お互い行きたい学部も違うんだ。あっ、俊ちゃ…瀬能君は、まだ学部も決めてなかったみたいだけど、でも、瀬能君は理系の方が得意で、僕は文系で」
「そんなのどうでもいいって。それより何で呼び方変えんの。前から呼んでた風に呼べばいいだろ」
「……でも」
「何」
「元から学校では瀬能君って呼んでる。あんまり馴れ馴れしくするの、迷惑だから」
「誰が言ったんだよ、そんなこと。記憶を失う前の俺?」
「そ……そういう、わけじゃ」
「だったらやめろよ、そういうの」
  俊史はまたあからさまなため息を漏らした後、しかしここでようやくふっと安心したような笑顔を見せた。
  歩遊がそれに驚いて真っ直ぐ視線を向けると、俊史は今度は困ったように笑んでから軽く首をかしげた。
「しつこいようだけどさ。じゃあ俺たち、本当に仲良かったんだな? お前、俺のこと、迷惑とかじゃないんだな?」
「違うよ! 絶対!」
「……そうか。なら俺が余計な勘繰りしていただけか」
「え…」
「ならいいんだ。あんまりお前がびくびくしているからさ……。俺は、きっとどうしようもない奴だったんだろうなって思って。だから、お前が心配してくれているのも分かったけど、あんまり一緒にいない方がいいなって思ってたんだよ」
  俊史はひとり言のようにさらりとそう言った後、今度はふと強い眼差しを向けてはっきりと言った。
「なら今度からは遠慮するなよ。普通にやろうぜ。な? 前みたいに、普通に仲良い関係でいようぜ。相羽も何でも言いたい事言えよ。ちゃんと」
「………」

  前みたいに、と言われても。

  歩遊は吹っ切れたように機嫌を直した俊史にはほっとしたが、出されたその台詞にはやはりどう返して良いか分からなかった。
  嘘はついていない、けれど俊史を前に「普通」でいるとはどういう事だろう。「びくびくするな」と言われても、びくびくしているのが歩遊の俊史へのスタンダードな態度である。
「うん…。なるべく頑張るよ」
  それでも歩遊は懸命にそう言って引きつった笑いを向けた。
  俊史が前向きに自分と向かい合ってくれるならば、やはり自分もそうでなければ。
  改めてそう思えたからである。




後編に続く……

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